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灰のレン  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第10話「奪わずに、増える」

 最初の儲けに、私は、油断した。


 塩が回った。仕入れて、運んで、売れば、すこし多い銀が手に戻ってくる。ナダの円は、たしかに回った。なら、もっと大きく回せば、もっと多い銀が戻る。私は、そう思った。


 二度目の仕入れで、私は、麦に手を出した。


 塩より、麦の方が、儲けが大きい。ナダは、初手は塩でと言った。けれど、塩は、儲けが薄い。一度回して味を覚えた私は、麦なら、もっと大きく回せると思った。麦の足りない土地は、ナダの地図にある。そこへ運べば、塩よりずっと、多い銀になるはずだった。


 ナダには、言わなかった。


 訊けば、止められると、どこかで分かっていた。だから、訊かずに、私は麦を買いに行った。ヒナだけを連れて。


 麦を売る商人は、太った男だった。


 愛想がよく、よく喋った。麦の出来を、自慢する。今年は、いい麦だ。粒が揃っている。どこの麦より、重い。男は、樽を叩いて、笑った。私は、その麦を見た。たしかに、悪くない麦に見えた。


 男が、目方を量った。


 大きな天秤だ。片方の皿に重りを載せ、もう片方に麦を盛る。麦の皿が、ゆっくり下がって、釣り合う。男が、目方を言う。私は、その目方ぶんの銀を払う。名のない銀で。麦を、ヒナが袋に詰めて、背負った。


 いい買い物をした、と、その時の私は思っていた。


  ◆  ◇


 丘へ帰って、麦をもう一度、量り直した。


 ナダが、それをする。老いた船乗りは、麦の袋を見て、すぐに眉をひそめた。杖を置いて、自分の手で麦をひとつかみ、てのひらに載せる。重さを量っている。それから、袋の麦を地に、ざっとあけた。


 「目方が、足りねえ」


 ナダが、言った。


 「それに、底に、屑が混ざってる」


 私は、地にあけた麦を、見た。上の方は、たしかにいい麦だった。粒が揃って、重い。けれど、袋の底から出てきた麦は違った。小粒で、割れて、土の混じった屑のような麦だ。上にいい麦を見せて、底に屑を詰める。古い、商人の手だった。


 目方も、足りなかった。


 ナダが自分の天秤で量り直すと、私が払った銀ぶんより、ずっと、少なかった。あの太った男の天秤は、狂わせてあったのだ。重りが重く作ってあるか、皿の釣り合いを細工してあるか。どちらにせよ、私は、目方をごまかされた。少ない麦に、多い銀を払った。その上、底には屑が詰まっていた。


 二重に、騙された。


 上の麦で、目を欺き、底の屑で、量を水増しし、狂った天秤で、目方をごまかす。三つの嘘が、ひとつの取引に、仕込まれていた。あの太った男は、笑いながら、その三つの嘘をいっぺんに、私に売りつけた。愛想のよさそのものが、嘘のひとつだったのだ。


 私は、地にあけられた屑麦を、しばらく見ていた。


 怒りは、すぐには、来なかった。むしろ、私の顔から表情が消えていった。


 怒りを通り越すと、私の顔は、能面になる。穴の底で覚えた、いちばん奥の感情のしまい方だ。叫びもしない。眉も動かさない。ただ、表情が、抜け落ちる。腹の底では、何かが、煮えていた。けれど、それは、顔には出なかった。顔に出さないことだけは、穴の底で嫌というほど、覚えた。出せば、付け込まれる。だから、しまう。


 ヒナが、横で、唇を噛んでいた。あの子は、自分が荷を背負ったから、気づくべきだったと、悔やんでいるのだ。麦を自分が、確かめておくべきだった、と。


 「お前のせいじゃない」


 私は、ヒナに、そう言った。


 私のせいだ。ナダに訊かずに、麦に手を出した。塩で味を覚えただけの私が、儲けに目が眩んで、相手の手を読み損なう。目方の天秤を、確かめもしない。底の麦も、見もしない。愛想のいい男の言葉を、信じた。


 奪う側だった頃、私は人を読み損なったことなど、なかった。見張りの油断、護送の列の弱み、追っ手の数。それを読み違えれば、死ぬからだ。私の目は、人を、正しく読む。


 けれど、それは、襲う目だった。


 買う目は、まだ育っていない。襲う相手の弱みは読めても、売る相手の嘘は、読めない。愛想のいい笑顔の裏で、男が天秤を細工しているのを、私は見抜けなかった。襲う目と、買う目は、別の目だ。私は、買う目を、まだ持っていなかった。


