悪役令嬢と俺様執事
この時、ミルザブール令嬢は、ワルイコトをしていた。
マドレヌ伯爵邸、そのサロンホール。
当主であるマドレヌは、来賓の対応に忙しくしていた。
今日はマドレヌ家の次女、ムーミリア嬢の誕生日。美姫と名高いムーミリアには求婚者が数多く押しかけていた。当主マドレヌは彼らからの贈り物を見回し、ご満悦。
その様子を柱の陰から窺いつつ――マドレヌ家長女、ミルザブールは、ワルイコトを企んでいた。
豪奢な橙色の髪をホッカムリの中に詰め込み、黒塗りの丸眼鏡に、目の下までを覆う巨大なマスク。
鮮やかなドレスの上から黒いマントを羽織り、その布のなかで、ワルイコトをする。
ほっそりとした右手に、紫色の液体が入った小瓶。同じ細さの左手に、リンゴの実。
ミルザブールはニヤリと笑った。
「……しめしめ。誰も、わたしのたくらみに気が付いてないわ……」
「シメシメという言葉をリアルに発するひとって実在するのですね。初めて見ました」
声は、彼女の耳元で聞こえた。
いつの間にやら長身に執事服を着た青年が、ミルザブールのすぐそばに立っている。
「わあっ!?」
驚いて、叫ぶ。絶叫が聞こえたホールの客たちが一斉に振り返った。その視線にびくりと肩を震わせた拍子に、手に持っていた紫の液体を落としてしまうミルザブール。大理石の床に落ちたガラス瓶は派手な音を立て砕けちり、中の液体は不気味な紫の煙幕となる。
ミルザブールは絶叫した。
「ああ! しまった! 毒が!!」
「毒?」「毒!?」「毒?」
来客たちがいっせいにざわつく。ミルザブールはまたビクリと肩を竦ませて、手に持ったリンゴを背中に隠した。
「ちがっ、ちがうの。わたくし毒など盛っておりませんわ。このリンゴは、とムーミィの作ったフルーツ盛り合わせから盗んだものではないのよ。べ、べつに、わたし、みなさんの、ムーミィの評判が下がってあの子と王太子殿下の婚約が破棄になればいいのにとかそんなこと、何にもぜんぜんちっとも考えておりませんのよ!」
娘の異形に気が付いたマドレヌが眉をひそめ、恰幅のいい肩を怒らせて歩み寄ってくる。平民から武功で成り上がった偉丈夫は、いつもは温厚な目をつりあげ怒鳴りつける。
「ミルっ! おまえというやつは、また妹に嫌がらせを!」
「ひっ! ち、ちがっ、わたくしは、いやオイラはケチな盗賊で、ミルザブール令嬢なんかでは」
「盗賊だったらお嬢様よりなお厳しく処されるのではないですか」
独り言のように言う執事の男。
ミルザブールは彼をキッと睨んだ。そのネクタイを掴み、引きずるようにして、足早にその場を立ち去っていった。
長身の青年を、小柄なミルザブールが導くのは、両者ともに大変歩きにくいものだった。
サロンを抜けて屋敷の居住スペースに入ったあたりで、いい加減ネクタイを放そうとした、まさにその時、ミルザブールの尻を何か尖ったものが下からつきあげて、彼女は派手に前転した。
「きゃあ!」
悲鳴を上げて這いつくばる。振り返ると、青年がネクタイを片手で直しつつ、なにか、目をぱちくりとさせていた。
「大丈夫ですかお嬢様。ずいぶんと気持ちよくコケましたね」
「あなた! 今わたしのお尻、蹴ったでしょ!」
「蹴りましたが何か」
気軽に言われて口をぱくぱくさせる。
(こいつ、シレッと当たり前のようにっ……!!)
ミルザブールが言葉をくみ上げるより早く、青年はしれっとした様子で、
「不自然な姿勢で歩きすすむのは危険でございます。二人でいっしょくたに躓いたら、後ろにいる俺の体重で、お嬢様をつぶしてしまいますからね。そうなると、今蹴っ飛ばされて前のめりに転がり石床でオデコを強打し面白いほどたんこぶを膨らませている以上に、大けがをされたかもしれません。肉を切らして骨を断つ、苦肉の策というやつです」
「な……なるほど、そ、そうね。ありがとうコバヤシ」
「まあ危ないので止まりましょうと一声かければ済んだ話ではありますが」
「やっぱりただの暴力じゃないのっ! この、くそ執事っ!!」
ミルザブールの絶叫に、マドレヌ家執事、タカユキ・コバヤシは、明後日の方向を向いて佇んでいた。