第二章 9
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しばらくプライの部屋で、ラパルクとはなしていたが、せまい部屋で二人っきりだと(いうほどせまくはないし、寝ているとはいえプライはいるのだが)、なんとなく息がつまる感じがあって、大広間に下りることにした。そろそろ、お腹がへってきたというのもある。
大広間の暖炉前のソファで、二人で待っていることにした。
しばらく二人で、昼食はなんだろうね、みたいな無意味な会話をしていると、突然、声がきこえた。遠くからきこえていて、なんといっているのかは分からなかった。だが、どことなく不安にさせる声質だった。
ラパルクと二人、目を合わせた。
「なんだろう、今の?」そういって、ネイリンは立ち上がる。
「さあ、なあ」座ったままだが、前の方に重心を移す。「行ってみるか?」
そんな感じで、悠長とも、優柔不断とも取れる反応しかできなかったのは、しばらくだらけていたせいだろう。身体が、まだのんびりしたがっている。
どうしようかと、ただ考えるだけの無為な時間は、しかしすぐに終わった。ロッテが、大広間に走りこんできたのだ。
「だれか!」そういったあとで、彼女はネイリンたちに気がついた。「あ、ネイリン、ラパルク。お父様が大変なの。どうしよう……」
ロッテらしくない取り乱しようだった。彼女のそんな様子を見て、ネイリンまで動揺してしまい、瞬間、口が開かなかった。
「なにがあったんだ?」口を開いたのはラパルクだった。
「あの、一緒にきてください! わたくし……」
「分かった。おれたちだけで、事足りるのか?」
「え? えっと……ううん、できれば、カーテたちも、」
ロッテがそこまでいったときだった。昼食の用意ができた、という知らせでもいいにきたのだろうか、ロイが食堂につづく扉から現れた。
「ああ、ロイくん、いいところに」ラパルクはそこまでいって、ロッテを見た。現状をまだ理解していない自分がいうより、ロッテにいわせたほうがいいと判断したのだろう。
「ロイ。お父様が自室で倒れているの! カーテとリールを呼んできて!」
――倒れてる?
「倒れてるって、どうして? 呑みすぎたの?」ネイリンはきく。
「分かりません。でも、窓を叩いても反応がないし、扉も開かないから」
そのロッテの言葉をきいて、ロイは激しくうなづくと、一目散に扉を抜け戻った。
「とにかく行ってみよう」ラパルクがいう。
お願いします――そういって、ロッテが小走りで廊下に向かう。スカートが長すぎて、大股では走れないみたいだった。ネイリンは、少しじれったく思った。
大広間の角にある、穴。そこに入ると、二階と同じように、すぐに曲がり角があって、左手にやはり過度なデザインの扉。ここも表面がでこぼこしている。ぼんやりと、ここが主の部屋だろうか、とネイリンは思った。角を曲がると、まっすぐに廊下がつづき、これも二階と同じように、右側ばかりに扉が並び、二階との違いとしては、その間に窓が並んでいた。
ロッテを先頭に、三人は走った。廊下の真ん中あたりまできたときだ、ロッテが急に足を止めた。中途半端に思える場所だった。
「ここが、お父様の部屋です」そういって、少し遠巻きに扉を指差す。彼女の様子は、おびえているようだった。
ラパルクは一人前にでて、扉を越え窓から室内を見た。すぐに血相をかえ扉に戻ると、ノブを回した。回らない。ネイリンはロッテをおいて、ラパルクを追い越し、窓をのぞいた。
ジーナスが、部屋の真ん中で、横臥していた。一見して不自然な体勢で、不安感をあおる。だが、こちら側に背中を向けていて、表情は見えない。
「ジーナスさん! 大丈夫ですか?」
ネイリンが窓を叩くと、ラパルクも横にやってきた。
「扉は開かない。鍵がかかってる。窓はどうだ?」そういいながら、自分で、窓を片っ端から引いてまわる。「だめだ。ここも錠がかかってる」
「ジーナスさん! どうした? 大丈夫か?」ラパルクが、強めに窓を叩く。
ジーナスの反応はなかった。
「どうしよう……」ロッテは、心細げにつぶやくと、ネイリンの横にきて服のすそをつかんだ。
こういうとき、きっとプライなら、冷静に最善の策をすぐに考えつくだろう。だが、ロッテにはそれができないようだった。彼女は頭がいいように見えて、ふつうの女の子だったのだな、そう思って、ネイリンは急に胸が苦しくなった。
自分たちがなんとかしないと、そうは思ったが、ネイリンの頭もまた回らなかった。どうしよう、という言葉と、ロッテのためになにかをしなくては、そういった思いだけが胸の内で渦巻く。
「どうしました!」カーテの声がきこえた。
見ると、カーテが息を切らしながら走ってくる。ロイもその陰に隠れるように走ってきた。
「ジーナスさんが倒れてるんだ! カーテさん、この部屋の鍵は?」ラパルクが叫ぶようにいう。
「いえ、」カーテが、言葉をつまらせた。「マスターキーはありません。それより、倒れてるって、」ネイリンの横まできた彼女は、部屋の中を一瞥して息をのむ。
「マスターキーがない? じゃ、」とラパルクがいったときだった。
「お祖父様……」ロッテがつぶやくようにいった。
