小説を書く人
りんりん、と風鈴の音が縁側から聞こえる。
八月の昼頃。夏にしては珍しく涼やかな風が吹き、このところの嫌な湿気を感じさせない。心太の入った切子硝子の器を両手に抱え、懸命に箸を動かしながら、つるつるとすすう妹の真子と私は祖母の家でのんびり過ごしている。
離婚協議中の両親は、今頃、家で激しい口論を繰り広げていることだろう。ほとんど毎日、その論争の中で生活しているのを見兼ねた祖母が私たち姉妹を預かってくれているのだ。祖母は可愛い孫娘たちが自分の家でのんびり暮らしてくれた方が、あんな凄まじい嵐の中で暮らしているのを傍観しているよりはるかにマシだと言っていた。
「奏子、真子。ちょっと来て」
部屋の奥から私達を手招きしたのは、姉の麻子だ。
「これ見て」
差し出した麻子が持っていたのは和綴じの古い本だった。少し黄ばんでしまっているのは、安い和紙を使っているからであろう。
「何これ?」
「何かの物語じゃないかな。物語の題名っぽい目次がついてる」
ぺらりと表紙めくると、ボールペンで書かれた細かな字が、所狭しと並んでいる。
「うわっ」
真子が驚いたように声を上げる。俄然、興味が湧いてきたようで目がきらきらと輝いている。
「これ、お父さんの字だよ」
麻子が呟いた。確か、父は高校の時に文芸部に所属していたはずだ。その時に書いた本かもしれない。
「普通に読めるけど、文法が微妙なところがあるね。本自体が傷んでるから、読むのは書き直してからじゃないとダメだね」
確かに、あちこちに傷みが見受けられた。
「ねえ、これを夏休み中に新装版にしてプレゼントしようよ。しばらく会えなくなりそうだしさ」
三姉妹は祖母宅がすっかり気に入ってしまい、ここで暮らすことに決めたのだ。
麻子と奏子はこの近くにある難関高校の編入試験に合格し、まだ中学生の真子は二学期から公立中学に通うことになっている。
「いいわね。何だか楽しそうじゃない」
「じゃあ、ハンズに和紙を買いに行きますか」
この真子の一言が単調に進みつつあった平和ボケしている夏休みを大きく変えることになるとは、夢にも思っていなかった。
表紙の和紙の柄をどれにするかで散々迷ったあげく、時間が惜しいので後日にすることにした。紙は一番上等な土佐和紙を買った。つやつやと輝いていて、文字を書くのがもったいないくらいだった。もちろん、これに罫線はないが、書道が得意な私は文字を書くときに間隔がばらばらになったり、絶対に曲がる心配がない。生まれつきの才能だ。
似たような本があるかどうか探したら、他にも同じようなものが二冊見つかった。残念ながら、それは更に傷みが激しいだけでなく、墨を使って古語で書かれているので、解読は無理そうだった。
「最初から書くより、先に音読して文法を直してから書くほうが良いと思う。その場その場でやってると、後から良い表現が思いつくかもしれないし、挿絵の図案も考えたい」
絵を描くのが恐ろしく上手い真子は挿絵を担当することになっている。イラストレーターを志すものとしては譲れないものがあるのだろう。
つまり、校正するのが麻子、文章を書くのが私、挿絵を描くのが真子というわけだ。
涼しい木陰になったいる縁側で椅子に座り、麦茶を片手に麻子は物語を読み始めた。
父はこの物語に高校時代のすべてをつぎ込んだのかもしれないと思ってしまったほど、この物語は三姉妹に深く印象づくことになる。
夕暮れ時の空を眺めながら、律は自転車をこいでいる。交通事故で父を失った後、母は5歳まで女手一つで育ててくれたが、ある日突然、律を預けてどこかへ行ってしまった。
律が預けられたのは、小さなレストランで働く矢神直という人だった。彼は、いわゆる二枚目なのだが細君はいない。しかし何の義理もない、突然現れた母子を何も訊かずに家に置いてくれた。母がいなくなっても、律を追い払ったりせず、ただ静かに言った。
「今日から僕が君のお母さんになるよ。だから、心配しないで」と。
その時、律は母が二度と帰って来ないということを、幼いながらに理解した。
矢神は仕込みが終わった後、必ず幼稚園に迎えに来てくれた。忙しかっただろうに、文句一つ言わなかった。小学生になると運動会では一緒に走ってくれたし、遠足には他の子には絶対に負けないお弁当を作り、勉強で分からないところは丁寧に教えてくれたりもした。可愛い服を買ってくれたり、たまに旅行にも連れて行ってくれた。
