うちの会社の一番面倒な客が不死の魔女である件
第1話:特例の死
冒険者ギルド、保険金審査課。
レート・クリットは、睫一本動かさずに面前の書類を閉じた。
「では、改めて結論を申し上げます。申請:却下。」
「な、何でだっ!」
机の向かいで、顔を真っ赤にしたドワーフの冒険者が詰め寄る。彼の請求書には『戦闘中、火竜の吐息により鬚の先端三十本を焦がされた。精神的損害及び美容代として、金貨百枚を要求』とある。
「根拠は三つ。」
レートは淡々と指を折る。彼の瞳の奥で、かすかに魔法の輝きが走った――【真実契約の眼】。あらゆる虚偽と損傷の“痕跡”を見通す、彼の異世界転生特有能力だ。
「第一。証拠として提出された『被害鬚』には、火炎属性の損傷痕は認められない。むしろ、高濃度の酸性液体による溶解痕が一致する。現場近辺に生息する『スライムプリンセス』の体液と一致率、98.7%。」
ドワーフの顔が青ざめる。
「第二。依頼記録によれば、お前たちの討伐対象は『岩窟グレートワーム』であり、火竜ではない。報告書の虚偽記載。」
「そ、それは……」
「第三。最も重大な点。」
レートは、分厚い『ギルド保険規定書』をパラリとめくり、ある一条を指さす。
「第9章第14条。『ドワーフ族の鬚は、戦闘において消耗品として扱われる装飾的体毛に該当し、いかなる損傷も美容的補償の対象外とする』。」
ドワーフは絶句した。
「…な、何て理屈だ!この、冷血な規則野郎が!」
レートは微塵も動じず、次の書類に目を落とした。
「不服があるなら、規定書第22章に基づき、再審査を請求してください。次の方。」
午後の陽射しが、書類の山を照らす。レートのデスクは、常に完璧に整理されていた。彼にとって、世界は二つしかない――規定に合致するものと、しないもの。彼の仕事は、その峻別を怠りなく行うことだけだ。
次の一瞬、世界の色が変わった。
ドアもノックもなく、影が部屋に流れ込んだ。
いや、影ではない。一人の女性だ。
透き通るような白い肌、長い銀髪、そして夕暮れの空を思わせる深紫色の瞳。黒いローブがかすかにたなびくが、その足元に影はない。彼女は――漂うようにして、レートのデスクの前に立った。
「保険金審査課、レート・クリット様?」
声は鈴のようで、どこか冷たい。
「はい。ご用件は?」
レートは顔を上げる。彼の【真実契約の眼】が、自動的に“検証”を始める。
対象:人間型生物(?)
肉体状態:心拍ゼロ。呼吸ゼロ。体温:周囲環境と同調。魔法残滓:強力な死霊術式が持続的に作用。生命活性:検出不能。
結論:規定上、『生物』とは認められない。『アンデッド(不死者)』カテゴリに該当する可能性が高い。
「書類を提出に参りました。」
女性は、一枚の羊皮紙をデスクの上に滑らせる。
それは、レートが今日これまでに見た、どの申請書とも違っていた。通常の『負傷給付申請』や『戦死撫恤金請求』ではなく――
『特別死亡給付金申請書』
という表題が、端正な文字で記されている。
レートの目が細くなる。
「死亡給付は、第三者の死亡報告と、公会指定神殿による正式な死亡確認を経て、遺族に代行申請されるものです。本人による申請は、規定により受理できません。また、アンデッド属性の対象については――」
「読んでください。」
彼女の口元が、わずかに上がった。それは笑うにはあまりに冷たく、悲しむにはあまりに平静だった。
レートは一呼吸置き、申請書を詳細に目を通す。
申請者名:エヴィ・ゼロ
申請事項:自己の『死』の認定、及び対応する死亡給付金の支払い
死亡原因:自己の魂の完全消滅
特記事項:永劫氷結された王都『エターナルシティ』の氷結を解除する唯一の方法は、術者たる私の完全な死である。これにより、城内に封じられた百七十万の魂は解放される。
給付金受取人:該当なし(給付金は、直接『永凍都市維持基金』へ振り込むこと)
レートの思考が、一瞬止まった。
エターナルシティ。三百年前、一夜にして“永劫氷結”という謎の災害に見舞われ、時が止まったままの王都。ギルドでも、禁忌の話題だ。
彼はゆっくりと顔を上げ、紫の瞳を見つめた。
「…この申請内容を、ご自身で理解されていると?」
「もちろん。」
エヴィ・ゼロ――彼女はそう名乗った――の声に、曇りはない。
「では、確認します。あなたは、三百年前の永劫氷結、通称『永寂の疫病』を引き起こした張本人であると?」
「そうです。」
「そして、あなたが死ぬことが、百七十万人を救う唯一の方法であると?」
「そうです。」
部屋の空気が、鉛のように重くなった。
レートの脳裏で、規定の条文が高速で巡る。通常手順。例外規定。リスク管理プロトコル。どれも、この事態を想定していない。彼の完璧な論理の世界に、巨大な、規定外の亀裂が走った。
彼の視線は、再び申請書の一番下の欄に落ちる。
『給付金受取人:該当なし』
誰のためでもない。ただ、凍てついた都のためだけの、死。
十秒間の沈黙が流れた。
レートは、ごくゆっくりと、デスクの引き出しを開けた。中から、正式な受理印と、分厚い調査ファイルを取り出す。
彼は申請書に印を押し、ファイルの表紙に、端正な文字で記入し始めた。
案件番号:SPECIAL-001
申請者:エヴィ・ゼロ
申請内容:特別死亡給付
調査項目:死亡原因の特定、並びに申請の正当性に関する全調査
そして、顔を上げ、エヴィの目をまっすぐに見据えて、言った。
声は、相変わらず事務的で、冷たい。しかし、その底に、わずかな、研ぎ澄まされた何かが潜んでいる。
「では、エヴィ・ゼロ様。『ギルド保険規定』第3条第1款に基づき、本申請を正式に受理いたします。」
彼はファイルを手に持ち、立ち上がる。
「つきましては、『死亡原因』に関する詳細な調査を、ただ今より立案・開始いたします。」
調査対象は、あなた自身です。
そう言わんばかりの、静かな宣告だった。
第2話:規則と狂詩の輪舞
受理印の音が、部屋に冷たく響き渡った。
エヴィの紫の瞳が、わずかに見開かれる。彼女が何か言おうとしたその時──
ドン!ガシャン!
