第一章 5
5
ネイリンが一番入り口近くに座っていたので、彼女が扉を開けた。立っていたのは、見たことのない男だった。白いものが混じりはじめた髪や、顔の皺などから、ロッテの父、ジーナスよりも年は上のようだったが、彼の兄、というわけでもなさそうだった。
今は土地の管理を任され、欲深いがしたたか。ロッテのおじさんを、そんなイメージで捉えていたネイリンだったが、目の前の男は、それとは真逆の印象だ。
――いい人そうだけど、なんか頼りないなぁ。
ネイリンは、簡潔にそんな印象を持った。
「ごはん」男はいった。表情は、柔和ではあるが豊かではなかった。「カーテに呼んでこいといわれたんだけど」
「分かったわ。ありがとう、イボー」ロッテがそう答えた。
彼はどうやら、この家の使用人のようだった。だから、言伝を伝えたらすぐに戻るかと思ったが、彼は意に反して部屋の中に当然のような足取りで入ってきた。
「なにはなしてた、ロッテ?」そういって、先ほどまでネイリンが座っていた席に腰を下ろした。
ネイリンは扉の横でたたずんでいた。
――なんなんだろう、この人。
彼女は、なんとなく落ち着かない気分になった。
ネイリンはこの家の客、それも招かれざる客だ。だから、そういった属性に合った言動を心がけてきた。いや、無意識のうちに演じていた。
それは、それが社会の約束だからだ。そして、はしごを上るように、そういった約束事を一つひとつ覚えていくことが大人になるということだ。
少なくともネイリンは、今までそう信じていた。
だが、使用人にしか見えない彼、イボーは、使用人としての言動をしない。いってみればそれだけのことではあるのだが、しかしそれは、信じていた世界の薄さを感じさせるには十分のことだった。
今まで上っていたはしごを蹴飛ばされたようにも感じて、ネイリンは落ち着かない。
「もし困っている人がいるなら、いってくれ。力になる」
ネイリンは、イボーの少し汗ばんだうなじの辺りを見ていた。
「ありがとう、イボー。そうね、それでは、新しい花壇の中にあった石を取り除いてくれるかしら。お祖父様はべつにこのままでいい、とおっしゃってたけど、わたくしはないほうがいいと思うの」
「イボーもそう思う」彼は自分のことを名前で呼んだ。ネイリンは背筋に冷たいものが走ったのを感じた。「今からやる。どこに置いたらいい?」
「できるだけ遠く、見えない場所まで捨てに行って」
「分かった」そういって立ち上がり振り向いた彼の目の焦点はどこにも合っていなかったが、表情はうれしそうだった。
彼はネイリンを見ることもなく、横を通り過ぎると部屋を出て行った。彼女は扉を閉めてからソファの、先ほどまで座っていたところの隣に座ると、口を開いた。
「ねえ、あの人だれ?」
「イボーです。わたくしが生まれたころから、この家に仕えているんですの」ロッテは少し悲しそうな顔をした。「お感じになったかもしれませんが、イボーは少し知恵に遅れがあります。もしかしたら、失礼と感じることをしてしまうかもしれませんが、そういった事情なので多めにみてあげてください」
「ああ……」といったあと、言葉がつづかなかった。
そういった人に会ったことがないわけではない。だが、このようなお金のある家で会うことは想定になかったようだ。動揺している自分を認識して、そう知った。
「ちょっと冷たいんじゃないか」ラパルクが不満そうにいう。「なんか、一緒にはなしたかったように見えたぞ」
「でもイボーは使用人です。同じ立場に置くことは、イボーのためにもなりませんわ」
そういう彼女の顔は、いかにもご息女、といったものだった。その顔は好きではなかったが、しかし彼女も『ご息女』という役柄を演じているということでは、ネイリンとなんらかわらないし、換言するならネイリンを安心させるものでもあるのだ。
少しだけ、ネイリンは複雑な気持ちになった。