律は、そんな矢神を見ていたからか、十歳になるころには彼を少しでも楽させようと家事を引き受けるようになった。そして、その頃から矢神が結婚しないのは自分がいるせいなのではないかと悩むようにもなった。それでも訊かずにいたのは、矢神と一緒にいたいからだった。
律は今、最難関の県立高校に通っている。成績も十傑から外れたことはない。最近、矢神さん、今は直さんと呼んでいる(私の苗字は矢神を使っているからだ)が、そのお店を手伝うようになった。最初はタダ働きするつもりだったのだが、直は月にお小遣いの代わりとして5000円をお給料としてくれていた。もっぱらオーダーと料理を運ぶだけだったけれど、直は律の働きが良いと褒めたりしてくれたし、たまにお客様から直さんに似ていると言われるのも嬉しかった。
「直さん、ただいま」
店に着くと、そう言って裏の扉を開けた。
厨房には、とろとろに煮込んだビーフシチューの香りが漂っている。直のレストランは開店当初からものすごい人気で、今では横浜の一等地にも店舗を構えている。最近は雑誌にも取り上げられるようになっているし、直さんは「イケメン経営者」として女性客が多く来るようになった。他の料理はコックさんに任せているものの、ビーフシチューだけは相変わらず直が作っている。
「お帰り。そうだな、仕込みは終わったよ。ちょうど良いから、一緒に買い物に行かない?」
「分かった。制服だけど、良い?」
「大丈夫だよ、車で行くから」
家から店まではさほど離れていない。自転車で15分ほどのところにあるマンションだ。
直さんは愛車のポルシェに乗り込むと、車を走らせた。ディナーは七時からなので、買い物に行くとなるとあまり時間がないが、今日は土曜日だということを思い出した。開店まだはあと二時間ちかくある。
いつもの市場に行くのかと思っていたが、確かに、そこに行くのにポルシェは使わない。では、どこに行くのだろうか。
「どこに行くの?」
「着いたら起こしてあげるから、寝てて良いよ」
部活帰りで疲れているのを察したのか、直はそう言った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
あっという間に寝ついてしまい、本当に直が起こしてくれるまで律は眠ったままだった。
「律。起きて、着いたよ」
はっとして目を覚ますと、直の顔が目の前にあった。
心臓がどきんとなった。最近、律は直を見ているとドキドキすることがある。これが何のことなのかさっぱり分からないが、嫌ではないということだけは分かる。
「ここ、どこ?」
「表参道」
怪訝な顔をする律を見て、直はにっこりと微笑んだ。数分ほど歩いて、二人はある店の前で止まった。ショーウィンドーには、可愛らしい鮮やかなドレスやワンピースが並んでいる。
特に気にしないで店に入ったが、鏡を見ると制服は何となく野暮ったい感じがして、律は少しだけ頬を赤く染めた。
「矢神君、いらっしゃい」
「お久しぶりです、藤澤さん」
奥から進み出てきたのは、四十代後半と見られる女性だ。スマートな黒いスーツを着て、黒い縁のメガネをかけている。いかにも、できる女というような印象だ。
「貴女が律さん?矢神君から色々と聞いているわ。噂通り、すごく綺麗な子ね」
「ありがとうございます」
律にはそこまで親しい友達はあまりいないから、綺麗などと言われたことはない。
なぜ直がここに連れてきたのか分かりかねている様子の律を見た藤澤さんは、にっこりとほほ笑むとヒールをカツカツと鳴らしながらショーウィンドーの方に歩いて行った。
「藤澤さんて、直さんの婚約者ですか」
律が真面目くさって訊くと、直さんは吹き出しそうになった。何とか笑うのはこらえているという様子だったが。
「婚約者だったら、藤澤さんなんて言わないよ。それに彼女、既婚者だし」
「じゃあ、どうして」
「だって、今日は律の誕生日でしょ?」
あ、と思わず声が出た。律自身は忘れていたというのに、直はしっかり覚えていてくれた。何となくだが、誕生日というものが直の負担になりそうで中学生になってからはケーキもプレゼントもやめてくれと頼んでいたから、ああ誕生日か、というような認識しかなかった。
「何年も忙しくて祝えなかったし、律が嫌がってたからやめておいたけど、来年は大学生だしね」
お礼を言う前に、藤澤さんが数着のドレスと靴、その他諸々の小物を持ってやって来たから、つい言いそびれてしまった。引きずられるようにして試着室に放り込まれ、藤澤さんのオーケーサインが出るまでドレスを着替えた。
「矢神君、見て」