レートの背後、天井近くまで積まれた過去の調査ファイルの山が、突如として爆発した。
「ああ!なんという運命の戯れ!なんという残酷な皮肉!」
紙の吹雪の中から、一つの影が踊り出る。いや、正確には、骸骨が。
白く、しかしところどころにひびの入った人間の骨格。ボロボロのローブをまとっているが、その様式は数百年前の宮廷風だ。頭蓋骨の眼窩には、青白い魂の炎が二つ、狂おしいほどに躍っている。
「審査官よ!麗しき亡霊姫よ!お前たちの出会いは、運命の糸が紡ぐ最も陰鬱なる叙情詩!一方は生への執着を棄て、他方は死の定義を問う!ああ、なんという──」
レートは、ちらりと骸骨を見て、ため息をついた。
「通路に不法に積まれた書類の山への被害は、後で清算する。まず、お前の所属と用件。」
「俺か?俺は詩人だ!偉大なる、しかし不当に忘れ去られた吟遊詩人、バイロン卿とでも呼んでくれ!」
骸骨――バイロンは、優雅に(と本人は思っている)ひねりを加えて一礼する。その拍子に、左腕の橈骨がばらりと外れ、床に転がった。
「ちっ、またか。最近、接合部の魔法が弱くなってな。」
「用件は。」
レートの声に、一切の冗談を許さない冷たさがある。
「用件?ああ、用件だ!」
バイロンは外れた骨をぽんと蹴り飛ばし(どこへ行ったか分からない)、興奮して両手(片方は尺骨だけ)を広げた。
「俺は見た!聞いた!感じた!この事務的な檻の中で交わされた、忌まわしくも美しい契約を!」
彼の魂の炎が、激しく揺らめく。突然、その声が、朗々とした、しかしどこか壊れた詠唱調に変わる。
「<三百年前、月が血に濡れし夜>」
「<王都は悲鳴もあげず、透明なる氷の檻に閉ざされき>」
「<走る者、泣く者、祈る者、皆その瞬間に彫られし生ける肖像>」
「<唯一の色は、蒼き炎が蠢く、亡霊姫の長き苦悩>」
エヴィの表情が、わずかに曇る。バイロンは、更に熱を込めて、骸骨の指をレートに向ける。
「<そして今、冷徹なる裁定者が現れ>」
「<死をも算定せんと、電光石火、調査を開始せり!>」
詠唱が終わり、一瞬の静寂。
レートは無表情でバイロンを見つめ、やがて、手にした調査ファイルをパラパラとめくった。
「…証言者としての登録は可能だ。ただし、『小説家になろう』規定第4条第2項に基づき、証言は全て客観的事実に基づくことを要する。詩的表現は、補足資料として別紙添付を認める。」
バイロンの魂の炎がチカチカした。「…お前、面白いな。」
「次に、調査手順について。」
レートはエヴィとバイロンを順に一瞥する。
「本案は、ギルド規定上、前例のない『自己申告による死亡給付審査』である。従って、通常の『事後調査』手順は適用できない。適用するのは、規定第8章『特例・原因究明調査』プロトコル。これに基づき、私は調査主任を任命する。対象者は、申請者たるエヴィ・ゼロ、および、関連情報を有すると自称するバイロン。異議はあるか。」
エヴィは静かに首を振った。バイロンはガシャガシャと踊った。「異議などあるものか!これぞドラマの始まりだ!」
「了解した。では、『特例調査チーム』をここに発足させる。」
レートは、ファイルに迅速に書き込みながら続ける。
「第一段階:情報収集。申請の前提となる『永寂の疫病』および『エターナルシティ』に関する全ての一次資料を収集、分析する。バイロン。」
「おう!」
「お前の先程の『詩的証言』は、一次資料へのアクセス可能性を示唆している。具体的に説明せよ。」
バイロンの動作が、突然、少しだけ落ち着いた。彼の骨の指が、デスクの上にある王国地図の一点を、カタカタと叩いた。
そこは、古い王都の区域。現在は、地図上ではぼかして消されている。
「…一次資料、か。」
バイロンの声が、急に低くなる。狂気の奥から、どこまでも深く、古く、そして苦い何かがにじみ出てくる。
「あるよ。…一次どころじゃない。生きた、いや、<生きたままの>資料が。」
彼の魂の炎が、激しく、痛むように震えた。
「…<王家の大図書館>の…<禁書区画>。」
「そこに…一冊の本がしまわれている。」
骨だけの指が、地図を強く抓み、紙にひびを入れた。声は、恐怖と嫌悪と、どこかおぞましい愛着に震える。
「皮で綴られた、分厚い記録簿だ。…<俺の皮>で、できてる。」
第3話:禁書区の真実
王家の大図書館は、静謐そのものだった。
高い天井、無限とも思える書架、そして埃っぽい空気。夜警の魔法人形が規則正しく巡回する足音だけが、石廊下に響く。
「…これが、『純粋なる心をもつ者のみ通るを許す』扉か。」
レートは、分厚い魔法の障壁に封じられた大扉の前に立ち、淡々と呟いた。扉の表面には、複雑な魔法陣が刻まれ、中心に「心の純度を試す」と古代語で記されている。
バイロンがガタガタ震えていた。「ああ…この感触…嫌な思い出が蘇る…俺の皮が、あの奥で呻いている…」
エヴィは無言で扉を見つめ、その瞳の奥に、複雑な色が去来した。
レートは一歩前に出る。彼は、胸元から分厚い『ギルド保険規定 外典・補遺版』を取り出すと、それを魔法障壁にかざした。
「規定第1条。『ギルド職員は、その職務の執行にあたり、唯一絶対の規範としてこの規定に従う純粋なる心構えを保持せねばならない』。」
魔法陣が微かに輝く。しかし、扉は開かない。
レートは眉一つ動かさず、続けた。
「現在、私は特例調査チーム主任として、規定第8章に基づく調査を執行中である。この扉は、調査対象である『一次資料』へのアクセスを阻害している。これは、規定第3条第5項『職務執行に対する不当な妨害』に該当する。」
魔法陣の輝きが強くなる。軋むような音が、障壁の奥から聞こえる。
「よって、本障壁は、規定第22条『緊急時における職権発動』により、解除を命ずる。」
レートの声は、冷たく、硬い。それは宣告だった。
「私の心は、規定への絶対的帰依以外、何一つ混じり気がない。これ以上ない純粋さだ。扉よ、誤認するな。」
一瞬の静寂。
そして、鈍い音を立てて、巨大な魔法障壁が霧散し、重厚な扉がゆっくりと内側に開いた。
バイロンの顎が外れそうになった。「…は?」
エヴィの目が、わずかに見開かれた。
レートは規定書をしまい、迷いなく禁書区へと足を踏み入れた。「時間は有限だ。次は、『生ける者が開くべからず』のトラップか。規定第4条『生存権の平等』に抵触するな。」
彼の背中を見つめ、エヴィはかすかに、本当にわずかに、口元を緩めた。
バイロンはガシャガシャと後に続いた。「お前…マジでやばいやつだな…!」
禁書区の奥、最も湿った冷たい空気が淀む一角。
そこには、他のどの本棚とも違う、生々しい生臭い気配が漂っていた。棚に並ぶのは、皮装丁の本。色も手触りも、微妙に違う。どれも、不気味に生命の残滓を感じさせた。
バイロンの全身の骨が、カタカタと鳴った。彼の魂の炎は、恐怖と嫌悪で激しく揺らめき、縮こまろうとしている。
「…あれだ。」
震える骨の指が、棚の一番奥、背表紙に何も記されていない分厚い一冊を指さす。
「…俺の…背中の皮で…綴られた…」