彼女の視線を辿ると、窓を通して、小雨の降る庭に、黒のレイン・コートを着た主の姿が見えた。スコップを肩に担いでいるイボーと一緒だった。孫からの救難信号を感じるものがあったのか、彼はこちらを向いた。ラパルク、ネイリン、ロッテ、カーテ、ロイが勢ぞろいして、おそらく全員の表情が尋常ではないのだ。彼はいぶかしそうにしながら、イボーを伴いこちらへきた。そして、部屋の前まで来ると窓をのぞきこみ、普段からの険しい顔を、いっそうのものにした。
ネイリンは、目を細めた。向こうの窓の錠は開いているのではないか、と思ったのだ。目を細めると、遠くのものの輪郭がわずかながらに、はっきりとする。
錠はかかっていた。
向こうから主が、イラついた視線を向けてくる。なぜお前たちは入らない、そういっているようだった。ネイリンは、ジェスチャーで、開かないんです、と伝えた。
「だめだ、向こうの錠もかかってる」ラパルクは、振り返ってカーテにいった。「もしかしたら、一刻を争うかもしれない。これから鍵を取りに行ったら時間がかかる。主に黙って窓を割ってもいいか?」
「それは……」カーテはいいよどんだ。
彼女の一存で決められることではないだろう。とはいえ、今は緊急事態だ。ふつうなら、彼女もうなづいていたと思う。だが、部屋をはさんで当の主が見えているのである。そのような状況では、勝手な判断はしづらいのだろう。
ラパルクも、そういったカーテの心境に気づいたようだ。窓ガラス二枚越しに、なんとか庭の主に意思を伝えられないかと、ボディ・ランゲージをはじめた。
だが、不思議な動きのラパルクを、主はまったく見ていなかった。隣のイボーに、なにかをいったようだ。イボーはうなづくと、手にしていたスコップを振りかぶった。
ロッテも見ていたようだ。ネイリンに抱きついてきて、胸の中で小さな身体をさらに縮ませる。ネイリンは、彼女の身体を、しっかりと抱きしめた。
ガラスの割れる小さな音がした。
イボーの割り方は豪快だった。こちら側よりも窓が小さいから仕方ないのかもしれないが、ガラスの真ん中を横切る桟にスコップを打ちつけたのだ。桟に面したガラス四枚が、一気に割れる。彼はスコップを投げ捨て、ガラスが割れてできた空間に手を差し入れると、鍵を回し開けた。
彼の一連の行動に、迷いはなかった。
イボーは、窓枠だけになった窓を開けると、窓の縁に足をかけ、室内に入った。
ラパルクはそれをみて、窓ガラスを叩いた。
「おい、こっちの鍵も開けてくれ」
だがイボーはそれを無視して、主に手を差し伸べた。主は老体に鞭打つ感じで、窓枠に足をかけた。イボーが主の手を引き、彼の身体を引っ張り上げ、抱きしめるようにして室内に引き入れた。
ラパルクは、なおもガラスを叩こうとして、やめた。
彼が入ったところで、とくになにができるわけでもない。もう主が入っているのだから、あせる必要もないのか、そう思ったのだろう。
イボーの手助けで、やっと入った主は、まっすぐにジーナスのもとへ向かうと、しゃがみこみ、彼に向けて手を差し伸べようとして、動きをとめた。
そのときの主の表情は、今までにないものだった。心配とか不安とか、思案とか動揺とか、そういった結果がでていないときにする、あいまいなものではなかったのだ。
彼のこの表情を見て不安が増した。
ジーナスの様子はどうなのだろう。
今までネイリンは、本当のところ、それほど心配はしていなかった。いや、正確にいうなら、心のどこかで、心配したが実は酔いつぶれていただけでした――そんな未来が待っているような気がしてしょうがなかったのだ。
酒びたりの生活を過ごしているらしい、ふだんのジーナスの様子も、そんな予想を自然なものにしていた。
だが、先ほどからの主の様子は、そんな楽天的な予想をさせないものだった。
もしジーナスが酔いつぶれただけだったら、あの主が、こんな顔をするだろうか。
主が、恐るおそる、といった感じでジーナスの身体に手をかけた。そして、上向きにして上半身を抱きかかえる。
――なに、あれ?
最初そう思った。どうしてそう思ったのか分からない。疑問の余地なんかない。なにがあったか、すぐに知れる状況がそこにはあった。
主が抱えるジーナスの胸には、ナイフが刺さっていた。そこから血があふれていて、白いシャツを黒く染めている。なにがあったかは、一目瞭然のはずなのに、すぐには理解ができなかった。
だが少しずつ、現状が頭に染み込んでくる。そこから連想される単語が、泡のようにぷくぷくと沸いてくる。
事故――?
そんなわけはないだろう。
自殺――?
違うだろう。可能性はゼロではないが、あの刺さり方は――。
まるでだれかに、いや、間違いない。だれかに刺されたのだ。
ヒィッ――と息を飲み込むような音がきこえた。ネイリンに抱きついていたロッテだった。彼女はネイリンの服を強く握り締め、頭を彼女の胸に押し当ててきた。
ネイリンは、彼女の後頭部に両手をやり、自分の側に押し付けた。
頭の中が空になっていくのを実感していた。
そして、開いた空間を埋めるように、ネイリンの深いところから湧き上がる過去の記憶。
だめだ、今この記憶を再生させては。
ネイリンは、意志の力で、自分の思考を制御するように勤めた。
深く息を吸い、吐く。
冷静にならなくては――。
ネイリンは、部屋の中に視線を向ける。
主が、イボーに向かってなにかをいっていた。彼の言葉を受けて、イボーがこちらにきた。扉の向こう、あるいは中で、カチリ、と音がした。