  ◆  ◇


 ナダは、屑麦を地から拾い集めながら、言った。節くれだった指で、土の混じった麦をひとつかみ、ふたつかみ。


 「いい勉強だ。安く済んだ」


 安く済んだ、とナダは言う。麦ひと袋の損で、これを学べたなら、安い。もし、これが、もっと大きな取引だったら。もっと多い銀をつぎ込んでいたら。損は、はるかに大きい。最初の小さな損で、騙される手を、ひとつ覚えた。それは、安い授業料だった。


 第一章で、私は火で銀を失う目減りを、安い代価だと知った。ここでも、同じだ。小さく失って、大きく学ぶ。それが、商いの損の勘定だった。


 怒りは、結局、丘の上では出さない。


 能面のまま、私は、屑麦の始末を終える。けれど、その夜、ひとりになって、寝床で、私はすこしだけ拳を握った。たったひとつの手の三本の指と親指で。あの太った男の愛想のいい笑顔を、思い出して。腹の底で煮えていたものがひとりになって、ようやく、すこし、外へ出る。けれど、声には出さない。レンは、叫ばない。


 次の朝には、もう、怒りは収まっている。残ったのは、学びだけだ。


 「これから、どうする」


 ヒナが、訊いた。


 私は、屑麦の袋を見る。それから、樫の棒を、地に立てた。握りの内側の灰の字を、てのひらで一度、確かめる。


 「目方は、自分で量る。袋の底まで、自分で見る」


 私は言った。


 二度と、相手の天秤を、信じない。二度と、上の麦だけを、見ない。買う時は、自分の手で量り、自分の目で底まで確かめる。それが、騙される手への答えだった。


 そして、もうひとつ。


 「私は、目方を、ごまかさない」


 私は、そう、付け加えた。


 目方をごまかされて、私は、損をした。なら、私は、決して、目方をごまかさない。底に屑を詰めない。上にいい品を見せて、下に屑を隠さない。私がされて嫌だったことを、私は、人にしない。それが、ナダの言った商人の信用のいちばんの土台だった。


 騙された一袋の麦から、私は、ふたつのことを学んだ。騙されない手と、騙さない掟を。


 奪う日々にも、掟はあった。だが、それは、奪う者のための掟だった。回す日々の掟は、奪われる者を、出さないための掟だ。目方をごまかさないとは、買う相手を、騙される者にしないということだ。


 獲物の掟が、盗賊の私を二十年、生かした。


 奪う相手は、人を売る側だけ。村と小商いは、見送る。殺しは、出さない。鎖は解くが、団には入れない。その掟が、鎖切りの二十年を、支えてきた。掟があったから、私たちは、ただの人殺しにならずに済んだ。


 なら、商いの掟が、これからの私を生かすだろう。その掟の最初の一行が、屑麦の袋の前で、生まれた。


 目方を、ごまかさない。


 それが、商いの掟の最初の一行になった。獲物の掟が、奪う日々の背骨だったように、商いの掟が、回す日々の背骨になる。掟の中身は、裏返る。けれど、掟に従って生きる、ということだけは、変わらなかった。


  ◆  ◇


 騙された一袋のあと、私は数えることを、商いの背骨に据えた。


 ナダが、数えの祖だった。穴の底で、水を数え、骨を数え、名を数えた者がいたように、ナダは海の上で、数えてきた男だ。荷の数、潮の数、港の値。数は、ここでも、道具になる。ナダは、いつか、そう言った。穴で道具だった数が、商いでも、道具になる。


 その数えを、ヒナが、受け継ぎはじめた。


 ヒナは、八人目だ。十二の年に拾った、痩せた子がいつのまにか、私の片腕になっていた。腰には、ナダから受け継いだ、数えの木札を提げている。人数の段と、年の段。それに今、もうひとつ新しい段が加わろうとしていた。


 商いの数えだ。


  ◆  ◇


 はじめ、ヒナの帳面は、木札だった。


 ナダから受け継いだ、あの数えの木札だ。人数を刻む段と、年を刻む段。八人の人数と、私の四十の年が、刻まれている。その同じ木札に、ヒナは商いの数を刻みはじめた。


 仕入れた塩の枡の数。払った銀の目方。売った塩の枡の数。戻ってきた銀の目方。それを、小刀の先で、木に刻んでいく。一刻みが、ひとつ。短い刻みと、長い刻み。ヒナは、ナダから教わった刻み方で、数を木に残していった。けれど、木札では、すぐに、足りなくなった。商いの数は、人数や年より、ずっと、多い。木札には、刻める数に、限りがある。一枚、また一枚と、木札が増えて、腰に提げきれなくなった。


