第二章 20
20
ネイリンは息をのんだ。彼女だけではない。しばらくは、だれも声をだせなかった。
生き返って欲しい。あるいは死んだというのは、なにかの間違いに違いない。身内を亡くしたことのあるものなら、だれしもが一度は考えることだろう。ネイリンも両親を亡くしたばかりのころ、夜眠るときなどに、朝起きたら両親が、すべては夢だったんだよ、と笑いかけてくれるのではないか、と夢想しながらベッドの中で泣いていたものだった。
だが、生き返らせたい、とは思わなかったし、おそらく、だれも考えたことはないだろう。ありえるはずのないことなのだから、当然だ。
だが、今この場所では、その常識が通用しない。
死んだものを生き返らせたいというエゴが、検討のきっかけになってしまう。
ジーナスは石を目にしたのかもしれない、というところまでは考えたネイリンだが、その可能性が、父親を亡くした少女の前で、どういった意味を持つにいたるのか、というところまでは考えていなかった。
頭が回らない。
ロッテの心情を想像するなら、彼女の思いつきは、一縷の希望をもたらすものであるかのようにも思うが、だがそれは、同時にどこか、笑いたくなるような、滑稽で物悲しいものを感じさせる。
もう少し現実的な感想として、だめだったときの残酷さ、ということも想像するなら、諸手を挙げて賛成する気になれない。
たぶんラパルクと、そして表情を見る限り、使用人たちも同様の思いを胸のうちに抱えているらしかった。
だがいえない。
さきほどまで、倒れるほどまでショックを受けていた少女の、夢想的で非現実的だが、しかし現実性を帯びてきてしまった可能性の目を摘むことなんて、だれにもいえない。
だが、そんなこと、本当にありえてしまうものなのか?
「ジーナスを生き返らす、か……」
主の声は、吐息のようだった。息子が死んだのだ、胸に渦巻く感情は、基本的にはロッテと共通するものだろう。だが、年老い、おそらく自分では成長と認識している内面の屈折は、ロッテのような屈託ない思考の流れ、また感情の起伏に戸惑っているに違いない。
思案下な表情を見せているが、なにも考えていない、考えることができていないのは、一目瞭然だった。
「問題、というか、確認しておきたいことがいくつかあるな」ラパルクがいった。主のターンをよこどった印象もあったが、主はなにもいわなかった。「いいにくいこともあるが……まずは、ききやすことからきいておこうか。石のことだが、」ラパルクは主を見ていった。「仮にあったとしてだ、その使い方を知っているのか? あのケースには、そんなこと一語も書いていないように読めるが」
「使い方は……分からない」主は首を横に振った。「だいたい、あの石は、わしたちが後に使おうと思って守っているものではない。智の者がそれを受け取りにくるまで守るというのが、儂たちガードナー一族に課せられた責務だ」
「なら、石を仮に見つけたとしても、実際問題、おれたちには使えないということにならないか?」
「そのことについては、見つけてからのお話だと思います」ロッテがいう。「結局見つからないかもしれない状態で論じても、仕方がないのではないでしょうか?」
「それはどうかな」ラパルクは思案下にいう。「見つけてしまったら、その時点で冷静な議論は望めないだろう。まだ見つかっていない、そしてないかもしれない、平時である今こそ論じなくてはいけない問題だと思う」
「冷静なんて、」ロッテは唇の端で笑った。「冷静なんて、お父様の死体を見た瞬間から、わたくしの中からなくなりました」