レートは手袋をはめた手で、その本を慎重に取り出す。手にした瞬間、ぞわりとするような、亡者の啜り泣きが直接脳裏に響くような感覚があった。エヴィが、微かに眉をひそめる。
本を開く。
ページは、人間の皮膚そのものだった。色あせ、乾いているが、所々にほくろや傷跡の痕さえ残っている。そこに、インクではなく、何か暗い液体――おそらく血や魔法薬――で、びっしりと記録が記されていた。
最初のページには、王家の紋章と、『極秘:零号計画 観察記録』との文字。
レートはページをめくる。記録は冷静な筆致で、ある「実験」の経過を記していた。
神骸:遺跡深部より発掘された、神性を帯びし不可解なる物質。あらゆる魔力を増幅する特性を示す。ただし、その作用は不安定にして、生物の細胞及び魔力経路を「過増殖」せしめ、制御不能なる崩壊へと導く…
「…『永寂の疫病』の…正体…」
エヴィの声が、低く響く。
レートは読み進める。記録は、実験の危険性を何度も警告していたが、王の命令により研究は強行された。そして――
事故発生日:神骸、第7実験室にて暴走。封じ込め失敗。拡散速度、指数関数的。対象範囲、王都全域に及ぶ見込み。通常の魔法障壁、無効。
ページをめくると、次のページから、筆跡が乱れていた。
逃げろ。誰かが記録を残さねば。神骸の拡散は、物理的破壊ではなく、存在そのものの「過剰な成長と静止」をもたらす。対象は、細胞レベルで暴走した末、その瞬間で永遠に固定される。即ち、<生ける彫刻>と化す。
唯一の制止方法は、<時間凍結>以外にない。対象範囲全体の時間を止め、神骸の作用そのものを「進行不能」に追い込むこと。
そして、次のページ。ここから、記録の筆者――おそらくバイロン自身の生前の記憶が、皮膚のページから鮮烈な“映像”として、三人の脳裏に直接流れ込んだ。
視覚・記録再生
王都の中心から、歪んだ蒼い光が炸裂する。
光が触れたものは、全てが“狂った”。
石畳が肉塊のように脈動し、咲いていた花は一瞬で巨大化し、自らを食いちぎる。人々は悲鳴をあげ、しかしその悲鳴さえも、音色が歪み、いくつにも分裂して響く。
そして、最も恐ろしいのは、人々の“変化”だった。
腕が不自然に伸び、枝分かれし、目玉が複数に増殖する。しかし、それら全ての変化が、一瞬のうちに、まるで写真のように「静止」する。動かない。息もしない。ただ、増殖し歪んだまま、永遠の瞬間に釘付けにされた、生ける悪夢の彫刻が、街を埋め尽くしていく。
視点は、恐怖に震えながら、記録用の水晶を握りしめ、必死に走る。そして、王城の高台にたたずむ一人の魔女の姿を捉える。
エヴィ・ゼロだ。
彼女の顔には、深い悲しみと、絶望的な決意があった。その目は、眼下に広がる狂気の光景を見つめ、そして、自らの胸に手を当てる。
彼女の口が動く。決別の言葉か、詠唱か。
視点が揺れる。背後から、護衛兵たちが「魔女を止めろ!」と叫びながら迫る。そして――
再生終了
「ぐっ…!」
バイロンが床に崩れ落ち、骨を押さえてうなる。魂の炎が明滅する。エヴィは目を閉じ、無言でいた。彼女の肩が、かすかに震えている。
レートは、顔色一つ変えず、最後のページを開けた。
そこには、別の筆跡――整然とした、事務的な文字で、報告書がしたためられていた。
最終リスク評価報告書(最高機密)
対象:神骸暴走事故
評価者:首席リスク管理官
想定される被害規模:王都壊滅、及び隣接地域への不可逆的汚染拡散。文明の基盤への打撃は計り知れず。
現時点で有効性が確認された対処案:1つのみ。
案名:『時間凍結結界「ゼロ・プロジェクト」』
概要:対象範囲全体の時間流を強制的に停止。神骸の作用を事象層で凍結。拡散を防止。
実行要件:膨大な魔力源、及び、結界の「器」としての、強力な魂を有する魔術師一名。
代償:器たる魔術師の魂は、結界維持の燃料として永続的に消費され続ける。時間の流れから切り離され、死ぬことも、生きることもかなわない、永遠の苦役に縛られる。
報告書の末尾、余白に、血のような赤いインクで、走り書きされていた。
唯一の予案。実行を勧める。
代償はあまりに大きい。我々は、この決定を歴史から隠し、彼女の名を汚すしかない。
承認者:
――その下にあったはずの署名の部分が、乱暴に引き裂かれ、破り取られていた。
第4話:氷結都市の凝視
エターナルシティは、沈黙していた。
いや、沈黙以上だった。音も、風も、時間さえもが、完全に「停止」しているのだ。
透明な、分厚い氷の層が、かつて栄華を誇った王都全体を、巨大な琥珀のように包み込んでいる。氷は歪みなく澄み渡り、内部の光景を残酷なほどにはっきりと映し出していた。
広場で遊んでいた子供たちが、笑顔のまま、跳び上がった瞬間で固定されている。市場の商人も客も、談笑する口元を開き、手に品物を持ったままだ。衛兵は走る姿勢で、剣を抜こうとしている。
そして、全てに覆いかぶさる、不気味な美しさ。
人々の肌の下、所々に、歪んだ蒼い結晶が、血管のように、あるいは苔のように広がっている。神骸の汚染が、時間停止の一瞬前にまで到達していた痕跡だ。彼らは、変異の過程そのもので静止している。
「…これが…」
バイロンの声が、軋むように漏れた。彼の魂の炎が、激しく、痛みに震えるように揺らいでいる。彼は、ガタガタと震える骨の足で、氷の壁に近づく。
「…マーサ…?ベンジャミン…?」
彼の“視線”の先には、氷の中、広場の噴水のそばに、一組の男女と小さな女の子が手をつないで立っている。女性は驚いたような表情で空を見上げ、男性は彼女を守るように腕を伸ばし、少女は怖がって父親のコートの裾にしがみついている。三人の肌にも、わずかに蒼い筋が走っている。
バイロンの全身の骨が、カタカタ、と高く鳴り始めた。それは、泣き叫びたいのに、声帯も涙腺もない骸骨が発する、無言の慟哭だった。
「…会うはずだった…その日の夜…食事に…」
彼の魂の炎が、激しく膨らみ、そして縮み、不安定に明滅する。狂気の詩人の仮面が、砕け落ちようとしていた。
「…逃げろ…って…手紙を…送ったのに…なぜ…来た…」
レートは、バイロンを見つめ、一瞬、何か言おうとしたが、唇を固く結んだ。彼は、代わりに【真実契約の眼】を最大まで駆動させ、氷結全体を“検証”し始めた。
視界が変わる。
無数の、細い、かすかな“線”が、氷の内部から立ち上っている。それは、全てエヴィ・ゼロから伸び、都市の隅々にまで張り巡らされた、巨大で精妙な魔法のネットワークだった。彼女の魂が、文字通り糸となり、錨となり、この巨大な“停止”を繋ぎ留めている。
そして、彼は“見た”。
エヴィ自身の、胸の奥で、静かに、しかし確実に“燃えている”もの。
一つの、小さな、紫がかった炎。それが、極めてゆっくりと、しかし一瞬も休むことなく、自らを“消費”している。彼女の魂そのものが、この結界の燃料なのだ。炎の周りには、無数の魔法文字が浮かび、それは…逆算するカウントダウンのようにも見える。残り時間を、永遠に近いが有限な数字を示す、冷酷な時計。
推定持続可能時間:7214年と3ヶ月と17日
