言わぬが花 第二十一回 ファンタジーの可能性
ファンタジー小説と聞いて、どういうお話を思い浮かべますか。
魔法やドラゴンやエルフ、妖怪や陰陽師、神々や天使や悪魔、そういったものが出てくる物語でしょうか。
私の意見は少し違います。
私は吼狼国物語という架空歴史小説を書いています。
架空の国があり、架空の人々がいて、架空の歴史をつむぐ物語です。
魔法・妖怪などは出てきません。
場所が異世界なだけで、日本の中世や近世とよく似た文化です。
合戦の武器は刀と槍と弓で、馬に乗るか歩いています。
私はこれもファンタジーだと思っています。
架空の世界だからではありません。
現実世界ではできないことを書いているからです。
戦国時代のような世界を舞台にしたいけれど、史実に縛られたくありませんでした。
自分の書きたいテーマに必要な情況・人物・出来事・戦いを実現するために、架空の国を作ったのです。
そして、地図を描き、神話や宗教を用意し、数千年の歴史の流れを定め、数百人の登場人物を生み出しました。
リアリティーは失わないようにしつつも、テーマに合わせて登場人物の性格や動機を誇張したり、あまり普通でない行動をさせたりしました。
実在した戦国大名の誰かに仮託して書くこともできなくはありませんが、その人物の史実が足かせとなって、私のやりたいことを全て実現することはできないでしょう。
なぜ、ファンタジーにするのでしょうか。
なぜ、魔法や妖怪や死神を出すのでしょうか。
そういうものがないと書けないものがあるからです。
そういうものがあることで生まれる面白さ・深さ・感動があるからです。
架空の要素を持ち込むことで、現実や史実のくびきから解き放たれ、ストーリーや登場人物の可能性が大きく広がるのです。
逆に言えば、そうした魅力がないのなら、現実世界でも同じことができるのなら、ファンタジーにする必要はありません。
その意味では、SFも私の中ではファンタジーの一分類です。
科学が非常に進んだ「もしも」の世界でこそ、展開できる物語だからです。
現実世界と異なる設定にすると、とても想像力を使います。
当たり前のことがその世界でも当たり前なのかどうか、いちいち考えないといけません。
架空の世界や空想的な要素を説得力を持って描くのは大変ですが、そういうものを加えることで得られる大きな自由こそが、ファンタジーの魅力ではないでしょうか。
ところで、ファンタジーにはシリーズ物や大長編が多いです。
理由は、ファンタジーでは世界を描くこと自体が目的の一つになるからだと思います。
SFも現実世界と違いますが、大抵は未来の地球やその周辺が舞台で、多くの技術や文化や価値観を引き継いでいます。
現代人の感覚で、もしもああでなくてこうだったら、あれがなくてかわりにこれがあったらといったことが描かれることが多いと思います。
政治権力についても、現代的な政治意識で支配したりされたりし、民主主義や国民のための政治という考え方が当たり前のように存在する世界が多いです。
また、現実と違うもしもの世界を設定するのは手段であり、現代人の持つ問題点を明らかにしようとするためだという傾向があります。
一方、ファンタジーは、現代人が文明の発展の過程で捨ててきた考え方などが存在することがあります。
国王が絶対的な権力を持ち民に恐れられ敬われていて、その継承が血筋で行われることに誰も疑問を抱かない世界は珍しくありません。
暴虐な国王がいても、民は抵抗権といった考え方をしないことが多いです。
ファンタジーでは、現代文明や今まで人類が進んできた道や獲得してきた知恵を丸ごと否定するような世界を作ることが可能なのです。
つまり、ファンタジーの中は現実の歴史や社会の延長ではなく、その世界だけの倫理や常識や生き様があるのです。
これこそが、ファンタジーの最大の特徴であり、利点です。
だからこそ、世界を描くこと自体に面白さがあり、大量の記述が必要になるのです。
その世界の諸条件の中でしかできないことをしなければ、すぐれたファンタジーとは言えません。
現実社会でしたかったことを場所を変えてするだけなら、ファンタジーである必要はありません。
ですから、ファンタジーに現実性を求めるのは誤りです。
その世界の常識で判断しなければなりません。
登場人物の行動や選択も、起こる様々な事件も、その世界の中で不自然でないかどうかが基準になります。
読者はその異質な世界を丸ごとのみ込むことを要求されます。
そのかわり、その世界でしかできない新たな体験を期待します。
成人して初めてお酒を飲むような、学生から社会人になって働き出すような、最初の子が生まれて親になるような、それまでの常識が打ち破られて新たな自分が生まれる体験を、作者は提供しなければなりません
その世界を創造しなければ決して語ることのできない物語、現実世界では不可能なストーリーや登場人物を作らなくてはなりません。
魔法やドラゴン、妖怪や陰陽師は、そのための道具に過ぎません。
ファンタジーを書くこと、新たな世界を創造することは、執筆をたやすくはしないのです。
作者は楽をできず、むしろ頭を絞らされます。
創造主となって現実と大きく違う新たな世界を生み出し、説得力を持って描き上げるのですから。
そうして、本当にどこかにこういう世界があって、あんな人々がいて、そうした出来事が起こっているのかも知れないと思わせ、楽しませなくてはなりません。
当時、史実では方陣が最強だったので、主人公もそれを作って敵に勝つ。
これでは創作とは言えません。
無敵の方陣を誰も書いたことのない方法で打ち破ってこそ創作です。
そんなことできるわけがない、できたら誰かがやっていると思いますか。
だからこそ、ファンタジーであり、架空の世界や歴史なのです。
小説は作り話です。
つまり、うそです。
敢えてうそを語るのは、現実をただ写すだけではできないことがあるからです。
うそだからこそ実現できる面白さがあるからです。
それこそがファンタジーの役割です。
そして、全ての小説は、多かれ少なかれファンタジーです。
うその世界をまず作者自身が信じ、実際の体験のように、よく知る友人たちのように、ありありと思い浮かべて全力で語り切るのです。
その際、現実の世界の有様をどれほどしっかりと眺めているか、作者の観察力や批判精神が問われます。
読者がずっとひたっていたいと思うような世界を創造できたら、その小説は間違いなく面白くなっています。
そういう架空の世界を堪能した後で、現実に戻った時、私たちは今生きているこの世界を新たな目で眺めて、自分の人生の面白さや抱えている問題点に気付くことができるのです。




