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第二章 神を撫でる男

第二章 神を撫でる男



「どうしたのよ遠野。いつも以上に冴えない顔して」

 翌日の朝。沈んだ気分のまま遠野が通学路を歩いていると、同じく通学途中の鶴子が声をかけてきた。

「いや、まあ。いろいろあったんだよ昨日」

「はあ? 何があったか知らないけど元気出しなさいよ」珍しく鶴子は心配してくれているようで、バシッと遠野の背中を叩いた。「それで、バイトの方はどうなったのよ」

「ああ……一応採用はされたぜ」

 だがいっそ採用されない方がよかった。

 あの後遠野は風鈴にこれでもかとこき使われ、疲れてしまっていた。しかも酒豪の風鈴は何杯も何杯も酒を飲むせいで、つまみをその分用意しなくてはならず、なかなかアパートに帰れなかったのである。

 それにしても――と遠野は思い出す。

『あなたに鹿島浦を救ってもらいたいの』という風鈴の言葉が頭に未だ残っていた。あの言葉の真意はなんだったのだろうか。忙しさのあまりそれについて聞く間がなく、結局聞かず仕舞だった。

「長くなるから明日話すね」と風鈴は言っていたが、それを思うと放課後『分福堂』へ足を運ぶのが億劫で、朝からローテンションになろうものである。

 いっそばっくれてしまおうか。だが化け狸といえど女の子に背を向けるのは遠野の信念に反するものである。遠野が溜息を漏らしながら歩いていると、

「ちょこっと、そこの坊主」

 と声をかけられた。

 顔を上げると、そこには奇妙な子どもが立っていた。十歳前後の女の子で、地面につきそうなぐらいに長い黒髪が印象的である。

「道を尋ねたいんじゃが、良いかね?」

 女の子は妙に外見に似合わない年寄めいた口調で言った。

 口調だけではない。女の子は全体的に普通ではなかった。大人が着るような浅黄色を基調にした着流し姿で、紅葉の柄が映えている。足には高い下駄を穿いており、その愛くるしい顔をしていなければ仙人か何かだと思っただろう。

 しかしその瞳はどこか子供らしくなく、達観したような奥の深い色をしている。彼女は懐から扇を取り出して「かっかっか。暑いのう」と笑っていた。

 グラマーな美人に声をかけられるのならばともかく、ぺったんこの子どもに話しかけられても面倒なだけだ。しかも明らかに変な子である。

遠野が茫然としていると「ちょっと」と口にし、肘で腹を殴ってきた。

「何ぼーっとしてんのよ。子どもを無視してちゃ駄目でしょ」

「あ、ああ。そうだな。道に迷ってるなら教えてあげるのが世の情け、ってやつだ」

 ゴホンと遠野は襟を正して女の子に向き合うと、彼女は「あんな」と話を切り出す。

「この辺りに『分福堂』っていう骨董屋があるはずじゃがのう、どこにあるかお前さんは知っておるかのう」

 女の子の言葉を聞き「え?」とつい呆気にとられてしまう。風鈴の店に彼女はいったい何の用なのだろうか。まさかまたあの不良少女と同じく、化け狸なのだろうか。だとすればまたもや風鈴を襲いに行くかもしれない。