ロッテは笑っていた。笑うしかできない、といった表情だった。だが目が笑っていない。双眸には涙が浮かんでいた。
やはりぎりぎりだ。とネイリンは思った。
ロッテは、父親が死に、これで両親を亡くしたことになるが、そんな状況にある少女としては、異例の強さと冷静さをここまで見せてきたが、本当はぎりぎり、いや、もう臨界点は越え、心が持たない状態まできているのだ。
できれば、一刻も早く、この場からロッテを引き離し、ベッドで寝かせてやりたいが、それは単なる他人のエゴで、そうしたからといってロッテの心が休まることにはならないのだろう。結局のところ、できることなどないのだ。ただ、ふれずに、ぎりぎりでもっている心を完全に壊してしまわないように、これ以上のダメージを与えないこと。それしかない。
ラパルクもそう考えてなのか、口をつぐんだ。
「ラパルク。確認しておきたいことがいくつかあるといいましたが、他のものは、どういった問題ですか?」ロッテが小首をかしげる。
「い、いや」ラパルクは口ごもった。「いくつか、といったのはいい間違いだ。他はない」
違うと思った。ラパルクは、ロッテの顔を見て、これ以上の問題提起ができなくなったのだ。そして、彼が考えなければいけないと思っていたこと。それは、ネイリンにも分かるような気がした。いや、先ほどから、頭の隅で引っかかっていたのだ。だが、今まで直視をしなかった。言葉にしなくても、目を向けたくない問題だった。
ネイリンは一度頭を振り、頭の隅からその問題を引っ張り出してきた。見たくはない、考えたくはないが、だからといって、考えないわけにはいかない問題だろう、と感じていた。そう、自分に向けて、見ていない振りをしていただけで、本当はもう頭のどこか、あるいは心のどこかで考えつつあったのだ。
――人を殺したジーナスを生き返らせていいのか。
今まではぼんやりとしていた命題を、あらためて言葉にしてみて、ネイリンは、その重さに胸が苦しくなった。
仮定がつづいての話である。
例えば、トーナスを殺したのはジーナスだった、密室でのジーナスの死はケースの呪いによるものだった、呪いがあるのなら石もあるだろう、人死にがでているのだから石は鏡からでてきているのだろう――。
どれも証拠から類推されることではなく、状況から論理によって導かれたことだ。
だから、まだ考えなくてもいいのではないか、とも思ってしまう。
考えたくないから、そう思ってしまうのだが――。
いや、ここまで考えてしまっては――ジーナスが犯人で間違いなさそうだというところまで考えてしまった今となっては、もう後戻りはできないのだろう。
このことも、考えなくてはいけないのだ。
ロッテは考えることはできない。彼女は頭のいい娘だが、もはや冷静さ、客観性を期待することはできなさそうだ。いや、どんな人格にだって、彼女の状況でこの問題を冷静に考えることはできないだろう。
主もまた、期待できなさそうだった。息子二人を一日になくした老父に、客観的で倫理性を求めるのは酷だろう。それに、年輪を重ねてきた老人の心は、これまでの人生を肯定するための理屈に支配され、思考回路を濁らせている場合が一般的だ。
やはり、部外者であるネイリンとラパルクががんばらなくてはいけない。
とはいえ、人を生き返らせるなどというのは、人類史上初のことだろう。人を殺した人間を生き返らせるのは赦されることなのか、というシチュエーションも、おそらく今までだれも考えたことがない。自分で切り開かなくてはいけないのだ。しかもその命題は、重く哲学的だ。いや、哲学として考えてはいけないのか。倫理? それとも論理? もしかして愛か?
