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恋する魔物

作者: 理人

――むかしむかし、あるところに一人の男がいました。

 大変見目麗しく心根も大層優しい男でしたが、彼はいつもひとりぼっちでした。なぜなら彼は人々が大層恐れる魔物だったからです。




 豪奢な装飾品に体中を彩られ、これまた山とつまれた財宝を両脇に、少女は城門の前にいた。降る雨は髪を飾る金細工をすべり、粒となって地へ落ちる。白粉や紅に彩られた顔にも雫はすべる。目を黒々と縁取られた少女は瞬きもせず閉じられたままの城門を見つめていた。

「いいね、ここで待つんだよ」

 彼女の数歩後ろに居た男の声に、少女は無言でこっくりと頷く。

 それを合図に男と数人の供の者だろう。彼らはまるで蜘蛛の子を散らすかのようにその場を去って言ってしまった。残されたのは少女ただ一人。

 雨は時間が経つにつれ勢いをましていく。

 山とつまれた財宝も、美しく着飾った衣装も、きらきら眩しいほどの装飾品もぐっしょりと濡れてしまっている。が、少女はというと微動だにしない。

 やがて嵐と間違うほどの勢いになったころ、城門が軋みをたてながらゆっくりと開いた。

「ったく……、人ンちの前で何やってんだか」

 分厚い門の向こうから舌打ちが聞こえる。

「んな天気に何やってんだっつーの」

 地鳴りかと思うような轟音をたて、門が開く。その向こうからがちゃがちゃと鎧が擦れるような音がきこえる。と、その音をきくやいなや、今まで微動だにしなかった少女がぱっとその場に体を伏せた。

 土下座をするような格好の少女を、全身を固い鎧で覆った男は冷たく見下ろす。

「オイ、風邪ひくだろーが。もー帰れっての」

「帰れ……ません」

「は?」

 男の眉がぴくりと上がる。

「今、なんて」

「帰れない……そう、申し上げたのです」

 地べたに額をこすりつけんばかりに頭をさげたまま、きっぱりとそう答えた少女は、地べたにこすりつけんばかりに下げていたあまたをゆっくりとあげる。

 雨の雫が彼女の額を、髪を、耳を飾る装飾品から滴りおち、泥まみれになった彼女の手の甲に落ちる。

 美しい衣装も土がつき、ついてないところも雨で体にはりついている有様だ。

 だが、その衣装も装飾品もごく一般のものが纏えるようなものではない。

 男はあからさまに嫌悪の顔をうかべた。

「帰れねーって……どういうことだよ。人んちの前でこんなことされてマジ、メーワクだってーの」

「それは重々承知の上でございます」

「だったら」

 帰れ。そう言おうとした男は、少女の鋭い視線に言葉を詰らせる。

 これでもかと飾られた少女の顔。大人というにはわずかに足らない年齢だろうに、顔はまるで娼婦のようにこれでもかと塗りたくられている。が、唯一何も施されて居ない彼女の眼。その眼から発せられるするどい眼光に、男はおもわず口を噤んだ。

 少女はふと視線を伏せ、再び平伏する。

「陛下。ここにあるすべてがわが国から陛下への献上品でございます。お納めいただきますよう」

 男の視線が、少女の両脇の財宝へとむけられる。

 金、銀だけではない。このあたりでは採掘できないような玉、獣の皮衣、そのほかにも豪奢な箱がいくつも。一体、どれほどの力と時間をかけてこれらをあつめたのだろう。

 呆れたような視線が二つの山を行き来し、そしてその中央にいる少女でとまった。山とつまれた財宝の一部を身にまとった少女の姿に、男は眉を寄せる。

「ここにある、すべて?」

「はい。ここにあるすべて、でございます。……私を含めて」

「……へ?」

 男の口からぽろり、と言葉が漏れた。

 仰天というに相応しい表情をうかべた男は、まじまじと少女を見下ろす。

「今……なんて」

「……どうぞ、お納めいただきますようお願いもうしあげます」

 少女の体を、冷たい雨が容赦無く叩きつけた。



「……こちらでおまちいただきますよう」

 そう言いのこし、金色に輝く瞳を持つ下男は部屋を後にした。

 残された少女は遠ざかる足音が完全に消えるのをまち、あらためてあたりを見回す。

 城の大きさにくらべたら部屋の大きさは小さいものなのだろう。だが、『献上品』である少女に与えるものとしたら少し違うような気がした。

「献上品、ね」

 少女の口元に自嘲気味な笑みがうかぶ。

 献上品とは聞こえがいいがなんてことはない。ただの生贄以外なんでもないではないか。

 この身は、国からこの国に差し出された物の一つ。彼がどうしようと。それこそ煮て食おうが焼いて食おうがまったく気にすることのない存在。

 そう。いうなれば自分はもう人ではない。ただの物だ。それが

「……どういうことかしら」

 自らと違うモノに対し、人というものはえてして信じられないほど残酷になるものだ。ましてや相手は人ではない。だから覚悟はとうの昔に済ませてきた。無事で済むなんて、最初から思っていない。良くて地下牢。悪ければあの場で殺されても文句は言えない立場なのだ。

