第26話「堰の、下」
翌る朝、私は都のいちばん大きな市へ、行った。
ヒナと、二人で。
ナダは宿で、海路の図を引き直している。
ネネは宿に残して、荷を見させた。
私とヒナは、ただの海を渡ってきた女商人とその供として、市の人混みに紛れた。
無名の隻腕の女商人だ。
アズリアでも、私は固有の名を立てない。
名を訊かれれば、適当な土地の名をひとつ返すだけだった。
市は、信じられないほど豊かだった。
石畳の広い通りの両側に、店が隙間なく並んでいる。
麦の山。
塩の山。
色とりどりの布。
香りの強い香料。
金物。
陶器。
果物が籠に山と積まれて、強い日に照らされて、つやつやと光っている。
本土では、見たこともない果物もあった。
買い手がひっきりなしに通り、銀貨が手から手へ渡り、荷が舟と荷馬車に積まれて、運ばれていく。
売り手の声と、買い手の声と、車輪の音がひとつに混じって、市全体が低く唸っているようだった。
麦の店の前に、私は立った。
大きな袋が、いくつも積まれている。
袋の口が開いていて、中の麦が、見える。
私は三本の指でひとつまみ麦を取って、てのひらに広げた。
乾いた、いい麦だ。
粒がそろって、虫も食っていない。
指で押すと、ほどよく固い。
湿気を吸っていない、上等な麦だった。
本土の痩せた畑の麦とは、出来が違った。
麦は、ある。
たっぷりと、ある。
山と積まれて、売られている。
本土で麦価が異常に上がり、人が飢えて死んだ、あの地域とは、まるで違う。
ここには、麦があふれていた。
なのに、と私は思った。
なのに、この都でも、路地で人が死ぬ。
市の賑わいから一本裏の路地へ入ると、そこには、別の世界があった。
私は麦の店を離れて、その裏路地へ足を向けた。
賑わいの音が、背中ですこしずつ遠くなる。
日の光が建物の影に遮られて、路地は薄暗かった。
石畳が急に濡れて、冷たくなった。
日の当たらない石は、いつまでも夜の冷たさを残している。
表通りの明るい賑わいから、ほんの数歩。
それだけで、生きている者の通りから死にかけた者の路地へ、世界がひっくり返った。
そこに、人が座り込んでいた。
壁にもたれて、痩せた者たちが何人も。
子供を抱えた女。
骨の浮いた老人。
動く力もないのか、誰もものを言わない。
目だけが、通りを行く者を追っている。
落ちくぼんだ、その目の動きを、私は知っていた。
穴の底で、岩になる前の者たちが最後に、こういう目で通りかかる者を見た。
何かを、乞うているのではない。
乞う力も、もう、ない。
ただ、見ている。
麦の山が、ほんの一本向こうの通りにある。
乾いた、いい麦の山が。
その麦に、手が届かない。
届かないまま、ここで、座っている。
子供を抱えた女が、私と目が合った。
女は、何も言わなかった。
腕の中の子は目を閉じて、ぐったりとしている。
眠っているのか、それとも、もう。
私には、分からなかった。
女はただ私を見て、それから目を伏せた。
私が通りすがりの女商人だと見て取ったのだろう。
乞っても、麦は来ない。
来ないことを、もう知っている目だった。
麦が、すぐそこにあるのに。
私は立ち止まって、その路地を見ていた。
穴の底でも、こうだった。
すぐ上に、麦があるのに、降りてこない。
十二人がひと冬で岩になった。
麦がないから死んだのではない。
麦が届かないから、死んだ。
それがいちばんこたえる死に方だった。
この路地も、同じだった。
麦が、ないのではない。
麦は、ある。
あふれるほどに、ある。
けれど、この路地に座る者たちには、その麦が届かない。
届かせる何かが、欠けている。
あるいは、届かないように誰かがしている。
届かないように、している。
その考えがふと胸に浮かんで、私はそれを、しばらく握っていた。
飢えは、麦の量の問題ではないのかもしれない。
麦は、足りている。
なのに、死ぬ。
なら、足りないのは麦ではなく、麦がこの者たちのところまで流れてくる、道だ。
その道を、誰かが塞いでいる。
あるいは、その道を渡るための銀を、この者たちから奪っている。
麦は、銀のある者のところへは流れ、銀のない者のところへは流れない。
誰かが、その流れをそういう形に整えている。
豊かさは、流れる。
