第一章 3
しばらくして、ネイリンたちがスープを飲み終えるころになって、カーテが二階から下りてきた。
「お部屋のご用意が済みました。もしよろしければ、ご案内しようかと思いますが」カーテの口ぶりは、ジーナスたちがいるからだろう、他人行儀なものに戻っていた。
「えっと、じゃあ……」ネイリンは、プライの顔を見た。「お願いしてもいいですか? プライを寝かせてあげたいし」
「ええ、そうですね。ベッドに寝かせてあげたほうが、気持ちもいいでしょう。では」
ラパルクがプライの膝と首の下に手を入れ、抱きかかえる。ネイリンも立ち上がる。ロッテも立ち上がった。
「わたくしも一緒に行くわ」ジーナスを顧みる。「お父様も一緒にまいりましょう」
「おれはいいよ」手を顔の横で一度振った。「子供たちだけのほうが面白いだろう」
ということで、ジーナスをのぞいた五人で階段を上った。
「二階はね、お客様専用のスペースなんですの。今は誰もお客様がいないから、きっと落ち着きますわよ」上りながらロッテがいう。
「じゃあ、」とラパルクが口を開いて、しばらく口ごもってからつづけた。「……お嬢さんは二階でなにをしていたのかな?」
ラパルクがロッテのことをお嬢さんと呼んだのを聞いて、ネイリンは吹き出しそうになった。
「中庭を眺めていました。お祖父様が手入れをしているのですが、とても素敵で。暇があればわたくし、いつも二階から眺めるんですの」
階段を上りきり、大広間をなんとなく見下ろしながら通路を渡る。行き止まりが、壁にやはり穴が開いていて、その先は右に折れているが、曲がる直前の左手の壁に、立派な扉があった。表面がでこぼこしていて、一見して手が込んでいるのが分かった。先導するカーテはその扉は無視して角を曲がった。後について曲がってみると、廊下がまっすぐにつづいていた。ドアが右手側のみにあり、数えてみると七つあった。
「手前から物置。そして洗面所。ここには浴室もついています。その先がすべて客間となっております。手前から三部屋、ご用意しましたが……」
カーテは曲がり角にあった部屋には触れなかった。ネイリンも特に気にならなかったので、わざわざ訊くようなことはしなかった。
「ありがとうございます。ではプライを手前の部屋に……」
右側に並ぶ扉は、どれもシンプルなものだった。手前から三番目の部屋に、四人でぞろぞろと入った。ベッド、クローゼット、ナイトテーブル、書き物机、ソファにテーブルがあった。広い。ネイリンの家の居間ぐらいの広さがあった。
まずプライをベッドに寝かせた。彼はそうされる間、たぶん一度も起きなかった。薬が効いているのか、そう苦しそうな様子もなく、ぐっすりと寝ている。
ベッドの横のナイトテーブルの上には、水差しが置いてあった。カーテの用意は行き届いていた。
「お荷物の整理に、よければクローゼットもお使いください」
「でもカーテ。見たところ、そんなにお荷物はお持ちじゃないようだから、クローゼットを使うと、かえって面倒くさいことになってしまいますわ」
「でも、お客様がまいったときはいつも、そうされますように、と進めるようにと申し付けられて……」
カーテのもってまわったいいまわしを、ロッテはじゃまくさそうにさえぎった。
「ここでおはなししていたら、プライさんがゆっくり眠れないかもしれませんから、隣の部屋に移動しましょ。隣の部屋は、ネイリンさんがよろしいですわね」
そういって、ロッテは率先して部屋を出た。ネイリンたちもぞろぞろと部屋を出る。隣の部屋の前でロッテがいう。
「カーテはもういいわ。そろそろお食事の用意をしなくてはならない時間でしょ。あとはわたくしが説明するから、カーテはリールを手伝ってあげて」
「はい。では、お食事の用意が整いましたら、お知らせにまいります」
そうカーテは、ネイリンに向けていった。しかしネイリンは、とりあえず荷を解いたら、下の雑用を手伝いに行こうと思っていたので、とっさに首を振った。
