第8話 竜と魔女
「ローザが……いない?」
翌日の早朝。黒薔薇の魔女を仲間にするべく魔法研究所を訪れた俺は、職員の言葉に呆然としていた。
どういうことだ。彼女は基本的に魔法研究所から離れるようなことはない。
何故なら、ここには彼女の最愛の妹が存在するのだから。
もし、その妹を置いて行くところがあるのだとしたらそれは――
嫌な予感が脳裏をよぎる。俺は、致命的なまでに出遅れてしまったのではないか。
「ええ。それが、彼女の自室にこんな書き置きがありまして……」
予感は、的中した。
書き置きには、『必ず戻ってくるから心配しないで』という旨の内容が何行にも渡って綴られている。
禁忌の森――«千年樹海»だ。間違いない、彼女はそこに向かったのだ。
本来、『黒魔女の献身』というクエストでは、ローザから依頼を受けて«千年樹海»に赴くことになる。
だから、イベントを発生させなければ彼女は当然のように魔法研究所で治療の研究をしているとばかり思っていた。
俺は馬鹿か。ここはもうゲームじゃない。彼女たちは生きて、思考しているんだ。時間がなくなれば、自ら動こうとするのは当然。
――なにせ、昨日はパレードの日だったのだから。
「ヴィ、ヴィンデンさん? あの……怖い顔してますよ?」
ロベリアが恐る恐る言う。つくづく俺は愚かだ。
全てを理解していたつもりで、何も分かってなどいなかった。
だがまだ間に合う。挽回は可能なはず。俺はロベリアに鋭く言った。
「«千年樹海»に向かう。エルフたちの間では禁域とされる場所だ。君も危険に晒されるだろう。それでも、俺には君が必要だ。一緒に来てくれるか?」
「はい、当然でしょう。いちいち聞かずとも、黙ってついてこい、でいいんですよ」
ロベリアが安心させるように笑う。ああ、やはり俺には君が必要だよ。
俺たちは職員に礼を言うと、転移魔法陣へと駆け出した。
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ローザは«千年樹海»の胎の中を歩んでいた。
鬱蒼と生い茂る樹木たちの群れは陽の光を遮り、天然の夜を作り出している。
ここまでの連続戦闘で彼女の豊富な魔力は残り少なかった。サエーナの樹は最奥に根付くと言われている。かなり奥まで進んできたが、最奥はもう少し先だろう。
一体、どれほど歩いてきたのだろうか。諸人を迷わせる«千年樹海»の中にあっては時間の感覚さえも曖昧だ。
彼女が迷わず樹海を進んでこれたのは、ひとえに彼女の魔法によるところが大きい。
ローザの頭上に浮かぶ漆黒の球体、それはアルドラシルの万能球体を模した最高級のマジックアイテムだ。
ローザはそれを天眼と呼んでいる。
もともと、万能球体はネグノワール一族が基礎理論と設計を担当したものだ。その末裔たるローザがミニモデルを開発出来たのはおかしなことではない。
ローザは天眼にヴィジョンの魔法を使い、視覚を共有している。自らを三人称視点で眺めることで、代わり映えのしない景色の樹海を突破しているのだった。
加えて、天眼には万能球体ほどではないがレーダーとしての機能もある。周辺の魔物を避けつつ、方角を正確に認識出来るからこそ彼女はここまで進んで来れた。
「はぁ……はぁ……くっ、あと、少しのはず……待ってて、ミザリィ」
しかし、万年研究所に引きこもって研究に明け暮れていた彼女には致命的に体力がない。
気持ちは急いているが、油断は禁物。そう判断し、ローザは体力が回復するまで休憩することを選んだ。
彼女は自分で開発した魔法薬を飲み干し強引に気力を回復させる。そうでもしないと、樹海は彼女の心まで呑み込んでしまいそうだったから。
脳裏に浮かぶのはミザリィの笑顔。ただそれだけを頼りに、ローザは自身を奮い立たせる。
だが。«千年樹海»はそんな彼女を嘲笑うかのように牙を剥く。
ローザは天眼の感知圏内に高速移動するものを捉えていた。間違いなくモンスター。
「少しは休ませなさい……まったく、鬱陶しいわね」
愚痴を零しながら、か細い足で立ち上がる。魔力を集中させ、奇跡を顕現させた。
「――«フロストナイト»」
彼女がそう唱えると、地面から盛り上がってくる氷の群れが人型を形成。現れたのは氷結騎士、フロストナイトだった。
それとほぼ同時、高速移動するモンスターが姿を現す。木々の間を縫って走るは土色の狼の群れ。
イビルファングと称される狼型のモンスターだ。鋭い牙には毒があり、その俊敏性と相まって非常に危険な相手である。
「どきなさい、獣風情が。私には、もう時間がないのだから――!」
怒声に呼応した氷結騎士がイビルファングを切り伏せる。が、他の三体は散開し、その背後にいるローザを狙わんとする。
ローザは天眼でその動きを捉えていた。そして、既に詠唱していた魔法を完成させる。
「――«ライトニングアロー»!」
天眼から放たれる雷の矢が雷速で迫り、イビルファングの一体の頭蓋を正確に射抜く。
が、他二体は手傷を負わせたものの致命傷には至らなかった。残ったイビルファングたちが同時にローザへと飛びかかる。
「くっ……!?」
うち一体はフロストナイトが防いだが、もう一体の攻撃は捌ききれない。ローザは自身にかけていた防壁魔法が消し飛ぶのを知覚。
(大丈夫、まだやれる……! 防壁が崩れただけ、ダメージはない!)
