第一章 『分福堂』の店主
「遠野くん、わたしお腹が減ったよー。確か伊東のおば婆ちゃんから頂いた枝豆がたくさんあったはずだから茹でて欲しいな~」
甘えた声でそう言いながら、木嶋風鈴は大吟醸の一升瓶を傾けてカップになみなみと注いでいた。
「美味いしいおつまみで一杯やるのは至高のひと時だよね~」
そう言いつつ既に何杯も飲んでいるため、僅かに頬が紅くなっている。
店の商品を整理しながらそれを見ていた遠野忠保は、またこの人は昼間からお酒なんか飲んで、と呆れかえる。とはいえ風鈴の我儘も聞くのも自分の仕事の一環である。雇い主である風鈴の言うことには逆らえないのであった。
「ていうか風鈴さん。おつまみができるまでお酒飲まないでくださいよ。胃がぶっ壊れても知らないですよ」
「えー。だって我慢できないんだもーん」
子供のように頬を膨らませて帳場に伏せてしまった。
まったく酔っ払いの相手は面倒である。客が来たらどうするのだと思いながらも、幸せそうに一升瓶を抱えている風鈴を見て微笑ましくも思った。彼女が機嫌を損ねないうちに早くおつまみを作るかと遠野は動いた。
「わかりました。じゃあ作ってきます。でも風鈴さん、少しお酒控えた方がいいんじゃないんですか」
「いやだもーん。わたしにとってお酒は命なの。『男おいどん』みたいに一升瓶を抱えて眠るんだもん」
「はあ。もう好きにしてください」遠野はそう言って奥の間へと向かった。
店の後ろ半分は彼女の自宅になっているため、遠野は台所を借りて枝豆を水で洗い、塩を入れて蒸し茹でにする。焼けどしないようにさっと軽く水で冷やし、皿に移し替えて出来上がりだ。
一つ枝豆を味見し「上出来だ」と遠野は頷いた。
「とっても美味しいよ遠野くん! やっぱりこれはお酒と合うなー」
「そうですか。それはよかったです」
「遠野くんはいいお嫁さんになれるよ。うん。わたしが保証する!」
「保証しないでください。だいたい俺は男です。誰のとこに嫁ぐんですか」
風鈴も満足してくれたようで、枝豆を剥いては食べ、剥いては食べを繰り返す。しかしいくらお客がろくに来ないとはいえ店内でこんなことをしていてもいいのだろうかと遠野は店を見渡す。
骨董屋である店内の敷地はわずか六畳半ほどで狭苦しく、その中に珍しいのか珍しくないのか、使えるのか使えないのかわからない骨董品で溢れ返っている。
年季が入っているのか年中埃っぽい店に並んでいる商品は置物や焼き物だけではなく、明らかにガラクタとしか思えない機材や、マニア垂涎の真空管に起動するかわからない十年前のパソコン。それに子供でも欲しがらないような玩具などが多数売られている。カウンター下のガラスケースには昭和のメンコが希少価格で置かれていた。
そんな店の中で店主である風鈴の存在はいやに浮いている。
いや、ある意味この混沌とした店にはある意味合っているかもしれない。遠野はそう思いながら枝豆をつまむ風鈴を横目で見つめた。
風鈴は一見して女子中学生ぐらいに見える。そのぐらい幼い顔立ちをしていて、初めて会ったときは見惚れてしまったぐらいに可憐だ。
全体的に細く、膨らむことを拒絶したかのように薄い胸はつつましさを感じ、愛らしい丸々とした瞳は小動物のようで、ふんわりとしたこげ茶色の長髪は繊細な印象を受ける。
一升瓶を抱えていなければどこかの令嬢のようにも見えるだろう。
こんな子供みたいな女性がこの古びた骨董屋の店主で、お酒をがばがばと飲むのだから最初はたまげた。しかし彼女の“秘密”を知った今では納得できる。
「はあ……今日は平和だな。世はすべてことはなし」
そう呟きながら遠野はここへやってきた一ヶ月前のことを思い出していた。
第一章『分福堂』の店主
愛知県西三河地方。その海沿いに鹿島浦町はある。
辺鄙な温泉街と漁港で成り立っている穏やかな田舎町であるが、ここ最近奇妙な出来事が立て続けに起きていた。
町の住人たちがいくつもの怪奇現象に見舞われていたのだ。
ある会社員は鹿島浦駅で終電を乗り過ごし、無人のホームで立ち尽くしていると奇妙な電車がやってきたのだという。終電は過ぎたはずなのにおかしいな、と会社員は思ったが、家に帰りたい一心でその電車に乗り込んだ。
酔っぱらっていた会社員は座席に座ったまま眠ってしまい、起きたら既に朝だった。しかも彼が目を覚ましたのは山に棄てられている廃電車の中だったのだという。
またある主婦は公園で遊んでいる息子を迎えに行き、遊び疲れて眠る息子をおぶって歩いていると、どんどん息子の身体が重くなっていき、とてもおんぶしていられなくなった。だが息子を下ろそうとしてみると、主婦の背中に乗っていたのは大きな岩だったのである。
本物の息子は公園で待ちぼうけを食らい、夕焼けの中泣いていた。