 その物に対して、この対応はどういうことだろうか。

 きらびやかなな装飾があるわけではないが、落ち着いた部屋は居心地の良さを感じさせる。部屋には長椅子、天蓋がついたベッドまである。

 少女は頬をつたう雫を指で拭いながら、そっと窓に近づく。

 雨はさらに勢いをまし、まるで小石でもぶつけるような音をたて窓を揺らす。

 門番や城壁を守る兵たちにとって雨など関係ないのだろう。まるで置物のようにじっと動かず、外を見つめている。その瞳を金色に光らせて。

 薄いレースのカーテンにそっと手をはわせ、少女は小さく息を吐いた。

「溜息かよ」

 ぶすっとした声に、少女ははっとしたように振り替える。と、開け放たれたドアによりかかっていたのは城門や城壁を守る兵士たちと同じ金色に輝く瞳を持つ

「陛下」

 少女はさっと膝をつき、深々と平伏する。

「陛下のご温情、厚く御礼申し上げ」

「あーあー、めんどくせーな。そういうのナシナシ」

 口上を述べていた少女の言葉を遮るように、男は声をあげる。

「オレさあ、そういうめんどうくさい言い回しとか苦手なんだよね。さっさと本題に入ろうぜ」

 がちゃがちゃと金属の擦れる音が少女の耳にひびく。近づいてくる足音。その足音が彼女の目の前で止まる。

 下をむいたままだった彼女の上に、大きな影が落ちる。

「なあ、お前さっき言ったよな。献上品ってどーゆーこと?」

「それは……」

 男の声がわずかに低くなる。少女は顔をふせたままびくりと肩を振るわせる。

「我が父より陛下に親愛と尊敬の証として、心ばかりの品々をお持ちし、ぜひ我が国の心情をご理解賜りたく存じあげまする」

「親愛と尊敬、ねぇ」

 男は溜息をつく。

「親愛って……おまえさんの国とはかなり長いこと殴りあいやら殺し合いばっかりだったはずだけどな。なのに、どうして今更友情とか尊敬とかになるわけよ」

「それは……、過去のことでございます」

 頬を、髪飾りを雫がつたう。

「われらは今までの愚挙を恥じ、この先未来において陛下ならびにこの国の方々に対して代わらぬ友情とそして尊敬と真心を差し上げたく存知ます」

「未来……ねぇ」

 笑みを含んだ声がきこえる。その声に混じりどくどくと激しく打ち鳴らす鼓動が少女の耳をうつ。

 ここで失敗しては何もかもが水の泡だ。

 少女はきっと顔をあげる。と、黄金の鎧と仮面に覆われた男の姿が飛び込んでくる。

「わが国が過去行ってきたことが、陛下の御不快を買っていることは重々承知しております。ですが、どうか! どうか、我が国をお救いいただきますようお願いもうしあげます。そのためでしたら、私を」

「私を?」

 金属で覆い尽くされた彼が今、どのような表情をしているのかはまるでわからない。だが、唯一外からうかがうことができるのは眼の位置にある二つの穴。

 そこから見える鎧と同じ色をたたえた黄金色の冷たい眼差しに少女は思わず息を飲んだ。

 今にも震えだしそうな手を固く握り、少女は眼に力をこめた。

「私をお気のすむようになさってくださいませ!」

 再び平伏した少女を、男はじっと見つめる。

 長い長い沈黙。部屋に聞こえるのは窓をうつ激しい雨音だけ。一体、どのぐらいそれが続いたことだろう。がちゃりと、金属が擦れる音が少女の耳をかすめる。

「なるほど」

 仮面越しのくぐもった声。笑みを含んだその声に、少女の背筋が寒くなる。

「それで献上品、ということか」

「……はい」

 がちゃり、と金属音がする。次いで何か固いものが外れるような音がしたと思ったその時だ。伏せたままの彼女の脇に固い何かが落ちてきた。

 視界の端に飛び込んできたのは、彼の顔を追っていた仮面。

 黄金色の仮面だった。

「いつまでンな格好してんだよ」

「は、はい」

 恐る恐る顔をあげた少女は、すぐ目の前にあった男の顔に一瞬体を強張らせた。

 すらりとした鼻梁。薄い唇。髪はわずかに癖のあるものの、金色のそれはまるで獅子のたてがみのよう。人であったならばおそらく美しい部類にはいるのだろう。だが、彼は人とはちがった。金の眼だ。金の瞳は人には決して生まれることはない。魔族の血がそれを生み出す。魔物の証。

 今にも縮み上がりそうな心臓を懸命におさえ、少女は男の視線をまっすぐに受け止める。

「なあ、お前さ、それがどーゆー意味かわかってンのかよ」

「な、何が、でございますか」

「献上品……じゃねーか、生贄って意味」

「……はい」

 かすかに震えている少女の声に、男はちらと口をゆがませる。

「覚悟はできてるってことか」

 くっと喉をふるわせたかと思うと、男は少女の体をすばやくだきあげる。

「なっ!」

 何をするんですか! そう言いかけ、少女は寸でのところで言葉を飲み込む。

 このためにきたのではないか。

 覚悟だって済ませたはずなのに。咄嗟に目を伏せた少女を、男はくくっと笑う。

「生贄ってことは煮て食おーが、焼いて食おーがオレ様の勝手ってことだよな」

 覚悟はすませてきた。

 そのはずなのに、喉が震え声が出ない。がたがたと震える体を懸命に抑え込もうとしてもどうしてもうまくいかない。

「怖いか?」

 にいと笑った男の口端に鋭くとがった牙がみえ、彼女は小さな悲鳴を思わず漏らしてしまった。

 しまった。

 慌てて口を閉ざすが、すでに遅し。

 こぼれた水が戻らないように、言葉も同様。口に戻ることは決してない。

 しまったと顔をしかめた彼女の耳にかすかな笑みが聞こえた。その笑い声は、少女にはまるで猛獣の舌舐めずりのように聞こえた。

「だったら、いいよな」

 薄い唇がに、と笑みの形を作る。男は少女をまるで荷物かなにかのようにベッドの上に投げると、彼女が体勢を整えるまえに、彼女の上に圧し掛かった。

「……っ!!」

 悲鳴が喉にはりつく。

 怯えきったように目を見開く少女のほっそりとした体にのしかかりながら、男は手慣れたように彼女の纏っているものをはぎ取っていく。

 翡翠の首飾りに、琥珀の腕輪。珊瑚の髪飾りに、金剛石の耳飾り。

 まだ青さすらのこる少女にはあまりに豪奢すぎる飾りだ。それらを男は乱暴な手つきではぎ取っては、まるでゴミのように捨てて行く。

 一つはぎ取られるたびに少しずつ軽くなっていく体。

 やがて彼女をけばけばしく飾り立てていた装飾品はすべてなくなり、纏っているのは薄衣一枚きりとなってしまった。

 雨を含んだそれは、すでに衣としては様をなしておらず、彼女の丸みをおびてきた体を残酷なまでにはっきりと浮き上がらせ、裸よりもなお一層淫靡にみせた。

 それを男の無骨な指が、手がつかみ、強引に引き剥がそうと力をこめた。その時だ。

「……いやっ!」

 少女の口から悲鳴にもにた声があがる。

 黒く縁取られた眼から、関をきったように涙があふれ押し付けられたベッドに零れ落ちていく。

「いやああっ!」

 少女は懸命にもがく。が、相手は自分の体躯の倍はある魔族だ。

 人の、それも女が抵抗したところでどうにかなるようなものではない。だが、少女は懸命にもがき、そしてわずかに開いた隙間から辛うじて魔物の男の下から抜け出すことに成功した。

 少女は寝台の上で必死に後ずさりながら、ぼろぼろと涙を零した。

「嫌……っ! こ、こないで」

 義務も責務も今の彼女の脳裏にはなかった。

 だた只管恐ろしいだけだった。寝台の隅で体を縮め、がたがたと震える少女を、男の黄金色の瞳がじっと見つめる。

 全てを見透かすような黄金の瞳。その奥にちらちらと見える陽炎のような揺らめき。そのどれもが酷く恐ろしく、少女はぎゅっと眼をつむった。それがこの状態を何一つ変えられないとわかっていても。