「昔何度か来たことがあるんじゃがのう。いかんせんわしは方向音痴でな。しかも以前町へ降りてきた時よりも町並みが変わっておるからのう……迷ってしまうわい」

 女の子は困ったように頭を掻いている。その言葉の意味はところどころわからない。

 遠野が答えに窮していると「その骨董屋ならこのすぐ近くですよ」と鶴子が割って入ってきた。

「お、おい鶴子」

「何よ。あたしが答えたっていいでしょ別に。さっさと学校行かないと遅刻するわよ」

 それはそうである。この奇妙な子どもに関わってもろくなことがなさそうな気がして、遠野も早く切り上げたかった。

鶴子に骨董屋の場所を教えて貰った女の子は「ふむ。礼を言うぞ」と鶴子の方へと近づいてきた。そして何を思ったのか、

「はい。お礼のチューじゃ。受け取れ」

 と鶴子の唇にキスをした。

「…………ぎゃああああああああああすっ!」

 鶴子は一瞬何が己の身に何が起きているかわからず、数秒後飛び跳ねるようにして女の子から離れた。ゴシゴシと唇を腕で何度も拭う。

「なんじゃお前。えらく初心な反応をするのう。もしかして処女か? かっかっか」

 女の子は悪戯が大成功したかのように呵呵大笑した。その姿はどこか貫禄があり、年齢に似つかわしくない。

「ふっざけないで! こんの糞ガキ! ああ、あたしの大事なファーストキスがああああああ!」

 鶴子は頭を掻きむしりながらその場にうずくまる。あの鶴子をへこませるなんて、この女の子只者ではない。

遠野はゴクリと喉を鳴らす。もし俺が道を教えていたら自分がキスされていたんだろうか。ぺったんこ幼女にそんなことをされてもまったく嬉しくはないが。

「遠野! この子変態よ。さっさと行くわよ!」

 鶴子は頭に怒りマークを浮かべながら学校の方へとズンズンと歩いていく。遠野もその後をついていったが、女の方へと振り返ると彼女は「ほんなら」と笑いながら手を振っていた。


     ☆


「そういえば遠野。この間二組の牧野さんがこないだ変な出来事に会ったんだって」

 昼休みになってまたもや鶴子は無断で机をくっつけてきてそう言った。食事は基本一人でしたいのだが、毎度のことなので文句を言っても仕方がない。

「牧野さんってあれか! ムチムチおっぱいの牧野さんか!」

「そうよ。あんたが去年告白して振られた子よ」

 眉を吊り上げた鶴子にばっさりと切られ、遠野はつらい記憶が蘇り落ち込んでしまう。いや過去のことだ。俺は未来に生きる男なんだ、と遠野は自分に言い聞かせる。

「それで、そのおっぱい牧野さんが出会った変な出来事ってなんだよ」

「知らないのあんた。最近町で変な事件ばかり起こってるのよ」

「へえ」と遠野はぞんざいな返事をする。変な出来事ならば、まさに昨日自分が遭遇したばかりで、あれ以上の変な事件などないというぐらいだ。

「何よ興味ないの? あのね、牧野さんの家って御嶽丘の辺りでちょっと遠いの。だからバイク通学してるらしいんだけど、そこの丘に続く道路をバイクで走ってると変な車が牧野さんを追い抜いて行ったんだって。なんとその車の運転席には誰も乗っていなかったんだって」

「なんだそれ、怪談か?」あるいは新手の都市伝だろうか。

 馬鹿馬鹿しいと遠野は思ったが、「きっとこれは狸の仕業よ」と鶴子が言ったのを聞き思わず硬直してしまう。

「歴史のヤマセンが言ってたのよ。ここ最近の怪事件は過去の文献に残っている狸が人を化かした例にそっくりだって」

「そんな馬鹿なことあるもんか」

 実際に化け狸に会ったことを鶴子に察せられないよう、遠野は冷静を装う。だが鶴子はその話題を続けた。

「ヤマセンの話じゃね、鹿島浦の左右田山には狸が昔から住んでて、悪さばかりしてたんだって。現代に入って狸を見なくなったけど、鹿島浦で起きた化け狸の伝承はたくさん公民館の資料に残ってるらしいわよ」

「狸が人を化かすだなんて、そんなの昔話の話だよ」

「そうかしらねえ……。まあ、それで今日さ、牧野さんが怖いっていうから友達誘ってお泊り会するのよね。女子会よ、パジャマパーティーよ。へへへ。あんたも来たい?」

「行きたい! 超行きたい! 俺をその楽園に連れてってくれ! ああ、牧野さんの揺れるおっぱいパジャマ姿、まさに悦楽のエトランゼ! 地上の天国ではないか。ぜひ俺を連れていけ、楽しませてやるぞ!」

「冗談に決まってるでしょバーカ。誰があんたみたいな野獣を呼ぶのよ」

 鶴子は心底蔑んだ目で遠野を睨みつける。どうやらからかわれただけだったようである。がっくりと項垂れ、腹を満たしてこの虚しさを埋めようと弁当箱を鞄から取り出そうとした。だが鞄の中は空っぽである。

