水が滴る古小屋で
これは俺が出会った、ある人との話だ。きっと、彼にとって俺はなんの価値も無い人間だったろうけど、俺にとっては確実に価値のある出会いだった。
そんな、出来事の話だ。
―――
それは、まだ夜が蒸し暑く、虫が集るような夏の夜のことだった。
その日は雨風の勢いが強くて、身体の熱が奪われた。
突然だが俺は今、盗みをはたらいた。
今夜の食事を手に入れる為に、パンを一切れ盗んだ。
動悸が止まらない、心臓が怖いくらいに鳴っている。
今にも吐きそうだった。
けれど、同じくらいに腹が空いて死にそうだった。
丸3日も食べていない、しかも最後に食べたのは人が捨てていった様な残飯だけだ。
流石に……もう限界だ。
今俺は走っている、店から出て、どこへ向かうべきなのかも分からずに。
ただただ、罪悪感から逃げる為に走っている。
これがみつかれば、俺は本当に終わりだな……
そう思いながらも、俺は盗んだパンに口をつけた。
久々に食べる飯に、俺は感動した。
生きている意味を実感させてくれた―――
食べ終わると、遠くに古びた小屋を見つけた。
今夜はあそこで過ごそう、雨風も凌げそうだし、何よりも外より暖かそうだ。
俺は草道を踏み歩き、小屋へ向かう。
辺りは暗い、奴らに襲われないように慎重に、だ。
俺は幸いな事に、何にも遭遇せずに小屋に辿り着くことが出来た。
扉も開いている、今日は本当に運が良いな。
久々にここまで贅沢出来る。
俺は嬉しさのあまり、口がほころぶ。
ゆっくりと足を踏み入れると、木が軋む音がした。
それを聞いて、安心する。
木が崩れないだけ良かった、と。
中に入ってみると、外との寒暖差を実感する。
所々穴が空いたりしているものの、これまで寝てきた場所に比べればかなり良い場所だ。
家の中には、暖炉と布切れ。そして机と椅子。
ここなら、ずっと住んでいても見つからなさそうだ。
ひとまず椅子に腰を掛けて、ほっとため息をつく。
地面に雨が当たる音が不規則に鳴って、すきま風が入ってくる。
寒さにも慣れた、とはいえ寒いものは寒いので、布切れを身体に纏って身体の熱が逃げないようにした。
椅子の上で、俺は天井を見たまま固まっていた。何故こんな事になったんだ……
本当ならばこんな所じゃなくて、今頃暖かい布の上にねているはずなのに。
どこで、道を踏み外してしまったんだろう。
家も金も家族も友人も、何も無い。
あるのは、自分の命だけ。
それすらも、何の価値も無い。
仕事って、どうやって就けばいいんだろう。
俺は……この世の事を何も知らない。
人がどうやって仕事に就くのか、どうやって産まれるのか。友人とはどこで出会うのか。
俺の最後にある温かい記憶は、随分昔の事だ。
いっそもうこのまま、ここで死ぬのもいいかもしれない。人に迷惑ばかりかけ続けて、盗みまでして。
この世界の役に立つ所か、迷惑しかかけない。
そんな人間を、何故今日まで生かし続けているのか。
この世界を作った人は、なんでここまで格差を与えたんだろう。
疑問ばかり、頭に浮かんでしまう。
もうやめにしよう。
こんな堕落した人生も、今日で終わりだ。
もう、落ちるところまで落ちた。
俺が死ねば、世界に迷惑をかけずに済む。
腰に巻いた紐を解いて、天井のフックに紐を掛ける。
絶対に解けないように、固く固く結んだ。
今から俺が何をしようとしているか、そんな事は見て分かるだろう。輪になった紐と、固い結び目。
輪には、俺の頭がすっぽりと入りそうだ。
今から俺は、自死する。
常日頃考えていた事だ、だがいざとなると勇気が出なかった。俺は、恐れていたんだ。こんな状況でも、何も希望が無くても、死にたくないって思ってしまっていた。
けど、俺はもう犯罪者だ。
これまで俺は、罪を犯す事だけはしなかった。
どれだけ自分が無価値な人間でも、罪を犯さなければ善人でいれると思っていた。
だけれど、今は違う。
善人でも、価値のある人間でもない。
俺は、無価値な犯罪者だ。
そんな思いが、俺を上へと登る勇気をくれた。
目を瞑って流れるのは、これまでの22年間の日々。
……行動するなら早めに、だな。
決意が揺らがない内に、俺は輪に首を通した。
まだ、雨は止まない。
この椅子を蹴飛ばせば、俺の人生はここで終わる。
後悔しか……ないな。
―――そして俺は、椅子を蹴飛ばした。
途端に、息が苦しくなる。
これが……本当の―――
死か。
目の前が、暗くなった―――
次に目を開けたとき、目の前はまだ暗かった。
雨はまだ降っていて、それどころか先程よりも強くなっていた。見える景色は、狭く、暗かった。
俺は、失敗したのか? 死ぬのに。
それすら出来ないなんて……俺は―――
「その様子だと……自殺に失敗したと勘違いしているのか? それなら安心してください、失敗してないですよ」
後ろから、若い少年の声が聞こえる。
