第2話:逆鱗
「いや……いや、いや、来ないでっ!」
逃げる。相楽麻耶は逃げ続ける。自らが16年生まれ育った町の中を逃げ続ける。
麻耶の家族は家にはいなかった。年が明けたばかり、家族はみな旅行に行っていた。しかし麻耶はその旅行に同行する事を拒否した。麻耶は反抗期だった。家族と一緒に行動する事を恥ずかしいと思っていた。だから、年末年始はずっと友達の家で遊んでいた。楽しかった。先の事など考えずに、ただただその日を楽しむ、そんな刹那的な生き方がたまらなく好きだった。面倒くさい思いやりなどしなくていいのだ。楽しくないわけがなかった。
その友達はもうこの世にいない。
たった、たった数十分前までは一緒にいた。生きていた。一緒に笑っていた。なのに、今はもういない。死んだのだ。殺されたのだ。
竜に、殺されたのだ。
「こんなの、誰が、誰が信じるのよ……」
逃げる。振り返っても何も追いかけてこない。それでも足を止められない。麻耶の背筋を汗が流れる。真冬の凍える空気の中、脂汗が流れる。
未だに信じられない。麻耶はまだ自分の目を疑っている。あの竜、青い肌に白い蛇腹の姿、すらりとした手足に爪、背中には巨大な翼膜を張った翼を形作る骨格。しかし、あれはCGなんかではない。
現実だ。
麻耶の頬に、小さな切り傷のような物があった。それは、竜の爪が麻耶を掠めた事実を示す物であり、同時にその竜の存在を証明する物でもあった。少しだけ流れている血は、気づくと涙と混ざって滲んでいる。麻耶は泣いていた。恐ろしくて、心細くて。
結局、私は弱い生き物なのだろうか。1人じゃ何もできない、無能な生き物なのだろうか。
「ひっ」
その時、麻耶は見た。見えた。見てしまった。
竜。2階建ての一軒家よりも大きな身体。圧倒的な存在感。それが、今自らが駆けていた道の先、脇に立ち並ぶ家の合間から姿を現した。麻耶は慌ててブレーキをかけ、しかし踏みとどまれずにその場で勢いよく転倒してしまった。その音に、竜は麻耶の存在を認知した。家に手をかけ、コンクリートを発泡スチロールのようにぼろりと崩しながら麻耶に近づいていく。
麻耶は立てない。全身が鳥肌を立てている。寒さではない。恐怖。
絶望。
竜は麻耶の目前に来た。長い口吻をした顔を、麻耶の目の前にすい、と近づける。穏やかな息遣いが聞こえる。夢なのか、夢じゃないのか。確認はできないが、この竜は命を宿している事は、事実だった。麻耶は動けない。動いた瞬間に殺されてしまいそうな予感がしていた。
その竜はすらりとした腕を自らの顎の下にやり、何かをむしり取った。竜はそれを手につかんだまま、麻耶の顔に近づける。鱗だ。突き抜ける青空に光の粒が混じったような、そんな鱗。
それを、竜は麻耶の口に押し込む。
悲鳴をあげようとした麻耶は、しかしその竜に押し込まれる鱗のせいで声を出す事ができない。拒否しようとするが、竜はもう片方の手で麻耶の顎を掴み、無理やりその口を開かせる。
息ができない。麻耶は竜に半ばのしかかられながら、もがき苦しむ。
麻耶は意識を一瞬なくしていたようだった。我に返ると、その竜の姿はもう見えなかった。荒い咳を何度もする。肩を上下に動かして息をし、
視界が真っ白になった。
脳髄の中心から末端神経へ、痺れが流れていく。痛みも感覚も、全て失われていく。無意識に身体が痙攣しているのをうっすら感じる。そして、感じる。自らの身体が形を変えていくのを。
麻耶の服が、ばらばらになる。爪が伸び、尻尾は生え、体格は変容し、筋肉は締まり、背中には翼が生じる。
あっという間、あっという間だ。意識がぼやけていたせいもあったのか、麻耶にはほんのわずかの時間しか経ってないように感じた。
竜だ。
この身体は、あの竜と同じだ。
思考が働かない。この現実を受け入れられない。ただ、呆然と、そして身体をがたがた震わせる。麻耶は泣いた。
竜の鳴き声が出た。空気を揺らし、空間を揺さぶる声。竜と化した麻耶は頭を抱えてうずくまった。
そこで、身体の次なる異変を感じた。少しずつ……身体が小さくなっている?
最初は明らかに体格が人間の時より二回りはあったはずだったのだが、今では人間の時とほとんど変わらない体格にまで小さくなっていた。麻耶はどんどん思考が鈍くなるのを感じた。考える事が煩わしくなってくる、もう意識など不必要に感じる。全てがどうでも良くなってくる。
何分経っただろう。
そこにいるのは人間の子供ほどのサイズをした小さな竜の仔。きょろきょろと好奇心の瞳を辺りに振りまいている。嬉しそうに尻尾と翼をゆらすその竜の仔。
既に、人間の面影はない。