「あっ、しまった。弁当作ってくるの忘れた!」

 昨日遅くまで風鈴に店の手伝いをさせられていたせいで、疲れて泥のように眠ってしまったのだ。それで朝寝坊寸前で家を飛び出したため、弁当など作っている場合ではなかったのである。

「なにやってんのよ。あんたが弁当作るの忘れるなんて珍しいわね」

「仕方ないだろ。色々あったんだ。まあいいや、購買に行ってくるから先食べててくれよ」

 遠野は席を立ち、教室を出て購買部へと向かった。しかし購買部というものは飢えた生徒たちがたくさん集まる場所であり、まさにそこは戦場と言えた。

 パンひとつ買うのも一苦労、所持金百十円で買える激安焼きそばパンを買おうものならば死を覚悟しなくてはならないだろう。

「って表現が大げさじゃないほどなんだよな……」

 遠野は購買部に群がる何十人もの生徒たちを見つめて足が竦む。あの中にダイブしてパンや弁当の取り合いをするのは至難の業だ。

 だがいかなければ今日の昼飯は抜きになってしまう。食べ盛りの男子高校生にとってそれは死活問題だった。

「ええい、ままよ!」

 遠野は人の群れに突入した。もみくちゃにされながらも目当ての焼きそばパンに手を伸ばす。掴んだ。あとはこれを購買のおばちゃんに売ってもらうだけだ。

「そいつはあたしんだ! 持ってくんじゃねえ!」

 だが群れの中の女子生徒に遠野は襟首を掴まれて引き剥されてしまう。

「ちょ、なにすんだよ!」

「うるせえ。購買は弱肉強食。奪い合いなんだよ!」

「なんだと、横取りなんて横暴だ――って、お前」

「ああん?」

 遠野はそのガラの悪い女子生徒とばっちりと目を合わせる。

 彼女の顔には見覚えがあった。それは向こうも同じようで「ああ! てめえ」と怒りの形相で胸倉を掴み、購買の群集の中から抜け出して、遠野を人気のない階段の踊り場へと引きずり込んだ。

「てめえ、昨日の人間だな。なんでここにいるんだ!」

「それはこっちの台詞だ! なんでお前がここにいるんだよ!」

 遠野に絡んできたのは昨日風鈴と決闘をしていた化け狸――春日井あんずだった。彼女は昨日のようなスカジャン姿ではなく、鵜飼高校のセーラー服を着ている。そのせいかだいぶ印象が違って見え、普通の女子高生に思える。

 まさかあんずが同じ鵜飼高校に通っているとは思ってもみなかった。「いや」と遠野はあんずの顔と胸を交互に見つめる。

「なんだよ」

「そうだ。やっぱりそうだ。この間はスカジャン姿だったから思い出せなかったが、お前は俺のこの『鵜飼高校女子生徒乳データ表』に載ってるぞ!」

 遠野はパラパラと手帳をめくり確認する。間違いない。バストサイズDの一年三組春日井あんず。まだ告白していない女子生徒の一人である。

 よかった、まだ告白していなくて。狸に愛を告げるなど洒落にならない。

 化けているとはいえ、その乳は非常に魅力的であるが。

「お前うちの生徒だったのか」

「うちの親父が狸でも高校ぐらい出ておけってうるせーんだよ。勉強なんかつまんねーけどしかたねーだろ」

「そういう問題じゃないだろ。なんで狸に学歴が必要なんだよ」

「ああ? 狸差別かおめー。あたしたち化け狸のほとんどは人間社会で暮らしてるんだよ。お前ら人間が森を切り開くから昔ほど居場所がなくなったんだ」

 遠野はあんずにそう言われて返す言葉がない。自然破壊で狸の数が減っていったのは、確かに自分たち人間のせいだろう。だけれど驚いた。あんずの言うことが本当ならば、人間に化けた狸があちこちにいるということになる。

「それに、この鵜飼高校の理事も左右田山の化け狸なんだぜ。だからあたしみたいなのが入学できたってわけだ」

「……そんなとこまで狸に支配されてるのかこの町は」

 なんだか怖くなってきた。自分が通う学校を経営しているのが人間でないなんて誰が思うだろう。

「でも風鈴さんは学校に通ってないじゃないか」

「はん。あいつは半化けだからよぉ。あたしらみたいに『人間のふり』と割り切って生きていけねーんじゃねーか。だからこそあんなボロい店で世捨て人みたいな生き方をしてるんだろうよ」