 彼の視線が、少女にはとにかく恐ろしくてたまらなかったのだ。と、その時だ。

「だよなぁ」

 そう呟いた男の言葉に、少女はぱっと眼を開く。

「ま、そりゃそーだよな。普通、全然しらねーところに行けって言われりゃ誰でも怖いよなぁ」

「……え、あ、あの」

「俺もさ、これが良いとか言われたらどうしようかと思ったよ。いや、マジで」

 にかっと笑った男の口の端にみえるのは人よりも発達した犬歯。

 男はたてがみのような髪をがしがし掻きながら、どっこいしょと寝台の上であぐらをかいた。

「いまどき生贄とかってどうかと思うわけよ。いくら俺たちが魔族だからってさー、時代錯誤もいいところだと思わね?」

「あ、あの……」

 彼はなにを言っているのだろうか。

 眼を瞬かせる彼女に、男はがしがしと髪をかきむしっていた手を膝の上に下ろす。

「どうすっかなー……、生贄とか言われてもなー。つーか俺、そーゆー趣味があるとでも思われてんのかなー、なんかすげーショックなんだけどなー。そういう趣味ならまだしもなー。オレもどうせするなら合意の上のほうがいいしなぁ。まあ、たまにはそういった趣向も悪かあねけど、最初っからっつーのもなぁ」

 ぶつぶつと独り言を続ける男に、少女はそろりと近づく。

「あ、あの……陛下?」

「あー、悪ィ」

 困ったように髪をかきあげ、男は少女を見る。

「なー、お前さ、襲われたいとか趣味ないだろ?」

「そ、それは」

 おずおずとうなずく少女に、男はだよなーと呟く。

「お前さ、家、戻るか? ここにいたってツマンネーだろ」

「そ、それは……」

 戻れるものなら戻りたい。

 どのような国であれ、あの国は自分が生まれ、そして育った国だ。例え、自分に生贄になれと命じた国だろうとそれは代わらない。だが。

 だが、戻れたとしてもあの国に、今の自分がいる場所などもうどこにもない。

 生贄となり、差し出された瞬間。自分はあの国に戻る権利を失ったのだ。

 視線を床へと落し、少女は小さくかぶりをふる。

「いえ」

 絞り出すように呟き俯いた少女を、男はじっと見つめる。

 豪奢な衣装をまとい、けばけばしい化粧を施されていたからわからないが、良く見ればまだ彼女は幼い。おそらく少女といってもおかしくはない年だろう。

 そんな少女が敵国だと押し込まれていた国にたった一人行かされる。それは決して戻ることができない旅路だとしたら、どれほどの恐怖があったことか。想像にかたくない。ましてやその旅を命じたのが己の国。それも彼女の両親だとしたら。

 男はああ、とため息をつく。

「ま、そーだよなー。今更戻れって言われても無理だろうしなー」

 言いながら男は少女を見る。その瞳はさきほどとまったく同じ金色。だが、少女は不思議と恐怖はなかった。

「おい、お前」

「は、はい……」

「名前」

「え?」

「名前なんてーんだよ」

 ぶっすりと呟いた男に、少女は目を瞬かせる。

「あの……名前、でございますか?」

「そーだよ! まさか名前無いってんじゃねーだろうな」

 男の言葉に、少女はさっと視線をおとす。

 それは明らかに肯定の意味を含んでいた。男は眉を寄せた。

「マジかよ」

 呆然とつぶやいた男の声が、ぐさりと少女の胸をつく。

――そなたの名は、この門を出ると同時に消える。わかったな。そなたはもう、王家の人間ではないのだ。

――……はい、お父様

 城の門を出たあの瞬間、自分の名前は無くなった。

 今、少女にあるのは「生贄」という名だけだ。物に名前は必要ではない。そう教え込まれてきた。

 うつむいた少女に、男はがりがりと髪を掻き毟りながら声をあげる。

「ったく! それじゃ呼ぶのにどうしろってんだよ!」

「物に名前はございません故」

「アホかー!」

 ばちん、と男は自分の膝を叩く。鎧で覆われていたとしても、叩けば当たり前だが痛い。 思わず顔をしかめ、男は少女を睨むようにみる。

「んな訳いくか! 大体、名前が無いってのはどういうわけだ。そこらの犬コロにだって名前があるっつーの! フツーありえねーだろが」

 唾を飛ばさんばかりに怒鳴る男に、少女はちらりと苦笑いを浮かべた。

 生贄となった瞬間から、その者はもう人ではない。

 同じように献上された金や銀と同じ、財宝の一つと数えられる。

 ゆえに人であったころの名前も身分も失う。それは彼女の国だけではない。大陸の殆どの国でそうだ。その「生贄」に名前を尋ねるなど。

「あの……私は献上品でございますよ?」

「は? そんなにオレは耳が遠くねぇよ! んなの、さっきから何度も何度もイケニエ、イケニエって、聞こえてるっつーの! ったく」

 男は叩きつけるように言い放つと、すぐさま考え込む。

 首をかしげ、小さく唸る男を少女は酷く不思議な面持ちで見つめた。

 これが魔物の王。黄金の瞳を覗けば、大きな体躯の人とまるでかわらないではないか。

 今まで王女として王宮の奥深く押し込められ、物言わぬ人形のように扱われてきた自分にとってこれほど率直に物を言ってきた者はいなかった。

「そうだ!」

 ふいに沈黙を破り、声をあげた男は今度は手加減をしてぽん、と膝を叩く。

「名前が無いっていうなら俺が勝手につけるからな! お前、文句言うなよ!!」

「え……」

 きょとんとする少女をしりめに、男はびしりと指をつきつける。

「今からお前の名はリラだ! いいな!」

「リラ……」

「そして俺はアルフォンス! わかったな!」

「アル……フォンス。……リラ」

 少女は噛みしめるように呟く。たった二文字だけなのに、その言葉は妙にしっくりと少女の心にはまった。

 眼をしばたかせる少女は、じっと目の前に座る男をみる。

 薄く頬をそめたこの男が魔物の王なのだろうか。

 人を人と思わず、その心には一片の情けもない。行動は残虐非道。魔物とはそういうものだと、少女は教え込まれてきた。

 だけど。少女はそっと胸に手をあてる。

 リラと言う言葉は心の中にぴったりとはまり、冷え切り凍りついた心をゆっくりと溶かし出した。





――ある日、孤独な魔物の前に一人の少女があらわれました。ずっとひとりぼっちだった魔物はたいそう喜び、彼女を抱きしめようとしました。ですが、彼の爪は鋭くやわからな彼女を傷つけるばかり。