またある学生はマンションの自室へ帰ろうとしたが、学生の目の前には二つのマンションがあった。どちらを見てもまったく同じで、どちらが自分の住んでいるマンションなのかわからなくなってしまった。学生は帰れずに外で一夜を過ごした。
またある子供は学校の階段をどれだけ上っても階段が終わらず、日が暮れるまで階段を上り続け教室に辿り着けなかったという。
それだけではなく、何件もの不可解な出来事に遭遇したという報告が町の交番に入り、巡査は町の見回りを行った。
そこで巡査は田圃道に女性がうずくまっているのを見かける。「どうしたんですか」と巡査が尋ねると、女は「顔を落としてしまったんです」と目と鼻と口のないのっぺりとした顔を巡査に見せつけたのだという。そして交番へ走り戻り警部へそのことを報告すると「その顔はこんな顔だったかい?」とのっぺらぼうの警部の顔が巡査に向けられた。
その巡査を含め、怪現象に出会った者たちは口を揃えてこう言ったという。
まるで狸に化かされたようだ――と。
☆
「好きです! 付き合って下さい!」
私立鵜飼高校の中庭で、遠野忠保の声が響いた。目の前の美人で胸の大きな女子生徒相手に頭を下げ、ただ返事を待った。
「ごめんなさい。遠野くんはちょっと……」
その言葉が遠野を射抜いた瞬間、世界が終わったかのような絶望的な気分になった。がくりと膝をつき、慰めるように風が吹く。
顔を上げると逃げるように走りさる女子生徒の後ろ姿だけが見えた。
「おめでとう遠野!」
「これで告白失敗通算百回目だ!」
「お祝いだ、お祝いだ!」
花壇の茂みに隠れていたクラスメイトの男子たちが一斉に飛び出して遠野の失恋を囃し立てにやってきた。遠野の肩を叩き「残念だったな! これでまだお前も俺たち彼女いない同盟の一員だぞ!」と言っていた。
「ええい離せ! 俺はそんなもんに入った覚えはない! 俺はな、高校生になったからには巨乳の彼女を作って充実した高校生活を送るつもりなんだ!」
一緒にされては困る。高校生活において恋人がいるといないとではまったく見える景色が変わってくるに違いない。
「おいおいもう諦めろって。どうせ彼女なんかできっこないんだ」
「いいや。俺は百回の失恋で諦めないぞ。見よ、俺がこの二年で集めた『私立鵜飼高校乳データ表』を!」
遠野は制服の懐から手帳を取り出した。そこには鵜飼高校全女子生徒の、バストサイズが纏められている。遠野はこの乳ランキングの上位から順番に告白をしているのだが、今のところ全部玉砕に終わっていた。
「お前ほんと乳が好きだな」
「おっぱいこそロマン! おっぱいは宇宙だ! それを否定することは神への冒涜である。胸は古代から続く女性の象徴だからな。それに魅力を感じることについて何ら恥じることはない」
「……胸で女選んでる間は絶対彼女なんかできないと思うぞ」
クラスメイトのもっともな指摘を受けながらも、遠野の心はまだ折れていなかった。
「また振られたんだって? あんたってほんと馬鹿ね。死ねばいいのに」
その日の昼休み、遠野が教室の席で昼食をとっていると、どこからか告白の噂を聞いたのか、隣の席の水鳥鶴子がそう言った。
呆れたように言う鶴子の言葉に遠野は返す言葉がない。鶴子とは幼稚園の頃からの腐れ縁で、遠野の性格を良く知っているからである。
「酷いことを言う奴だなお前は。少しは幼馴染として俺の失恋に対して慰めの言葉を言ったらどうなんだよ」
「そんなことするわけないでしょ馬鹿。もう無謀なことなんてやめなさいよ。あんたみたいな乳馬鹿を好きになってくれる女子なんていないんだから」
「……お前は鬼か。よくも失恋したばかりの男子にそんな毒を吐けるな」
「ふん。本当のことを言ってるだけよ」
鶴子は黒縁の伊達眼鏡でそのきつい性格を表すように外にはねた髪型が特徴である。たまに吐く毒がなければ可愛いのにな、と遠野は思った。
そういえば初めての告白をしたのは鶴子が相手だった気がする。それは幼稚園の頃の話で、多分鶴子は覚えていないだろうが。
鶴子は断りもなく席を遠野の席にくっつけて弁当を取り出す。一緒に弁当をとるのは入学当時からで、なんとなく二年生になった今でも続いている。
「げっ!」だが遠野は鶴子が開けた弁当箱の中身を見て声を上げた。
「『げっ』ってなによ。シャコよシャコ。三河湾でとれる名産じゃない」
鶴子の言う通り、彼女の弁当箱には数匹のシャコがぎっちりと収まっていた。
エビに近い見た目でありながらも、その毒々しい紫色の表面に、昆虫のような無数の足がおぞましさを加速させている。遠野は子どもの頃からシャコが苦手だった。味は確かに美味しいが、その見た目の悪さはゲテモノと言っても差し支えない。
強烈な磯の臭いまでもが鼻をつき、相乗効果で遠野は胃液が逆流してくるような感覚に襲われる。
「お前なあ。もう夏も近いのに生ものを弁当に入れてくるなよ。この臭いと見た目じゃテロ行為だぞ」
「失礼ね。三河人の癖にシャコが苦手だなんて信じられないわ」