 あんずは意外にも真っ当な意見を言った。対立関係、敵対関係に二人はあると思ったのだが、案外ただの喧嘩友達なのかもしれない。

「ふうん。お前って風鈴さんのことよくわかってるんだな」

「なっ、馬鹿か!」あんずの顔は真っ赤になった。「そんなんじゃねえっての! ただ付き合いが長いだけだ!」

 あんずは怒ったように遠野の胸倉をさらに強く握りしめ、凄まじい怪力で――しかも片手で持ち上げた。身長差があるというのに遠野の足は床から浮いている。

「ぎゃああああ!」

「そうだ、お前昨日あたしが風鈴に勝てそうだったのに邪魔しやがったな。その落とし前をつけさせてもらうぜ」

「たんま、たんま! 悪かったよ。あれはワザとじゃないんだ!」

「うるせえ。一発殴らせろ。それでチャラにしてやらあ」

 物騒なことを言ってあんずは右拳を握りしめる。冗談じゃない。殴られてたまるものか「やめてくれ!」遠野は懇願する思いであんずの手に触れた。

「――っ!」

 するとあんずはまるで電流でも当てられたかのようにびくんと体を過剰に反応させ、遠野から距離を取った。そのせいで遠野は尻餅をついてしまうが、何が起きたのか遠野はわからない。

「お前……お前ぇ……」

あんずは顔を赤らめたまま、くねくねを身をよじるようにしながら遠野が触れた手をさすっていた。そんなに自分が触ったのが嫌だったのだろうか、と傷つく。

「お前何者だよ。お前に触れると、その、変な気分になりやがる。なんなんだこれ。気持ちいいっていうか、頭がぼーっとなるような刺激的っていうか……お前あたしに何を仕掛けやがった。おかげで耳が飛び出しそうになったじゃねえか!」

 あんずは遠野を睨みつけながら頭を押さえる。こんな公共の場で耳や尻尾を生やし、狸だと周囲に知られたら学校に通えなくなるだろう。

「いや別に俺は何もしてないけど」

 遠野はあんずの反応にただクエスチョンマークを浮かべるだけだった。

「嘘つけ。昨日だってあたしの化けの皮を剥いだじゃねーか」

 あんずは涙目になりながら体を震わせていた。なんだか心配になり、遠野は「大丈夫か」と近づこうとしたが、あんずはびくりとして飛び跳ねた。

「くそ、今日のところは退いてやる。今度会ったらただじゃおかねーからな!」

 またもや月並みな捨て台詞を吐いて、あんずはその場から逃げだした。心なしかスカートがめくれあがり、そこからふさふさの尻尾が見え隠れしてしまっている。

 遠野は唖然としながら自身の手を見つめる。

 今のはいったいなんだったのだろう――


     ☆

 

 結局昼食を食べ損ね、教室でずっと待っていた鶴子は怒ってしまっていた。あんずと遭遇したせいで散々な目にあってしまった、と遠野は肩を落とす。

 授業が終わりこれからまたあの店に行かなければならないと思うと、本当に憂鬱であった。向こうで何か食べさせて貰えないだろうか、せめて空腹でも満たさないとやっていられない。

 鶴子は怒ったまま先に帰ってしまったし、遠野は真っ直ぐ『分福堂』を目指した。

信楽焼きの狸像が並ぶ『たぬき通り』を歩いていて、ふと遠野は朝出会ったあの奇妙な着流し姿の女の子を思い出す。彼女は『分福堂』へ行くと言っていた。お客さんだったのだろうか。あんな店に客が来るとは思えなかったが、物好きな人もいるもんだ。もっとも、あのような人物である時点で物好きなのだろうとは思うが。

あれから何時間も経っているのだから、さすがにあの子どもはもう店にはいないだろう。いたらいたで面倒である。

「こんにちはー」

 遠野は気が進まないまま店の引き戸を開く。しかし返事はなく、帳場の方を見ても人影はなかった。

 留守かな、と思ったがさすがに店を開けたまま出かけるということはありえないだろう。このまま帰りたかったが、それこそとって食われてはたまらない。仕方なく遠野は奥の間 の方へと入ろうかと迷っていると、奥の座敷からバタンという物音が聞こえてきた。誰かが倒れるような音だ。もしかして風鈴に何かあったのだろうか。

