あたりめ
いつもの店のドアを引く。
エアコンの効いた空気が、東京の夏がどれほど過ごしにくいものであったかを思い出させてくれる。
こんばんはぁー、と声をかけて、少しだけ雑然としたバックバーを見るともなしに眺めて、カウンターのスツールに腰掛ける。
このお店に通うようになってもう3年半。
すっかり気心の知れたマスターが、私が何も言わなくても梅シロップで作るチューハイを作って出してくれる。
誰かに見られることを意識したお洒落なカクテルじゃなく、自分の好きなお酒を飲むようになったのはいつからだろう。
バーに一人で来れるようになったのは何歳の時だっけ。
「マスター、するめ焼いてー」
自分の思考の上を滑るように、もはや習慣になったつまみをオーダーする。
「好きだねー、するめ」
「マスターのするめ、美味しいからね」
「はいよ!するめ焼かせたら俺、日本一だからね!」
笑いながらマスターが厨房に向かう。
それを聞いて、他のお客さんが笑う。
今日もお店は少し混雑している。
都心から程近い、だけど都心程騒がしくないこの街が気に入って引っ越してきたのは4年前。
部屋の近くにあるこのバーを見つけたのはただの偶然だった。
彼氏と一緒に飲みに来て、その緩くて気楽な空気がすっかり気に入って通うようになった。
最初は彼氏と一緒に来ていたけど、そのうち一人で飲みに来るようになった。
何杯かのお酒を飲んで、気が付けばよく知らない男の人と話していた。
たまたまカウンターの隣にいた人だ。
内容はたいしたことじゃない。
仕事の事や、今の彼氏と長く付き合ってて、来年の春くらいに結婚するとかなんとか、そんな事を適当に話した気がする。
初めて会った男の人は、いいね、おめでとう、と言ってくれた。
その人が手洗いに立ち、手持ち無沙汰になった私が携帯をとろうとしてふと目をやると、マスターが焼いてくれたするめがすっかり乾いてカサカサになっていた。
その時なぜそんな事を思ったのかは判らない。
でも、ふと頭に浮かんだのだ。「まるで、私みたい」と。
私は、わたしの人生をうまく生きる事が出来ている、そう思っている。
数年前から付き合っている彼とは、来春にも結婚しようという話が出ている。
彼も私も、普通に仕事をして給料を貰い、東京で一人暮らしが出来ている。
何年か前に30歳になったけど、見た目だってまぁ、悪い訳じゃないとおもう・・・目を引くような美人って訳でもないけど。
わたしは、しあわせだ。
わたしは、めぐまれてる。
そりゃ、人に羨まれるほどじゃない。
でも、わたしには、十分。
「本当に?」
頭の中で、もう一人の私が問いかける。
本当に、そうなの?
仕事、本当はデザインがやりたかったんじゃないの?
彼氏は、私の事をちゃんと一人の女として扱ってくれてる?
「奥さん」とか「嫁」って記号で見られいるんじゃない?
花嫁修業と言えば聞こえがいいけど、足繁く彼氏の部屋に通って、ご飯作ってあげて。時には洗濯してあげて。
それでいて、ちゃんとしたデートに誘われるわけでもなく、週末に手抜きのセックスでお茶を濁されて。
何年か付き合ってたらそんなもんだよって、無理やり納得してない?
女としての幸せ、ちゃんと実感できてる?
私の事を問い詰めてくるもうひとりの私。
そんなことを思ってしまう理由は判っている。
私ももう33歳。
人生の選択肢はどんどん狭まってくる。
今から新しい仕事にチャレンジするには、今の仕事が楽しくなりすぎた。
全く新しいジャンルに挑戦することのリスクを、私は取らなかった。
今の彼氏と結婚することに対しての、漠然とした不安。
女としてのタイムリミットに対する焦り。
まだ大丈夫。まだしばらくは大丈夫。
うん。確かにそうなのかもしれない。
でも、あと数年もすれば、私だってアラフォーと呼ばれる年齢になる。
そりゃ子供だって欲しいとは思うけど、まだ先のことだって思ってた。
でも、もうそんなにゆっくりしていられない年齢になってきたと、実感ではなく周囲が騒ぐ。
同時に、彼氏に女として扱われている実感が薄いことへの不満。
そういえばここ半年くらい、休日に待ち合わせをする様なデートに誘われていないな。
セックスするときは少しだけ幸せな気分になるけど。 でも。 だけど。
今の彼氏で、ほんとうにいいの?大丈夫なの?そんな迷い。
それだけに溺れていられるほど、小娘ではなくなってしまった、って事なのかもしれない。
だいじょうぶ?
わたしは、女として、大丈夫なの?
マスターが焼いてくれたするめ、最初は美味しかったけど、冷めて乾いて固くなって。
まるで、わたしみたいじゃない?───
隣の男の人が手洗いから帰ってきた。
初めて会う人だけど、この店には何回か通っているらしい。
話が面白い訳ではないけど、私のくだらない話題にあいの手を入れて話を聴くのが上手な人だった。
きっと、これまでいい恋愛をしてきたのだろう。
女の人に、上手に育てられた男、そんな印象を持った。
紳士的───そう言っていいとおもう。
でも、私は気づいている。
ほんの時々、一瞬だけど、その人の視線が、何かの拍子に私の胸や脚に向かうこと。
そのへんのオジサンみたいに、じろじろと遠慮なしに見るようなことはしないけど、それでも。
他の客やマスターと話して、ふと私から顔をそらす瞬間。
煙草に火をつけようとして手元に視線を移す一瞬。
そんな時、私の胸に、私の脚に、ほんの一瞬、その人の視線がちくりと刺さる。
世の中の殆どの女は、男が思っているよりも遥かに他人の視線に敏感だ。
男が、気付かれていないだろうと思っている視線は、たいていの場合女には気付かれている。
単にいちいち指摘するのが面倒くさいから女は黙っているだけなのだ。
隣のこの人もそうなんだろうな。
気づかれていないと思ってる。
もちろん、あまり気分のいいものではない。
だけど、同時に、自分の中には、そうやって視線を受けることで、私が女として見られている事を実感する、少しだけ冥い喜びがある事も確かだ。
そう。女だから、見られる。女だから。私はまだ、おんなだから。
他愛もないバカ話、好きなお酒、楽しい飲み友達。
ちくり
将来への不安、焦り。現状への満足。
ちくり
最近、彼は昔みたいに私の事を触ってくれなくなった。
ちくり
あぁ、そっか。もしかしたら私も彼の事、同じように扱ってたのか。
こういう視線、彼に最後に送ったの、いつだっけ。
ちくり
どれくらいの時間話しただろう。時計の針は0時をまわっていた。
いつの間にか、隣の紳士的な彼はいなくなっていた。恐らく終電で帰ったのだろう。
そういえば少し前におやすみなさい、またねーと挨拶した。
うん。
次のお休みは、彼と少しだけお洒落なカクテルを飲もう。
気付いてくれるかどうか判らないけど、少しだけ化粧を変えて、少しだけえっちな視線を送ってみよう。
なんとはなしに、くすりと笑う。
落ち込むことも、投げやりになることもあるけど、ふとしたはずみでこうして前を向けるんだ。
そう、女はしたたかで逞しいんだよ。
明日から、また少しだけ頑張ろう。
そして、またここに来て、いつものチューハイとマスターにするめを焼いてもらうんだ。
やっぱり、マスターの焼くするめは日本一なのかもしれない。