現在の経過時間:300年と0ヶ月と12日
安定性:97.3%(※前回測定時より0.7%低下)
数字が、レートの視界に冷たく表示される。彼の脳裏で、計算が自動的に始まる。減衰曲線。彼女の魂の燃焼速度が、この三百年で、ごくわずかだが、確実に加速している可能性。外部からの“承認”や、彼女自身の“存在認知”が、燃料の燃焼効率に関与している仮説――
「…ああ…」
その時、バイロンの、壊れたような声が響いた。
彼は、氷の壁に骨の額を押し付け、魂の炎を揺らめかせながら、声を絞り出した。それは、もはや狂詩ではなく、無様に啜り泣く、断片化した哀悼の詞だった。
< マーサ…君の作るスープは、いつも少し焦げ臭かった>
< ベンジャミン…貸した金貨、返ってくることはなかったな>
< リリー…小さな、愛しいリリー…>
< パパが、お前の為に…星の話を…続きを…まだ…>
言葉が途切れる。彼の魂の炎が、一瞬、大きく膨らみ、そして萎んだ。狂気が、深すぎる悲しみの前に、一時的に押しやられた瞬間だった。
「…続きを…話してやれなかった…」
バイロンは、がくりと力尽き、骸骨が床に散りばめられた小石の上に崩れ落ちた。ただ、魂の炎だけが、微かに、かすかに震え続けている。
深い静寂が、再び訪れた。
その沈黙を破ったのは、エヴィだった。
彼女は、レートやバイロンとは別の方向、路地裏のような場所の氷壁の前に、いつの間にか立っていた。彼女の指が、透明な氷の表面に、そっと触れている。
レートが近づく。氷の向こうには、小さな家の玄関先が写っている。ドアは半開きで、その前に、一人の小さな女の子が立っていた。
茶色のぱっつん前髪。少し汚れたワンピース。そして、ぼろぼろになったクマのぬいぐるみを、必死に抱きしめている。彼女は、口を開き、何かを叫んでいるようだ。多分――「お姉ちゃん?」と。
エヴィの背中が、微かに見えた。彼女は、氷の中の妹を見つめたまま、囁くように言った。
声は、水のように平らで、しかし、底に途方もない深さをたたえていた。
「…見て、レートさん。クマのぬいぐるみ…あれ、私が縫い直してあげたの。片目が取れかかっていて。」
一瞬、間を置く。
「時間を止めた時…私は、王城の塔の上にいた。妹は、家で私を待っていた。」
「あの子に、『すぐ帰る』って…言えなかった。」
「叫んだ。『逃げて!』って。…でも、声が届く前に、神骸の光が、この路地に届いた。」
「私は…止めることしかできなかった。全てを、あの瞬間で。」
彼女が、ゆっくりと振り返る。
紫色の瞳には、涙はない。しかし、その奥には、三百年分の凍りついた悲しみが、無声の叫びとともに堆積していた。
「だから、私は…彼女に、さよならを言えていないんです。」
その言葉が、レートの胸を、鈍いナイフで貫いた。
彼の【真実契約の眼】が、自動的に、少女の状態を分析し始める。推定年齢。服装の社会的階層。ぬいぐるみの損傷度合いと愛着度。隣接家屋の構造から推定される家族構成。そして、彼女の肌にまで達していた、かすかな蒼い変異の痕跡。時間が動き出せば、真っ先に崩壊する運命にある、脆弱な存在である確率:89.7%。
数字が、視界に渦巻く。
89.7%。
97.3%。
7214年。
300年。
さよならを、言えなかった。
彼の完璧な論理の世界、秩序立ったデータの宇宙が、一瞬にして、白く染まった。計算も、確率も、規定も、全てを飲み込む、名前も形もない、ただ“悲しい”という感情の奔流に。
彼は、エヴィの瞳を見つめた。そして、初めて、この“案件”が、数字やリスクを超えた、あまりに人間的で、あまりに残酷な“何か”であることを、骨の髓まで理解した。
彼の口が、わずかに開く。何かを言おうとして。
しかし、言葉は、彼が今まで頼ってきた全ての論理を裏切り、喉の奥で砕けた。
第5話:裏切りと包囲網
悲しみに沈む沈黙は、突然、鋭い金属音によって断ち切られた。
キンッ、カランッ。
氷結した街路の四方から、鎧の響きが近づく。そして、鈍い光を放つ魔法障壁が、パズルのように組み合わさり、三人の周囲を半球状に閉ざした。〈拘束結界〉だ。
「ご苦労であった、調査主任レート・クリット、及び、その“共犯者”諸君。」
重々しい声が響く。障壁の外から、人影が現れた。ギルド副会長、ガルヴィン。その背後には、ギルド直属の魔法兵士たちが、十数名、武装して構えている。彼らの槍先には、アンデッド特化の封魔符が貼られ、鈍く光っていた。
レートは、ゆっくりとエヴィの前へと一歩踏み出し、彼らを見据えた。表情は、一瞬のうちに、先ほどの動揺を覆い隠す、例の冷静な仮面に戻っている。
「副会長。これは如何なる意味だ。我々は規定第8章に基づく正式な特例調査を執行中である。不当な職務妨害は――」
「不当?」
ガルヴィンが、冷ややかに口元を歪めた。
「職務妨害だと?違うな、レート・クリット。これは、『反逆者』及び『禁忌を犯した魔女』に対する、正当な逮捕である。」
彼の細い目が、レートの懐中――あの“人皮の書”が収まっている場所を、一瞥する。
「王家の大図書館、禁書区画より、極秘指定文書を不法に持ち出し。さらに、ギルドによって危険指定されている永劫結界内に無許可で侵入。そして何より――」
その指が、エヴィを指さす。
「ギルド及び王国に対する最大級の脅威、三百年前の大災害の首謀者、エヴィ・ゼロに私的に接触し、その犯罪を幇助しようとした。これだけの証拠が揃っていながら、まだ職務妨害などと言えるか?」
「我々の行動は、全て受理された申請に基づく。副会長こそ、何の権限に基づき――」
「権限?」
ガルヴィンが、卑しむように笑った。
「我が輩の権限は、『現実』だ。そして、現実とはこう告げている――お前たちの小さな調査ごっこは、ここで終わりだ。さあ、文書を差し出せ。そして、魔女は粛清のために引き渡せ。お前も、共犯として裁きを受けるが、即座の処刑は免れてやろう。」
兵士たちが一斉に、一歩前へ。結界が狭まる。重苦しい魔力の圧力が、空気を歪ませた。
「…てめえら、ふざけんじゃねえ…」
低いうめき声のような呟き。床に崩れていたバイロンの骸骨が、ガシャリと動いた。魂の炎が、今度は怒りに燃え上がり、青白く激しく揺らめいている。
「…人の…悲しみの…真ん中で…何が…現実だ…!」
「黙れ、化け物が。」
ガルヴィンは一瞥もよこさず、指を軽く弾いた。
兵士の一人が、素早く杖を構える。〈聖光の矢〉が鋭い閃光と共に放たれ、バイロンの右肩の骨を粉砕した。
「がっ…!」
「バイロン!」エヴィが叫んだ。
バイロンはよろめいたが、倒れなかった。むしろ、砕けた骨の破片を散らしながら、狂ったように笑い声をあげる。
「ハハ!これか!これがお前たちの『現実』か!ならば、俺の『詩』でぶち壊してやる!」
彼は、レートの懐中――人皮の本がある方へ、不自然に倒れ込むように身を寄せた。それは、本を庇うような姿勢だった。
「エヴィ!レート!逃げろ!この記録だけは、絶対に――!」
次の瞬間、二本、三本の光の矢が、彼の胴体、脚骨、頭蓋骨を貫いた。
カシャン!ゴトゴトッ!