「お前これ知らない人が見たら絶対悪魔の魚だって言うぞ」
遠野が目の前のグロテスクなシャコ丼に食欲を削がれていると、眼鏡を光らせて鶴子はひょいっと遠野の弁当箱から卵焼きを盗みとってしまった。
「あっ! 何するんだよ!」
「うーん。美味いしいわね。あんたってほんと主婦顔負けに料理美味いわよね。これ全部自分で作ってるんでしょ? 私より上手く作れるのがムカつくけど」
「まあな」物心ついた時から母親は父と離婚していて顔も知らない。その父親も三年前、遠野が中学生の時に交通事故で死んでしまった。
そのせいで料理どころか全部の家事を一人でしなければならないのは大変だ。面倒ではあるが、生きて行くために必要なスキルであり、遠野は自然と料理が得意になっていた。
「けどよ、ここ最近生活費が苦しくてろくなものが食べれねーんだよなー」
遠野はポケットから小銭を取り出した。現在の所持金百十円。これじゃあ自販機でジュースだって買えやしない。
「何よ。ハンバーガー屋のバイトはどうしたのよ」
「いや、それがさ、こないだクビになっちまった」遠野は項垂れながら机に突っ伏した。
「はあ? あの店をクビになるってなにしでかしたのよ」
「いや、なんか客から苦情があったらしくてさ。『おたくのアルバイトに胸をいやらしい目で見られた』って」
「自業自得じゃない!」
バシッと鶴子に頭をはたかれても文句は言えない。しかし巨乳の客が来たらついつい目がいってしまうのである。
「なあ鶴子~。なんかいいバイト先ないか。この近くって全然バイト募集してねーんだよな」
鹿島浦は田舎だけあって店も少なく、まったくバイトを募集していない。コンビニも町内に一軒あるだけである。
「うーん。そうね。そういえばあたしがたまに行く骨董屋さんにアルバイトの張り紙があったかしら」
「なんで女子高生が骨董屋なんか行くんだよ。ババ臭いぞ」
「うるさいわね。漬物床の壺とかを買いに行ったりするのよ。そんなこと言うなら教えないわよ」
鶴子は不機嫌そうに眉をひそめたため、慌てて遠野は手を合わせて頭を下げた。
「神様。仏様。鶴子様。どうか教えてくださいませ!」
「はあ。仕方ないわね。今度なんか奢りなさいよ」
「ああ、まかせておけって。それで、その店ってどこにあるんだ?」
遠野が尋ねると、鶴子は一拍置いて言った。
「『たぬき通り』よ」
☆
その日の放課後、遠野は学校帰りに鶴子に紹介された骨董屋を目指した。
開拓されていない自然が残る左右田山は、鵜飼高校の裏に存在する。その麓にある住宅地は町住人から『たぬき通り』と呼ばれていた。
その由来は、通りのあちこちに信楽焼きの狸の置物が立ち並んでいるからである。
民家の玄関、塀の手前、電柱の横など無造作に狸像は置かれ、道に連なっていた。大きさも様々で巨大な狸像が道を塞ぐ格好で置かれている場所もある。
初夏の日差しに耐え、慣れない道に迷っているというのに無数の狸の置物の間抜け面がどこを見ても視界に入ってくるので苛々が募った。
なぜこんなにも狸の像があちこちに置かれているのだろうか、と遠野は以前歴史の教師が授業で話していたことを思い出す。
明治時代の商人がまだ珍しかった狸の信楽焼きを鹿島浦に持ち込んだらそれが流行になり、この界隈の家にはどこも置いてあるのだという。それにしたってこの数は異常だ。誰かが意図的に増やしているのではないかと遠野は疑った。
また別の説として、左右田山にはまだ野生の狸が住んでおり、この通りをよく歩いているから『たぬき通り』という名がついたとも言われている。
「ほんとに狸なんか出るのかよ」
いくら田舎とはいえ狸なんて見たことない。
そう思いながら歩いていると、やがて山入りの近くに古ぼけた店があるのを見つけた。歴史を感じさせるような二階建ての木造建築で、両側には家は建っておらず、代わりに山の木々が侵入してきていた。
木で出来た看板には大きく『分福堂』と書かれている。間違いなくここが鶴子の言っていた骨董屋であろう。
骨董屋という普段見慣れぬ場所ゆえに緊張するかと思ったが、なんだか親しみやすさを感じる店だった。入り口の戸には確かに『アルバイト募集』の張り紙がある。
遠野は骨董屋の引き戸をガラガラと開けて、「すいませーん」と中へと足を踏み入れる。
むっと独特の埃っぽい臭いが鼻をつく。店内は狭く、わけのわからない骨董品で埋め尽くされている。
その一番奥、帳場の椅子に一人の少女が漫画本を読みながら座っていた。
店番のアルバイトであろうか。だが少女は漫画を読むのに夢中になっているのか、遠野が店に入っても返事一つしないどころか、まったくこちらに目を向けない。
「あのー。すいませーん」
遠野がもう一度呼びかけるも虚しくも声が反響するだけだった。遠野が戸惑っていると、漫画を読み終わったのか、少女はぱたりと本を閉じて余韻に浸るように大きな息を漏らす。