 だから、ヒナは、帳面を作りはじめた。


 羊皮を、薄く削った、紙の代わりだ。そこへ、炭で、数を書いていく。何を、いくつ、いくらで仕入れたか。何を、いくつ、いくらで売ったか。差が、儲けだ。あるいは、損だ。麦の一件も、ヒナは、書いた。いくつの麦を、いくらで買い、量り直して、いくつ足りなかったか。損も、書いた。


 「損も、書くのか」


 私が訊くと、ヒナは、頷いた。炭の先で、麦の一件の数を羊皮に、丁寧に書きつけながら。


 「損を書いておかないと、同じ損を、また、する」


 そのとおりだった。麦の損を書いておけば、次に愛想のいい商人に会った時、帳面が思い出させる。あの時、底に屑が詰まっていた、と。数えは、儲けを数えるためだけのものではなかった。損を、忘れないための道具でもあった。


 ヒナの帳面は、向こうの帳面とは違った。


 世界側の帳面がある。高札、名簿、刻印。役所が、人と物を、縛るための帳面だ。私を、八百三十二番として縛った、向こうの帳面。役所の刻みが、銀を縛った、向こうの帳面。それは、人を所有するための帳面だった。


 ヒナの帳面は、それとは違うものだった。


 誰かを縛るための数ではない。私たちが、自分の商いを、見るための数だ。何が、どこで、いくらで動いたか。どこで儲け、どこで損したか。それを、自分たちで、見るための帳面。縛る帳面ではなく、見る帳面だった。


 懐のカラスの帳面も、思い出した。


 読めない、薄い帳面だ。あの言葉のない男の遺品。私には、いまだに、読めない。けれど、捨てられない。胸の内側で、それは、ずっと、温い。あの帳面に、何が書いてあったのか。いつか、分かる日が来るのだろうか。ヒナが数を書きつけるたびに、私は、ふと、懐のあの帳面を思い出した。


 縛る帳面と、見る帳面と、読めない帳面。


 私の中には、三つの帳面が、あった。私を八百三十二番として縛った、向こうの帳面。今、ヒナが自分たちの商いを見るために、書きはじめた帳面。そして、懐のカラスの読めない帳面。三つの帳面が、私の四十年を、それぞれの形で貫いていた。縛られ、見るようになり、そして、いつか読む日を待っている。


  ◆  ◇


 ナダの数えと、ヒナの帳面が合わさって、商いが、回りはじめた。


 火の輪の夜、ナダとヒナは、よく向き合っていた。ナダが、しわがれた声で、海の値を語る。どの港で、何が高かったか。どの川を上れば、何が安く手に入るか。何十年も前の値を、ナダはまるで、昨日のことのように覚えていた。その値を、ヒナが帳面に書き留める。炭の先が、羊皮を、かさかさと走る。


 ナダの頭の中の地図が、ヒナの帳面の上にすこしずつ写し取られていった。


 ナダが、頭の中の地図で、どの土地に何が足りないかを知っている。どの港で何が高く、どの宿場で何が安いか。海の値も、川の値も、その頭の中で、生きている。ナダが、道筋を、示す。


 ヒナが、その道筋の上を動いた物と銀を、数える。仕入れと売りを、帳面に書く。いくら出て、いくら戻ったか。儲けと損を、一文字ずつ、記していく。


 ナダの数えが、どこへ向かうかを決め、ヒナの数えが、どれだけ回ったかを記す。向かう数えと、回った数え。ふたつの数えが合わさって、初めて、商いが見えるようになった。


 私は、その二人の数えの真ん中にいた。


 ナダの地図を、残った左の目に、写し取る。ヒナの帳面を、横で、確かめる。どこへ運べば、足りない土地に物が届くか。どれだけ運べば、損をせずに回せるか。ナダの古い知恵と、ヒナの新しい数えが、私の中でひとつの商いになっていく。


 数えが、商いの背骨だった。


 ナダが火の輪で、ヒナの帳面を覗き込んで、言った。曲がった背をさらに曲げて、羊皮の上の数を、目を細めて追っている。


 「お前さんは、覚えが、早い」


 ヒナが、すこし、笑った。十二の年に拾った頃の痩せて怯えた顔は、もう、どこにもなかった。背が伸び、肩が広くなり、声が低くなった。今は、数えを覚えた、若い商い手の顔だ。


