第6話:人波
夢であってほしかった。
そう、相楽彼方は心から願っていた。願っている。これからも、願い続けるだろう。
彼方は家族で旅行に出かけていた最中だった。年末年始だ、当たり前の事だった。
旅行先は人々で賑わっていた。年末年始の観光名所、当然の事だった。
そして――彼方は今、そこの土地に唯一ある小学校の体育館に、いた。
異常な事である。
体育館の中はたくさんの人がひしめき合い、思い思いに不安や苛立ちを吐き出している。彼方も吐き出したい気持ちで一杯だった、しかし、ほんの小さな呟きをしただけだった。
「父さん、母さん、……麻耶」
彼方は、あの時起きた突然の出来事にただただ流されるだけだった事を思い返し、そして後悔していた。
彼方はあの時、両親と3人で観光を楽しんでいるだけだった。
いきなり、向こうから悲鳴が聞こえた。何事かと思うと、その方向から大量の人間が叫びながらこちらに逃げてきた。その人間達の波に、彼方は真正面から呑み込まれた。
「父さん! 母さん!」
叫んだが、あっという間に両親の姿は視界から消えてしまった。見えるのは、赤の他人、赤の他人、赤の他人。
恐ろしくなった。彼方はまだ何も見ていないというのに、無性に恐れを感じた。
「父さん! 俺はここだぞ!」
「ダメだ、お前まで死にかねないぞ!」
人波に必死に逆らいながら親を呼ぶ彼方を、突然止める少年がいた。
「気持ちは分かるが……今はこの人波に従うしかない。下手したらこの人間達に踏みつぶされてしまうかも知れない」
「でも!」
「お前は見てないんだな、アレを」
黄色い髪の毛が目立つ、その少年は彼方に囁いた。
「こいつらは見たんだよ、とある怪物をな」
「か、怪物?」
彼方は突然耳に入った非現実的な言葉をうまく飲み込めずにいた。しかし、その黄色い少年は至極真面目な顔で話を続ける。
「そうだよ、怪物さ。手足の生えた蛇みたいな姿だった。そいつらは突然現れて人間を喰らっていったよ」
分からない。分からない。
「……何の話をしているのか、俺には分からない」
「何の話かって?」
黄色い少年は、笑う。
「世界が狂い始めたって事さ」
相楽達はどんどん人波と共にある目的地に向かっていた。それは地元で避難場所に指定されている小学校だった。
相楽の不愉快そうな表情を見て黄色い少年は笑う事をやめ、言った。
「ごめん、ちょっと気分を悪くしてしまったね。けど、本当の事なんだ。僕は若月密花。信じてはもらえないだろうけど、軽い超能力が使えるんだ」
「彼方、この体育館の近くには生命反応はないみたいだ」
密花は沈んでも浮かれてもない、しかし無表情でもない顔つきで言った。
「という事は、密花の言う怪物も近くにいないし、……人間も、近くにはいないと」
「うん。彼方の言う通りだ」
彼方は体育館を見回してみる。何百人もの人の群れ。きっと食料も長くは持たないだろう。彼方には、靄のかかった不安しか見えなかった。
「密花……これから俺達はどうなるんだ?」
すると、密花は一瞬ためらい、そしぽつりと言った。
「近々、この体育館に怪物達が攻めてきて、僕らはみんな死ぬと思う」
根拠はないのだろう。だが、彼方はその発言にやけにリアリティを感じた。
不安が、はっきりと見えた気がした。