「ふー。やっぱ面白いなー吾妻ひでお先生の漫画は。特にこの『ぶらっとバニー』は妄想を具現化させるっていう奇抜で不条理なアイデアが先生の作風にマッチしているし、何より女の子がとっても可愛いわ。ブラックバニーちゃんなんか今でいうツンデレよね。それにこの哀愁漂うラスト! 虚無的で心がキュンっときちゃう~~~~」
少女はぎゅうっと読み終えた漫画本を胸に抱いて悶絶するように体をくねらせていた。それがひと段落したかと思うと、帳場の下から『大吟醸ほおづき』と書かれた一升瓶を取り出しカップに注ぎ、それを一気に飲んだ。
「ふ~~~~。読書の後の一杯は格別だよね~~~」
「あ、あのー……すいません!」
「へ? ……きゃああああ!」ようやく遠野の存在に気が付いたのか、少女は驚いたようにその場にひっくり返ってしまった。驚きたいのはこっちだ。大きな独り言を言ったかと思えば、子どもの癖に酒まで飲み始めたのである。
少女はやや酔っぱらっているのか恥ずかしいのか頬を赤らめ、満面の笑顔で立ち上がり、パタパタとサンダルを鳴らして遠野のもとへと駆け寄ってくる。
随分と可愛らしい容姿だが、ワンピースの上に地味な色のエプロンを着用しているせいかやや野暮ったく見える。それに胸もまったくないというわけではないが、どちらかといえばスレンダーだった。
女性のバストを目測で当てることができる遠野は「Aカップだな」と読んだ。
少女は小柄で、遠野の頭一つ分身長が低いせいか彼女は見上げるような形で笑いかけてきた。乳は小さくともその笑顔は素敵で思わず見惚れてしまう。
「あの、きみは? 店番してるのかな。店主さんはいる?」
遠野はこの少女がこの店の娘なのだろうと思いそう言ったが、彼女はむっとした顔でサンダルを脱ぎ始め、それを手に掴んで遠野の頭を思い切り叩いた。
「いでっ!」スパンっと軽快な音が店内に響く。遠野は一瞬何をされたのかわからず目をぐるぐると回して二の句が継げなかった。「なにすんだよ!」
「わたしがこの『分福堂』の店主だよ。こう見えてもきみよりもずっと年上の大人のレディーなんだから、子ども扱いしたら怒るよ」
「え? あんたが? 嘘だろ?」
店主だって? 自分より年上? どう見たって女子中学生ぐらいにしか見えない。でも自分より年上で未成年じゃないのならばお酒を飲んでいても不思議ではないが、それにしたって嘘のようだ。
「あっ、信じてないねきみ。ほら、ここに書いてあるでしょ」
風鈴はエプロンにつけられている名札を指した。そこには『店主。木嶋風鈴』と書かれている。
「風鈴?」
「ふうりんじゃないよ。『ちりり』って読むの。当て字だけど、可愛い名前でしょ?」
「わかりました。じゃあ風鈴さん。実は俺張り紙見てきたんですよ」
「ええええ! アルバイトに来てくれたの! うれしー! 二年ぐらい張ってるけど今まで誰も来てくれなかったんだよ!」
二年もの間バイトの募集が来なかったのかと遠野は不安になる。
「ここで働かせてもらいたいんですけど」
「わー。嬉しいなあ。あっ、でもでもちょっと待ってね。一応形だけでも面接しないとねー。ってああ! 座敷に下着脱ぎっぱなしだったよ! 待っててね今片付けてくるからね。帰っちゃ駄目だからね!」
風鈴は慌ただしくまくし立て、バタバタと奥の座敷へと行ってしまった。まるで嵐のような人である。遠野は唖然としながらも、さっそく帰りたくなってきた。
「いったいどういう店なんだここは」
疑問は数あれど、風鈴が戻ってくる間暇を持て余してしまっていたため、遠野は店内を見回した。
骨董屋だけあってたくさんの物が置かれている。綺麗な金魚鉢から薄汚い焼き物等、興味は今までなかったがこうして目の前で見るとその造形美には惹かれるものがあった。興味があるわけではないが、職人の技術には感心する。
「おらあ! 風鈴!」
遠野が土偶を手にしていると、ふと声が聞こえた。
風鈴は今店の奥だ――と伝えようと背後を振り返り、遠野はぎょっとする。
そこにいたのはやたらと柄の悪い少女だった。
派手な茶髪を後ろで結ってポニーテールにしており、ギラギラとした両目でこちらを睨みつけている。スカジャンを羽織っており下はだらしなくもダルダルのジャージズボン姿だった。
ポケットに手を突っ込み、ガニマタで歩く様子はどこからどう見てもヤンキーだ。今時この田舎町でもこのようなコテコテの不良を見かけることはない。実際鵜飼高校には不良生徒はほとんどいなかった。
だから絶滅危惧種的な分かりやすい不良少女に遭遇し、遠野は反応に困ってしまう。
「おい風鈴。何シカト決めてるんだよ」
不良少女はドスを利かせた声で睨みつけてきた――が、まったく怖くはない。
彼女はえらく小柄だった。風鈴よりもさらに頭一つ小さく、どれだけ睨み付けようと上目使いになってしまっているだけだ。
