第二章 5
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目を覚ます。
わずかな眠りだったが、頭はいくらかすっきりしていた。だが、反対に身体的な疲れが表にでてきた感じがした。もともと疲れは溜まっていたのだ。やはり、ちゃんと睡眠をとったほうがいいのだろう。
そうは思ったが、ネイリンは借りている部屋には行かなかった。プライの部屋をでて、階下に向かう。よその家で、昼間から眠るのは、どうにも具合わるい。
大広間には、先ほどと同じように、ラパルクだけがいた。暖炉の前のソファで、首の後ろで手を組んで、ぼんやりとしていた。ネイリンは厨房に向かおうと、彼を無視して大広間を通り過ぎようとしたのだが、後ろから声をかけられた。
「よう、ネイリン。どこ行くんだ?」
無視してもよかったが、一応答えておくことにした。
「厨房よ。なにか用?」
「おまえなぁ、まだ怒ってんのか? そんな大したことじゃないだろうに」
無視して厨房に行こうと食堂に通じる扉を開けようとしたところだ。その右の扉が開き、そこからカーテとロイが姿を現した。
そういえば、厨房に行くのに、べつに食堂を通る必要はないんだ――そんなのんきなことを考えているネイリンとは反対に、彼女たちの表情は、少しだけ険しかった。
「どうしたんですか?」ネイリンがきく。
「あ、ネイリンさん。いえね、どうもしないんですが……」
どうかしたんだろうな、と思った。
「なにか手伝いましょうか?」
もともと、朝食の後片付けを手伝おうと、階下に下りてきたのである。他に仕事があるなら、それを手伝ってもいい。
「いえ、大したことはないんです。ゆっくりしてらしてね」そうカーテはいいおくと、ロイと二人で廊下につづくあの壁の穴の向こうに行った。
あの穴の向こうには、主の部屋や、ロッテたちの部屋があるはずだ。まだ行ったことはない。どんな感じなのだろうか。ロッテは、それぞれの部屋に、監視窓のようなものがついているといっていた。ならば、廊下に行くだけで、彼らの部屋の様子なども知れるということだ。
――後で行っちゃおうかな。
窓から手を振ったら、ロッテはどんな顔をするだろう。いや、その前に、外から中が見えるということは、向こうからもこちらが見えるのだから、ロッテの部屋が奥にあった場合は、主やおじさんなどに見つかる可能性もあるのか。
窓の下をしゃがみながらゆっくり進む自分を想像し、ネイリンはわくわくした。そういう、隠れてなにかする、というシチュエーションに、彼女は昔から弱い。
「おい、ネイリン。なにぼけっとしてんだ?」
ラパルクの声で我に返った。
「べつに。ちょっと哲学的なことを考えてたの」いいながら、ネイリンはラパルクの隣に座り、座った後でしまった、と後悔した。
――こいつとは絶交するつもりだったのに。
「はぁあ」無意識のうちにため息が出る。
「なんだよ、ため息なんか吐いて」
「べつに。ロッテも勉強してるし、カーテさんも忙しそうだし、暇だなぁ、って思って」
「おれがいるだろ」
「うっとうしいだけじゃない」
「おまえなぁ、」
といって、ラパルクが身体ごと、本格的にネイリンの方を向いた。ネイリンは反対側を向き、背もたれに肘をのせた。後ろから、これ見よがしのため息が聞こえる。ネイリンもため息で返した。
しばらく、そんな状態でいると、パタパタという足音が聞こえてきた。見ると、ロイが一人で大広間に入ってきた。小走りで、階段を上ろうとしている。
さっきから、いったいなにをやっているのだろう。
「ロイくん?」ネイリンは声をかける。「どうしたの? 大丈夫?」
「え、あ、はい。大丈夫です」
ロイが階段で立ち止まり、律儀に振り返る。その初々しいさまが、プライやロッテとは違って、とても子供らしい。やっぱり子供はこうじゃないとな、とネイリンは微笑ましく思った。
「でもさっきから、なんかあわただしいけど……。なにしてるの?」
「えっと……」ロイは、はなしてよいものか迷ったらしかったが、結局口を開いた。「トーナス様の姿が見えないんです」
