第8話 いきた、あかし。
夢現に眺める無機質な時計は、おおよそ午前9時を指していた。
窓から差し込む光はその角度を急とし、相も変わらず蝉は生を謳歌するかのようにけたたましく、そしてかなしく鳴いている。
ジジジジジジジ。
センセの気配が、この診療所には感じられない。
バスが到着するはずの時刻をとうに過ぎているが、帰ってきてはいないようである。念の為診療所内を探してはみるものの、少しばかり汗ばむだけでそれは無駄な行為に終わってしまった。
うん、分かっていた。どうせ、また先生のいない朝なんだろうな、って。
ジジジジジジジ。
診療所には、俺と妹のふたりだけ。
たまに見かける名も知らぬ虫は、まぁ、数には入れないでいいかなとは思う。
汗を拭いつつ、俺は間仕切りのカーテンを開け放った。
「朝だぞ」
妹は眠そうな目を擦りながら、如何にも気だるそうに上体を起こす。
「うーん……よく寝た」
「うむ、そうだな、寝過ぎな程だ。でも、寝れないよりはいいかな。あはは」
妹の分の朝食の準備を終え、“皿、洗っといてくれよ”と当人に伝えて、家を……いや、診療所を出た。
ジリジリと肌を焼く、憎たらしいほどに元気な太陽。その光線はまるで質量を持っているかのように、重く俺に打ちつける。アスファルトさんなんか特に大変だ。朝からずっと外に居るもんだから、靴底が溶けてしまうのではないかと心配になるほどに熱せられているのだ。
実際、インドではアスファルトが溶けてしまった事が過去にはあったらしい。
大要ってのは、物凄いエネルギーを発している。
このエネルギーを無駄なく利用し、もうちょっと上手く立ち回っていれば、少しは人間も長生き出来ただろうに。今この時、何を言おうと“覆水”なのだ。
仮にタイムマシーンがあったとしても、変えられない運命のような気がする。
汗が滝のように流れ出た。それだけでもう、死に近づいている感じがした。
妹を置いては逝けないと思い、手にしている水を一気に飲み干した。こういうのは、本当は少しずつ飲んだ方がいいらしいんだけどね、喉の渇きに抗えなかったのだ。
「ぷはー」
ただの水。ただそれだけなのに、今はどんな清涼飲料水よりも美味しく感じられる。まぁ、診療所の裏にある井戸から汲み上げた水なんで、元々美味いのは間違いはないのだが。それに加えて今のこの喉の渇きだ。それがプラスされるのだから、それはもう美味いに決まっている。美味くないと言ったら嘘になる。欲を言えば清涼飲料水が飲みたいのだけども、こうも喉の渇きが強いと、至極甘ったるいソレは返って身体が拒否しそうではある。そう、濃いーと喉を通らない。むしろ水分を奪われていくという気さえしてくる。
それの究極が“カキ氷のシロップ”だったり“乳酸菌飲料の原液”だったり。一度は飲もうと試みた人は多いはずだ。俺はおばあちゃんちで、夏休みに浮かれて親戚の子らの前で飲もうとした事がある。もちろん小さい頃の話ではあるが、実にバカな事をしたと今でも枕に顔をうずめてしまいたくなる。
目的地。その付近。キョロキョロと、辺りを見回す。
例の商店を少し離れた所から見回すと、敷地内に倉庫らしき建物を発見した。いや、正確には、それ自体は以前から目に入っていたのだが、隣家の物であると思い込んでいたのだ。しかし、今回、正に角度を物理的に変えて見てみたら、新しい発見があったのだ。たぶん、今の俺は新しい方程式を発見した数学者のような表情をしている事だろう。まぁ、俺の方は大した事ではないのだが。しかし、嬉しい。商店の倉庫だ。食料品もそれなりにあるだろうし、その向かって右隣には車庫らしきものもあった。
これは、バイクか車、期待してもいいのかもしれない。
まずは車庫らしき建物から調べてみよう。
湿った庭木と土の匂いが漂う、荒れ果てた庭を通る。虫に刺される心配もしたが、特に何も無かった。
少し錆の入ったシャッターだ。施錠はされている。横に出入りが可能と思われる扉があった。
ノブに手をかける。
ぎぃ、と、劣化した蝶番の擦れる音が響く。
うむ。
どうやらこちらは施錠されていないようで、一安心。
しかし、どうしても罪悪感は消えなかった。ガラスを割って侵入するのも、無施錠の扉を開くのも、客観的に見たらなんら変わらないのだ。家主の了解を得ていないという事はだ、結局どちらもドロボーなのである。とは言っても、この建物の持ち主は既にここを離れた後なのだろうけど。了解を得ようにも得られないのだし、神様も閻魔様も眼を瞑ってくれると信じてる。
“いれば”の話であるが。
そうは言っても、やっぱり心のどこかで、その存在を信じているんだと思う。だって、困難に直面すると、自然と“神様”って心の中で助けを呼んでしまうんだから。
表から見た限り、生活の痕跡はあるものの人の生活も家主のご遺体も確認は出来なかった。以前、商店内で休憩した際も、埃臭さはあったものの腐敗臭は全くしなかった。なので、母屋である商店の中にはきっといないのだ。
では、この車庫らしき建物はどうだろう。
開けた扉から、ゆっくりと足を踏み居れる。左脚だ。特にジンクスめいたものが俺の中にあるわけではないので、これはまぁ、偶然だ。
埃、クモの巣、その他虫。それは問題ではない。が、鼻を突く匂いが、そこには充満していた。
「あぁ、そっか。ここ、か」