 しとど降る雨が窓をたたく。

 うっそうと生い茂る森も靄がかかり、薄ぼんやりとしか見えない。その雨靄のむこうには今は見ることができないが、空に突き刺さんばかりに高くそびえる山々が広がっていることだろう。

 その向こうにあるのは、先日突然あらわれ、強引に「イケニエ」を差し出してきた国だ。

 昔から変な国だとは思っていた。

 国境にある山脈を魔物は決して超えることはない。何故ならその向こうでは、魔物は生きていけないからだ。

 魔物には魔物の生きる環境がある。

 ある物は毒の沼地でのみ生きることができ、またあるものは猛毒の草以外は口にすることができないといったように。

 それ故、互いの領分は侵さないといったものは暗黙のルールとなっていた――はずだった。数百年前までは。

 それがここ数百年ときたら、まったくもって面倒くさいことこの上ない。

 男は薄暗いガラスに映る黄金の瞳を男はかすかに眇めた。

 なんでこんなことになったのだか。

 喉元にせり上がったため息と共に、その言葉を男はなんとか飲み下す。だがうまくはいかなかったようだ。背中からくすりと押し殺したような笑い声がきこえた。

 むっつりと振り返ったアルフォンスに、背後で書きものをしていたプラチナブロンドの男がちらりと視線をあげる。

「どうかしましたか?」

「どうもこうも……」

 言いかけた言葉は、かみしめた奥歯の軋む音に遮られる。

「あっちは俺たちのことなんだと思っているんだよ」

 思わずこぼれた言葉は、ここ数日アルフォンスの心の中で渦巻いていたもののかけらだ。

 魔物は恐ろしい生き物だ。人間はそう我々のことを思っているとは知っていたが、彼女がこの城にやってくるまでそれはまるで遠い国の物語かなにかのように思っていた。

 何しろ、王は城を、この地を離れることはない。

 そもそも魔物が好戦的なんてことはあり得ないのだ。

 何度も言うが、この国以外の魔物が暮らせる環境はない。美しい光が降り注ぐ青々と生い茂る草原なんてものは、闇の魔物にとっては地獄にも近いだろう。

 他の生き物にしてもそうだ。鏡のように澄みきった湖だって、魚たちは極楽でも闇の属性をはらむ魔族にとっては釜ゆでにされたほうがまだマシだ。

 そんな地を無駄な労力で勝ち得たとして何になるだろう。

 魔物が力を発揮する時はこの地を侵されるときだけだ。それまではただ静かに暮らしているだけ。それなのに。

「それは仕方のないことでしょう」

 延々続きそうになるアルフォンスの愚痴を、男は一刀両断。切って捨てた。

「我々はどこまでも魔族。非力なヒトから見れば、それはそれは恐ろしいくてしかないのですから」

「恐ろしいったってなぁ、オレはなにもしてないぞ! あ、オレの部下も! それに他の奴らだってなぁ」

 何もしてないからな! とアルフォンスは慌てて付け足す。

「そんなこと私が分からないとでも? しかし、私が申し上げているのはそのようなことではありませんよ。陛下」

 持っていた筆ペンをインクの瓶に戻しながら、男は金色の瞳をアルフォンスにむける。「やったかやらないかは問題ではありません。彼らにとっては、われらがいるという事実が恐怖なのですよ」

「そんなこといわれてもなぁ……」

 今更どうしようもないではないか。

 物語のように魔界や地獄などという異世界が存在すればいいが、悲しいかな。この国をつくりあげた創造神とやらはそんな気遣いこれっぽっちも見せてはくれなかった。魔物は人と同じくこの世界に生み出された。それは紛れもない事実であり、今更変えることはできない。もしも強引に変えたいならば、相手を滅ぼす以外はない。

 アルフォンスはため息をつきながら、視線を窓の外へとやる。

「……あいつもそうなのかな」

「あいつ、とは?」

 その声はため息よりと同じぐらいの大きさのつもりだったが、彼の耳を誤魔化すほどには小さくなかったということだろう。

 こういうときは聞き流してくれればいいものを。

 あえて尋ねてくる男に、アルフォンスは思いっきり顔をしかめてみせる。

「あいつっつーのは、あー、えー、ほら……あいつだよ」

「あいつ……、ですか?」

 男はわずかに首をかしげる。

 くせのまったくないさらさらのプラチナブロンドがゆらりと揺れ、男のほっそりとした首筋がちらりとみえる。

 煤がわずかについたランプの光のみの薄暗い部屋にも、その皮膚の異様なまでの白さが眼をひく。これも魔族の特徴だ。

 人型の魔物は他の異形の物よりも力では劣るものの、それをおぎなうようにその容貌は恐ろしいまでに整ったものがほとんどだ。そしてそれが美しければ美しいほど奥に秘めた魔力は大きい。