「風鈴さん!」遠野はすぐさま店の奥の間へと駆け込んだ。

 しかし襖を開けて飛び込んできた光景は目を覆いたくなるものだった。

「あっ……やっほー遠野くん」

 そこには畳の上に倒れている風鈴の姿があった。だが病気や怪我で倒れたとかそういうわけではないようで、穿こうとしていたスカートに足を引っ掛けたのか、盛大に転んでしまったようである。

 風鈴はパンツ丸出しのまま情けない格好で転がっていた。

 上もまだ服を着ておらず、小ぶりだがしっかりと膨らんでいる胸を、純白のブラが包んでいる。

「なななななな何やってるんですか!」

 真っ白な下着が視界に入ってしまうため、遠野は実際に目を覆いながら言った。だが勿体ない。見たいが見てはいけない気がする。

「あははは。ちょっと足ひっかけちゃって」

「出て行きますから早く着替え済ませて下さいね」

「はーい」

 遠野は襖を閉じてもたれかかる。しかし薄っぺらい襖一枚越しに衣擦れの音が聞こえてきて、ついつい妙な気分になってしまう。

 だけれど相手は人間ではないのだ。しかし、と遠野は思った。風鈴は半化けという、ほとんど人間に近い狸だ。いや、見た目からしてほぼ人間である。そのせいで妙に女性として意識してしまうのかもしれない。

 遠野が気持ちを落ち着かせようと深呼吸していると、「わあ!」と急にもたれかかった襖が開き中へと倒れ込んでしまう。

そんな遠野を見下ろしたのは着替えを済ませた風鈴だった。

「やっほー。おはよう遠野くん」

「おはようって……もう四時過ぎですよ」

「だってさっきまで寝てたんだも~ん。まだ眠いぐらいだよ」

 風鈴は瞼をこすりながら言った。確かに寝不足らしく目に隈ができている。いや狸ってもともと目元が黒かったような……と遠野は思った。

「寝不足って、なにしてたんですか」

「昨日蔵の整理してたらね、手塚治虫先生の『火の鳥』を見つけちゃってさ。ついつい黎明編から太陽編まで一気に読んじゃったの。素晴らしいよね、宇宙と生命の早大な物語。特に復活編での仕掛けには感心しちゃったなぁ~。それに未来編でのロック様はとってもワルでかっこいいのよ」

「風鈴さんって漫画大好きですね」

 そういえば昨日初めて訪れた時も漫画本を読んでいたのを思い出す。

「わたし、人間が作ったものでは漫画とお酒が一番大好きなの! というわけで眠気覚ましの焼酎を飲みたいから、何かおつまみ作ってね」

「はあ……わかりました」

 自分が腹ペコなのに他人の料理を作らねばならないのは酷く億劫だが、冷蔵庫を任せてもらえるのだから多少つまんでも文句は言われないだろう。味見を兼ねているのだから、という云い訳も立つ。

 遠野は割烹着を身に着け台所へと向かおうとし、疑問に思っていたことを口にした。

「そういえば風鈴さん」

「なあに?」

「今日、朝にお客さん来ませんでした?」

「ええー? 来てないよ~誰も」

 風鈴はそう言いながら座敷の畳で「お腹減った~」と寝転がっていた。遠野はその言葉を聞いて「え?」と首を傾げる。

 あの子は道を尋ねておきながら結局この店に来なかったというのだろうか。ではなんだったのだろう。

「でもね」と風鈴は話を続けた。「本当はお客さんが来る予定だったんだよ。でもずーっと待ってるのに全然来ないの。まあ、あの人が時間を守ったことなんか一度ないけどさー」