けれど、流れには、堰がある。
堰の上は、あふれ、堰の下は、乾く。
この路地は、堰の下だった。
市の賑わいは、堰の上だ。
同じ都に、上と下がある。
その堰を、誰が築いたのか。
それが、私の問いだった。
私はしばらく、その問いを握ったまま、薄暗い路地に立っていた。
怒りが、胸の底ですこし熱くなった。
けれど、その熱を、私は奥へ沈めた。
怒っても、麦は動かない。
施しをひとつ渡しても、この女と子を一日生かすだけだ。
明日には、また、飢える。
私が断つべきは、この路地の飢えではなかった。
この路地を作っている、堰だった。
だから、私は怒りを沈めて、量る目に戻った。
ヒナが隣で、路地の者たちを数えていた。
数えの木札に、無意識に指が動いている。
何人、座っているか。
何人が、子供か。
年寄りか。
ヒナの体に、染みついた癖だ。
数えずには、いられない。
その指の動きを見て、私はヒナが何かにこらえているのを知った。
この子も、穴の話を、聞いて育っている。
すぐそこにある麦が、届かない。
その理不尽が、ヒナの数える指に出ていた。
「レン」
ヒナが、低い声で言った。
「市には、あんなに麦が、あるのに」
「ある」
私は、答えた。
「あるのに、ここには、来ない」
ヒナはそれきり黙った。
数えの指だけが、まだ動いていた。
この子にできることは、数えることだけだ。
私にもできることは、量ることだけだった。
施しは、できる。
けれど、施しはこの路地を変えない。
明日には、また同じ路地に、同じ飢えが座る。
私たちが本当にしなければならないのは、この路地を作っている仕組みを量って、見極めて、いつか開けることだった。
その「来ない」の理由を、私は量りに来た。
麦は、ある。
賑わいも、ある。
豊かさが、面いっぱいに広がっている。
その豊かさの裏側で、人が、飢えて、死ぬ。
豊かさと飢えが、同じ都の中で、ひとつの路地を境に隣り合っていた。
市の麦の山と、路地の痩せた者たち。
その二つの間に、ひと刷毛の薄暗い影がある。
麦をこちらへは流し、あちらへは流さない、その影を、私は見極めなければならなかった。
残った左の目で、市の光と路地の闇を、私は交互に見ていた。
光と、闇。
豊かさと、飢え。
その二つを隔てている、薄い、薄い、壁の正体を。
◆ ◇
その日から、私は麦を数で追いはじめた。
剣では、海は渡れなかった。
剣では、この影も断てない。
なら、私が握れるのは、数だけだ。
麦がどこにどれだけあって、いくらで売られ、誰の手をどう渡っていくのか。
それをひとつずつ数えていく。
盗賊の頃、護送の列の数を、数えたように。
穴の底で、水の数を、数えたように。
数えることだけは、私のいちばん古い武器だった。
数えるのは、ヒナの役だった。
ヒナはナダから数えを継いでいた。
人を数える木札のほかに、いまは世界の値を書きつける帳面を持っている。
向こうの帳面だ。
アズリアの市の値を、ヒナはその帳面に書き込んでいった。
墨を磨り、細い筆で麦の値を日ごとに記す。
今日の値。
昨日の値。
十日前の値。
数を並べて初めて、値がどう動いたかが見える。
それが、ナダから受け継いだ、数えの芯だった。
私とヒナは、毎日市を歩いた。
いくつもの麦の店を、回った。
同じ麦が、店ごとに、いくらで売られているか。
袋の口を開けて、麦の質を確かめ、値を訊く。
一つの店だけでは、分からない。
十の店を回って初めて、その日の本当の値が見えてくる。
ヒナが値を覚え、帳面に書く。
私は麦の質を、てのひらで読む。
三本の指と親指で、麦をひとつまみ取って広げる。
粒の固さ、乾き具合、虫の食い。
それを、指で、確かめる。
腕は、ひとつしかない。
だから、私が質を読み、ヒナが書く。
二人で、ひとつの手の代わりをする。
値を訊くと、店の者の顔つきが面白かった。
海を渡ってきた隻腕の女商人が、麦の質を指で確かめ、値をしつこく訊く。
最初は、訝しげに見られた。
けれど、私が麦の質を的確に言い当てると、店の者の目が変わった。
商人は、商人の目を見抜く。
すこしずつ、値の話をするようになった。
地味な仕事だった。
半日、市を歩いて、帳面に並ぶのは、数字のほんの数行だ。