白い靴には絹が張られ、黒いビーズでできた飾りが前部分についている。艶やかな紺色の生地のドレスは美しいドレープを描き、ウエスト部分には細めのリボンがついている。
「すごく可愛いよ、律」
律は思わず頬を赤らめた。
「これから結婚式をするって言っても、全くおかしくないわ」
感嘆の声をあげる藤澤さんに、直は苦笑している。
藤澤さん直々にメイクをしてもらうと、ドレスと靴を身につけたまま、律は直と車で店に戻った。その間、律は心臓の鼓動がうるさくて仕方なく、直に気づかれはしないかと緊張しっぱなしだった。車を置いて店まで歩く間、直は珍しく正面の扉で待つように言った。数分もすると、黒いスーツに身を包んだ直のエスコートを受けながら、律は店に入った。
多くの人の視線を浴び(多くは羨望の眼差しだった)、律は驚いたが、更に驚いたのは一等席のテラスにエスコートされたことだった。
「律お嬢様、お誕生日おめでとうございます」
そう言って運ばれて来たのは、直の作ったビーフシチューをはじめとして、ローストビーフサンドやサーモンのマリネ、チョコレートのスフレはどれも、律が好きなメニューのものばかりだった。
そして、最後には誕生日ケーキが運ばれて来た。紅茶も律の好きなマルコポーロである。
「お嬢様のお誕生日のために、全てオーナーが用意したものです」
ウェイターの市川がそっと囁いた。
「直さん、ありがとうございます」
「大好きな律の誕生日だからね」
そう言って、直はにっこりと笑った。
大好きな律。
直はきっと、その言葉に何の意味も込めていない。子供の頃から感じていたことだ。直は律を愛している。保護者として。
律が直にどんな気持ちを幼い頃から抱いていたか、彼は知らないだろう。
もちろん、突然、母に見捨てられた律を引き取ってくれたことには感謝しきれない。その点では直を父親と見ている。だが。こんな近くにとんでもない美形で、親切で優しい男がいるのだ。恋の一つもしないわけがない。いくら歳差があっても、律は直を永遠に愛することができると思っている。
だが、これが恋だとまだ律は認めていない。認めれば、今までの律と直の関係はいともたやすく壊れてしまうだろう。そして、いつか思い出になってしまうだろう。そんなのは御免だ。律は直の側で生きていくつもりだ。
直が律を愛するのとは少し違ったカタチで、律は直を愛している。
これからも、ずっと。
物語はそこで終わっていた。次のページ以降は白紙のままだ。
父はこの小説をどのような思いで書いたのだろうか。父と主人公の律に共通点はない。むしろ、律とは対極の位置にいると言っていい。
父は大学入学と同時に上京し、卒業後は作家となった。デビュー作が新人賞を受賞し、その後も立て続けにヒット作を生み出した。半年前に出版された恋愛小説は100万部を超えるベストセラーとなり、映画化も決定した。作家として順風満帆な人生を送り、妻と三人の娘を何不自由なく養ってきた。
その父が、どうして一体このような作品を書くことができたのだろう。作家の想像力とは実に素晴らしく、よく出来たものだと思う。さすがに高校生なので売り物にするには物足りないところがある。だが、父ならばこれを完結させることも可能だったはずだ。
何故。
どうして。
この物語を完成させなかったのか。
多分、姉も妹も同じことを思っているに違いなかった。こんな中途半端なところで終わらせるなんて、父の矜持が許すものなのか。
「…続き、書こうよ」
気付いたら奏子はそう言っていた。慌てて口をつぐみ、下を向いた。
他人の作品にそんなことはできない。
麻子ならばそう言うだろう。
未完成の作品に添える挿絵はない。
真子ならばそう言うだろう。
「良いわよ、書きましょう」
驚いて顔を上げると、麻子が双眸を輝かせて言っていた。真子も俄然、やる気が出てきたようだ。
「え、ちょっと本気?」
思わず訊いた奏子に、二人は淡く微笑んだ。その顔があまりにも似ていたので、奏子は笑ってしまった。
「言い出しっぺが何言ってるの。完成させて、パパにプレゼントしましょう。清書するだけより、そうした方が素敵よ。どうせ出版なんかしないし、身内特権てことで、ね」
「パパに会えるの、次はいつ?それまでに完成させなきゃ。麻子姉、急ピッチで進めてよ。挿絵が入れられない」
和気藹々とした、懐かしい空気が流れこんできた。
私たちの青春は、まだ始まったばかりだ。
連載にするつもりはありませんが、続編をまた短編で書こうかな、と考えています。
感想等、お待ちしております。