白い骨が、粉々に散り、床に転がった。頭蓋骨はひびだらけになり、辺りを転がり、壁にぶつかって止まった。魂の炎は、かすかに、かろうじて灯り続けているが、かつての激しさはない。
「バイロン!!!」
エヴィの叫びと同時に、彼女の周囲の空気が歪む。長い銀髪が無風に浮き、紫の瞳が鋭い光を放った。彼女の両手から、冷気と影が渦巻き始める――
「魔女、術式展開!」
ガルヴィンの命令一下、兵士たち全員が一斉に詠唱を始めた。彼女より速い。無数の光の鎖が虚空から現れ、エヴィの手足、胴体、首をくくりつけ、その魔力の流れを強引に捻じ曲げ、封じ込めようとする。
「ぐっ…!」
エヴィが苦悶の表情を浮かべ、膝をつく。彼女の魔力の大半は、今もこの都市を支える結界の維持に費やされている。眼前の敵と戦う余力など、ほとんどない。
「エヴィ!」
レートが彼女の方へ駆け出そうとしたその時、ガルヴィンが彼の真前に立ちはだかった。
「お前の出番はまだだ、主任。」
ガルヴィンの手に、一枚の、古びた羊皮紙が握られている。それは、あの報告書の、最後のページ――署名が破り取られたページとは、微妙に紙質が違う。もっと古い。そして、端に焼け焦げた痕がある。
「お前は、真実を知りたいそうだな?この事件の、『批准者』が誰かと。」
ガルヴィンは、ゆっくりと、残忍な笑みを浮かべて、その紙をレートの眼前にかざした。
そこには、先の報告書と同じ、整然とした事務的な筆跡で、最後の結論が記されていた。
承認する。ゼロ・プロジェクト、直ちに実行せよ。
全ての責任は、本官が負う。
そして、その下。
署名欄。
そこに記された名前は――
〈レオンハルト・クリット〉
レートの、遠い遠い前世の名だった。
「どうだ、驚いたか?」
ガルヴィンが、満足げに、足元のバイロンの砕けた鎖骨を、革靴の底でグリグリと踏みつけながら、低く嘲笑った。
「お前の前世こそが、あの魔女を永遠の責め苦に堕とした、最大の『批准者』だ。お前自身が、お前の『重要な調査対象』を、三百年前に抹殺するよう裁いたのだよ。」
「それが、お前が探していた『真実』の全てだ。」
レートの瞳が、見開かれた。
彼の完璧な論理。確固とした自我。全てが、その一言で、脆いガラスのように、音もなく砕け散っていく。
第6話:聴聞会・逆転の序(上)
ギルド本部、最高決議室。
かつてないほどの緊張が張り詰めていた。円形の議場を取り囲むように、ギルド上層部、王国から派遣された監察官、主要商会の代表、そして魔術師ギルドの重鎮たちが席を占めている。中央の被審人席には、レート、エヴィ、そして砕けた骨を無理矢理紐で縛り付けられ、ぼんやりと魂の炎を灯すだけのバイロンが立たされていた。
「…以上が、本件の概要である。」
ガルヴィン副会長が、朗々と説明を終えた。彼は、レートたちを軽蔑するような視線で一瞥し、議長席に向き直る。
「故に、我々は以下を求む。一、禁忌の魔女エヴィ・ゼロの即時粛清。二、彼女に与した元調査主任レート・クリットの永久追放及び魔力剥奪。三、彼らが不法に持ち出した危険文書の没収及び、これに関与した不死者の完全な魂消散処理を。」
重い空気が流れる。ガルヴィンの主張は、手続き上、ほぼ完璧だった。規則を破った者たちを、規則に則って葬り去ろうとしている。
議長席の老魔術師が、低く咳払いをした。
「被審人、レート・クリット。副会長の指摘する事実に、異議はあるか。」
全ての視線が、中央の青年に集まる。
彼は、縛られたエヴィを一瞥し、足元で微動だにしないバイロンの砕けた骨を見下ろした。そして、顔を上げる。その目には、もはや動揺の色はなかった。あるのは、深い、静かな決意だけだ。
「異議があります。」
レートの声は、驚くほどに明瞭で、冷たく、議場の隅々にまで響き渡った。
「ガルヴィン副会長の主張は、事実関係の根本的な誤認、並びに、手続き上の重大な不備に基づいています。」
ざわめきが起こる。ガルヴィンが嘲笑った。「まだ弁明がお望みか?見苦しい。」
レートは彼を無視し、議長に向かって言った。
「本件は、副会長の言う『反逆』や『禁忌への関与』ではなく、あくまでも、一件の『保険金給付申請』に関連する、正当な調査活動です。そして、その調査結果を、ここで報告する権利と義務が、調査主任である私にはあります。」
「戯言はよせ。」ガルヴィンが遮る。「お前が根拠とした『申請』など、最早無効だ。魔女の自己申告など、法的効力は――」
「法的効力については、受理印が押された時点で発生しています。」
レートは、静かに、しかし確実に言葉を続ける。彼は、懐から、あの『特別死亡給付金申請書』を取り出し、高く掲げた。受理印が、魔法燈の下ではっきりと光る。
「受理後、調査主任に与えられる権限は、規定第8章により明確です。関連するあらゆる情報の収集、関係者への尋問、及び、最終的な『給付適否』に関する判断材料の提出。私は、その権限の範囲内で行動したに過ぎません。」
彼は、申請書を議長の前に置く。
「そして、調査の結果、私は明確な結論に至りました。よって、ここに報告いたします。」
レートは一呼吸置き、議場全体を見渡した。その視線は、もはや一介の審査官というより、法廷で論告する検事のようだった。
「本申請、『特別死亡給付金申請』は、その前提からして誤りです。」
「エヴィ・ゼロは、『自殺』を申請している。しかし、真実は異なります。彼女の行為は『自殺』などではなく、三百年前に発生した、前例のない超大型魔法災害『神骸暴走事故』における、唯一可能かつ最善の『事故収束作業』 です。」
大規模なざわめきが沸き起こる。「何だと!?」「事故収束?とんでもない!」
レートの声は、ざわめきを圧するように、一段と力を増した。
「証拠は、副会長自らが『危険文書』として没収を求めた、この記録にあります。」
彼は、人皮の本を、慎重に取り出した。多くの出席者が、その不気味な物々しさに息を呑む。
「ここに記されたのは、事故の全容です。原因は、王国による危険物質『神骸』の過失による暴走。その作用は、生物の存在そのものを過増殖・歪曲させ、最後はその瞬間で永続的に固定する、というもの。通常の魔法では止められない。物理的拡散を防ぐこともできない。」
彼の説明は、速く、正確で、容赦ない。
「当時の関係者が導き出した結論は一つ。『対象範囲全体の時間を凍結し、災害の進行そのものを止める』こと。これが『ゼロ・プロジェクト』、すなわち、現在我々が『永寂の疫病』と呼んでいる現象の実態です。」
レートの目が、エヴィに向けられる。
「そして、このプロジェクトを実行するために必要だった『器』。膨大な魔力を湛え、かつ、自らの魂を長期にわたり燃料として供給し続けうる、強力な魔術師。エヴィ・ゼロは、ただその『要件』を満たしたために選ばれ、実行を命じられた、『作業員』に過ぎません。」
