第30話 魔女の影、森の気配
アークハウスの地図盤の上で、セラが指を滑らせる。
「深淵の森まではあと二日の距離。
食料はそこまで持つけど、森に入ってからは……」
「尽きるな。」
レオンが答えた。
リアムが続ける。
「森の中に村や町はあるの?」
「ないわ。」
セラの声は淡々としていた。
「深淵の森は魔物の力が強すぎる。
普通の人は住めない。
鬼人族のような強靭な力を持つ種族だけが
棲めるの。」
「つまり……補給は期待できないってことか。」
「そういうこと。」
リアムは地図を見つめ、眉をひそめた。
「……なら、野宿の準備をしておいた方がいいね。」
レオンが頷く。
「アークハウスは森の中には入れん。
入り口で待機させる。
中に入るのは俺たち三人だけだ。」
その言葉に、空気が少しだけ張り詰めた。
旅はまだ始まったばかり。
だが、危険の気配が確かに近づいている。
◇ ◇ ◇
夜。
アークハウスの灯が落ち、外は月光に照らされていた。
森の手前に停車した巨大な要塞は、まるで息を潜めているかのようだ。
リアムは寝台の脇で、小さな包丁を握っていた。
朝と昼の料理の仕込みだ。
スープ用の乾燥野菜を刻み、香草を丁寧に分ける。
「……こうしてると、落ち着くな。」
小さく呟いた声が、静かな空間に溶けた。
料理は、彼にとって異世界で初めて見つけた趣味である。
戦いとは違い、みんなを笑顔にできる仕事。
やがて包丁を置き、窓の外に目をやる。
黒々とした森が、風に揺れていた。
その中から、かすかに低い唸り声のようなものが聞こえた気がした。
「……あれが、深淵の森。」
リアムは手を握った。
恐怖と同時に、強い覚悟が胸に宿る。
あの森の奥に、八星がいる。
自分の力を試す場所がある。
そして――皆んなを守る騎士としての、自分の誓いを果たすために。
その夜、〈アークハウス〉は深淵の森の手前で静かに停止していた。
機械の音さえ息を潜め、夜気がしんと漂う。
リアムは一日の料理の支度を終えると、洗い物を片付け、明日の下ごしらえを済ませてから寝台に身を横たえた。
レオンとセラはすでに眠っている。
窓の外には淡い星光と、森の向こうに揺らめく不気味な影が漂っていた。
「……これから、どんな出会いがいるんだろうな。」
小さくつぶやき、リアムは目を閉じた。
◇ ◇ ◇
意識が闇に溶けていく――その時、世界の奥底で、何かが静かに蠢いた。
──そこは現実でも夢でもない、魂の深層領域。
七つの灯火が浮かぶ白い空間に、黒衣の女が現れる。
艶やかな黒髪に紅の瞳、肌は深い黒その姿。
彼女の名はヴァレリア・ネメシス。
七人の魔女の一人にして、最後にリアムが出会う魔女である。
ヴァレリアはゆっくりと右手をかざした。
「……ようやく、リアム様の魂が安定してきた。
今なら――お話ができる。」
指先が淡く光り、白い空間に揺らめく映像が映し出される。
そこには、穏やかに眠るリアムの姿があった。
その瞬間、別の声が響いた。
「――待ちなさい、ヴァレリア。」
振り向けば、白金色の髪を持つ少女が立っていた。
透き通るような青い瞳に微笑を浮かべながら。
彼女はメルティナ・ロゼリア。七人の魔女の一人で、腹黒い女である。
ヴァレリアは眉をひそめる。
「……なぜ止める?
今の彼になら、本当の真実を伝えられる。」
メルティナは静かに首を振った。
「リアムはまだ、自分の真実を伝えられても
受け止められない。
真実を知ると、彼の心を傷つける。」
ヴァレリアは短く息を吐いた。
「……相変わらず私の邪魔をする。」
ヴァレリアはメルティナを睨め付ける。
「邪魔はしていない、リアムのためよ。」
メルティナは微笑んで、リアムの方へ手を伸ばした。
「彼が、自分の正体を知るには早すぎる。」
ヴァレリアはしばし黙した後、頷いた。
「リアム様を実験対象にしか見ていない女が……」
ヴァレリアはメルティナに言葉を吐き付ける。
「……確かにそうだけど。
私も貴方たちと同じで、彼の死を望んでいない。
会うのは良いけど、言葉は選びなさい。」
そしてヴァレリアの姿は、闇に溶けるように消えていった。
残されたメルティナは、リアムの魂にそっと手をかざし、微かな光を送る。
「……よく頑張ってるわね、リアム。
もっと見せてちょうだい、あなたという
奇跡の進化を。」
メルティナは妖艶な笑みを浮かべた。
その瞳の奥に、慈しみと狂気が同居していた。
そして白い空間に穏やかな風が吹き抜けた。
やがて光が収まり、メルティナの姿も消える。
◇ ◇ ◇
──翌朝。
リアムはゆっくりと目を覚ました。
見慣れた天井を見上げながら、小さく呟く。
「……今日は、変な夢を見なかったな。」
霧に包まれた夜明けの中、レオンたちはアークハウスの外に立っていた。
背後では、鉄の巨体が静かに光を放っている。
前方には、黒い木々がうねるように続く深淵の森。
「ここから先は、俺たちだけだ。」
レオンが告げる。
リアムは頷き、背負った剣の柄を握る。
セラは魔導杖を構え、冷静な瞳で森を見つめていた。
「さあ、深淵の森へ――行こう。」
その一歩が、静寂を破った。
そして、物語は再び新たな舞台へと進み出した。
◇ ◇ ◇
──それは、未知への一歩だった。
深淵の森。
闇と魔の棲む場所であり、同時に、真の力を問われる試練の地。
リアムたちはまだ知らない。
この森で出会う存在が、彼らの運命を大きく変えていくことを――。
次回:深淵の夜語り
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