むしろ整った陽子と相まって愛らしいとさえ思えてくる。しかも小柄な体躯と相反し、胸は結構ある。Dはあるだろうかと遠野は予測する。
「お嬢さん! 俺と交際してください!」
そうとわかれば即行動だ。遠野はすぐさま彼女に駆け寄り、その手をとって告白した。
「は、はああ? なにふざけてんだてめえ! 酔っぱらってんのか!」
「げぼえええ!」
だがボスっと不良少女に遠野は思い切りボディーブローを受けた。なんて重たいパンチだ。ゴリラかこの女。
「ふざけてんじゃねーぞ風鈴。立ちやがれ!」
「ん? ちょっと待て」遠野は腹を押さえながらも彼女の言葉の違和感に気付く。「何をどう勘違いしてるのか知らないけど、俺は風鈴さんじゃないぞ」
「何とぼけてんだ。この店に風鈴以外がいるわけねーじゃん。こんなとこに来る物好きな人間なんかいないっての」
「いや、だけどさ。ほら俺は風鈴さんじゃないだろ?」
「ああん? さっきから何言ってんだてめー」
不良少女は不愉快そうに眉をひそめる。何言ってるんだ、とはこっちの台詞だ。この子はさっきから何故自分を風鈴と勘違いしているのだろうか。別に女の子に見えるわけでもあるまいし、間違える道理がない。
「しかしなんだ。今日は珍しく男なんかに“化けて”なんのつもりだ」
「は? 化ける?」
「そうか。もう“化かし合い”は始まってるってことだな。わかった。そっちがやる気ならあたしもやってやるよ。ここで会ったが百年目。今日こそはあたしが勝つからな。目にもの見せてやる!」
不良少女は手の骨をバキボキと鳴らした。
「ちょっと待って、だから勘違いだって――」。
「春日井家の長女――春日井あんず。化ける!」
あんずと名乗りを上げた彼女は、その場で跳躍してバック転をした。くるりんっと空中で一回転する間に彼女の肉体は「ドロン」という軽快な音と共に一瞬で姿を変える。
それは巨大なダルマだった。
真っ赤なボディに髭の生えた顔。手足はなく、倒れそうで倒れない絶妙のバランス感覚で佇んでいる。遠野の身長の二倍はあり、骨董屋の天井ギリギリまでの大きさで、先ほどの小柄なあんずとは全く違う。
「あはははは。どうだ驚いたか。あたしだって本気を出せばこのぐらい大きくなれるんだ」
ダルマから発せられる声は、間違いなくさっきのあんずと同じだった。
「なんだよこれ。何が起きてるんだ……」
遠野はあんぐりと口を開け、唖然としてしまう。目の前で起きたこの不可思議な現象を頭が受け入れていない。
「さあ行くぞ風鈴! 必殺ダルマ殺法!」
ダルマと化したあんずはドシンドシンと飛び跳ね、遠野の方へと突進してきた。その際に店内の棚やガラスケースが破壊され、ぐちゃぐちゃになっていく。
「あ、あぶねえええ!」
遠野は踏みつぶされそうになった瞬間咄嗟に飛び退いた。どういうことだこれは。なんで自分が攻撃されるんだ。
「逃げ回るな! 観念しろ!」
クルリと方向転換したあんずダルマは、店の壁際に追い詰められた遠野を睨む。もう逃げ場はない。だが容赦なく彼女は遠野に向かって突進を繰り返そうとした。
「やめなさい、あんずちゃん!」
だがスパンっと思い切り襖を開き、風鈴が店内に戻ってきた。
「ああん? 風鈴が二人? どういうことだ?」
あんずは混乱したように目玉を動かし、遠野と風鈴の顔を交互に見る。そんなあんずに対して風鈴は怒っているのか呆れているのか、眉を八の字にして溜息を漏らす。
「何言ってるのあんずちゃん。この子は正真正銘のお客さんよ。わたしが化けているわけじゃないの。狸なんだからそのぐらい臭いでわかるでしょ?」
二人の会話を聞き、遠野は「え?」と疑問符を浮かべる。今風鈴さんはなんて言ったのだろうか。確かに「狸」という単語が聞こえてきた。
「まあいいや。本物が出てきたんならそっちと勝負するだけだ。風鈴! 化かし合おうぜ。どっちが強いか、今日こそ決めてやる」
「やめてよあんずちゃん。どっちでもいいじゃないそんなの」
「よくねえ!」
そう叫ぶあんずダルマから、ニョキニョキと両手両足が生えだした。その姿は気味が悪く、遠野は「ひい!」と顔を青くする。
だが風鈴は一歩も引かず、ただ「化ける」と呟いた。
そして風鈴の体も変化を来す。あんずと同じく「ドロン」という音と共に一瞬で姿が変わってしまう。まさに“化けた”のだ。
風鈴が化けたのはロボットだった。
それも遠野が子供の頃に見ていた戦隊物の特撮に出てきた巨大ロボット――その超合金の玩具である。ゴテゴテしたデザインで手にはピコピコハンマー型の武器が握られている。遠野はまだ父親が生きている時、誕生日のプレゼントにこのロボットの玩具をプレゼントされたことを思い出す。このロボットの必殺技は『ダルマ落としハンマー』というふざけたものだった。
「なんだそのロボットは、子ども騙しがあたしに利くもんか!」