「詭弁だ!」
ガルヴィンが机を叩いた。
「彼女が魔女であること!禁忌の術を使ったこと!それが全てだ!お前の言う『作業員』など、記録のどこにも――」
「記録には、あります。」
レートは、ぴたりとガルヴィンの言葉を切った。
「ただ、それは、通常の文字では記されていません。この記録者自身の、皮膚に刻まれた『記憶』と『感情』として。」
彼は、もう一つの小さな水晶を取り出した。記憶記録用の魔法水晶だ。バイロンが氷結都市で、崩れ落ち、哀歌を呟いた瞬間を記録したもの。
「証拠物件、第2。証言者、バイロン(生前は宮廷記録官)の、事件直後の記憶痕跡、および、本事件現場における証言。」
レートは、魔力を水晶に注ぐ。
議場の中央に、鮮明な幻像が浮かび上がる。それは、バイロンの視点から見た、狂乱する王都の地獄絵図。そして、高台に立つ、若きエヴィの、悲壮で決然とした姿。彼女が自らの胸に手を当て、詠唱を始める瞬間。背後から迫る兵士たちの「止めろ!」という叫び。
そして――幻像が切り替わる。
現在の、氷に閉ざされた路地。砕けた骸骨が、氷壁に額を押し付け、断片化した言葉で、家族への哀悼を呟く声。
< マーサ…君の作るスープは…>
< ベンジャミン…貸した金貨…>
< リリー…パパが…続きを…話してやれなかった…>
その声は、骨のない骸骨から発せられるが故に、逆に、底知れぬ生身の悲しみを湛えていた。
幻像が消える。
議場は、水を打ったように静まり返った。いく人かは、目を伏せ、あるいは、はっきりと涙をぬぐっている。堅物のはずの老魔術師でさえ、眉をひそめ、深く息を吸い込んだ。
レートは、その静寂を、鋭いナイフのように切り裂く。
「これが、『魔女』の行いの、直後の記録、そして、三百年後の結果である。彼女は、災害を止めた。しかし、その代償として、自らを装置の一部と化し、今日まで都市とそこに囚われた命を支え続け、さらに、歴史からは『兇悪な首謀者』として罵られることを甘受してきた。」
彼は、再び議場全体を見渡す。
「以上の事実関係を、『証拠鏈の第一部分』とします。」
そして、レートの口調が、わずかに、しかし確実に変わる。これまでの事実提示から、次の段階へと移行する、論理の刃を研ぐような調子で。
「では、ここからが本題です。『証拠鏈の第二部分』――この『事故収束作業』において、彼女が負った『損害』、そして、この申請の本来の『受益者』が誰であるのかについての、論究に入ります。」
ガルヴィンは、蒼白い顔でレートを睨みつけていた。彼は、この方向へ議論が向かうことが、何を意味するか、薄々感じ始めていた。
レートの目が、冷たい炎のように燃えている。
「まず、受益者について。申請書には『永凍都市維持基金』とある。しかし、真の『受益者』は、彼女が命を賭して守ったもの、すなわち――」
彼の言葉が、議場に、重く落ちる。
「――この王国そのもの、そして、ここに座する我々全員の、過去と現在と未来です。」
第7話:聴聞会・論理の浪漫(下)
レートの言葉が、重く議場に落ちた。
「…我々全員が、受益者?」
ガルヴィンの声は、嘲笑を装っているが、その裏にわずかな焦りが見え始めていた。「荒唐無稽にも程がある。その魔女が、我々を救っただと?それならば、この三百年、なぜ沈黙を守っていた?なぜ、真実を語らなかった?」
「理由は二つです。」
レートの答えは、即座に返ってきた。彼は、人皮の本から、もう一枚、薄い羊皮紙を取り出した。それは、本の綴じ代から慎重に剥がされたものだった。そこには、先の報告書とは別の、複雑な魔法契約図と、細かな数値が記されていた。
「第一の理由。彼女には、語る『余裕』がなかった。」
彼は羊皮紙を掲げ、魔力を込める。契約図が浮かび上がり、中央にエヴィのシルエット、そしてそこから無数の線が王都の模型へと伸びる様子が、誰の目にも明らかな幻像として映し出された。
「これは、『ゼロ・プロジェクト』の核心となる、時間凍結結界の維持契約です。彼女の魂が、結界全体の『要』として機能し、継続的に魔力を供給している。この状態で、彼女の『認知的負荷』が一定以上に達すると、結界全体の安定性が低下することが、当時の予測計算に記されています。」
レートの指が、契約書の一角、数値が羅列された部分を指す。
「具体的には、彼女自身の『存在』に対する社会的認知、特に、『自分が何者であるか』『何をしたか』という『物語』への言及と、結界の『情報的エントロピー』が直結しています。彼女の『物語』が複雑化し、乱されれば乱されるほど、結界を支える彼女の魂の『定義』が乱れ、燃料である魂の燃焼効率が悪化する。つまり――」
彼は、幻像を切り替える。氷結都市の映像が現れ、その一角に、小さく「安定性:97.3%」と表示される。そして、その数値が、「96.6%」へと下がる様子がシミュレートされる。
「彼女が自らを『英雄』と称し、真実を広めようとすればするほど、この結界は早く崩壊する。彼女に課せられた沈黙は、技術的必要条件だったのです。」
議場がざわめく。魔術師たちが、熱心に幻像と数値を見つめ、うなずき合う者もいる。これは、魔法理論として十分にあり得る話だった。
「では、なぜ今、語るのか?」
監察官の一人が、低く問う。
「第二の理由です。」
レートは、エヴィを見た。彼女は、縛られたまま、ただ静かにレートの言葉に耳を傾けていた。
「結界の安定性が、想定以上に低下し始めているからです。三百年という時間、そして、彼女の『存在』を否定し続ける世間の認識そのものが、ゆるやかな『定義の侵食』を起こしています。これ以上、彼女を『魔女』として迫害し、その存在を否定し続けることは、結界を不安定にし、いずれは崩壊へと導きます。それは、百七十万の魂の消滅と、『神骸』の再暴走を意味します。」
彼の言葉は、脅しでも感情論でもない、冷徹なリスク分析だった。
「つまり、副会長の主張する『魔女の粛清』は、最悪の選択肢です。彼女を殺せば、結界は一瞬で崩壊します。彼女を『魔女』として罵り続けることも、結局は同じ結果を早めるだけです。」
ガルヴィンの顔から血の気が引いていった。
「…で、では、お前はどうするというのだ!このまま放置するのか!?」
「放置、ではありません。」
レートは、ガルヴィンをまっすぐに見据え、その目に、冷たい鉄の意思を光らせた。
「適用するのは、『リスク管理』の基本原則です。崩壊のリスクを最小化し、受益を最大化する。つまり、彼女の『存在』を、否定から『承認』へと転換させる。彼女を、『脅威』から、この結界、ひいては王国を維持する『最も重要な戦略的資産』として、正式に認定し、保護する。これが、唯一合理的な解決策です。」
「ふ、ふざけるな!そんな都合の良い――」
「都合の良いのは、副会長の方でしょう。」