 事実、アルフォンスも男とはまた違った意味で造作は酷く整っている。

 わずかに笑みを含ませた男の声に、アルフォンスは形良い眉をつりあげたまま勢いよく振り返る。

「あいつだよ! ほら、この前やってきた」

「陛下」

 男はこれまた美しく整った柳眉を軽くひそめた。

「……はっきりおっしゃっていただかないと」

「あー!」

 アルフォンスはがしがしと頭をかきむしる。そしてとうとう諦めたのか。大きくため息を落とした。

「リラ、だよ」

「ああ、彼女でしたか」

 男はわざとらしいまでにうなずく。

「それならそうおっしゃっていただかないと。一体どなたのことをおっしゃっておいでなのかと思いましたよ」

 にこにこ笑う男に、アルフォンスはぎりと奥歯を鳴らす。

「性格悪いって言われるだろ。シルヴァン」

「いえ、陛下ほどでは」

 浮かべる笑みをまったく揺るがせない男――シルヴァンにアルフォンスははあとため息を落とした。

「……オレのどこが性格悪いんだよ」

「陛下?」

 シルヴァンとのこういったやり取りは日常茶飯事のことだった。

 そもそも脊髄反応といっていいほど、直感と思いつきで行動するアルフォンスに対し、慎重に慎重を重ねるシルヴァンでは衝突しないほうが無理というものだ。

 しかし付き合いももう数百年におよび、こんな会話も今更。もはや挨拶といってもいいだろう。

 だが、今日のアルフォンスの落ち込みようはいつもとはあきらかに違っていた。

「何かございましたか?」

「何かって……」

 アルフォンスはがくりと肩を落とす。

「あるにきまってんだろ。あの態度、見たかよ!」

 軽く握った拳をアルフォンスは窓枠に叩きつける。激しい物音と共に窓ガラスが大きく揺れる。窓ガラスにはりついた雨粒が一気に落下し、窓に細いストライプをつくる。

 だが、その文様もすぐさま叩きつけられた雨粒によってみだされた。

 アルフォンスの視線の先を追うようにみつめていたシルヴァンは軽く首をかしげる。

「……あの態度、と申しますと?」

 人が魔物におびえるのは今更のことだ。

 そう言うシルヴァンにアルフォンスは頭をふった。

「そんなのわかってる。けどな! あの態度はなんだよ!」

 何か言いたげに見つめてくるので尋ねてみると怯えられ、じゃあ近づかなければいいのかと思い、距離をおいてみれば泣いていると聞く。ならばと近づいてみれば怯える。

 この繰り返しだ。一体どうしたらいいのか。

「……全然わかんねぇよ」

 窓に叩きつけた拳を広げ、額をおさえるアルフォンスに、シルヴァンは小さく笑う。

「なんだ、そんなことですか。わたしはてっきり、陛下がとうとう彼女を襲ったのかとおもいましたよ」

「お……っ、お前なぁ!」

 頭に昇っていた血の気が頬にまで散ったように熱い。

 アルフォンスはそれを誤魔化すように顔をさらにしかめた。

「オレは真面目に言っているんだ!」

「ええ、わかってますよ」

 先ほど瓶に戻したペンを手に取り、書きかけの書類に視線を落とすシルヴァンを、アルフォンスは睨む。

「わかってねえだろ。お前」

「いえいえ、ちゃーんとわかってますよ。陛下があの子をものすごーく気にかけていることぐらいはね」

「ち、ちが!」

 勢いにまかせて立ち上がったアルフォンスは、大きく頭をふった。

「違う! そういうんじゃない!」

「ではどういう意味ですか?」

「それは……」

 気にかけてないといったらウソになる。

 異国の地に追いやられたあの子の気持ちを考えたら、普通誰でもそうだろう。

 そう続けるアルフォンスに、シルヴァンは再びペンをとめ苦笑いのような笑みを口元に浮かべた。

「陛下は心底優しいのか、それともわかっていて尚残酷なのかわからないですね」

「……シルヴァン?」

 首をかしげたその時だ。

 陛下! と叫びながら、兵士が一人部屋に飛び込んできた。

「大変です! あの娘が!」

「何だと!」

 先ほどまでぐずぐず言っていた姿からは想像もできない素早さで振り返ると、それ以上尋ねることなくアルフォンスは部屋から飛び出していった。

 遠ざかる足音を、残された兵士とシルヴァンは茫然と見送る。

「……あーあ」

 沈黙を先に破ったのはシルヴァンだった。

 まだ数文字もかいていないのに。肩をすくめながら、シルヴァンは再びペンをインク瓶に戻した。

「……あれが何でもないって態度ですかね」

「あ……あのう」

 おろおろする兵士に、シルヴァンはああと呟く。

「ところで彼女はどうかしたのですか?」

「あ、はい……眼を離したすきに、部屋をでて西門にむかってしまったようで」

「西門? たしかあそこには……」

 考え込むように言葉を切ったシルヴァンに、兵士はうなずく。

「守備のために魔物を離してあります」

「……なるほど」

 守護のためとなると、それがどいう種類のものかもうあえて聞くまでもない。

 兵士が慌てているところを見ると、その考えは決して外れてはいないだろう。

 まず話を聞いてからでも彼女を助けにいくのは遅いことはなかっただろうに。

 いくらアルフォンスといえども、相手はそれなりの魔族のものだ。素手で勝てる相手ではないだろう。シルヴァンは軽く額に手をあて、頭をふる。

「……まったく」

 小さく息を吐き、シルヴァンは立ち上がる。

「しかたありません。すぐに西門に兵をあつめてください」

「……はっ」

 兵士は姿勢を正し、すぐさま踵を返し部屋を飛び出した。

 あと少しもたたぬうちにあたりは騒然となることだろう。まったく。彼の猪突猛進ぶりは今にはじまったことではないが、毎度その尻拭いをさせられるこちらの身にもなってほしい――シルヴァンは軽く頭をふり、兵士が出て行った扉にむかって歩き出した。




――彼女を大切にしたくて歌を歌ってみましたが、彼女の耳には恐ろしい獣の咆哮となって響くばかり。恐怖に震える彼女を前に、魔物はどうしていいかわからなくなってしまいました。






 大陸の西側に位置し、高い山脈と広大な森に囲まれたそこをひとはエルフェン――地獄と呼ぶ。事実、エルフェンの中央にそびえたつ城は黒曜石でもつかわれているのか、黒光りした石で覆われている。陽光の明るい光ですら、城の外壁に吸い込まれてしまうようだ。 さらに城を取り囲む高い城壁。四方に設けられたこれまた大きな門は、来るものを固く拒むようにそびえたっている。

 その門の手前で立ちすくむのは、この城の住人とはすこし違う。

 体躯は酷く小さく、腕も、足も細く華奢だ。

 これがかの地に住まうヒトと呼ばるものだろうか。

 ヒトは遠く離れた地にすみ、この辺りでは見ることは皆無だ。なにしろここを地獄だのなんだのと勝手に恐れているのだから。

 その人がこんなところで何をしているというのだろうか。

 この城を襲いに来た……というわりには、あまりにも弱弱しい。

 そもそもその身に宿る魔力はほとんどゼロにひとしく、力もない。

 下級の魔物ですらこれほど弱いことはない。まさに無力。脆弱なその体躯をがたがたと震わせ、身を縮めるその弱き者を門の前にいた門扉と同じぐらいの体躯をもった人型の魔物はじいと見つめた。