 ぶつくさ言いながらふてくされたように風鈴は畳に顔を突っ伏した。

 もしかしてその待ち人というのが、あのおかしな子どもなのだろうか――

 遠野がそんなことを考えていると、ガラリと店の方で引き戸を開く音が聞こえてきた。

「ああー。やっとこさついたわい。八時間も道に迷ってしまったではないか。この『たぬき通り』は複雑でいかんのう」

 同時にどこかで聞いた声も遠野の耳に届く。

「あっ、師匠だ!」

 声を聴いた途端風鈴はがばりと立ち上がり、サンダルも穿かずに、大慌てて店の方へと走っていった。遠野も思わずその後を追う。

「師匠~~~~~~~~~!」

「やは。やっとかめじゃのう風鈴よ。三年ぶりぐらいか。元気にしとったか?」

 店に入ってきたのはあの女の子だった。風鈴は彼女を、親しみを込めて「師匠」と呼び、まるで親に甘える子のように彼女に抱きついた。

 女の子は立ち尽くす遠野に気付いたようで「おお。お前はあの時の坊主」と奇遇な再開に驚いている。

「遠野くん。紹介するね。この人はわたしの師匠」

「わしの名は左右田幻斎(そうだげんさい)というのじゃ。よろしくな、坊主」

彼女――幻斎は「かっかっか」と笑いながら名乗りを上げた。

「風鈴さん。この人は何者なんですか」

 遠野は幻斎が放つ異質の雰囲気に呑み込まれそうになり、思わずすがるようにして風鈴に尋ねる。風鈴はまるで自分のことのように自慢気にそれに答えた。

「師匠はね、左右田山に暮らす仙人なの」


     ☆


 仙人――というと、頭に思い浮かべるのは山に住み、霞を食んで生きている長い髭をたくわえた老人というイメージである。

 しかし遠野の目の前に現れた仙人と名乗る子ども、左右田幻斎はとても仙人には思えなかった。確かにその年寄りのような口調と服装は仙人めいているが、やはりその幼い容姿からは仙人という存在であるということを認めづらい。

「おい坊主。酒が足らんぞ酒が。じゃんじゃん持ってくるがよい」

 幻斎は徳利の酒を一気に飲み干し、大きくげっぷを吐いている。その飲みっぷりたるや酒豪である風鈴をもしのぐ勢いで、その幼い容姿のせいもあってか違和感が凄まじい。もう何本も酒瓶を開けてしまっている。

「遠野くん! ついでにもっとお肉をお願いね。師匠はお肉が大好きなんだもの。さあ師匠。遠慮なさらず食べてください」

「うむ。わかっておる」

 はなから遠慮などする気はないようで、幻斎は手羽先に齧りついてはぽいぽいと骨を捨てていく。食べっぷりも良く、座敷のテーブルの上は空き皿でいっぱいになっていた。

 風鈴は幻斎を座敷へと上がらせ、宴会を初めてしまった。

 そのせいで遠野は料理を任され、またもや過酷な労働を強いられることとなる。とはいえ食材は大量にあり、味見をしている間に遠野の腹も満たされ、今日の晩飯はこれで十分だなと思った。