 「教えるのが、うまいんだ」


 老いた船乗りと、若い数え手が、火明かりの下で帳面を挟んで、向き合っている。私は、その二人をすこし離れて、見ていた。


 数えは、ナダから、ヒナへ、渡っていく。


 いつか、ナダは、いなくなる。海を見ていた目も、海の値を覚えた頭も、いつかは、土に還る。曲がった背は、もう、ずいぶん低い。杖がなければ、歩けない。あの老いた船乗りに残された時は、もう、長くない。それは、誰も口に出さなかったが、みんな分かっていた。だから、ナダは急ぐように、ヒナに数えを渡していた。


 けれど、ナダの数えは、ヒナの帳面の中で生き続ける。穴の底で、数えを覚えた者が死んでも、数えそのものは次の者へ渡っていったように。数えは、人が死んでも、渡っていく。木札の刻みと、羊皮の文字の中で、ナダの五十年の海の知恵は、ヒナへ、そして、その先へ渡っていく。


 その渡りの真ん中に、私たちの回りはじめた商いがあった。


  ◆  ◇


 ひと月が過ぎて、廃砦の商館は、すこしずつ回りはじめた。


 塩を仕入れ、足りない土地へ運んで、売る。麦は、二度と、目方を確かめずには買わなかった。鉄は、ガロが目利きをした。ナダの地図が、どこへ運ぶかを決め、ヒナの帳面が、どれだけ回ったかを記す。小さな円が、いくつも、回っていった。


 最初の利益が、出た。


 大きな利益ではない。塩を一度回して、すこし。鉄を一度動かして、すこし。それが、いくつも積み重なって、ひと月で名のない銀の塊がひとつぶん増えた。仕入れに使った銀より、戻ってきた銀の方が、多い。その差が、利益だった。


 ヒナが、帳面を見て、その差を私に告げた。


 「これだけ、増えた」


 ひと月のすべての仕入れと、すべての売りを足し引きした、その差だ。決して、大きな数ではない。けれど、たしかに増えている。火で目減りした分も、麦で損した分も、ぜんぶ引いて、なお、すこし多い。


 私は、その差を聞いて、しばらく黙っていた。


 奪わずに、銀が、増えた。


 二十年、私は奪うことでしか、銀を増やせなかった。月のない夜、護送の列を襲い、箱を担いで消える。それが、私の知っている、銀の増やし方だった。力で、世界をねじ曲げて、奪う。速くて、荒くて、一夜で済んだ。


 今、私の手の中で、銀が別のやり方で増えていた。


 誰も、襲わずに。誰の膝裏も、打たずに。塩を、足りない土地へ運んだだけだ。麦を、目方を確かめて買っただけだ。鉄を、目利きして動かしただけだ。それだけで、銀が、すこし、増えた。世界をねじ曲げずに。世界の足りない場所と、余る場所の差を、埋めただけで。


  ◆  ◇


 私は、増えた銀の塊をてのひらに載せた。


 名のない銀だ。ガロの坩堝で溶かした、刻みのない塊。けれど、これは、最初に溶かした塊とは違った。最初の塊は、奪った銀を溶かしたものだった。この塊は、回して、増えた銀だ。奪った銀でなく、稼いだ銀だ。


 最初の銀は、奪う手が集めた銀だった。この銀は、回す手が稼いだ銀だ。火を通れば、どちらも、見分けはつかない。のっぺりとした、灰色の塊。けれど、私には、分かった。これは、奪わずに、増えた銀だ。私のたったひとつの手が、初めて、奪わずに増やした銀だった。


 その重さは、奪った銀の重さとは、違って感じた。


 奪った銀は、重かった。襲った夜の人の悲鳴と、繋ぎ馬の綱を切る音と、樫の棒の鈍い手応え。それが、銀の重さに、混じっていた。けれど、この稼いだ銀には、それがなかった。塩の枡の音と、老婆が塩を舐めた顔と、ヒナの帳面に炭を走らせる音。それだけが、この銀の重さに、混じっていた。


