僕には好きなヒトがいる
僕には好きなヒトがいる。
太陽の光に透けてさらりとなびく焦げ茶の髪。
べっ甲飴を溶かして固めたような甘い瞳。
白く滑らかな肌。
潤いのある艶やかな小さな唇。
柔らかい陽だまりのような
可愛らしい微笑み
小首をかしげながら振り返る、仕草
僕はそんな彼女が好きだった。
例え
人ではなかったとしても。
「あら光治くん」
風鈴を鳴らしたような爽やかで可愛らしい声で目の前の女性が僕を呼ぶ。それだけで僕はどうしようもなく胸が締め付けられて、彼女をずっと見つめていたくなった。いや、それだけでは足りなくてこの腕に抱きたくて、その衝動を抑えるために僕は彼女の名を呼んだ。
「……紫音さん、こんにちは」
彼女に触れたくなる自分の手をぐっと握り締めると僕は笑顔で言った。すると紫音さんは小首を傾げて僕を見る。どうしたのかな、と頭上に疑問符でも浮かびそうなあどけない表情。
でも僕は知っている。
彼女は見た目はあどけない。僕よりだいぶ、歳は下の少女に見えるだろう。十八歳に見えるかどうか。
けれど……
紫音さんはすうっと目を細めると、くすくすと笑った。
「みっちゃん」
柔らかくて甘い無邪気な声が僕に近づく。
「あのね」
彼女の細い指がそっと滑るように僕の顔に触れる。それに黙って目を閉じる。
花の香りが鼻孔をくすぐって、頭がくらくらする。
「そんな可愛らしい顔してると……食べちゃうよ?」
見た目とは違う小悪魔のような囁きが耳を撫でて、僕は思わず体を揺らした。
「なーんてね?」
そんなおどけた言葉と共にすっと彼女の気配が遠のく。それに僕ははっと目を開けて彼女を探した。
紫音さんはまたくすくす笑いながら縁側に戻って座っていくところだった。それに安堵の息をつく。まだ彼女はここにいるのだと。
「別に僕は本気で食べられてもいいですよ」
そう言いながら僕は彼女の隣りに座る。それを彼女は黙って笑いながら頭を撫でてくる。それに僕は少しばかり腹が立った。男として見られていないこと。相手にされていないこと。
でも。
それでも彼女が触れてくれるのがとてつもなく鳥肌が立つほど嬉しい。
だから僕はそのままにした。
それに紫音さんは一瞬、困ったような顔をした。
その顔が僕が一番好きな顔だった。
その時だけ、本当の僕を受け止めているから。僕の気持ちに対して、揺らいだ証だったから。
けれどすぐにその顔はいつものおっとりとした可愛らしい顔に戻る。その容姿に反した蠱惑的で悪戯っぽい甘い瞳もいつもと変わらず、ころころと笑う。
「光治くんは、ほんと可愛いよね。でもさっきのは冗談よ」
「なんだ、期待していたのに」
僕も笑う、紫音さんを見ながら。けれど絡みつくような強い視線を彼女に向ける。彼女の視線と僕の視線が交差する。僕の黒い瞳と彼女の黄色い瞳が溶けてしまうくらい。
いっそ、本当に溶ければいいのにな。
それなのに紫音さんは小首を傾げて顎に指をあてると無邪気に笑った。
「ごめんね? 実を言うと私人を食べることやめちゃったんだ」
柔らかく笑う紫音さん。
「……旦那さんを食べて以来?」
意地悪く僕は笑いながら言った。その言葉に彼女は笑みを消して僕を見る。
彼女は人じゃない。正確に言うと、血の五分の二は人ではない。
鬼や妖怪、魔や仙人。あらゆる異類の血が混ざっている。彼女は姿こそ今は人だ。黄色い瞳を今はしているけど、それは僕にはそう見えているだけ。普通の人間だったら、普通の人間にしか見えていない。そんな彼女ら一族は総じて「安栖」と呼ばれている。「異類」と言う言葉の代わりに「安栖」。それはそのまま彼女の苗字になっている。けれどただ「安栖」という理由で彼女がそれを名乗れるわけではない。
