第一章 『鍵の背後に鏡、あるいは鏡の中にカギ』 1
「お待たせいたしました」扉を開けてくれたのは、エプロン姿の、優しそうな中年の女性だった。彼女はネイリンとラパルクの顔を見て、少し不審そうな顔をした。「えっと、どちらさまでしょうか?」そういった後で彼女は、ラパルクの背負ったプライに気がついた。「あら、そちら様は顔色が悪いようですが……」彼女はふとネイリンたちの背後に目をやった。「まあ、雨も降ってきましたね。こんなところではお寒いでしょう。そちらの方の身体にも障ります。とにかく中へどうぞ」
よく口の動く女性だった。ネイリンも無口なほうではなかったが、つけいる隙がない。ネイリンは、はぁとだけいって中に入った。
大広間だった。正面に、二階へつづく階段。右手側の壁には奥と手前に一つずつ扉。その間にガラスの入ったケース。その前にビリヤードの台があった。左手奥には、通路に通じるものだろう、扉のない穴が壁にある。毛足の長いカーペットが敷かれてあり、ソファで囲まれたようになっている左手側の壁には、火の入った暖炉もあった。暖かかった。プライのことで不安になりかけていたネイリンは、それだけで少し安心した。
「わたしはこの家の使用人で、カーテといいます。ガードナー様への御用でしたら、まずはわたしが承りますが……」
今は初対面ということもあり、格式ばったはなし方をしているが、そんな口調とは裏腹に、いかにもはなしやすい雰囲気が全身から醸しだされていた。ネイリンが安心した理由は、そんな彼女のたたずまいも影響していたのかもしれない。
「どうも、そういった感じではないようですね」主にプライの顔を、心配そうに見つめながらいった。「いったいどうしたの?」
うすうす、ネイリンたちが置かれている状況を察したのだろう。カーテは、正規の客に対するときのようなしゃべり方をやめ、いかにも優しいおばさん、といった感じでいった。
「あの、人を探しているのですが、ともに旅をしている者が倒れてしまって」やっとネイリンははなすことができた。「おそらくは疲れからくる風邪だと思います。少しの間、休ませてはもらえないでしょうか」
「そうなの。えっとそれじゃあ、とりあえず暖炉の前に行って暖まっていなさい。わたしはなにも権限がないから、まずは旦那様に訊いてこなければいけないけど」
カーテがそこまでいったときだった。通路から低い声が聞こえた。
「何事だ」威厳ある声だったが、同時にどこか不安定さを感じさせる声だった。
大広間に現れたのは老人だった。杖をついていて、億劫そうな歩き方だった。
「あ、旦那様」
カーテが走りより、老人を支えようとする。だが旦那様、と呼ばれたその老人は片手を上げ、彼女の助けを断った。
「客ではないようだな。何者だ?」
――偉そうで、なんかやな感じ。
ネイリンは、老人の口調にそう感じたが、しかし今のネイリンたちは助けを求める立場だ。顔に出しちゃいけない。機嫌を損ねちゃいけない。ネイリンは、精一杯の殊勝な顔で、先ほどカーテにしたのと同じ説明をした。
「だめだ」
断られると思っていなかったネイリンは、お礼をいおうと頭を下げかけて、そのまま固まってしまった。
――え、だめなの? なんで? 病人いるんだぜ。
とはいえないので、悲しそうな顔でカーテを見た。
「旦那様。こちらの方は、大変に体調を崩されているようです。せめて、体力が回復するまででも、こちらで……」
「カーテ。決めるのはお前じゃない。当主である儂だ」
――やなやつぅ。
どうせだめなんだったら、殴ってそのまま逃げてやろうか。ふとラパルクの顔を見ると、ネイリンよりも腹立たしそうな顔をしていた。プライを背負っていなかったら、飛びかかっていたかもしれない。ネイリンはあわてて、冷静になろうとつとめた。プライがあてにならない今、どっちかが賢くならないと。馬鹿な二人が馬鹿なままだったから、酔っ払いの言葉なんかを信じて、こんなところまでくる羽目になったんだし。
ネイリンは、もう一度お願いした。
「突然きて、休ませてくれなんて、迷惑なことだと承知しています。でも、プライは……連れのものは、著しく体調を崩しているのです。できるだけ迷惑をかけないようにします。お手伝いもします。ですから、少しの間だけでも……」
「ほう。これはこれは、かわいらしいお嬢さんだ」
声のしたほうを見ると、やはり先ほど老人が現れたところから、四〇がらみの男が現れた。なかなかの器量だった。着ているものも立派なら、それが包む身もしなやかであるため、本来なら容姿端麗といわれるような男だろう。だが、せっかくの男前も、洋服がだらしなく着崩れているし、髪が少し汗ばんでいるのか湿っており、眼がとろんとしていることで台無しだった。
どうやら、彼は酔っているらしい。そしてそれは、彼の身体にとって、イレギュラーな状態ではなさそうだった。
「お父さん」彼は芝居がかった口調で老人をそう呼んだ。「いいじゃないですか。なにも問題はない」口を開きかけた老人を制するようにつづける。「分かっています。お父さんは、あれを気にしているんでしょ。でも大丈夫でしょう。あれは盗めやしない。それに、盗もうとしたものは、」
――死んじゃうんですよね?
彼はそういって、一際気持ちわるいゆがみを唇の端に浮かべた。
好ましい人物ではないが、彼の登場は追い風かもしれない。そう思うと同時に、ネイリンは、酒場での酔っ払い同士の会話を思い出していた。
――鏡の中の宝。
「気安く、あれのことを口にするな」老人が小さな、しかし強い口調で男にいった。
「なんだよ、あれって」ラパルクがはじめて口を開いた。腹が立っていたのだろう。敬語なし。
ネイリンは唇をかんだ。せっかく、休ませてもらえる可能性も出てきたのに。馬鹿ラパルクめ。剣技館は、礼儀にうるさいと聞いていたのに。いったいなにを学んできたんだ。
「なんのことだか分からないけどな、おれたちは盗みが目的できたんじゃない。単純に、困ったから助けを求めにきたんだ。だが、盗人呼ばわりされてまで頭を下げる気はない。じゃましたな」帰るぞ、ネイリン。そういって、ネイリンをうながし彼らに背を向けた。
「旦那様!」カーテがきつい口調でいう。
しかし、見るとカーテは、老人ではなく男のほうを険しい表情で見ていた。男は、茶化すように首をすくめている。
「よかろう」老人は、しばらく考えるそぶりを見せた後、不思議な表情でうなづいた。「たしかに、冷静に考えれば、ジーナスのいうように心配することはない。ならば、断る理由はないことになるな」老人が、ネイリンたちを見ていった。「ゆっくり休んでいきなさい。ただし、間違ってもおかしな気は起こさないことだ。儂らにとっても、そしてそなたらにとっても、それが一番だ」
酔っ払いたちがいっていた『宝』のことを念頭において、はなしているのだろう。だが、そのことを断片的にしか知らないネイリンには、十分に理解できなかった。
――盗もうとしたものは死んじゃう?
どういうことだろう。宝を守る、気の短いマッチョの番人でもいるのだろうか。
分からないが、事細かに質問するような空気ではない。ここで休む許しが出たのだ。
「ありがとうございます」ネイリンは、ただ頭を下げた。
よかったわね、そんな表情のカーテと眼があった。ネイリンは微笑を返すが、
――これで、プライが直るまではここにいられる。その間に、宝の秘密を探っちゃお。
そんなことを考えているネイリンだった。