 敵意は感じない。おそらく放置したところで、門が侵されることはないだろう。いや、そもそも弱すぎて、通常ならば気にも止めない存在のはずだ。だが

「……あ、……ああ」

 怯えた視線が、幼子にも似た震える声が耳に障った。

「い、いや……、やめ……」

 がたがたと震えるその存在が、癇に障る。苛立たせる。

 だが、相手は脆弱な存在。己が指一つでその震えも、声も遮ることはできるだろう。いや、遮らせなければいけない。

 魔物は微かに聞えてくる悲鳴をさえぎるように、口開き高らかに声をあげた。

 その声は獣の咆哮にもにていた。地を震わせるような大きな咆哮に、少女はその場にしゃがみこんだ。

「……っ!」

 体を小さく丸める少女の体の上に魔物は握りしめた拳を高く振りかざす。その腕を制するように絡まっていた人の体躯ほどの太さのある鎖がじゃらじゃらと激しく音をたてた。

「い……いやっ!」

 先ほどまで差し込んでいた日差しが遮られ、唸り声のような音がきこえてくる。

 さらに固く身を縮めた少女の耳に、走りこんでくる足音。そして激しくぶつかる金属音が響いた。

「リラ! んなとこで何やってんだ!」

 ぱっと顔をあげたリラの前に現れたのは、大きな人影。いや、ヒトではない。アルフォンスだ。

 振り返った拍子に陽光にも似た髪が大きくたなびく。こちらを見つめる瞳もまた、日の日差しに本当によく似ているとリラは思った。

 自分の背丈の倍。いや三倍はあろうかという魔物の拳を両手で受け止めていたアルフォンスは、

「何やってるんだって聞いてるんだよ!」

 怒号と共にその瞳が激しい感情でぎらぎらと輝いてみえる。リラは思わず身をすくめた。

「あ、あの……」

 先ほどの恐怖が体の自由を奪った。

 がたがたと未だ震えを止めることができないでいるリラに、アルフォンスは抑えていた魔物の腕を跳ね返しながら舌打ちをした。

「……あ、アル……」

 震える指先が口元を押さえるのがみえる。

 アルフォンスは魔物の腹に拳を一つ、また一つ叩きこむ。かがんだその瞬間、すぐさま大木よりもまだ大きな魔物の首筋に拳を再び叩きこんだ。

 巨大な魔物はぐうと鈍い声をあげると、その場にぐったりと倒れ込みそのまま静かになってしまった。

 地面にとぐろをまく鎖を蹴飛ばしながら、アルフォンスはぜいぜいと肩で息をつく。

「何やってんだよ!」

 アルフォンスの怒りが、びりびりと空気を震わせ伝わってくる。痛いほどの怒りに、リラはさらに身を縮めた。

「……あ、あの」

「外には出るなって行っただろう! それを、お前、何やってんだよ!」

 金色に光る瞳の奥に何かがゆらゆらと揺らめいているのがみえた。その揺らめきが彼の瞳の表を覆い尽くす。

 瞬間、彼の瞳の色が、黄金色だったそれが赤銅色へと変わった。

 息をのむリラに、アルフォンスは大股で近づき、彼女の方を乱暴につかんだ。固く大きな手、爪が細く華奢な肩をつかんだ。

 薄手の衣ごときでは鋼鉄とも評される魔物の爪を防ぐことなどできない。

 激しい痛みがリラを貫いた。だが、恐怖に体をこわばらせたままのリラは悲鳴すらあげることはできない。

 ただただ、見つめるばかりの彼女に、アルフォンスは薄く笑みを浮かべる。

「……逃げるつもりだったのか?」

「え……?」

 いつものアルフォンスとは違う。いつもの明るい声ではなく、聞こえてきたのは先ほどの魔物の咆哮にもにた低く唸るようなもの。

 ぎりぎりと指が肩に食い込んでくる。

 魔族の王。

 リラの脳裏にその言葉がよぎる。

 明るく、優しく、人と何もかわらないように見えていたアルフォンスだが、やはりヒトではないのだ。

 彼は魔族。その頂点に立つ王。

 大きく目を見開くリラを、仄暗い笑みをたたえたアルフォンスがじいと見つめた。

「ああ、そうか。お前はイケニエ、なんだもんなぁ」

「アル……フォンス……?」

「だったら」

 アルフォンスは肩をつかむ手に力をこめ、乱暴に引き寄せる。

 うす衣一枚きりの彼の体は、熱を帯びたように熱い。触れている場所がやけどしそうなほどだ。

 思わず身じろぎをするリラの体をアルフォンスはさらに強く、引き寄せた。

「……っ」

「逃がすかよ」

 耳元近くで囁くその声が、背筋をぞくりとふるわせる。

 だが、それは先ほどまでの恐怖によるものとは違う。これはいったいなんだというのだ。戸惑うように視線を揺らすリラに、男は笑みを深くする。

「勝手な事、させるかよ。お前はイケニエなんだろう?」

「アルフォンス……あ、あたし……」

 肩をつかんでいたアルフォンスの手が首筋を這いあがり、顎にかかる。

 にいと笑った唇の隙間から鋭く尖った犬歯がみえた。思わず悲鳴をあげかけ、開いたリラの唇にアルフォンスのそれが重なる。

「……んっ」

 それが口づけだと気がつくのに、数秒かかった。

 口内をぬるりとしたアルフォンスの舌が動き回る。それはまさに蹂躙といってもいい。あらがおうとする彼女の舌を絡め取り、啜る。

 彼の舌が動くたびに、リラの細い体が跳ねるように震えた。

 膝ががくがくと震え、今にも崩れ落ちそうになる。リラはアルフォンスの胸にしがみつく。と同時に、背中にまわされた彼の腕がさらに深く。まるで抱きつぶそうとでもしているかのように強く彼女の体を抱きしめた。

