1.同級生が隣に住んでいた。
同級生が隣に住んでいた。
遡ること一時間前。午前七時。
佐倉琴音は、半分眠ったまま玄関のドアを開けた。
パジャマのまま、寝癖のついた髪を適当に結び、片手には小さなゴミ袋。鏡を見る気力もなく、ただ「今日は燃えるゴミの日だった」という事実だけを頼りに体を動かしていた。
廊下に出ると、隣の部屋の金髪の男が、ちょうど帰ってきたところだった。
金髪の男の人が、部屋に入る直前でこちらを見た。
一瞬、時間が止まったような気がした。
黒いパーカーに、少し眠たそうな目。年はたぶん同じくらい。
「あ、おはようございます」
声をかけられたのに、琴音の喉はきゅっと固まったまま動かなかった。
突然すぎて、言葉の出し方を忘れてしまったみたいに。
代わりに、反射で小さく頭を下げる。
ぺこり。
それだけ。
男の人は少しだけ驚いた顔をして、それから軽く会釈を返し、部屋の中へ入っていった。
(……今の人、隣の部屋の人か)
階段を降りながら、ようやく思考が追いつく。
(初めて見た)
(人に会うなら着替えて、顔もちゃんと洗えばよかった。挨拶してくれたのにほぼ無視みたいになってたし、めっちゃ無愛想だったよなー。失礼だったかな。本当にこういうところが私のダメなとこだ)
どうでもいい後悔が胸の中に浮かぶ。
「まぁ、いっか」
(もう会うことないでしょ。というか、会わないように行動しよう)
ゴミ捨て場は、朝の冷たい空気の中で静まり返っていた。袋を放り込み、何事もなかったようにアパートへ戻る。
階段を上がって、廊下の角を曲がったときだった。
自分の部屋の前に、誰かが立っていた。
さっきの金髪の男の人だった。
心臓が一気に跳ね上がる。
(……え)
足音を立てないように、でも逃げ場もなく、琴音はそっと近づいた。
視線を感じる。
じっと見られているのはわかるのに、向こうは何も言わない。
鍵を出す手が少し震えた。
(ん? 怒ってる? 私何かした? でもこれ絶対私待ちだよね)
ドアの前に立ち、鍵穴に差し込もうとした、そのとき。
「あの、佐倉さんですよね?」
声が落ちてきた。
「……え?」
思わず振り返る。
(なんで名前……?)
ネームプレートも出していない。郵便物だって外から見える位置には置いていない。ここに来てから、誰かに名前を呼ばれた記憶もない。
頭が真っ白になる。
男の人は少し気まずそうに笑って、
「あ、葛西高校だよね?」と言った。
葛西高校。
その言葉に、心臓がもう一度大きく鳴る。
琴音は、わけもわからないまま小さく頷いた。
「やっぱり。僕も葛西高校なんだ。同級生」
一瞬、現実感が消えた。
「同じクラスになったことないから、わからないよね。三年のとき二組だった、山川康太」
名前を聞いた瞬間、記憶の奥で何かが動いた。
確かに聞いたことがある。顔も、言われてみればぼんやり思い出せる。
クラスの中心ではなかったけれど、いつも誰かと話していた人。
「こんな偶然あるんだなー」
山川はそう言って、少し照れたように頭をかいた。
「ごめん、急に引き止めて。さっき見かけて、なんか見たことあるなって思ってさ。待ち伏せみたいになっちゃった」
琴音は何も言えない。
ただ、立ち尽くす。
「じゃあ、また」
それだけ言って、山川は隣の部屋に入っていった。
ドアが閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
部屋に戻って、顔を洗って、ご飯を食べて、テレビをつける。
いつもと同じ朝のはずなのに、どこか現実感が薄かった。
ニュースキャスターの声を聞きながら、ぼんやり考える。
(……あれ、夢だったんじゃないかな)
地元からバスで五時間。
知り合いなんて一人もいないと思って選んだ大学。
誰にも会わないように、誰にも知られないように。
それなのに。
隣の部屋が、高校の同級生。
(そんなこと、ある?)
胸の奥が少しだけざわついた。
理由はわからない。
期待でも、不安でも、懐かしさでもない。
ただ、自分の世界にありえないはずの点が、突然打たれたみたいな感覚。
高校を卒業した瞬間に、すべての人間関係が終わったのだと思っていた。
誰とも深く関わらず、誰の記憶にも残らず、名前も顔も、時間の中で少しずつ薄れていって、気づいたら最初からいなかった人みたいになる。
そうやって、何も起こらないまま年を重ねて、誰にも必要とされないまま生きていく。
それが自分の人生なのだと、疑いもなく思っていた。
そのとき。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。