「だけど仙人か」

 そんなものがこの世の中に存在するのだろうか。

 化け狸や半化けという奇々怪々な者がいるのだから、仙人がいても不思議ではないが。まさかこの鹿島浦を囲う山、左右田山に仙人が暮らしているだなんて誰が想像できよう。

しかも風鈴の師匠だという。

いったい何の師匠だというのだろうか。疑問は尽きないが、それよりも一番の疑問はどうして彼女が山を下りてここへやってきたかということである。

「それはのう。お主に会うためじゃ」

「わあっ!」

 突然目の前に幻斎が出現し、遠野は思い切りひっくり返ってしまった。幻斎はステンレスの上に腰を下ろし、足をブラブラと揺らしている。

 あり得ない。どうやってここに現れたんだ。さっきまで確かに座敷で料理を食べていたはずなのに、こっちに入ってきた気配はまるでなかった。

 いや、それよりもまるで自分が考えていることを読んだかのようは発言を幻斎はしていた。それが何より信じられない。

「おっと悪いのう。別に驚かすつもりじゃなかったんじゃが」と幻斎は手にしている徳利をあおった。「しかし、こんなことぐらいで動揺するようでは、先が思いやられるのう」

「幻斎」

「なんじゃ」

「あなたさっき俺に会うために山を下りてきたって言いましたよね」

「うむ。そうじゃ。しかし朝会った冴えない子どもが風鈴の言っていた少年だったとは、わしも驚いたがのう。これも運命の巡り合せってやつか。かっかっか」

「俺に会いに来たってどういうことですか」

「ふむ。実はな。面白い子が店のアルバイトをしている、と風鈴から電話があってな」

 幻斎は懐から携帯電話を取り出した。しかもスマートフォンである。

「スマフォって、あんた本当に仙人ですか?」

「今時仙人だって持っておるわい。山に下りなくてもわしを慕う連中がプレゼントしてくれてのう。山におると暇で仕方がないからの、いい遊び道具になるんじゃ」

 幻斎は器用にも人差し指の先でスマフォをくるくると回転させていた。仙人でもケータイを持っているというのに、この店には未だに黒電話が置いてある。それで風鈴は幻斎に連絡を取ったのだろう。

「それにしたって、俺なんかに会うためにわざわざ山なんか下りてきたんですか」

「ふん。『俺なんか』と卑下するのはよろしくないのう。お主、名を遠野忠保というのだろう。その名を聞いてピンときたわい。お主は遠野十治郎の息子じゃの。よく見ればあの男の面影が確かにあるのう」

「な、なんで親父の名前を」遠野は唐突に父の名を出されて固まってしまう。あの糞親父をなぜこの初対面の仙人が知っているのだろうか。「仙人だからなんでもお見通しってわけですか。千里眼か何かですか。いいですね、女風呂も覗けそうで」

「そんな大層なもんじゃないわい。単純に、わしはお前の親父に会うたことがあるだけじゃ。確か二十年ぐらい前だったか、奴は左右田山に入り込み、この町を守るために化け狸たちと戦っていたんじゃ」

「父さんが、化け狸と戦っていた?」

 父が「狸と戦っていた」と言っていたことを思い出す。

「そうじゃ。化け狸と人間の戦いは古来より続いておる。狸は人を化かし、人は狸の化けの皮を剥がす。お前の親父は狸の化けの皮を剥がす『力』を持っていたのじゃ。そしてその息子であるお主もまた――その力を受け継いでおる」

 がしり、と幻斎は遠野の両手を掴んだ。

「化けの皮を剥がす力? そんなの、俺にあるわけが」

「それがあるんじゃ。貴様のこの両手には『神撫』が宿っておる」

幻斎は遠野の手をぎゅうっと強く握りしめて「来い」と座敷まで引っ張った。

「遠野くんと何してたんですか~師匠。ひっく。駄目ですよエッチなことしちゃあ。師匠って見た目は子どもなんですからやばいですって~~」

 すっかりできあがっているのか、風鈴は顔を真っ赤にしながらフラフラと頭を揺らしている。いくらなんでも飲み過ぎだ、と遠野は心配する。

「うむ。ちょいとこいつに指導をしてやろうと思ってのう。ほら」

 幻斎は遠野を前へと押しやり、風鈴の前に立たせた。そしてまるで手ぐすねを引くような動作を始める。

「あっ。あれ?」

 すると遠野の体はそれに操られる格好で勝手に動き出した。

「かっかっか。仙術『操人法』じゃ。まあ怖がらずにわしに体を任せるのじゃ。痛くはせんから大丈夫じゃよ」

「何する気ですか! や、やめてくれえええええええ!」

「駄目じゃ。お前の力は説明するよりも実践してみた方が早い」

 そう言って幻斎は遠野を風鈴へと近づかせ「えい」とその両手を風鈴へと伸ばさせた。

 ぷにっ。

 という感触が遠野の両手に伝わる。

 それはマシュマロのように柔らかく、心地よさが手のひらから脳髄まで一気に駆け巡るようだった。

 遠野の両手は風鈴の胸を掴んでいた。

 モミモミと何度も繰り返して揉んでいたのである。

「あ、いや、これは……」

 幻斎に操られているだけだ、と言い訳しようとするもその手のひらには未知の感触が未だに続いており、遠野はしどろもどろになってしまう。おっぱいマイスターを自称していながらも、女性の体に触るなんてことはこれまでになかったことである。