けれど、その数行が十日、二十日と積み重なると、見えてくるものがあった。
ネネも、調べを手伝った。
治る体を持つ女だが、それを、誰にも見せない。
いつも布をかぶって、目立たぬようにしている。
その静かな佇まいは、人混みに紛れるのに、向いていた。
誰も、ネネを覚えない。
ネネは市の片隅に座って、麦を買う者たちを見ていた。
誰が麦をいくつ買うか。
買えずに、引き返す者は、何人か。
数えるのは、ヒナの帳面に。
見るのは、ネネの目で。
片手しかない私の代わりに、二人が目と手を貸してくれた。
数えていくうちに、奇妙なことが見えてきた。
麦の値が、高い。
市には、あれだけ麦が積まれているのに、その麦の値が不自然に高かった。
物があふれていれば、値は下がる。
足りないものは、高く、余るものは、安い。
それが、商いの理だと、ナダから、教わった。
なのに、この都の麦は、あふれているのに、高かった。
あふれているのに、高い。
その歪みを、私はてのひらの中で転がした。
ナダにこの話をすると、ナダはしばらく黙って、それから低い声で言った。
「麦が、店に、出てねえんだ」
市の店に並ぶ麦は、ほんの上澄みだった。
本当の麦は、もっと大きな量がどこかにしまわれている。
倉だ。
倉に麦をしまい込んでおく。
少しずつしか市に出さない。
出す量を絞れば、市の麦はいつも足りないように見える。
足りなければ、値は上がる。
そうやって、値を高いところで保っている。
倉に、しまい込む。
その手を、私は本土でも見ていた。
北街道筋の、あの男爵だ。
領内の麦を倉に囲い、値を吊り上げ、飢えで稼いだ男。
私はあの男を、獲物の掟で断った。
武勇では、相手にならない。
一突きで、終わった。
けれど、終わったのは、男爵ひとりだ。
麦の値はすぐ、別の歪みに戻った。
死人は、減らなかった。
私は駒を、ひとつ弾いただけだった。
盤は、回り続ける。
断つ相手を、間違えていたのだ。
あの時は、まだそれが分からなかった。
あの男爵がやっていたことを、この都では、もっと大きく、もっと巧妙にやっている者がいる。
倉に、麦をしまう。
出す量を、絞る。
値を、高く、保つ。
買えない者は、路地で飢える。
本土の男爵がひとりでやっていたことを、この都では、三つの大きな家が組んでやっているのかもしれなかった。
だとすれば、断つべき相手は、ひとりではない。
あの男爵を断ったような、一突きでは、終わらない。
断つべきは、男爵でも倉でもなく、その奥の、何か大きなものだった。
私はヒナの帳面を覗き込んだ。
日ごとの麦の値が、並んでいる。
細い字で、几帳面に。
その数の列を、私は残った左の目で追った。
数は、嘘を、つかない。
慇懃な言葉も、立派な建物も、嘘をつく。
けれど、ヒナの帳面に並んだ数は、嘘をつかなかった。
市にあふれる麦と、それでも下がらない値。
その二つの数が、この都の嘘を語っていた。
「もっと、要る」
私は、言った。
「市の値だけじゃ、足りない。倉に、どれだけ麦があるかを、知りたい」
市の値は、見えた。
けれど、倉の中は、見えない。
倉に、どれだけの麦がしまい込まれているのか。
それが分かれば、この歪みの本当の大きさが、分かる。
市にあふれる麦が上澄みなら、倉の麦は、その下の巨大な水だ。
その水の量を、私は数えなければならなかった。
ヒナが帳面を閉じて、私を見た。
「倉の中身は、外からは、見えない」
「見えないものを、見えるところから、量る」
私は、言った。
倉の中は見えなくても、倉に入る荷と、倉から出る荷は見える。
門を入る荷馬車と、出る荷馬車を数えれば、倉にどれだけ溜まっているかが、おおよそ分かる。
市に出る麦の量も、分かっている。
入る量と、出る量の差。
その差が、倉に溜まっていく麦だ。
見えないものを、見える数から逆に量る。
それも、ナダの数えの教えだった。
直に数えられないものは、その縁を数える。
数で、見極める。
値という刃を握る手を、数で追い詰める。
それが、剣を持たない私の戦い方だった。
私はヒナに、倉のことを調べはじめるよう言った。
門を、いくつ、辿れるか。
荷馬車を、どこまで数えられるか。
地味な長い仕事に、なるはずだった。