「いえ。着替えたら、下にお手伝いしにいきます」
「だめよ。そんなの」ロッテが断固とした口調でいう。「お客様がお手伝いなんて、きいたこともないわ。ネイリンさんたちは、お疲れになっているお客様なんですから、ゆっくりなさらなくちゃ」
ロッテがネイリンの手を取って、部屋に入ろうとする。意外と子供っぽいしぐさをするな、とネイリンは意外に思った。
ロッテには見えないように、カーテがネイリンに向けて肩をすくめて見せる。子供でしょ? といっているように見えたが、ネイリンは素直にうなづけなかった。ラパルクは、じゃあ、おれは隣の部屋に行くよ、と一緒に部屋に入ってこなかった。
部屋に引っ張り込まれ、ネイリンはロッテと二人きりになった。
ネイリンは、なんとなく身構えた。二人っきりになったとたん、ロッテの人格が大きく変わるのではないか、との予感が芽生えたのだ。
ロッテには、人に見せない底があるのではないか。そしてその底を、ネイリンだけには見せるのではないか、という気がした。
だが、ロッテの人格も言葉遣いも一切変わらなかった。彼女は小走りで窓辺に寄った。爪先立ちで下を覗き込む。
「ネイリンさん、窓から中庭が見えるんですの。わたくし、この部屋から見える景色が一番好き。だからこの部屋を、ネイリンさんにおすすめしたんですのよ。――だって、」といって、いたずらっぽい笑みで振り返る。「あのラパルクさんて方、あまりお庭のよさとか、お分かりになりそうになかったんですもの」
「そうね」ネイリンは笑顔をつくる。「ラパルクには、きっと分からないわ」
ネイリンはそういって窓辺に寄った。ロッテの横で中庭を覗き込む。真ん中に噴水があって、両端に花壇があり、石が埋め込まれた通路が左右対称にあり、それらを取り囲むように、木が規則的に植えられていた。
「素敵――」正直、よさが分からなかった。「これ……おじいさんが作ったの?」
「お祖父様もお年ですからですから、力仕事は使用人にやらせますが、でもデザインしたり、仕上げをなさるのはお祖父様なの」そういってロッテは、笑顔でネイリンを見上げた。「ねえ、ネイリンさん。わたくし、ネイリンさんとお友達になりたいわ」唐突に彼女はいった。「だって、わたくしが会う人って大人ばかりだから、お友達にはなれませんし」少し悲しそうな顔をする。「子供のお友達もいるけど、みなさん遠くに住まわれてて、なかなかお会いすることもかないませんし……」
ロッテの可憐なたたずまいに、ネイリンは動揺した。
彼女のさびしそうな様子に胸を打たれた、ということもある。子供といっていいロッテを、頭がいいはずの彼女は底を隠し持っているに違いない、と邪知した自分を恥じたというのもある。だがそれらと同時に、この表情さえも作れるほどの器なのではないか、という気もしたのだ。
もし、そうだったら。もし、この表情を意識的に作ったのだとしたら。
ネイリンは、プライの頭がいいことを知っている。プライをもし敵にまわすことがあったら、絶対に勝てないことを知っている。そういった子供がいることを知っている。
プライは優しい、いい子だ。
ロッテは……。
「あたしもよ」ネイリンは笑顔でいう。緊張は伝わってはいないだろうか、という不安で胸がいっぱいだった。「あたしも、あなたとお友達になりたいわ」
「よかったぁ」ロッテは胸の前で手を合わせる。「じゃあ、これからはロッテって呼んでね。わたくしも、ネイリンって呼ばせてもらうわ」
「うん」
とはうなづいたものの、ネイリンは客、それも招かれざる客だ。おじゃました家のご息女を、少なくとも第三者がいるところでは、呼び捨てにはできない。しかしロッテは、ネイリンとお友達になったの、という一言で呼び捨てにしつづけられる。
「よろしくね、ネイリン」ロッテは笑顔でいう。
「よろしく。うん」