第2話 喫茶店『ジューンブライド』
ウェルカムベルが俺の入店を知らせる。
通い慣れたクラシックな喫茶店『ジューンブライド』は、今日も閑古鳥が鳴いていた。
いくら漫画家だったおばさんの貯蓄があるとはいえ、このままだといつか本当に潰れるぞ、この店。
「ミチル、昼飯食いに来たぞ」
俺はこの店の一人娘の名前を読んだ。
するとカウンターの奥からではなく、フロアの方から声が。
「ちょっと待ってね! すぐ行くから!」
それは元気で明るい俺がよく知る女の子の声だった。
赤ん坊の頃から一緒で。常に一緒に居るのが当たり前になっていた女の子。
日向ミチルの声が、客席の方から聞こえていた。
「なんだよ。また客席にいるのか?」
俺は声がした方へ足を延ばす。
確かカウンター近くのテーブル席から聞こえたな、ミチルの声は。
「何してるんだよ?」
「し、静流君⁉」
案の定、そこにはメイド服みたいな従業員服を着たやや小柄な女の子が居た。
それも慌ててテーブルの上に散らばった紙を集めている。
「本当に何してるんだよ?」
「静流君には関係ないでしょ‼」
女の子が自分の体を使い、慌ててテーブルの上を隠す。
彼女こそ、俺の幼馴染――日向ミチルだ。
長い黒髪をサイドテールで纏めた女の子。
ちなみに彼女が髪を結ぶのに使っているピンク色のリボンは、かつて俺が誕生日プレゼントとして渡したものだ。もう十年近くも前の話になる。それぐらい昔から使ってくれているんだ。それだけのことなのに、俺としては未だに心が震えるぐらい嬉しくて。
「今日も似合ってるな、頭のリボン」
ふとした瞬間につい褒めている。
「静流君っていつもそればっかりだよね」
「悪い。でも本当のことだからさ」
テーブルの上でうつ伏せになったまま、ミチルが自分のリボンに右手を添える。
ほんのりと顔が赤くなっている気がしたけど、きっと普段運動をしないミチルがいきなり激しい動きをしたからだ。それぐらい机の上にあったものを隠す時、ミチルは常人離れした動きをしていた。まるで俺がミチルから、俺の漫画関連の物を隠す時みたいに。
つまりミチル的にはそれぐらい、俺に見られたくないものだってことだ。
だとしたら俺が取るべき選択は――
「それよりもどうしてここに小子さんが?」
平然と見て見ぬふりをすることだけ。
俺は視線をミチルと向かい合って座っていた女性――編沢小子さんに向けた。
小子さんはあのヘッポコ編集、編沢漫徒の義姉である。
いつも黒いスーツをきっちり着ていて、長い黒髪には寝ぐせ一つない。
たぶん俺が知る限り、一番ちゃんとした大人だ。
「奇遇ね、静流君。それよりもウチの愚弟が遊びに行かなかった?」
小子さんは俺が漫画家だと知っている。それと俺がどういう作品を描いているかも。
だから武士の情けとして、ミチルには俺と自分の弟がゲーム仲間だと紹介してくれている。たぶんここに居たのが弟の方だったら、『先生の幼馴染さんですね‼ いつも漫画で見させてもらってます‼ でも実物の方がブサイクですね』なんて失礼なことを言いかねなかった。しかも平気でタブーを破って来そうだし。
「弟さんなら仕事で派手なミスをしたらしく、今会社に向かってる最中だと思いますよ」
「……また静流君に迷惑を掛けたみたいね」
「とんでもない。まあ色々とフォローお願いします」
現在、小子さんは小説編集を行っている。
だけど俺は昔の縁で時々、小子さんを頼る。
主に編沢一人では不安でしかない時などに。
「ごめんなさい、ミチルちゃん。急用を思い出したわ。今日はもう帰るわね」
慌てて机の上に置かれていた、ノートパソコンとペンケースを鞄へと仕舞う小子さん。
彼女は荷物を全て鞄へ仕舞い終えると、未だに起き上がらないミチルに向って言う。
「悪いけどさっきの件。ミチルちゃんの中で答えが決まったら連絡をちょうだい」
「さっきの件?」
疑問符を浮かべた俺を無視して、小子さんは店を飛び出して行く。
彼女が駆け出した方角は駅の方。願うことなら、駅前で公開説教をお願いします。
あいつ、ただでさえ、俺に定められたタブーを破り過ぎなので。
店に残された俺とミチルの間に沈黙が訪れる。
それに溜まらず、最初に口を開いたのは俺だった。
「ところでミチル。お前の下敷きになってる紙だけど。俺は見ない方がいいんだよな?」
「う、うん。できれば片付け終わるまで店の外で待ってて欲しいかな。五分もあれば、部屋に置いて来れると思うから」
「五分だな、わかったよ」
俺は大人しくミチルの言葉に従う。
あの紙が気にならなかったと言えば嘘になる。
でも俺だってミチルに隠し事をしているんだ、お互い様だ。
だけどあんなに恥ずかしがるってことはあの紙……まさかラブレターとか……。
ない。ない。ない。ない。ない‼ だってミチルだもん‼ 仲の良い男友達なんて俺ぐらいだもん。誰かに片想いしてる様子もないし。でもだとしたら、アレがラブレターと過程した場合、送る相手は俺なんじゃないか?
……いや、それこそ一番ありえないか。
だってミチルのやつ、俺のことを完全に家族扱いしてるし。
言うなれば兄妹にラブレターを書くようなものだよな。
まあ俺は普通にミチルを一人の女の子として、愛してるわけだけどさ。
入口の所へ辿り着くまで俺は様々な可能性を視野に入れた。そして店を出る時、俺は思わず先ほどのテーブル席へ目を向ける。そこではせっせと紙を集めるミチルの姿があった。それも明確に顔を赤くして、それでいてどこか幸せそうにソワソワしている。俺単体には向けることのない表情だ。
ミチルにあんな表情をさせるやつがいるなんて、そんなの嫉妬するに決まってる。
一体誰だ。あんな表情をさせるぐらい、ミチルの心の割合を占めているやつは。
視線を前方に戻して入口のドアに手を伸ばした時、カランコロンとウェルカムベルが鳴った。その音を聞きながら、俺は胸の中でメラメラと嫉妬の炎を燃やす。
俺はミチルが好きだし。ミチルが幸せなら、平気で身を引く覚悟もある。だけど――
「……あいつを一番好きなのは俺なんだよ。この宇宙で俺以上にあいつを好きなやつはいない」
外に出た俺は閉じたドアに背中を預けて呟いた後、名前も知らないミチルの思い人に強い対抗心を燃やした。