正直、その問題が、どこに属するかすら分からない。
考えなくてはいけない問題だが、すぐに答えがでるものとは思えない。
そして、考えていることすらロッテに知られてはいけない。
彼女にとっては、ジーナスは父親だ。伯父を殺した疑いが強いが、もし仮にそうだとしても、きっとやむをえない事情があったのに違いない、とロッテは考えているはずだった。
そんな彼女に、そんな人物を生き返らせることは赦されるのか、と考えていることを知られては、ぎりぎりのところに立っている彼女をさらに追い込むことになる気がした。
だから、なにもいえない。だが、考えなくてはいけない。
例えば、もし石があったとして、その石が一人だけ生き返らせるものだったら、殺された(らしい)トーナスではなく、ジーナスの方を生き返らせることには問題はないのか、ということ。
トーナスの顔を思い出す。彼にいわれたこと、彼から向けられた表情。好きな人物ではない。もう会いたくないといってもいいぐらいだ。
だが、そんなことは関係ない。
ただ単純に、殺された人間としてみるなら、彼は被害者だ。被害者を見捨てて、加害者と考えられる方を生き返らせるのには、問題がある気がしてならない。
いや、こうも考えられるのか。とネイリンは、思考をつづける。
ジーナスは、すでに死んでいる。そしてそれは、罪に対する罰として殺されたのではないか、と考えられる。つまり、贖罪はすでに済んでいる、という見方もできるのではないか。
正確にいうなら、トーナスを殺したことに対する罰ではなく、ケースを開けたことに対する罰であるらしいのだが。
それなら、贖罪を果たしたことにはならないか。
そもそも罰なんて関係ないのかもしれない。
よく分からない。
だが、一連の話の流れの中から、一つだけ確定したことはある。
それは、彼らの死を、やはり市には報告できない、ということだ。
主には、最初にいわれていたことだが、ネイリンはそのことを真剣には考えていなかった。それどころじゃなかったというのが一番の理由だが、ジーナスが死んだことをだれにもいうな、という主の言葉に何の拘束力もない、というのも理由にあった。今はそれどころじゃないが、後になって必要と思えば、勝手に市にいえばいいだけのこと、そう思っていたのだ。
しかし、話はそう簡単ではなくなった。
もし今、市に報告したなら、無用な冤罪を避けるためにも、ジーナス犯人説も同時に知らせなくてはならないだろう。だが、それをいうためには、石に関する情報を伝えねばならず、さらには、石が実在し、すでに鏡から出ている可能性が強いことまではなさなくてはならなくなる。
もし、死んだものを生き返らせる石などというものが実在すると知られたら――。
情報は一般に漏れ、その価値ある石を求め、あるいは既存の価値観、世界観を破壊する石の存在に翻弄され、社会が混乱することも考えられる。
考えすぎだろうか。
生き返りを考えるときに、問題視しなくてはいけないことがまだある。
後に、石を取りにくる、といわれている智者がくるまえに、石を勝手に使ってしまっていいものなのかどうか、という問題だ。
もちろん、ネイリンなどには、どうでもいい問題ともいえるかもしれないが、ガードナー家の人間に、冷静さを期待できない今、自分たちが考えなくてはならないのかもしれない。
その逸話自体を疑っていたこともあったが、主の言動から、これまでガードナー家の人間が、石を守るために生きていたことは確からしい。彼らは、生き返り、という魅惑的な石の力に魅了されないように、代々、知性のあるものを、その石を守る役目に抜擢していた。
とはいえ、中には、大事な人を失い、その石をつかってしまいたいと思った人間もいただろう。実際に探した人間もいたと思う。ケースを開けようとして、死んだ人間もいるという話が残っているともきいた。
この石の周りには、多くの死と、それにまつわる悲しみや苦悩があったはずなのだ。
だがそれらを跳ね除け、状況から考えてこれまで残っていたらしい石を、今このときにつかうことが、果たして許されることなのか。
そこまで考えて、あらためてネイリンは、この石を取りにくるという智者とは、何者なのだろうと思った。
智者がくるまで石を守り通せ、という言い伝えは、おまえたちの生き返りは認めない、もっと価値あるものにその権利をあずけろ、といっているのである。
その生に、あるいは死に、他もののとは違う、特別な意味を持つ人間がとりにくるというのだろうか。
石は伝説の勇者から託されているという。ありえないように思えるそんな話も、非常識な石が本当にあるということになれば、あってしまうのかもしれない。