 稼いだ銀は、堂々と、てのひらに載せられた。


  ◆  ◇


 その夜、火の輪に、五人が揃った。


 ガロが火を熾し、ナダが目を閉じて火に当たり、ネネが繕い物の手を動かし、ヒナが帳面に今日の数えを刻んでいる。八人だった輪が、五人になった。けれど、欠けたとは、もう、思わなかった。散った三人は、各地の結び目で、この五人とつながっている。ヒナの数えの中で、つながったまま、ある。


 私は、火のそばに座って、増えた銀の塊を五人に見せた。


 「ひと月で、これだけ、増えた」


 誰も、歓声は上げない。ガロは、火を見たまま、肩を一度動かしただけだ。ナダは、目を閉じたまま、低く笑う。ネネは、繕い物の手を止めて、塊をちらと見る。ヒナだけが、すこし誇らしげに、帳面を撫でた。


 稲妻のような瞬間ではない。


 ただ、火の輪のそばで、ひと月で増えたわずかな銀を、五人で見ただけだ。歓声も、祝いの言葉もない。ガロは火を熾し続け、ナダは目を閉じ、ネネは繕い物を続ける。いつもの夜と、何も変わらない、静かな夜。けれど、その静かな夜の中で、たしかにひとつのことが起きていた。


 奪わずに、銀が、増えた。


 これが、始まりだ。奪う手が、回す手になった、その最初の確かな証。盗賊の塒が商館になり、奪った銀が、稼いだ銀を生む。その円が、たしかに、回りはじめた。


 奪う手が回す手になるのに、特別な日はない。


 第一章で、片手で銀を拾いながら、私はそう知った。今も、同じだ。商館が回りはじめるのにも、特別な日はない。あったのは、窪みを埋め、銀を溶かし、塩を仕入れ、麦に騙され、数えを積んだ、長いひと月の地味な手仕事だけだった。


  ◆  ◇


 火が、ゆっくりと、燃えていた。


 私は、樫の棒を膝の上に置いた。握りの内側の灰の字を、てのひらで確かめる。あると知っている重さが、すこしだけ、重い。穴の底で骨を握った手が、盗賊として樫を握り、今は、商人として銀を回している。同じ、たったひとつの手だ。


 名は、しまったまま、ある。


 私は、まだ、名乗らない。無名の隻腕の女として、土地から土地へ、名のない銀を回す。けれど、その無名の女が、奪わずに銀を増やしはじめた。それは、樫の握りの内側で、灰の字がすこしずつ、本当のものになっていく、その始まりだった。


 ナダの地図が、街道の向こうへ、伸びている。


 散った三人は、各地の結び目に立っている。サイは東の宿場に。リンは西の市の町に。トビは、各地の屋根に、便りを飛ばしている。この廃砦の商館と、その三つの結び目をつなげば、点が、線になる。線が、いくつも交われば、面になる。


 ひと月で増えたわずかな銀は、その面の最初の一点だった。


 点が、ひとつ。それだけでは、商いは、まだ、小さい。けれど、ナダは言った。商いは、点ではなく、面でやるものだ、と。ひとつの宿場で塩を売るだけなら、それは、ただの行商だ。けれど、いくつもの土地をつなげば、面になる。塩を売った宿場で麦を仕入れ、その麦を別の土地で売り、そこで鉄を仕入れる。点と点がつながって、円が、いくつも重なって回る。それが、商いの面だった。


 その回す手が、これから点を線に、線を面に変えていく。土地と土地をつなぎ、足りない場所へ物を運び、余る場所から正しく買う。世界の差を削るのではなく、埋めて回る。それが、私のこれからの仕事だった。


 廃砦は、もう、盗賊の塒ではなかった。


 奪う者の隠れ家が、回す者の商館になった。窪みは埋まり、地下の蔵には麦が並び、火床では銀が溶け、帳面では数えが回っている。盗賊の本拠地が、商人の家に、変わった。その家から、これから面になる糸が、街道の向こうへ伸びていく。


 火が、燃えていた。二十年、消えなかった火だ。


 その火のそばで、私は、樫の棒を握り直した。盗賊の塒を畳み、廃砦を商館に変え、初めて、奪わずに銀を増やした。次は、この一点を、線に、面に変えていく番だった。散った三人と、この五人を、ひとつの商いの面につなぐ番だ。


 私は、火に背を向けて、街道の方を見た。北街道が一筋、夜の闇に沈んでいる。その闇の向こうに、散った三人がいる。各地の結び目がある。まだ見ぬ、足りない土地がある。


 その面を、これから、築いていく。


 奪う者の塒を畳んだ手で、回す者の商いを、築きに、行く。

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