レートの声が、突然、刃のように鋭くなる。彼は、ガルヴィンが先ほど提示した、レオンハルト・クリットの署名入り文書を指さす。
「この文書。確かに、私の前世、レオンハルト・クリットの署名は本物です。しかし、副会長。一点、重大な矛盾があります。」
彼は、人皮の本から、もう一枚、報告書の写しを掲げる。そこには、先程と同様の結論と、レオンハルトの署名欄がある。しかし――その署名欄の右上に、小さな認証印が押されている。それは、当時の内務局が、極秘案件の「真正な最終版」にのみ押す、隠し魔法印だ。
「規定によって、真正な最終版には、この認証印が必須でした。副会長の提示した文書には、それがありません。」
ガルヴィンの顔が強張る。
「つまり、副会長の文書は、『下書き』か、あるいは、『検討段階の案』です。では、なぜ副会長は、『真正な最終版』ではなく、わざわざ認証印のない『下書き』を証拠として提出したのか?」
レートの問いかけは、議場全体を覆う。
「推測します。『真正な最終版』の文書には、レオンハルト・クリットの署名の下に、さらにもう一つ、『最終承認者』の署名欄があった。そして、そこに記された名前――それが、副会長の祖父、当時の内務大臣、ヴァンサン・ガルヴィンではなかったでしょうか。」
「っ!」
「ヴァンサン・ガルヴィンは、事故の全責任を、部下のレオンハルトに転嫁し、自身の関与を隠すため、『真正な最終版』を隠蔽、あるいは破棄し、認証印のない下書きだけを残した。そして、レオンハルトを『単独の批准者』として裁き、処刑した。真実を隠し、エヴィ・ゼロを『魔女』に仕立て上げたのも、すべては、あなたの祖父の汚名を守り、ガルヴィン家の地位を保全するためだった。違いますか、副会長。」
レートの推理は、冷徹な論理の鎖のように、ガルヴィンを締め上げた。議場は騒然となった。貴族たちの間で、驚愕と怒りのささやきが走る。
ガルヴィンは、蒼白い顔で、もはや反論できずにいた。
レートは、最後の一撃を加えるように、自身の懐から、分厚い一束の書類を取り出した。それは、真新しい羊皮紙に、緻密な筆跡で書き上げられた、法案の草案だった。
彼はそれを、議長の前に、恭しく、しかし確固たる意思を込めて置く。
表題には、こう記されていた。
『非典型的存立者及び特別貢献者権利保障法案(仮称)』
そして、その扉頁の下部。提案者欄には、彼の名が。そして、その隣、関連者/首要保護対象として、一つの名前が太字で記されていた。
提案者:レート・クリット
関連者/首要保護対象:エヴィ・ゼロ
「以上の調査結果と論証に基づき、私は、本申請『特別死亡給付金申請』を、『給付対象外・申請事実誤認』として、正式に却下します。」
レートの声は、静かだが、議場の隅々にまで届いた。
「代わりに、この『法案』の即時審議と、エヴィ・ゼロに対する、本結界維持という『継続的かつ重要な公益職務』の正式な認定、並びに、それに相応するあらゆる権利と保護の付与を、ギルド並びに王国に求めます。」
「これが、本特例調査主任としての、最終報告および提言です。」
彼は言い終え、一歩下がった。
議場は、水を打ったような、深い深い沈黙に包まれた。全ての視線が、議長席の老魔術師、そして、彼の面前に置かれた、たった一枚の法案草案へと集まる。
老魔術師は、深く刻まれた皺の中の目を細め、その草案を見つめていた。彼の指が、羊皮紙の表面を、ゆっくりと撫でる。
全ての答えは、今、この場で下される。
第8話:新世界への序章
聴聞会から一夜明けた。
ギルド本部の屋上庭園は、夜明け前の薄明かりに包まれていた。議場の喧騒も、詰問の嵐も、ここには届かない。ただ、遠くにそびえるエターナルシティの氷のシルエットが、青白い微光をたたえて見えるだけだった。
エヴィは、柵のそばに立ち、その都市を見つめていた。彼女の手足を縛っていた光の鎖は解かれていたが、三百年ぶりの“自由”が、かえって彼女に少しの戸惑いを与えているようだった。
レートが、彼女の傍らに静かに立った。彼の手には、あの分厚い法案草案の、個人用控えが握られている。
「…副会長ガルヴィンは、職権濫用と歴史改竄の嫌疑で、監察局の取り調べを受けている。」
レートが、事務的に報告する。
「法案の審議は、三日後に始まる。可決される確率は、現在の賛同者数を基に計算すると、78.3%。反対勢力は主に、旧王国貴族の一派だが、彼らも結界崩壊のリスクを無視することはできない。」
エヴィは、ゆっくりと顔を向けた。朝もやの中、彼女の紫の瞳は、氷よりも柔らかく、深い水のように見えた。
「…なぜ、ここまでしてくれたのですか、レートさん。」
彼女の問いは、穏やかで、ただ純粋な疑問だった。
「あなたの“調査”は、私の“死”を認定することで終わるはずでした。それが、最も合理的で、リスクの少ない選択だった。なのに、あなたは…わざわざ、最も迂遠で、敵を作り、自分自身の前世の罪さえ暴く道を選んだ。」
レートは、遠くの氷結都市を見たまま、しばらく沈黙した。冷たい風が、彼の前髪を揺らす。
「…私の仕事は、リスクを評価し、最適な解決策を提示することだ。」
彼は、ゆっくりと語り始めた。
「ガルヴィン副会長の提案、すなわち『あなたの粛清』は、短期的には確かに問題を『見えなくする』解決策に見える。しかし、中長期的なリスクを計算すると、最悪のシナリオだ。結界崩壊。百七十万の魂消滅。神骸の再暴走。文明への壊滅的打撃。確率は低くとも、いったん発生すれば損失は無限大に近い。」
彼の声は、相変わらず、データを読むようだ。
「一方、私が提示した解決策――あなたを『戦略的資産』として保護する法案は、短期的には確かにコストがかかる。認識の転換。法整備。予算の確保。しかし、中長期的なメリットは圧倒的だ。結界の安定性向上。百七十万の魂の救済可能性の維持。そして、あなたという、他に代替の効かない貴重な存在と、三百年分の知識と経験を、社会が活用できる道が開ける。」
レートは、ようやくエヴィの方を見た。
「リスク管理官として、どちらの案が『優れている』かは、明らかだ。私は、より優れた、より持続可能な解決策を選んだ。それだけのことだ。」
エヴィは、じっと彼の目を見つめていた。そして、彼の、完璧に合理化された説明の、ほんのわずかな“隙間”を、感じ取った。
「…それだけのこと?」
彼女の口元が、ほんのり、ゆるんだ。それは、三百年ぶりの、本当の意味での微笑みに近いものだった。
「では、私の“死亡申請”を最初に受理した時、私の妹…リリーのことを聞いた時、あなたが一瞬でも言葉を失ったのは、なぜですか?それも、リスク計算の一部ですか?」
レートの目が、わずかに見開かれた。彼は、防御的に、再び都市の方を見ようとしたが、エヴィのまっすぐな視線を避けることはできなかった。