あんずダルマは拳を握りしめ風鈴ロボットに襲い掛かる。巨大な姿に化けた二人がぶつかり合う様は圧巻で、遠野は目が離せなくなる。
「おりゃあああ! 喰らえ風鈴!」
叫びながらあんずダルマは突進してきた。生えだした両腕を前に突き出し、まるで力士のように張り手を繰り出す。風鈴ロボットはその猛攻撃を受け怯んだ。
「どうだ! このあたしだっていつまでも負けっぱなしじゃねーんだ。ぶっ壊してやるぜ!」
風鈴は遠野が見る限り劣勢だった。店内が狭いせいで、巨大ロボットに化けた風鈴は上手く動けなかったのである。ハンマーを振り上げる間もなく、張り手によってどんどん奥へと押されていく。
遠野はそれを見て、体が勝手に動いていた。
「やめろ!」
自分でも不思議だった。どうしてあんな巨大なダルマの怪物に立ち向かおうとしたのか。その感情を遠野自身は理解できない。だがこのままでは風鈴は潰されてしまう、そう思うと黙って見ていられなかったのだ。
気が付けば遠野は後ろから巨大なダルマに抱きついていた。丸みを帯びたフォルムに抱きついたところで滑るだけでどうにもできず、あんずダルマを止めることは不可能だった。だがしかし、遠野は必死に手を動かした。
「あんっ」
するとダルマからそんな喘ぎ声のようなものが聞こえた。気のせいだと思い、遠野は指を動かしてダルマのボディに触れる。
「あっ……ちょ、人間! どこに触って――あっあああん!」
遠野は思わず及び腰になってしまう。「ご、ごめん」と何か悪いことでも自分はしたのだろうか。わけがわからず手を離した。
直後、ダルマの頭から「ポン」と耳が生えた。同時にお尻部分からは耳が生えだす。
「しまった。化けの皮が――くそ、人間め! 邪魔をしたな!」
耳と尻尾を生やしたあんずダルマは、遠野を睨みつけて標的をこちらに移したようだった。
「まずはお前から潰してやる!」
だがあんずが遠野に襲い掛かったことで隙が生じる。
それを見逃さず、風鈴ロボットは思い切りそのハンマーをあんずダルマの背中目がけて振りかぶった。
除夜の鐘の音のような、凄まじい轟音が響き渡る。
ハンマーで殴られたあんずダルマはその勢いのまま、店外へと吹き飛ばされてしまった。
あんずは飛ばされている間に「ポン」とその姿を変化させる。それは狸だった。茶色い毛並の可愛い狸が、目をぱちくりとさせて地面を転がっていく。
「た、狸?」
遠野は目を疑った。狸へ変化したあんずは、悔しそうにしながらこちらを睨む。
「これで百勝ゼロ敗だね」風鈴はいつの間にか元の少女姿に戻りながら言った。
「違う! まだ九十九回しか戦ってない! それに今回は負けてねえ。変な邪魔が入ったからだ。次こそはあたしが勝つんだからな。覚えてろよ!」
狸は月並みな捨て台詞を吐いて、ぴゅーっとその短い四肢で駆け出す。だがその途中でピタリと止まり、風鈴の方を振り向いて言った。
「おい風鈴。お前もう少し大人しくして置いた方がいいぜ。近頃連中の動きが活発だからな。“赤毛姫”の邪魔したら、それこそただじゃすまねえ」
「ありがとうあんずちゃん。心配してくれてるんだね」
「違う! おまえを倒すのはこのあたしだからな。その前に野たれ死なれちゃつまんねーってだけの話だ! じゃあな!」
狸はそう言うと左右田山の方へと走っていった。
荒れ果てた店内はしんっと静まり返り、まるで台風が去ったかのようである。遠野は今だ興奮冷めあらぬ思いで立ち上がって、風鈴の方へと近づいた。
「風鈴さん。あなたはいったい」
「それはこっちの台詞だよ。触れただけであの子の化けの皮をわずかとは言え剥がすことができるなんて……きみは、まさか」
と言いかけて、なぜか風鈴は顔を青ざめさせてガタガタと震え始めた。どうしたんだ、と思って彼女の視線の先を辿ると、破壊された棚の隙間から一匹のゴキブリが這い出してきた。なんだ、あんなのが怖いのか、と思っていると「ポン」という音が風鈴から聞こえてくる。
風鈴の頭から耳が生え出していた。それは先ほどの狸と同じ耳で、続けてまた「ポン」と今度はお尻からふさふさの尻尾が飛び出す。
「きゃああああ! ゴキブリ―――――――!」
風鈴は悲鳴を上げて遠野に抱きついた。ふんわりとした髪が鼻をくすぐり、小さくも柔らかい胸が押し当てられる。
「あっ……」と遠野は驚いてしまい、思わず背後の棚に背中をぶつけてしまう。
ガタリと頭上から物音がした。先ほどあんずが暴れたせいで、天井近くの棚も壊れていたのだ。亀裂の入った棚は遠野が背をぶつけた衝撃で崩壊をお起こし、上に乗っていた巨大な招き猫が遠野の頭へと降ってくる。
「ぶっ!」そして直撃した。
鈍い音が響き渡る。招き猫は割れ、遠野の頭もまた割れた。
噴水のように遠野の頭から血が噴き出、そのままばったんと倒れてしまった。
「きみ! 大丈夫?」
薄れゆく意識の中最後に見た光景は、心配そうに覗き込む、狸の耳を生やした風鈴の顔だった。