「……ぁ」

 耳をふさぎたくなるような喘ぎが口端からこぼれおちた。

 その声に満足したのか。アルフォンスは塞いでいた彼女の唇からわずかに体を起こすと、喉を震わせるような笑みをこぼした。

「……オレの物なんだろう?」

 赤銅色に染まる瞳がさらに色を濃くする。

 それはもはや赤といってもいいだろう。その強い視線が、まっすぐにリラの心臓を貫いた。

 すでに抵抗する力も失い、ただ茫然と見つめる彼女に、アルフォンスは笑いながら再び唇を寄せる。と、その時だ。

「そこまでです」

 ごつり、という鈍い音と共にアルフォンスの体がその場に崩れ落ちた。

 倒れ込んだアルフォンスの向こうにいたのは

「御無事でしたか? リラ様」

「し……シルヴァンさん」

 微動だにせず、じっとこちらをみつめていたのはシルヴァンだった。

「……まったく。こうなると思っていましたよ」

 呆れたように呟くシルヴァンに、リラは乱れた衣を慌てて直す。

「あ、あのう……」

 どうやら後頭部をしたたかに打ちつけられたのだろう。

 がっくりとうなだれ、倒れたままアルフォンスはぴくりとも動かない。

 そんな彼を、シルヴァンは冷たく見据える。

「ああ、お気になさらず。いつものことですから」

「いつもの?」

「ええ」

 戸惑うリラに、シルヴァンは薄く笑み……のようなものを浮かべた。

「アルフォンス様はいつもはあんな調子なのですが、なんといいましょうか、感情が振り切れちゃうと前後見境なくなってしまうのですよ。まあ、一眠りすれば元に戻りますよ」

「……感情が?」

「ええ」

 シルヴァンはうなずく。

「あなたが居なくなると思ったのでしょう。まったく、こちらの話を聞かなくて困ります。ああ、リラ様から陛下にもう少し落ちつくようにおっしゃっていただけませんか?」

「……あたしが」

 ぽつり、と呟くリラの肩を、シルヴァンはぽんと叩く。

 肩にふれた彼の手はアルフォンスのとは違い酷くつめたく感じた。



――泣きじゃくる彼女を、魔物はとうとう家に帰すことにきめました。ですが、繋いだ手を魔物はどうしても離すことはできませんでした。なぜなら




――どうして


 贄として国を出てからというもの、その言葉を呟かない日はない。だって、相手は今まで優しさなどかけらもない。悪鬼、羅刹と言われ続けてきた魔族の王だ。

 話しなど通じるはずもない。

 会った瞬間即食い殺されるか、はたまた奴隷として地下牢につながれるものだと彼女は覚悟をしてきた。だが、リラはまだ生きている。

 いや、生きているどころか取り上げられたはずの名前をあたえられ、さらには賓客としてもてなされるなど。リラの両親が知ったら、それこそ驚き戸惑うことに違いないだろう。

 まあ、知る機会があればの話だが。

 リラは小さく息をはき、豪奢な飾りに縁取られた窓枠からじっと外を見つめる。

 先ほどまで降り続いていた雨は止み、橙色に染まる光が城を取り囲む森に降り注いでいる。柔らかな日差しは森の木々に残る雨粒をきらきらと輝かせる。

 その光景は、地獄と教えられてきた場所とは到底思えない美しさだった。

「……綺麗」

 ぽつりと呟いた彼女の声に、かすかな寝息が重なる。

 リラは視線をゆっくりと部屋の方へと向ける。すでに日は大きく傾き、室内を照らすまでにはいかない。窓の外の明るさに反するように薄暗くなった部屋の中央に置かれた天蓋付きの寝台に、リラはそっと近づく。

 仄暗い部屋にもはっきりとわかる白いシーツ。ふわりとやわらかなそれに包まれて眠っているのはアルフォンスだ。

 黄金色の髪がシーツに広がり、そこだけがまるで光を放っているようにもみえた。しかし髪と同じ色をたたえているはずの瞳は、瞼に固く閉ざされ見ることはできない。

 リラは手を伸ばし、彼の頬にかかっている髪をそっといはらう。

 わずかに触れた彼の頬は先ほど触れた時の熱はまるで感じない。

 いや、それどころか酷くつめたく、まるで氷のようだ。

 最初、驚いた彼女は彼を運んできたシルヴァンに訴えた。だが、シルヴァンは別に驚くことではない。そう静かに言った。

「……で、でも」

 こんなに冷たいなんて。まるで死んでいるようではないか。

 そう呟く彼女に、シルヴァンはああ、と小さく答えた。

「そうですね。あなたは我々とは違うのでしたね」

 シルヴァンの言葉にリラは思わず口をつぐむ。そのまま黙りこんでしまった彼女に、シルヴァンは安堵させるような笑みを浮かべてみせた。

「大丈夫ですよ。魔族はあなたがた人は違う。動かない間はこのように冷たいものです」

「……そう、なのですか」

 だが、眠っているアルフォンスは本当に生きているのかどうかわからないほど冷たい。

 不安そうにちらちらと見る彼女に、シルヴァンはくすりと笑みをこぼす。

「大丈夫ですよ。陛下はこれでも魔族の王です。殺したって死ぬようなタマじゃありませんよ。ですがそうですね……心配でしたら、少しだけ様子を見ていてもらえませんか?」

「様子、ですか?」

「はい」

 そう言いながら頷いたシルヴァンは、笑みを含んだ視線を寝台に眠るアルフォンスへと向ける。

「この方はすぐにタカが外れて暴走しますからね。毎度、尻拭いをさせられて迷惑しているんですよ。ですから、リラ様から落ちつくようにおっしゃっていただけますか?」

「わ、私がですか? む、無理です……」

 リラは大きく頭を振る。

「……わ、私はそのようなことを申し上げられる立場ではありません」

 シルヴァンはきょとんと眼を見開く。

「え? そうなのですか? しかし、あなたは」

「私は敵国の者です」

 そうだ。自分は彼らにとっては敵国の者。そして自らの国にとっては守るために差し出された生贄だ。

 体を固くしそう告げる彼女を、シルヴァンは静かに見つめる。

「生贄……ですか」

「……はい」

 小さくうなずく彼女に、シルヴァンはなるほどと呟いた。

「……わかりました。あなたがそうおっしゃるならば、そうなのでしょう。ですが、あの方のお考えは少し違うようですよ」

「え……」

 驚いたように顔をあげる彼女に、シルヴァンはにっこりと笑う。

「とにかくアルフォンス陛下を頼みます」

 そう言うとシルヴァンは彼女の答えを聞く前に部屋を出て行ってしまった。

 残されたリラは最初は酷く所在なさげに部屋をうろついた。

 アルフォンスが運び込まれた部屋はリラの部屋のすぐ隣だった。内装からしてどうやらここが彼の寝室のようだ。彼の寝室がリラにあてがわれた部屋のすぐ隣だということに今の今まで気が付かなかった。その事にもびっくりだが、自分のような敵国の者をこのような私室のすぐ近くにまで招き入れていたことの方がもっと驚いた。