彼女は動揺を鎮めるべく自分にそう言い聞かせた。ついにその身を守る盾さえも失われてしまったのだ。
フロストナイトはさらにイビルファングの一体を仕留めるも、同時に爪で胴体を深々と抉られてしまった。
手駒となる騎士ももういない。ローザは最後のイビルファングを見据えた。相手もローザをじっと見つめている。
「さあ、かかってきなさいよ……この黒薔薇の魔女がとっておきの一撃をくれてやるわ」
そう言い放ち、残る魔力を掻き集める。イビルファングはそれを確認すると、素早くターンして後方に駆けていく。
仲間を失い、さらに敵に余力が残されているのを見て撤退を選択したのだ。それを理解するまでにローザは数秒の時間を要した。
「助かった……みたいね」
残った魔力もほぼ底を尽きてしまっていた。天眼を維持するのが精々だ。
と、そこで彼女は気付いた。イビルファングはどこへ逃げたのか。
仲間を呼びに戻るならもっと早い段階でも出来たはずだ。手傷を負って、それを回復するために逃げたのだとしたら、その先には――
ローザは自分の勘を信じることにした。信じられるのは自分だけ、それが彼女の信条だったからだ。
天眼はまだイビルファングを追跡している。ローザは重い足を引きずるようにして前に進んだ。
果たして。そこに、彼女の求めていたものはあった。
まるでそこだけ円形に切り取られたかのような広い空間。空気は一変し、清浄な気配が満ちる。
小さな湖と、その周囲にひっそりと立ち並ぶ木々こそ、ローザが求めたサエーナの樹だった。
あのイビルファングが葉を器用に食べ、立ち去るのをローザはじっと待った。回復されてしまったのなら、やり過ごした方が安全だ。
もう天眼を維持する魔力もない。気づかれてしまったら一貫の終わりである。
イビルファングは二度周囲を見回すと、なにかに気付いたように去っていった。
ローザはそれを訝しげに思ったが、しかしもう気にしている余裕はない。
そっとサエーナの樹に近寄ると、青々と色づく葉を回収していく。これさえあれば、ミザリィを救う事ができる――
――そう忘我の喜びに身を震わせてたせいだろう。彼女は、自身に近づいてくる死の具現に気付くのが遅れた。
何故、イビルファングはこの場を早々に立ち去ったのか。それをローザは理解することとなる。
真紅の鱗を輝かせ、巨大な双翼を羽ばたかせ、獰猛な瞳で天からローザを見下ろすもの。
――それは、竜だった。
それもただの竜ではない。竜種の中でも高位に属する存在、焔竜ファフニール。
「あ……」
ローザは呆然と声を漏らした。もう防壁魔法はない。対抗する魔力も残っていない。
そもそも、竜になど勝てるわけがない。あれは絶対存在、対峙すれば死あるのみ。
故に、ローザは死を覚悟した。あの爪に裂かれて、あるいは牙に噛み砕かれて、もしくはブレスで灰燼と化して死ぬのだと、どうしようもなく理解した。
「ごめんね、ミザリィ。お姉ちゃん……約束、守れなかった」
そう、言い残すように言って目を閉じる。最期の瞬間くらいは、妹を想って死にたいと。
だが。どれだけ経っても死は訪れない。ローザは壊死寸前の精神で、のろのろと両目を開けた。
そこに広がっていた光景に、彼女は息を呑む。
(誰かが――戦っている?)
ローザは自分の目を疑った。眼前では、偉大なる竜と矮小な人とが死闘を繰り広げているではないか。
しかも、男は何故か半裸だった。素手で竜の爪牙をかいくぐり、カウンターの攻撃を見舞うその姿は、質の悪い冗談としか思えない。
ローザは男が無残に死ぬ姿を何度も幻視した。しかし、それは決して現実にはならず、男は竜からもたらされるはずの絶対死を紙一重で躱し続ける。
「もう大丈夫ですよ、ローザさん」
気がつくと、横では僧衣に身を包んだ可憐な少女が微笑んでいた。この場にそぐわぬセリフと表情。ローザはますます混乱の渦に叩き込まれた。
しかし、続く少女の言葉は、さらなる衝撃をもってローザを打ちのめした。
「あなたはもう助かりました。何も心配することはありません」
「なに、を……何を言っているの!? あれはファフニール、上位竜よ! 今すぐ逃げないと、あの変な男の人も死んでしまうわ!」
ローザは必死に訴える。竜に対抗出来るのは一握りの英雄だけだ。それも伝説の武器や防具に身を包み、多くの仲間に支えられてようやく竜を討伐することが叶う。
――だというのに、あの男はなんだ。何故死なない、何故あんな丸腰で竜に挑むことが出来る。何故、あんなに楽しそうに嗤っている!
脳を支配する疑問符の群れ。それら全てを打ち払うかのごとく、少女は男の背中を見つめて言った。
「もう一度言います。あなたはもう助かったんです、ローザさん。だって、あの人は――最強なんですから」