☆
父の夢を見た。
女遊びが激しかったせいで母親に愛想を尽かされたろくでなしの父親。だけれど悪い父というわけでもなく、遠野はそれなりに慕ってはいた。
自由奔放に生きるその様は憧れでもあった。実際に遠野が女の子に対して積極的にアピールするのは父の影響であり、あるいは血の影響とも言えた。
そんな父は交通事故であっけなく死んだ。
だが目撃者の話では女の子を庇ってトラックに撥ねられたのだという。最後の最後まで女のために生きて死んだのだから、きっと父も本望だろう。
遺産は少なく一人で生きていくのは大変だが、いつも父は「男ならさっさと自立して俺に頼るな」と言っていた。滅茶苦茶ではあるが正論だ。
そんな唯我独尊な父の言葉を遠野は思い出す。
「俺はな、若い頃狸と戦っていたんだよ」
酔っぱらっていた父の戯言だとしか思っていなかった。だがそんな父の手のひらで頭を撫でられると、なんだか心地よかったのを覚えている。
父の手は大きく、暖かかったのだ。
☆
目を覚ますと見知らぬ天井が目に入った。木目が人の顔のように見えてぞっとする。周囲に目を向け、自分が寝ているのは六畳間ほどの和室だった。年代物の桐箪笥や襖が目に入った。
ここはどこだ。どうして自分はこんなところで寝ているんだ。布団も今着ている浴衣も自分の物ではない。他人の匂いがした。
記憶が混濁しているせいか思い出すのに長い時間を要したが、遠野は気を失う前に見た光景を思い出して汗を流す。
そうだ。自分は頭を打ったのだ。
しかし頭に痛みはない。タンコブもできていないような気がし、手で触れようとしたが、なぜか腕を動かすことができなかった。
それどころか両腕両足全部動かすことができない。
金縛り――という単語が頭をよぎる。むしろ自分は死んでしまったんじゃないだろうか、という恐怖さえも湧いてきた。
遠野は体をくねらせて布団をめくりあげた。すると、荒縄で縛られてしまっている自分の裸体が目に入った。
「うわあああ! どうなってるんだこれ!」
縄が肌に直接食い込んでいてかなり痛い。しかもグルグルに巻かれているわけではなく、複雑な、それこそSMプレイで使用される高度な縛り方だった。
いったいこの状況はなんだ。遠野は冷や汗を流しながら事態を把握しようと試みる。服を脱がされた上に縛られ、見知らぬ部屋の布団で眠らされている。気を失う前の光景とまるで状況が一致せず、遠野は混乱した。
「あっ、やっと目を覚ましたんだね」
遠野が芋虫のように這いずり回っていると、唐突に襖が開かれて風鈴が入ってきた。「これお水持ってきたから」とお盆にコップを乗せて入ってくる。「心配したんだよ。血がいっぱい出て気絶しちゃうんだもん。でもよかった。元気になって」
風鈴は慈しむように優しく言った。
どうやら招き猫で頭を打って気絶した自分は、風鈴に介抱されてここで眠っていたらしい。なるほど、それはわかる。それはわかるが――
「あの、風鈴さん。なんで俺まっぱで縛られているんですか?」
「え? ああ。それはね。きみが逃げ出さないようにだよ」
「……は?」
何やら恐ろしいことを風鈴は口走った気がする。聞き間違いだろうか。聞き間違いであってほしい。
「きみを逃がさないために、わたしが縛り上げたんだよ。だって、きみはわたしやあの子が化けるのを見たんだもの。このまま返すわけにはいかないよー」
えへへっと無邪気に笑うが遠野の顔はひきつる。そうだ。さっきのあんずという名前の不良少女の正体は人間に化けた狸だった。
そして彼女と同じく化けることができ、耳と尻尾を生やしていた風鈴もまた狸だ。
狸が化けるなんて昔話だけだと思っていたが、あれらの伝承はすべて実際の出来事だったのかもしれない。普通ならば狸が人間に化けるなど笑ってしまいが、実際に二人の激しい攻防を見た遠野は、目の前の現実を受け入れた。
「誰にもあんたが化け狸だって言ったりしないから、帰してくださいよ!」
「失礼ね。わたしは化け狸じゃないよ」
「じゃあさっきのはなんだったんですか?」
確かに風鈴にも狸の耳と尻尾が生えたのを見た。今更誤魔化しても無駄だ。
「わたしはね、正確には化け狸じゃないの。化け狸の中で百年に一匹生まれる――“半化け”なんだよね」
「半化け? なんですかそれは」
「化け狸でありながら人間の姿で生まれてくる存在のことなの。だから耳と尻尾は生えているけど、この体は人間の物。だけど狸と一緒で化ける力もちゃんと持ってるの。言ってみれば妖怪人間みたいなものだよね。『早く人間になりたーい』ってやつ」
「ベム、ベラ、ベロっすか……」また古いネタを、と遠野は呆れた。
「だからちゃんと人間社会で生きてるんだよ。こうしてお店だって持ってるし。まあ、このお店は三年前に譲ってもらったんだけどね~」
「ともかく、風鈴さんが半化けだとかいうのも人に話しませんから帰してください!