彼女は、紫音さんは彼らの中でも別格の「安栖」だった。彼女の中に流れる鬼、妖怪、精霊などの血。それが強く力や性質に現れた。だからそう名乗れる。もっとも強い「安栖」は当主と次期当主くらいだろう、彼女より強いのは。
そしてそんな彼女には夫がいた……人間の。つまり、今はいない。
結婚は「安栖」にとってとても大事なことらしい。彼女ら一族には「契約」という慣わしがある。それはある種、人よりも精神的にも肉体的にも「結ばれる」という本能に近い、約束事。「安栖」は自らの精気を他人から調達する。少なくても一人とは「本契約」というものを十三を過ぎるまでにしたほうがいい。そうしないといずれ生きていけない。たくさんの種族を身に宿した「安栖」は、そうしないと自らの混沌なる血に耐えることが出来なくなる。「本契約」の代用として昔は「仮契約」という名で何人も契約相手を作っていたという。
でもできれば「仮契約」より「本契約」の方がいい。「本契約」とはすなわち、精気を吸う相手を限定すること。限定することで均衡の取れた精気を貰うことが出来る。それは彼女らにとって栄養の偏らない食事をすることと同義なこと。更には一度「本契約」をしたら相手が死ぬまで契約者は変えられない。そして「本契約」は生きている間にそう何回もすぐにできることではないらしい。
だから「本契約」をする相手はとても大切なのだ。
生き死にだけじゃない。
「本契約」とは心と寿命そして血を分けることとも同義だという。
だから契約相手は人間であろうと「本契約」をしたならば、「安栖」となる。
言葉通り、人の姿でも人ではなくなり「安栖」と共に長い時を過ごすことになる。
なのに、紫音さんの本契約相手は死んだ。そして彼女はそれを喰った。悲しみのあまりに。
下にうつむいていた紫音さんがくすりと笑うとこちらに顔を向けた。
「そう、あの人とってもおいしかったの」
恍惚と笑みを浮かべてそして空を見上げる紫音さん。ゆっくりと咀嚼するように、思い出すように言う。
「もう、あの人以外、受け付けないの」
そうして再び僕を見て笑う彼女。
その表情はとても綺麗で艶やかで……
でも
今にもこの世から消えてしまいそうなほど、目の色が儚かった。
「――――っっ!」
そう、人と比べると長い時を過ごすはずの「安栖」。僕より先に死ぬなんてありえない。
けれど、彼女はあまりにも「安栖」の血が濃く現われ、契約者を愛していた。だから……今は僕と同じくらいかもしかしたらそれもよりも早く死ぬ可能性があった。
「心配しないで」
立ちあがった僕にそっとなだめるように優しく言う紫音さん。彼女は僕より何十年も生きている。僕の気持ちもなにも知っている、なのに。
「あの人を食べたから、しばらくは死ねないわよ?」
すっと立ち上がると、紫音さんは僕の手をそっと握って微笑んだ。
「それに……もう少し待ったら、あの人の子どもができるかもしれない」
「え?」
僕は動揺を隠せず彼女を見た。もしや死に際が近いのではと背中に寒気が走った。彼女らの一族は死期が近付くと、老いが速くなるか……精神が狂い始める。けれど僕の思った事を察したのか、彼女は……
「光治くんっ、ちょっとそんな可愛い顔しないで。人は食べないんだけど、もう可愛すぎて光治くんなら食べちゃおうかなぁって気になっちゃうじゃないの」
腹を抱えて笑いだした。
僕はただ久しぶりに見る彼女の大笑いに見惚れていた。見惚れていて、ほっとして胸のあたりにぐるりとした何かが支配するのを感じた。
「でもそれは、駄目よ? いくら大好きな光治くんでも、私、食べたくないもの」