トーナス様とは――。一瞬分からなかったが、そういえばカーテとの会話の中でもでてきた名前だった。ジーナスの兄、つまりロッテのおじさんだ。
「そうなんだ。どこかでかけたんじゃないの?」ネイリンは立ち上がって、ロイのところに向かった。距離が開いていて、なんとなくはなしにくかったのだ。
「でも、そんな話はきいてないですし……」
「子供じゃないんだ。黙ってでることもあるだろう」ラパルクも立ち上がりついてくる。
「だれにもいわずに家をでるということは、今まではなかったみたいですけど……」
子供じゃないが、自由にふらふら行動できるほど、無責任な立場でもないのだろう。
「散歩とか?」ネイリンは、思いつきいってみた。
「外は雨が降っています。トーナス様は雨が嫌いなお方だから、それはないと思うんですが」
いわれて窓に目をやると、たしかに水滴が窓をぬらしている。昨日からの雨が、しつこく降り続いているようだ。
「ラパルク。昨日ルイーザさんが帰ったといってたけど、一緒にでていった?」
「いや。あの人を見送った後は、そのまま自室に戻ったみたいだったけどな」
ふうん、とネイリンは相槌を打った。大人の姿が一人見えないぐらい、どうってことない気もするが、状況から考えると、多少不自然で、気にならないこともない。家のものだと、それがたとえ使用人だとしても、感情や事情も絡むから、なおさらかもしれない。
「あ、じゃあぼく、上を見てまいりますので。ご心配ありがとうございました」
「あ、うん」といって、ネイリンは階段の下から彼を見送りかけたが、ふと思いつき、一緒についていくことにした。どうせ、なにもすることはない。「あ、あたしも行く。プライの様子も見たいしね」
ネイリンが階段を上ると、当たり前のようにラパルクもついてきた。
「あんたはいいのよ、べつにこなくても」
「おれだって、プライの様子気になるしよ」
「そのわりには、さっきまでぼさっと呆けてたじゃない」
「うるせぇなぁ」ラパルクは耳に指を突っ込んで、そっぽを向く。
大広間の吹き抜け部分を歩き、廊下に入る。その曲がり角には、左手にあの部屋がある。しかし、ロイはその部屋を無視して角を曲がると、右側にばかり並んだ扉の、一番手前のものを開けた。ここは物置である。ロイがすぐに扉を閉める。後ろから見ていたが、だれもいなかった。
つづいて、次の扉を開ける。浴室と洗面台などがある部屋で、先ほどまでネイリンがシャワーを浴びていた部屋である。ここは一見しただけでは分からないので、ロイが部屋に入った。ネイリンもなんとなくついていった。だれもいない。
次の部屋はプライの部屋である。この扉の前まできて、ロイはネイリンを見上げた。
「あの、ここから先の部屋も、できれば確認したいのですが……」
「ああ、うん。いいよ」
ネイリンが答えることでもないかもしれないが、べつに不都合もないし、そもそも部屋を借りてお世話になっている身だ。わざわざ確認してくれるロイは、紳士的だといえる。
ふと、この屋敷に住む大人の男たちの顔が浮かんだ。彼らに、今のような気遣いができるだろうか。紳士とは、後学的に身につくたしなみのはずだ。だが、この屋敷の男たちを並べてみると、年とともに抜け落ちていくもののように錯覚してしまう。
ロイが扉を開けた。プライが眠っているのが見えた。
「クローゼットを開けてみてもいいですか?」ロイがきく。
そこにいたって、はじめてネイリンは、事態を理解しつつあることに気づいた。
よくよく考えてみると、この家を事実上動かしている人間が、物置などにいるはずがないし、二階の洗面所にいることだって、ふつうは考えにくい。そういったところまで、当たり前のように見てまわるロイを見て、もっと早くに気づいてしかるべきだった。
トーナスの姿が見えないのは、かなり不自然な状況なのだ。
とはいえ、やはり物置やクローゼットの中にいるとも思えないのだが。
「どうぞ」ネイリンが、ロイをうながす。
ただ、どうせ探すなら、徹底的にやったほうが、限定条件がはっきりし、この後考えなくてはならないことも、明確になるだろう。
――まあ、あたしは関係ないんだけど。
ただ、暇はつぶせているなぁ、なんて考えているネイリンである。