「うーん。わたしも帰してあげたいんだけどね、遠野くん」
「え? なんで俺の名前を」と言いかけて風鈴が遠野の生徒手帳を握りしめていることに気が付いた。どうやら服を脱がされたときに取られたらしい。これじゃあ住所も学校も抑えられてしまっている。
「わたしは別に正体がバレたからって理由だけできみを帰さないんじゃないよ。ただお薬代を払って貰おうかなーって思ったの」
「お薬代? そんなの知らないぞ」
「こーれ。これだよ」風鈴は引き出しの中から壺を取り出した。その中にはドロドロとした緑色の物体が入っている。「これは狸伝膏と言ってね、怪我を一瞬で治してくれるわたしたち狸の間に伝わる妙薬なの。これを塗らなかったら遠野くん、あの傷じゃあ絶対死んじゃってたよ」
そう言われて遠野は身を震わせた。確かにあの衝撃は普通ではなく、気を失っている間にお花畑を見た黄がする。
「命を助けてくれたことは感謝します。じゃあその薬代を払えば、帰してくれるんですね?」
「勿論だよ。うちも商売だもの。この大事な妙薬をタダであげるわけにはいかないもん。えっとね、ちょっとまってね今勘定を出すから」
風鈴は算盤を弾き、遠野にびしっと見せつけた。
「えっとね。ざっと一億円かな!」
「い、いちお……!」
遠野は布団の上に顔を突っ伏した。いくらなんでもそれはボッタくりではないだろうか。いやどんな傷も一瞬で治す薬という云われが本当ならばそれでも安いくらいかもしれないが、一億円なんて遠野に払える額ではとてもなかった。
「でもまあ、学生割引して――と、百万円にまけてあげるわよ」
今度は一気に下がった。確かに一億円よりかは現実的な数字だ。これで命が助かったと思えば安いものである。
「でも風鈴さん。まけて貰って悪いですけれど、百万なんて持ってないですよ。明日の飯代にも困ってるのに。今すぐは無理です」
「そっか。そうなんだ。じゃあ、払えない分は体で払って貰おうかな」
にっこりと満面の笑顔で風鈴は言った。
「ちょ、ちょっと待ってください。体で払うって?」
自分は何をされるのだろうか。まさか化け狸のご馳走にでもされてしまうのだろうか。骨ばった自分なんか食べても美味しくないぞ、と叫びたくなった。
「嫌だー! まだ死にたくなーい! 女の子とニャンニャンどころかキスだってしたことないのにー! 童貞のまま死にたくなーい!」
遠野は見苦しも泣き喚いたが、風鈴は意に介さず言った。
「あのね。このお店って人手がなくて大変なの。だから、ここで働いてもらおうかな。いいよね、最初そのつもりでここに来たんでしょ?」
以外にも易しい提案に、遠野は頷いた。食べられたりするよりはずっとましだ。風鈴の言う通りもとよりアルバイトをしにここへ来たのだから。
「わかりました。ここで働かせてもらいますそれで仕事って俺は何をすればいいんですか?」
「えっとね。まずはあんずちゃんに壊された店の修復と掃除、それに蔵の整頓に帳簿と顧客リストの整理――あっ、わたし今から晩酌したいからおつまみを作って欲しいな。それに洗濯物もお願い」
風鈴は指を折って遠野の仕事を数えていく。こんなにやる仕事があるのか、と遠野はげんなりする。これじゃあ店の手伝いというよりも家事手伝い――それどころか奴隷と言っても差し支えないではないか。
しかもバイト代は全部薬代に立て替えられる。実質タダ働きである。
「あっ、あと一つ遠野くんにお願いしたい重要なお仕事があるの」
「なんですか。ここまできたなら力仕事でもなんでも請けますよ……」
遠野は過酷過ぎる労働に耐える覚悟をした。早くたくさん稼いで薬代を返済し、解放されたいと思った。
「あのね遠野くん」風鈴は遠野の肩を叩いて言った。
「きみにこの町――鹿島浦を救ってもらいたいの」