プロローグ
また道に迷って家に帰れなくなっているに決まっている。
なんたって我が愛妻は界を超えてしまう位、筋金入りの迷子だからな。
泣いているだろうから早く迎えに行ってやらないと。
ふいにグンナルは身体が軽くなった感覚に目を見開いた。
こんなに体の調子が良いのは数十年ぶりだろうか。
数十年ぶり? おかしなことをと1人苦笑し起き上がり頭を振ると
寝台のわきに立てかけてある鞘に収まった剣を剣帯に吊るし
妻を探しに行くべく大股で部屋を横切るとドアを開けた。
グンナル・ルドルベリーの所属する第3師団は国境警備が主な任務だ。
各5名で編成された班はそれぞれが持ち場である見回り区域を目指して砦を
出発したのは日の出の頃だっだが今は既に夕刻になろうとしている。
森の最深部である国境がグンナル達の持ち場であった。
ここ数日、雨が降り止まず今日も木々の葉を雨が叩く音が辺りを支配している中を
馬が泥濘に足をとられないよう慎重に進む。
「今年は雨が多い年だな。」
同僚のベイゼルが忌々しげに雨具のフードの先についた滴を指先で払いながら
言う。
「恵みの雨も過ぎれば災害になる。」
農村出身の大きな体躯をしたステファンがため息をつき、馬の首を軽く叩く。
「地盤がだいぶゆるんでいるな。街道の崖の様子が気になる。」
いつもは朗らかな班長のランスの声が心なしか低く響いた。
「こんな雨の中あの街道を使う商隊はさすがにいないとは思うが、念のためだ
帰りが遅くなるが行くぞ。」
空は相変わらず雨雲に覆われているがその暗さは増し帰還の時刻が迫っている
ことを示していたが班長の言葉に一同は迷いなく同意する。
ランスの勘には天性のものがありその動物的ともいえる勘のおかげで仲間達は
何度も死線をかいくぐってきたのだ。
今回は帰還の時刻が過ぎるのはささいなことで街道の崖が崩落でもしているのを
見過ごせば何人かの首が飛び本人のみならず家族の死活問題に発展するのは
明白である。
街道に近づいていくにつれ木々がまばらになり視界が開けてくる。
雨はまだ降り止む様子はない。
「あれを見てください。」魁をしているミカルが指を指した先に視線を向ければ
木々の間の空間に見える崖の先端部分が大きくえぐられてあったはずの草木の
かわりに真新しい土が剝きだしになっている様が見えた。
「ありゃあ。街道が埋まっちまったな。」
ランスは独り言のようにつぶやくとミカルに大至急街へ知らせた後、砦に
戻って報告をするように指示を出す。
街へ向かったミカルに背を向けるように街道へと4人を乗せた4頭は向かう。
ランスの杞憂がそのまま現実となった光景が目に入る。
水を含んだ大量の土砂が街道の石畳を浮かせそれに混じるように大岩が
いくつも街道に転がり塞いでいた。
とても人や馬車が通れる状態ではない。
「巻き込まれた者はいないかよく探せ。」
「はっ。」
4人は素早く馬から降りると土砂をかき分け、折れた木々の間を誰かいないかと
声を張り上げながら慎重に探索する。
泥にまみれ汗だくとなったが愚痴を言う者はいない。
「いませんね。」そうステファンが安堵の息をもらしたときグンナルは土砂が
流れ込んだ街道の端の崖の下に泥にまみれた人間の腕が付きだしているのを
見つけた。
「いました。」声をあげながら滑るように土砂の中、街道下の崖を下りる。
近づくと腕は人形のように固まったまま動かない。
筋肉はほとんどついてなく細い腕は若い女のものだと考えられたが
土砂と草木を掘り引きずり出すとその体は思ったよりも更に小柄で子供のよう
だったが泥を吸い込んだ着衣がその体に張り付き体の線を少女のものだと
あらわしていた。
首に付いた泥を拭い脈に指をあてる。冷たい肌の下、微弱だが命の脈動が指に
伝わってくる。
「生きているぞ。」
グンナルの冷静な声が森に響いた。
半刻後、街の診療所に運び込んだ少女は診療所に雇われている女の世話人に
よって汚れを落とされたがその最中も目覚める様子がなかった。
幸い、擦り傷と軽い打撲のみで大した怪我を負ってはいない。
気が付けばそのうち目覚めるだろうと医術師はそう診断した。
気が付いた娘はこのあたりでは珍しい黒い髪と瞳をしていた。
大陸の東側の海に点在する小さな島々で構成される諸島国では稀にみられる
色彩らしいが娘の話では違った島国から来たらしく、またその国は地図上の
どこにも見当たらなかった。
どう来たのかも覚えていないし帰り方も分からないと言う。
大方、よくある人攫いにでもあい命からがら逃げたものの崖崩れに運悪く
遭遇して記憶をなくしたのだろうということになりほどなくして
ステファンの家庭に養女として引き取られた。