彼の脳裏を、再び数字が駆け巡る。彼女の質問への、論理的な反論。リスク管理におけるヒューマンファクターの重要性。対象の心理状態の安定性が、結界維持に与える影響…。
だが、それら全ての“正しい答え”が、ある一つの、シンプルで、規定にもデータにも載っていない“感情”に阻まれる。
沈黙が、少し長引いた。
「…リスク計算だけでは、説明できない部分がある。」
レートが、ほとんど聞き取れないような声で、認めた。
「それは、明らかな“不合理”だ。効率性から外れている。…しかし、それが、この案件全体の、『唯一にして最大のリスクファクター』でもある。」
彼は、深く息を吸い込み、エヴィと正面から向き合った。
「あなたが、ただの“案件”や“リスク要因”ではなく、自分の意志と悲しみと犠牲を持った、一人の“存在”であると認識した時、私の最適化アルゴリズムは、エラーを起こした。」
彼の言葉は、もどかしいほどに正直だった。
「その“エラー”を無視して、純粋に計算上の最適解だけを採用することは、今の私には…『不正確』だと思えた。あなたという要素を適切に評価式に組み込まなければ、出てくる答え自体が、根本的に間違っている可能性が高い。だから、私は…その“エラー”も変数として含めた、新たな計算を始めた。この法案は、その計算結果だ。」
エヴィの胸の奥で、何かが、ほんのりと温かく溶けていくのを感じた。三百年間、凍りついていた何かが。
彼女は、一歩、レートに近づいた。彼女の目に、朝の最初の光が反射して、きらめいた。それは、長い夜を越えて、ようやく訪れた曙の色だった。
「…それで、よかったんです。」
彼女は、静かに、しかしはっきりと言った。
そして、彼女の唇が、もう一度、あの微かな笑みを浮かべる。
「では、私の理賠員さん。あなたの新しい法案によれば、私という『戦略的資産』には、専属の『リスク管理官』を付ける権利はありますか?」
彼女の目が、いたずらっぽく、そしてどこか切なく輝いている。
「結界の状態監視も、わたしという“資産”のメンテナンスも、それから…ときどき、不合理な“エラー”の原因を分析するのも、全部、一人でやるには、ちょっと荷が重いみたいで。」
レートは、一瞬、ぽかんとした表情を見せた。彼の論理回路が、この予想外の、しかしどこか必然的な“申請”を処理するのに、一刹那を要した。
そして、彼は、極めて真面目な顔をして、手にしていた法案の控えの、最後のページをめくった。そこには、追加条項を記すための空白が残されている。
彼は、空中に魔力のペンを呼び出し、その空白に、端正な、しかし確かな筆致で書き始めた。
補則第一条
本法案の対象たる特別指定戦略的資産には、その状態の持続的監視、リスク評価、及び権利保護を専担するリスク管理官一名を配することを認める。
任命は、資産本人の希望を最大限尊重し、かつ、当該職務に最も相応しい能力を有する者をもってこれに充てる。
任期:無期(永久)
書き終え、彼はペンを消した。そして、まだインクの光る条文を、エヴィに向けて静かに示した。
彼は何も言わなかった。しかし、その目には、もはや“エラー”などなく、あるのは、新しい、確かなアルゴリズムが完走したという、静かな確信だけだった。
第9話:終幕、そして新たな日常
保険金審査課の窓に、朝の光が差し込んでいた。
デスクの上には、新しい案件の山。エルフから届いた「美の秘薬による副作用(耳が尖りすぎた)」という賠償請求。ドワーフの鉱山会社からの「坑道を占拠した古代竜に対する退去勧告費用の保険適用」に関する問い合わせ。そして、なぜか一枚、黄金の鱗でできた便箋にしたためられた、竜自身からの「人間の勇者に奪われた宝蔵の返還交渉代理」依頼。
「ふん。これぞ、日常!これぞ、我々の戦場だ!」
ガシャガシャと音を立てながら、デスクの隅で羽根ペンを走らせる白い影が宣言した。バイロンだ。彼は、「重要歴史証人」としての予算で修復されていた。が、予算不足(と本人の「よりドラマチックな外見を」という希望)もあって、上半身だけは見事に修復されたが、腰から下はまだバラバラで、骨片が紐で束ねられているだけだった。その代わり、かつてないほど饒舌になっている。
「さあ、レート!エヴィ!我が新たなる叙事詩の構想を聞け!タイトルはこうだ!『理賠員と魔女と骸骨、世界を救いし後、日常の些事を処理しに帰還す』!どうだ、ピッタリだろう!?」
レートは、エルフの賠償請求書に目を通しながら、眉も動かさずに答えた。
「タイトル、不受理。事実の誇大がある。我々が『救った』のは、厳密には『世界』ではなく、特定の結界と、それに付随する法的問題のみだ。修正せよ。」
「何だと!これは詩的ライセンスというものだ!」
「それと。」レートは、書類の山から一枚、メモをぱっと抜き出し、バイロンの目の前に置いた。「昨日の、竜の巣窟(自称)現場検証報告書。通常報告様式での提出期限は一時間前だった。遅延損害金として、君の今月の霊体維持補助金から、5%を控除する。ついでに、詩的表現による要約版も提出のこと。それが、君の新しい職務内容だ。」
「くっ…!冷徹な規則の亡者め…!」バイロンは魂の炎を爆発させそうに輝かせたが、すぐに、不敵な(というより骨だけの)笑みを浮かべた。「…だが、良い。挑戦を受けよう。我が詩才をもってすれば、報告書すらも叙情詩に変えてみせよう!見ていろ!」
彼は、ガシャガシャと腰の骨を引きずりながら、自分のデスク(段ボール箱で代用)へと戻り、ペンを走らせ始めた。口からは、早速訳の分からない韻文が漏れている。「<ああ、竜の巣窟、その岩石の床は、金貨のごとく硬く、希望のごとく冷たかりき…>」
エヴィは、自分のデスクに置かれた小さな植木鉢を眺めていた。そこには、一輪の、透明に近い青い花が咲いている。『寂静百合』だ。リスキーだが、バイロンの「芸術的共鸣」理論と、彼女自身の制御により、安全に栽培できるようになった。彼女の指が、そっと花弁に触れる。
彼女は、ちらりとレートを見た。彼は相変わらず、真剣な面持ちでドワーフの書類と向き合い、時折、規定書をパラパラとめくっている。朝日が彼の髪と肩を金縁で縁取る。
そして、彼女は、窓の外を見た。
遠く、エターナルシティの氷の壁が、昇りゆく太陽の光を真正面に受け、きらめいていた。三百年間、同じだった冷たい光沢が、ほんの少し、ほんのわずかだが、柔らかく、温かい輝きを帯びているように――彼女にはそう思えた。
彼女の唇が、自然に、穏やかな笑みを浮かべた。
デスクでは、バイロンが報告書の冒頭で行き詰まり、「くっ、『岩石の湿度率』をいかに詩的に表現するか…!」と唸り、レートが「事実を正確に記せば十分だ」と淡々と釘を刺す。
騒がしく、不合理で、少しばかりめちゃくちゃで。
そして、かけがえのない、この新しい日常。
エヴィは、静かに、深く息を吸った。
窓の外では、氷の都が、きらりと、希望の光を反射していた。




