第二章 32
32
その後朝食を食べた。
イボーがいつ逃げたのかは分からないが、追われることは当然可能性とした考えていただろう。その上で逃げているのだ。相当に早い時間に屋敷を出ているだろう。あるいは、逃げ切る勝算のある逃亡経路を用意していたかもしれない。
主は、イボーを追えという命令は出さなかった。彼がリールにいったことは、食事の用意をするように、というものだった。
ロッテもそれに反対はしなかった。
後手に回った主たちは、今更数分を急いたところで、どうなるものでもないだろう――そう考えたらしかった。
ネイリンも、それに異論を唱える気はなかった。
状況から見て、イボーが石を持っている可能性は低そうだったし、持っていたとしてもジーナスはもう生き返らすことはできないだろう。彼を捕まえることだって、短期的に見てできるとは思えなかった、というのもある。
今はとにかく、温かいもの、それから胃袋を膨らますものが欲しかった。
朝食はパンにサラダ、スープといった簡単なものだったが、十分だった。
食事を終えてからネイリンは、スープと薬を持って、ラパルクとともにプライの部屋に向かった。
彼の部屋には、日差しが柔らかく差し込んでおり、わずかな時間でもベッドに横になったら、眠ってしまうだろうな、とネイリンは思った。
「プライ、食事よ」ネイリンはプライの胸に手を当てた。
プライがわずかに目を開ける。ネイリンがいつものように、背に手を入れ起こしてあげる。彼にスープを飲ませながら、ネイリンは訊いた。
「どう、調子は?」
プライは答えなかったが、スープの飲み方が、いつもとは違った。それは食欲を感じられるものだった。
「よくなってるみたい」
ネイリンの口元が、思わずほころぶ。これまでは、ガードナー家のごたごたで、プライのことが後回しになりつつあったが、彼のことは彼のことで、ずっと胸につかえていたのだ。
「遅ぇけどな。今更起きたって、出番はないぞ」
「出番てなによ。元気になってくれるのが一番でしょ?」
「そりゃそうだけどよ。ふつう、こういうときは、プライみたいなやつが活躍する局面なんじゃないのか? それが疲労でずっとぶっ倒れたままで、起きてみたら事件が解決してました、なんてのは間の抜けた話だろ」
「まあね」ネイリンはくすっと笑った。「でも、たまにはそんなのも面白いんじゃない? プライらしいっていえばプライらしいし」
「プライってそんなキャラなのか?」ラパルクがため息を吐く。
「そこがかわいいのよ」ネイリンは答える。「それにプライが起きてたって、事態は変わらなかったでしょ?」
「まあ、そりゃな。こういう殺人事件は、常に犯人が先手を持つからな」
プライにスープと薬を飲ませ終えたネイリンは、プライを元通り寝かせてから、ラパルクの向かいに座った。
「それにしても驚いたわよね。まさかイボーが犯人だったなんて」
「ああ。そんなことする人には見えなかったけど。って、そんなことするように見える人なんかいなかったわけだが」
ネイリンは、家人の顔ぶれを頭に思い浮かべる。最初にトーナスやルイーザの顔が浮かぶ。ネイリンは彼らに好感を持っていない。だが、そんな彼らだって殺人までを犯すようには思えない。
「殺人なんて……ふつうはしないわよね」
「ああ。割りに合わねぇもんな」
「いや、そういう損得勘定じゃなくてさ」ネイリンは眉をしかめる。「感情というか、生理的にさ、よっぽどのことがないと、そんなことできないよね」
「そのよっぽどが、イボーにはあったわけか」
「……悔しかったのかな」
「悔しいというか……どうなんだろうな。よく分からねぇよ」ラパルクは頭の後ろで腕を組む。「養子に出された家で幸福だったなら、それほど憎まないとは思うんだけど……」
「向こうの家で、不幸だったっていうこと?」ネイリンは想像する。
養子に出された家が、例えば貧乏だったら、この屋敷に住む住人を見てどう思っただろう。……よく分からないが、そんな単純なことではないような気もする。
人一人の、殺人にいたるほどの苦悩を、通りすがりの第三者が、独りよがりに評価するのはいいことじゃない気がする。
「イボーさんて、お父さん亡くしてるんだね」とだけネイリンはいった。
「らしいな。お袋さんは家を出たとかいってたな。なんか、その辺の話聞いてたか?」
「ううん」ネイリンは首を振る。「カーテさんから、カーテさん親子とかリールさんの話は聞いてたけど」
「何でイボーを置いて、お袋さん出て行ったんだろな」
「分かんない」ネイリンはいう。「事件が解決したって、分かんないことだらけだね」
「だが、分かったこともある」ラパルクが腕を胸の前に組みなおした。「ジーナスさんの部屋の密室の作成方法と、ケースをどうやって開けたのか」
「あんたどっちもはずれてたじゃん」
「それをいうな。おれだって頑張ったんだ。反省もしてる」
「どうも軽いのよね、あんたがいうと」ネイリンが鼻息をもらす。「でもま、まさかイボーさんが鍵をすりかえてるなんて、思いもしないもんね」
「ああ。イボー、頭いいよな」ラパルクが頭をかきながらいう。「もしかしたら、じいさんから鍵を奪ったのもイボーなんじゃないか? あれだって、大胆だけどケースを開ける唯一の方法だ」