――どうして

 やはりわからない。

 リラは小さく息を吐き、冷たいアルフォンスの頬に手をあてる。

 氷のように冷たいが、それ以外はアルフォンスは綺麗な顔をしていた。うっすら緩んだ唇はまるで笑みを浮かべているようだ。

 この人があの時の黄金色をした瞳を赤銅色に変え、怒号を発した男と同じとは思えなかった。リラは先ほどの男がまとった激しい怒りを思い出し、体を小さく震わせた。

 恐ろしかった。

 いつもは邪気一つ感じられないが、やはり彼も魔族だと思った。

 だからこそなおさらわからなかった。

 三度、リラは思う。

 どうして、自分はここにいるのだろう、と。

 魔族の本性はやはり怒りだ。押し殺された怒りが心の奥底にゆっくりと沈殿していく。

 いつもは意識しないそれがふいに、何かの拍子に浮かびあがって破裂する。

 人にもそのような感情はある。だが、人はありがたいことか。それとも悲しいことか。忘却と言う作用が働きいつまでもその感情の中にとどまることはない。

 だが、魔族は違う。

 寿命は人の何倍もある魔族は忘れることはないという。

 忘却をしらない彼らが、リラの国がしたことを忘れたとは到底思えない。

 それなのに

「どうして……」

「……ん?」

 思わず呟いた声に、小さなうめき声が重なる。

 頬に触れていた掌に、かすかな震えと温みが伝わってくる。

 咄嗟に身をかがめ、覗きこむと同時に、閉じられていたアルフォンスの瞼がゆっくりと開いた。

 長いまつげにふちどられた瞳。黄金色の視線がリラをとらえた。

「……あれ、お前……」

 薄ぼんやりとした黄金色の瞳が、一度だけ瞼に遮られる。

 再び開いたその瞳があらためてリラをとらえるやいなや、再びかの瞳に表に赤錆色が広がるのが見てとれた。

 頬にあてていた手をリラは咄嗟に引き戻そうとする。

 だが、それよりも先にアルフォンスの手が彼女のそれを阻んだ。

「……っ」

 悲鳴が喉を震わせる。

 かろうじてこらえたのは、幸運だったかもしれない。

 怯えるように見つめるリラに、アルフォンスの瞳が今度こそはっきりと色を変えた。

 座っていた椅子を蹴って立ち上がり、後ずさる彼女を制するように眠っていたアルフォンスは寝台から体を起こした。

「……い、いや」

 頭をふる彼女の手をアルフォンスは強引にひっぱる。

 勢いづいた彼女の体が寝台に倒れ込む。再び置きがろうともがく彼女の体を、アルフォンスが抑え込むようにのしかかった。

 すらりと通った彼の鼻先がリラの頬をわずかにかすめた。

 零れ落ちる黄金色の髪がリラの顔の脇をまるで滝のようにゆっくりと零れ落ちてくる。

 まっすぐに降り注ぐ赤銅色の強い視線が、彼女の自由を完全に奪い去った瞬間だった。

 あらがうようにもがいていた両手から力が抜け、だらりと垂れ下がる。

「殺して……ください」

 零れ落ちた言葉に、アルフォンスの瞳が大きく見開かれる。

「……何」

「私は……」

 リラは視線をゆっくりと先ほどまでアルフォンスが横たわっていた寝台に落とす。

「私は生きて国にかえることも、生き続けることも許されない者です。なのに」

 最後は声にならなかった。

 視界がゆらゆらと揺れる。目じりにたまった涙が堰を切ってあふれ、こめかみから耳へと落ちていった。

「……どうして」

「決まってんだろう!」

 辺りを震わすような怒号に、リラの体が跳ねるように震えた。

 リラは思わず視線を戻す。と、赤銅色の彼の瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。

 重なり、触れている箇所がまるで火傷しそうなほと熱い。先ほどまで凍りついたように冷たくなっているのが嘘のようだ。

 アルフォンスは顔の両脇についた手に力を込める。と同時に寝台がぎしりと鈍い音をたてた。

「……お前はオレのものだ」

 深く噛みあわされた鋭い犬歯の隙間から、唸り声と共に声が零れ落ちる。

「オレのものだ! だから逃げるなんて許すわけないだろう!」

 そういってアルフォンスは噛みつくようにリラの唇をふさぐ。

 もうそれ以上何も言わせまいとするような、なんとも一方的な口づけだった。差し込まれた舌が執拗にリラのそれに絡む。

 声どころか息すらも奪いそうなほど深く、そして荒々しい口づけにリラは力の入らない手で彼の肩を叩いた。

 いや、それは叩くというよりも縋る、といったほうが近いだろう。

 ともすれば煽るような仕草で彼の体に這わせる指先の感触に、アルフォンスはさらに口づけを深くする。

 かすかに漏れる声は色を帯び、ねっとりと辺りに響く。

 逃げようとしているのか、のろのろと頭を振る彼女の頬を、アルフォンスは両手で包むようにとらえる。と、その指先に感じるしっとりとした感触。

 涙だ。

 息苦しさか。それとも別の理由か。

 ほんのりとバラ色に染まる彼女の頬に目じりに、後から後から涙が流れては落ちて行く。

 彼女の口をふさいでいたアルフォンスは、わずかに顔を起こした。

「……何で、何で泣くんだよ……」

「……っ」

 先ほどまで塞いでいた唇から締め付けられるような嗚咽がこぼれた。

 両目から溢れる涙はすでに滝のようだ。後から後から溢れては、流れ落ちていく。

 アルフォンスはその雫を何度も何度も拭いながら、じっと彼女を見つめる。

「そんなに……嫌か」

 アルフォンスの問いに、リラは涙にぬれる眼差しを彼にむける。

「……いえ」

「だったら」

「私は」

 リラは震える唇で声を紡ぐ。

「……私は生贄です……陛下」

「違うって」

 アルフォンスはリラの頬に残る涙のかけらを指で拭う。

 そして大きく固い掌で彼女の頬を包み込んだ。

「何度もいわせんな。オレはそーいった趣味はねぇよ。それに、お前の名前を決めたのはオレだ。だからもうお前はオレのもんだ。人とか魔族とか関係ない。オレが決めたんだからな」

 そういって口をとがらせたアルフォンスを、リラは驚いたように見つめる。

 なんて無茶苦茶で、乱暴な理由だろう。

 リラの意思どころか、国のこれからのことすらもまるで関係ない。完全なる思いつき。いきあたりばったりの考えだ。

 けれども。

 リラは涙でぐしゃぐしゃになった顔をわずかに綻ばせ、そっと彼の頬に指を伸ばす。

 先ほど触れた時は酷くつめたかったが、今は違う。

 熱くて、触れているだけで火傷をしそうなほどだ。

 だが、その温みが固くこわばっていた彼女の心をじわじわと解かして行くようだ。

「お、おい……なんとか言ったらどうだ」

 黙ったまま頬をなぞるリラを、アルフォンスは戸惑ったように見つめる。

 その瞳はあいかわらず赤銅色だが、もう恐怖は感じなかった。

「……陛下のものですか?」

「そ、そうだ!」

 かすかに笑みをうかべたリラに、アルフォンスは戸惑ったように視線を揺らす。

「お、オレが名前をつけたんだから当たり前だろう」

「……そうですね」

「だから!」

 怒ったように眉をつりあげたアルフォンスは、再びぎりっとリラを睨むように見つめる。

「だ、だからまた逃げたら承知しないからな!」

「……はい」

 こくりとうなずく彼女に、アルフォンスは安堵するかのようにほうと息を吐き、崩れ落ちた。

「へ、陛下?」

 驚きあわてる彼女の声を耳にしながら、彼女の首筋に顔を埋めていたアルフォンスはそっと息を吸い込む。

 甘い。

 森で嗅ぐ花の香りとも違う、甘い匂いだ。

 アルフォンスは彼女の体から立ち上る甘い香りをかぎなら、ゆっくりと眼をつむったのだった。


――一目あったそのときから、魔物は少女に恋をしていたのです



おしまい


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