第6話 にりんの、やまゆり。
その固きシガレットは、小さな肩掛け鞄に入っていた。ココアの味がする、甘いお菓子である。
だがそれは、急遽執り行われた映画鑑賞会にて、ポップコーンの代用品として食されたのだった。だから今は、もう何も無い。その一片さえも残ってはいないのだ。
ポップコーンは用意しなかった。ただ、映画の用意だけはしっかりとされていた。
上映されたタイトルは、古いコメディー映画だ。今はもうウェブサイトどころかサーバーごと消失してそうだが、昔お世話になってた映画配信サービスよりダウンロードしておいたものである。
何年前の映画だったか定かでは無いが、もう四半世紀以上は前の物である。妹はそれを甚く気に入っている。その理由は分からない。けど、俺がその映画を気に入ってる理由なら、凄まじくハッキリとしているのだ。
昔から病弱だった妹は、随分と長い間入退院を繰り返していた。故に、学校には殆ど通えなかった。勉強が好きだった彼女は、在籍してる学校が運営する通信教育でよく勉強をしていた。しかし、当然と言えば当然なのだが、その状況で友達が出来ることはなく、彼女は寂しい時間を過ごしていた。
それが年頃の女の子にとってどれだけ辛いものなのか、俺には想像し難いところがあるのだが、普段から漠然と“辛いのかなぁ”くらいには感じていた。
だけど、それは少しずつ確たるものへと変わっていった。
普段は明るくしている事が多かった妹。その表情から次第に笑顔が消えていったのだ。物を投げつけてくるのまだいい。だが、病室で独り塞ぎ込んでいる事も多くなり、ベッド横の丸椅子に腰掛けた俺の声にさえも応じない事さえあったのだ。
彼女は俺の妹だ。彼女が悪い子じゃないというのは知っていたし、これからもそれは変わらないだろうと、そう思っていた。だからこそ、彼女が我慢しきれずに吐き出した声無き悲鳴に初めて、事の重大さを知ったのだった。
そんなある日、昼頃だったか、暇を持て余した俺は隣の空きベッドに横になり、備え付けのテレビで独り映画を見ていた。妹が隣で気持ち良さそうに眠っていたので音量を控えめにしていたのだけど、その映画があまりにも面白くて、つい声を上げて笑ってしまった。その声は恐らく蝉よりもうるさく、診察室にいる先生にも聴こえる程だったと思う。
“あっ、やばい”そう思ったが、時既に遅し。目を覚ました妹は仕切りのカーテンの隙間から顔を出し、こう言った、“なに笑ってるの?”と。もちろん、怒りの込められたものではなく、彼女の純粋な疑問により紡ぎ出された言葉だった。そんな気がする。
説明するのは苦手だ、今も昔も。だから俺は妹に“気になるならこっち来いよ”と誘って、ふたりで寝そべって映画の続きを観て、ふたりで笑いあった。彼女の笑顔が眩しかった。俺の見た、妹の久しぶりの笑顔だった。
それから何度も何度も、同じ映画を一緒に観た。回数なんて憶えてはいない。ただ、両手で数えきれないことは間違いない。“またかぁ”と思う事も多々あったけど、その映画を観るたびに笑顔になる妹を見て、俺の心は満たされた。
だから、この映画は俺のお気に入りなのである。
そんな映画を、この待合所で見ていたのだ。この限り有る短い時間の中だからこそ、まるで圧縮されたあの砂糖菓子のように、濃密で甘い時を過ごした。
ちなみにだが、“何も無い”とは言ったが、この肩掛け鞄に取り分けた分がなくなったということであり、俺の大きいリュックサックにはまだまだ在庫がある。シガレット菓子を含めた、大量の駄菓子だ。それと、少々の缶詰。
暑い、来ない。
映画鑑賞後もしばらく待ったが、いっこうに帰ってはこない。その気配すらしない。
このままではふたりとも倒れてしまう。
“部屋に戻ろう”、そう妹には告げた。
天を仰ぐ名も知らぬ甲虫を尻目に、俺たちは一歩を踏み出した。
夏の日差しは激しくアスファルトを加熱し、その輻射熱により下からも俺たちを焼き上げようとしている。ここはまるでピザ釜だ。
直上より降り注ぐ日差しは熱湯のように熱く重く緊張を感じるものではるけども、今はむしろ下に日傘を向けた方がいいのではないだろうか、とさえ思う程であった。
実際は、まぁ、日傘は日傘として上に向けて使った方がいいのだけど。反射光、輻射熱が凄まじいという事は、直射日光は本当に危険なのだろう。しかしまぁ、核融合とは恐ろしき反応である。
診療所に戻る途中、木の陰に二輪の山百合を見つけた。
「ユリが咲いてるね」
「あ、ほんとだ、きれい……」
人の手を借りずとも、こうも綺麗に咲き誇る。
帰り道は、落胆の色を見せる妹の背中を眺めていた。その落ち込み様は見るに耐えなかったが、俺には奥の手がある。
彼女はあの駄菓子をえらく気に入った様子だったので、10個セットの大きな箱ごとプレゼントした。
「わぁ、すごい、10個もあるよぉ。一生かかっても食べきれないかもね」
「じゃぁ、またふたりで食べようか?」
「う~ん、う~~ん……いいよ!」
どこか物悲しい影を浮かべた笑顔だった。
“一生かかっても食べきれないかもね”が、彼女なりの冗談であったとするならば、少しばかり悲しいな。
次の日も、その次の日も、先生どころかバスさえも来なかった。
やはり、何かあったのだろうか。