 しかし小ぶりだと侮っていたがここまで柔らかく気持ちいいとは。

 でかければいいもんではない、と認識を改める必要があると遠野は思った。

「ふぇ……! な、何してるの遠野くん。やめてっ」

 風鈴は涙目になって体をくねらせていたが、酔っぱらっているせいか体が上手く動かないようである。遠野は慌てて手を引っ込めようとするも、徒労に終わる。

「やめてください幻斎。俺に何をさせる気ですか! セクハラで俺捕まっちゃいますよ。この歳でセクハラ裁判を受けたくないです!」

「なあに。まだまだこれからじゃよ。ほいさ、はいさ!」

 幻斎は遠野の腕を操り、その手で風鈴に体を弄らせた。細い腰、柔らかな太ももと触れていき、風鈴はぶるぶると震えていく。

「んっ……駄目……気持ちいいの。出ちゃう、出ちゃう~~~~~~~!」

 風鈴が部屋全体に響き渡るほどの喘ぎ声を発した途端、彼女の頭から「ポン」と耳が出た。同じくお尻からは尻尾が飛び出る。

「はう……」と風鈴は息を漏らし、ぐったりと汗を流しながら倒れてしまった。

「な、なんだったんだ今のは?」

 はっと体の自由が戻った遠野は自身の手のひらを見つめる。風鈴の女の子独特の気持ちの良い体に触れ、心臓が高鳴っている。

「これが化け狸の皮を剥がす唯一の方法じゃ」幻斎はニヤリと笑って耳と尻尾の生えた風鈴を見下ろす。「狸が化けるには集中力が必要じゃ。心のゆとりというのか、平常心でなくてはならん。その化けの皮を剥がすためには、その心を崩し、乱してしまえばいい」

「心を――乱す……」

「そうじゃ。つまり、狸を気持ち良くてどうしようもなくしてしまえばいいんじゃ。それができるのが、遠野一族に伝わる体質。神すらも愛撫してしまう、相手を悦楽の絶頂に至らしめる両手――それが『神撫(かんなで)』じゃ」

 遠野は幻斎に言われてもう一度自身の手のひらを凝視する。

 この両手を自分の父も持っていたのだろうか。そしてこれを使い、化け狸と戦っていたと幻斎は言う。

 自分にそんな力があるなんて信じられない。

 だがしかし、だとするならば今までの説明がつく。初めにあんずと出会ったとき、彼女を止めようとして抱きついたらあんずダルマから耳と尻尾が生えた。

今日もあんずと学校で会った時も、彼女の手に触れたときの様子がおかしかった。それに今現在、実際に風鈴は気持ちよさそうな恍惚の笑みを浮かべたまま眠りこけている。

「お前さんは知らんかったようじゃがのう。わしはこう見えてももう四百年以上は生きておっての、お主の先祖を良く知っておる。左右田山の仙人として人間共を見守り続けてきたからのう。代々鹿島浦に暮らす遠野の血族には『神撫』が発現し、化け狸と戦ってきたんじゃ。さっきも言うたが、お主の親父ものう」

あの軽薄で、ロクデナシの父がこの町を守るために化け狸と戦っていただなんて信じられない。想像もできなかった。

「最初遠野くんがあんずちゃんの化けの皮を剥いだ時に、これはって思ったの。遠野一族のことは狸たちの間でも有名だったんだもん」

 ゆっくりと目を覚ました風鈴は体を引きずって遠野の足に絡みついてきた。

「それで、俺をバイトに採用したんですね」

「うん。遠野くんならあの子を――赤毛姫を止められるかもしれない。人間たちの暮らすこの鹿島浦を救えるかもしれないと思ったからなの」

 赤毛姫――あんずもそんなことを言っていた、と遠野は思い出す。いったいそれは誰なのか。何者なのだろうか。数々の疑問を抱き、遠野は風鈴に尋ねようとした。

 しかし幻斎がそれを遮る。

「そうじゃ遠野の坊主。お主には使命がある。化け狸からこの町を救うという四百年の歴史からなる使命がな」

「そんな、先祖のやってきたことを俺が継ぐ理由なんてないですよ!」

 だが遠野の反論を意に介さず、幻斎は言った。

「さて、だがその前には貴様に戦い方を学んでもらう必要があるのう。このわしが直々に貴様に『神撫』の使い方を教えてやろう」

 遠野は嫌な予感がし、ここから逃げ出したい衝動に駆られた。


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