“書き出し”について
。るあで要重変大はし出き書の品作
どうしたことだろう、目がおかしいのか、はたまた世界がか!? 一瞬だが戦慄を覚えて眼をパチパチまばたいた。
なあんだ、鏡に写った文字だったのか、鏡を見ていたのかと。自信をもっていえないが、気づいてみれば何てことのない出来事など世間には沢山あるのだ。
しかし、数日前に起きた“あの事件”がそうだったといえるのだろうか?……。
平凡だが、こんなところから“書き出し”の重要さは伝わるのではないだろうか。
上述した数行を読んで何かを感じられたか、それをどうこういうつもりはない。でも、何某かは感じたのではないだろうか? 大事なのはそういう部分だと思うわけです。うまくいえない、けど何か気になる疑問が湧きあがったという何かを、作品冒頭で浴びせかける。それが読み手を引きつける書き出しではあるまいか。もちろん手法は無数にある。それぞれが創意工夫し、あるいはした痕跡があればいいのであろう。
よい例があれば悪い例もある。ということで、わたしが考える悪例について、以下に箇条書きしてみよう。
・主人公の自己紹介からはじまる。
・年月日からはじまる。
・意味のない会話文からはじまる。
・冒頭の一文が異様に長い。
・いきなりテーマをネタバレさせる。
・一文で二つの事柄を書いてしまう。
・あらすじで書けばいいことを綴っている。
とはいえ列記したものが即ダメかといえば、そうともいえない。
自己紹介からはじまっても作品に魅力をもたせることはできるし、あえて禁じ手から入っておくことで、どんでん返しの効果を高める方法だってあるからだ。
しかしそうした場合、当然書き手の脳内――あるいは手近のノート――にプロットの骨組みくらいはなければ難しいことに気づかされるのではないか。いやプロットがなくても書ける。仰るとおりです。
設問と回答――否定と肯定といったほうが解りやすいか――を繰り返してゆけばいいわけである。
ではわたしが例文とした書き出しはどうだろうか?
一応、それらしきものにはなっている。及第点といったところか。
書き出しは重要である。しかしそれを考察すると、小説の書き方の半分は見えてくる気がするのは、わたしだけだろうか。
小説とは5W1H(いつ、どこで、誰が、なぜ、どのように)という質疑応答の繰り返しで物語を編んでいくことではなかろうか。であれば、まずは肩の力を抜いて書いてしまうのが上達の早道とはいえまいか。
案ずるより産むが易し、である。
(了)