「いわれてみれば……」この方法は、知的さと大胆さを併せ持ったやり方だ。逃げる前のイボーに知的さは感じられなかったが、大胆なことをやってしまうようなイメージは、いい意味で、というわけじゃないが持っていた。「実際イボーさんは頭がよかったわけだし、ありえるかもね」
「褒めるみたいにいうなよ」
「うん。犯人だもんね」ネイリンも腕を組んだ。「……さっきはさ、ジーナスさんとトーナスさんがもめたわけじゃないから、石は鏡から出ていないって話をしたけど、イボーさんぐらい頭がいい人だったら、石を取り出す方法を思いついたかもしれないね」
「もし石があるならな」ラパルクは首を振った。「だが、イボーさんの心境を察すると、石なんてどうでもよかったんじゃないか?」
「でも、恨んでいる家で大切にしている宝物を奪う、っていうのは、意趣返しには考えられそうだけど」
「……分からねぇことだよ。考えたって」
「そうね……」
「石をほしがる人、ということでいえば、家督争いに負けた人だって考えられるんじゃないですか?」
「ああ、そうか」ネイリンはぽんと左手に右手こぶしを打ちつけた。「ラパルク、やっぱり窓の外とか調べといた方がよかったんじゃない?」
「なにいってんだよ」ラパルクは顔の前で手を振った。「もう犯人は分かってるんだぞ。いまさら、そんな外部犯行説を……」
ここでネイリンとラパルクは顔を見合わせた。
「プライ!」二人は異口同音にいった。
プライはベッドの上で上半身を起こし、照れ笑いを浮かべていた。
「ネイリンさん、それからラパルクさんも、いろいろお世話になりました。どうやら、治ったみたいです」彼は頭を下げる。
「な、治ったって……」ラパルクが、つまりながらいう。「もういいのか? ぜんぜん大丈夫なのか?」
「ええ。気分はいたって爽快です。はあ……」プライはお腹を押さえた。「なんか、歯ごたえのあるものが食べたいです」
「よかった……」ネイリンはつい涙ぐみ、ベッドの上のプライに抱きついた。「心配したんだよ」
「すみません。ご心配かけました」プライははにかむ。「疲れが溜まったのと、後は風邪ですね。深刻な病気ではないというのが自分でも分かったので、意識がはっきりしているときは、そのことをお伝えしようともしたのですが、どうもうまく声をだすことが出来なくて……」
「ううん、いいの」ネイリンはプライからはなれいった。「でもよかった」
「よかったじゃねぇよ、いいだけ寝やがって」ラパルクが憎まれ口をいう。「おまえが寝てた間、大変だったんだからな」
「はい。殺人事件が起きたんですよね」プライがこともなげにいう。
「え、どうして知ってるの?」ネイリンは訊いた。
「お二人のお話は聞こえていました。というか、意識もはっきりしなかったので、夢の中の出来事のように捉えていたように思います。でも……現実の出来事だったんですね。スープを飲み終えてから、だんだん気分がよくなってきたんですが、意識がはっきりしだしてから少しの間、お二人のお話を聞かせてもらって、ああ、現実の出来事だったんだなぁって分かりました」
「起きたんなら、早く知らせてよ。もう」ネイリンはぶすっとする。
「はい」プライは小さく笑う。
「で、どう思う、プライは?」
「ラパルクさんの推理に驚嘆しました」
「いきなり嫌味かよ」ラパルクは大げさにのけぞる。
「いえ、嫌味だなんてそんな。ラパルクさんのお考えは、納得のいくものでした」
「でもさっき、家督争いに負けた人が怪しい、みたいにいってたじゃない。プライは、そう思うの?」
「いえ、思いません。ただ、そのことをお考えになっていないようだったので、いってみただけです」
「ああ、そういえばイボーさん逃げてるんだもんね」もう犯人は誰かとか、考える段階はすぎている。
「イボーさんが逃げたのには、驚きましたね」
「もしかしたら、プライが起きないうちに逃げようと思ったのかもな」ラパルクがいった。
「買い被りです」プライが謙遜していう。控えめな人間なのだ。
「でもま、とにかくよかったよ。もう少し早く起きてくれりゃイボーを捕まえられたかもしれないが、捕まえたところで、二人が生き返るわけでもないしな」
「お腹すきました」生き返りのことをとくに気にした様子もなくプライはいった。その辺のことも、夢見心地に聞いていたのだろう。
「めずらしいね、プライがそんなに食べ物のことをいうなんて」
「なんだか、ずいぶん食べていない気がします」しょげ返ったような表情でプライがいう。
「ちょっと待ってて。あたし、下にいってなにか貰ってきてあげる。ここのお手伝いさんね、すごく優しいんだよ」
「あ、大丈夫です。自分で行ってきます。少し身体を動かしたいですし、それにここのご主人にご挨拶をしたいですし」そういってプライはベッドから出た。
「そっか。うん、わかった。じゃ、一緒に行こ」
「いえ、一人で行きます」プライは笑った。「子供じゃないんですから、一人で挨拶ぐらい行けます」
そういう意味でいったのではなく、病み上がりで大丈夫かな、と思っていった言葉だった。そういおうかと思ったが、子供じゃない、という言葉がおかしくてついネイリンも笑ってしまった。
「めちゃくちゃ子供じゃねぇか」ラパルクがいった。