彼女が欲しい。けれどそれを紫音さんは望まない。
「「本契約」した者を食べたら時間差で子どもが生まれることってあるし……」
そう言うと、彼女は無邪気な微笑みを僕に向けて近づいた。ふわりと風が顔を撫でる。体に感じる柔らかい温もり。
紫音さんは僕に抱きついていた。
僕は歓喜で胸が震えた。そして迷いもなく彼女を抱きしめる。花の香り。紫音さんの息が当たり、思わず彼女の顎に手をかけて、唇をよせようとし――――
「それに、ね?」
――その手を彼女はそっと握った。
今までになく優しい微笑みを浮かべる紫音さん。
「光治くんは、大切な「正岡」の人間だもの」
その言葉に目を見開く。
無邪気にくすくすと笑いながら俺の手をそっと頬に寄せて包むような声で囁く。
「我ら「安栖」の親愛なる友、「正岡」一族の者」
胸の内が苦渋で痛む。
「人間は我らを迫害した。けれど「正岡」は手を握り助けてくれた。……そんな「正岡」一族のものに手を出すことはしないよ」
結局、紫音さんは僕の気持ちには応えない。
「それにみっちゃんは私にとって、とても可愛くて可愛くて仕方がない、弟みたいなものよ」
紫音さんにとっていつまでも、僕は「可愛い弟」のまま。
僕の気持ちを知っていながら彼女はこうして拷問みたいに寄り掛かってくる。けれど僕はそれを拒むことが出来ない。だって、知っているから。
紫音さんは僕に瞳を向ける。
「そして唯一、亡くなった富比人さんと父、祖父以外で私が苛めたいと思う可愛い男の子」
それは純粋に喜色と無邪気な色を湛えた瞳だった。
僕は知っていた。
彼女が言う「苛める」とは、彼女の「甘え」なんだと。「甘えられる」男が、家族以外で僕しかいないと、そう言外に紫音さんは言うのだ。
僕が彼女を愛していると知っていながら。
知っていながらその想いに応えることもしない。
だけど特別扱いする。
苦痛になる。
こんなの、生殺しだ。
だけど……。
「……ごめんね。ちょっと、苛めすぎちゃったかな?」
気がつくと彼女はするりと僕の腕の中から出ていた。ちらりとこちらを見る紫音さん。ちょっと悪戯をして怒られた子どもみたいな顔をしていた。
黙ったままの僕に少し心配したのだろうか。
……これだから、可愛くて離せないんだ。
とりあえず家の中に入って飲みものでも持ってこようとする紫音さんの腕を掴む。くるりと振り返る彼女。
「僕はずっとお預け状態、ですか」
掴まれた手を見て再び僕を見ると、愉快そうに紫音さんは可愛らしい微笑みを浮かべた。
「ふふ、残念ね。私は心を冨比人さんに食べられちゃったから」
「でも構いません」
僕は強く言う。目を瞬かせて小首を傾げる紫音さん。
「死ぬまでずっとそばにいればそのうち、紫音さんも僕に食べさせてくれる隙ができるかもしれませんし、ね?」
そんな彼女に僕は笑った。
「ほんと光治くんは可愛いーね」
そして相変わらず紫音さんは笑っていた。少し照れながら。
いつか彼女は僕が諦めて他の誰かに目を向けると思っているのだろうか。それは間違いだ。僕もまがいなりにも正岡だ。誠一郎兄さんよりももしかしたらよほど血が濃いのではと思うくらい。
紫音さん。
ご存知ですか。
正岡の人間は――――諦めが悪いんですよ?
貴方がどんなに年を取っても、どんなに僕が老いても……
これからもずっとそばに居続けますからね?
一応時代設定では昭和。
実年齢紫音は40代です。光治は20代です。
一回り違います。ですが見た目は20代の青年と10代の少女。
さて、周りの目にはどう見えるでしょう?
そしてそれらを全部わかっていての態度の紫音です。