伝説の勇者が特別な石を渡したかった人間。そして、勇者の意思を叶えようと、生き返りの誘惑を眼前にしながら、周囲の死を迎えつづけたガードナー家の人間。
彼らの思いに想像をはせるなら、今、石をつかってしまうのは、なんとしても食い止めないといけないことのようにも思う。
「石を探しに行きましょう」
ロッテがいった。そして立ち上がる。その表情には、悲壮なまでの意思が見て取れる。
どうしたらいいのだろう。
ロッテは、悲しそうな顔をしている。だがその表情は、ジーナスの死に直面したときとは、違ったものになっている。
生き返りの可能性がでてきたが故の表情だ。
だが、生き返らせることができなかった場合には、もしかしたら、ジーナスの死を知ったとき以上の悲しみが、彼女を襲うのかもしれない。
壊れてしまわないだろうか。
どうしたらいいのだろう。
「石を探すのはかまわん。好きにしろ」主がいった。
かまわない、ということは、石を見つけたら、つかってもいいということだろうか。
いや、これまで生涯をかけて守ってきた宝だ。息子が死んだ今となっても、きっと本心では、つかってはいけないと考えていると思う。
単純に、父親の死にショックを受けていた孫娘が、一縷の望みをかけようとしている可能性を、消し去ることができなかったのだろう。
もし万が一石が見つかったら、それはそのとき考えよう。
きっとそのように考えているのではないか。
ロッテの顔を見てしまったら、ロッテの心情に思いをはせたなら、そのようにしか考えられないと思う。
ロッテは、主の言葉にうなづいた。
「ただし、」と主はつづけた。「条件がある」
「条件?」ロッテはいぶかしげに聞き返す。不本意だったようだ。
「ああ。リール」主は使用人に、話の矛先を向けた。
「は」リールは硬直して待った。
「イボーと一緒に、墓穴を掘ってくれ。場所は分かるな」
「はい。承知しました」
「ロッテ。石を探すのは、リールが墓穴を掘るまでの間だ。それまでに見つけられなければ、石は諦めろ」
「お祖父様!」
「ロッテ。おまえの父は死に、石が目の前にないのは事実だ。そして、仮に今目の前にあったとしても、本来なら、ガードナー家の人間として、つかうのをとめなくてはならない立場だ。だが、」主はロッテを見つめていった。「おまえの気持ちも分かる。おまえにこれ以上辛い思いをさせたくないとも思っている。だから、墓穴を掘るまで、という条件を設け、石を探すことを認めたのだ。これ以上のことは、認められない」
「……そうですわね」ロッテは、下を向きながら唇を噛んでいた。「どちらにせよ、時間的な制限はあるのですし。とにかく、早く見つけないことには、話になりませんわね」
どちらにせよ時間的な制限がある、というのは、石が見つからないからといって、見つかるまでジーナスをあのままほうっておくことはできない、という意味だろう。
生き返らないかぎり、墓に入らなければならない。
そして死体は、刻一刻と変化する。
「……あ、旦那様」リールが遠慮がちにいう。「あの部屋の鍵は、おかけになられていないようですが、」
「ああ、そうだったな」主はなんでもないことのようにいう。これまで、あの部屋の密室性を守り通してきた主ではあるが、一度みんなの前で開けたことで、意識に変化があったようだ。「鍵をロッテ、おまえに預けておく」主は、ゆっくりとした動きで立ち上がった。「リール。おまえもロッテたちについていけ。そして、あの部屋の捜索がすんだら、おまえが責任を持って、鍵をケースにしまってくれ」
そうリールにいってから、二つの鍵をロッテに手渡した。
「いいんですか、お祖父様」ロッテが鍵を手に、戸惑ったようにいう。
「儂は疲れた。部屋で休ませてもらう。すべてが終わったら、報告に来てくれ」
彼のいうすべてとは、石の捜索。そして、墓穴を掘り終わったら、ということだろう。
ロッテとリールがうなづいた。
「埋めるときは、せっかくだ、あなたたちにも参加してもらいたいがどうだろう」
主が、ネイリンたちのことを、初めて「おまえたち」ではなく「あなたたち」といった。
最初ネイリンたちは、主にとっては招かれざる客だった。そして息子たちが死に、一気に容疑者となった。そんなネイリンたちを「あなたたち」と呼んだ心境は、謎を解いたラパルクへの感謝、あるいは礼なのであろう。
そしてそれは、この事件に対する、事実上の終結宣言ともいえるものだった。
つまり主は、長男を殺したのは次男であると認め、幕を下ろしたのだ。
「はい、もちろんです」ネイリンは答えた。
主は、背中でその言葉をきくと、なにもいわずに歩き出した。
カーテがあわてて後を追い、彼を支えた。