俺よりも若い。一体どういう事だ。
重い腰をあげて、立ち上がる。ふらついて倒れそうになるが、なんとか持ちこたえる。
「……えっと、君は一体誰?」
椅子は、地面に倒れている。ということは俺は確かに自殺した……んだよな。縄、千切れたかな。
天井を見ると、紐は固く結ばれていたものの、切れていた。ぶらんと、ぶら下がっていた。
「状況が理解出来てない……混乱状態か」
その少年は至って冷静だった、まるで俺が考えている事を把握しているようだった。
うーん……
俺が考えた末に出た結論は、彼は死後に現れるなんかだということだ。
神様は、人が死んだ後にあの世へ行けるように使いを出すって聞いたことがあるし……そういうもんなのかな。
「えっと、もしかしてあなたは神様の使い……様か何かですか? お迎えってことですか?」
「ん? え、僕? 神様の使いって……そんなわけないでしょ」
少年は困惑しながらも、その言葉に笑っていた。
おかしなことを言っただろうか。
「あぁ、僕が誰って言ってましたっけ? 僕はマギステル・エレクトス。歳は14、見ての通り男です。こんくらいでいいですか? 自己紹介は」
14……随分若いな。そんな子供が、一体何故こんな時間にここにいるんだろう。
そんな疑問を口に出すこともなく、俺は黙っていた。
マギステルはそんな俺の様子を見かねたのか、自ら話し始める。
「ええと……あ! あなたはまだ生きてますよ。なので、僕は神でも神の使いでもなんでもありません。ただの14の子供です。ここに入ったら首吊ってるもんですから、びっくりしましたよ」
「……は? ちょっと待って。君がこの部屋に来た時には俺首を吊っていたんだよね、ならなんで俺は生きてるんだ? 一体どういう―――」
「単純です、僕が縄を切りました」
理解が出来なかった。
自死を選んだ人間の死を、なんで邪魔したんだ。
勇気を、決意を無駄に……理解できない。
俺は怒りから、声を荒げた。
身体の少ない体力を、使ってしまうほど。
「君は……! 一体何がしたいんだ、人が自死を選んで、決意して、実行したんだぞ!? 何故それを邪魔したんだ。これまで、俺がどんな人生だったかも知らないくせに―――どうするんだ。邪魔をして、何がしたいんだよ……」
間髪入れずに、答える。
「なら、もっかい首でも吊ればいいじゃないですか。死にたいんでしょ? 紐ならまだある、燃えたわけじゃないんですし。でも僕は手伝いませんよ、人殺しに加担したくはないので」
その態度に、腹が立ってきた。
まだ成人すらしていないような、子供が。
全てを分かったような態度で話している事に、腹が立っていた。
「……分かったよ。今から死ぬから、少し出てくれないか。流石に死ぬ時は独りがいい」
そう言うと、少年はすぐに外に出た。まだ雨も降っているというのに、何の抵抗もなく。
俺は再び椅子に登り、縄を固く結んで、今度は切られないようにと願いながら結んだ。
首に、縄を、かけて。
その最後の動作が出来なかった。自らに、縄をかけるというその動作が。
動けなかった、止まってしまった。
俺の決意は、消えた―――
死が恐ろしい。先に、何が待っているのか、分からない。そう考えるだけでも、目眩がしそうだった。
「なんで、なんでだ。俺の決意は、どこへ行った……死にたくない、怖い、死ぬのが、怖い。けど、俺のさっきの覚悟と決意は一体なんだったんだ……」
「勝手な憶測ではありますが、それは罪悪感や自己嫌悪、そういう負の感情が溜まりに溜まり、それらから逃げる為に突発的に起こした一時的な感情の起伏による行動でしょうね」
さっきの……聞いていたのか。
情けないな、まさか質問の回答者が、こんな年端も行かない子供だなんて。
「君は……ごめんね、外は寒かっただろ。俺の勝手な行動のせいで」
「全然大丈夫ですよ。そもそもこの小屋、玄関が二重構造になってるので、玄関出てももう一個扉がありますし」
「そうだったのか……なら良かった。情けない姿を見せてしまったね、あんなに怒っといて、死んでないんだから」
マギステルは表情を一つも変えずに、真顔のままこちらを見ていた。
年齢のわりに、ずいぶんと大人びた子だ。
「名前なんでしたっけ。僕の名前は教えましたけど、あなたの名前は聞いてないですよね?」
「俺の名前かい? 俺は……ドブニ。変わってる名前だろ」
「いえ、良い名前だと思います。何を言いたいかと言いますとドブニさん、あなたを試させてもらいました」
その言葉に、俺は疑問が浮かぶ。
試す? 一体何を。
こんな少年の言っていることに全くついていけない、俺が無知すぎるだけなのか、マギステル君が頭いいだけなのか……多分どっちもだ。
「試すというと……??」
「端的に言うと本当に自死できるのか、ですね。あなたが一時的な感情の昂り、つまりは逃げの意識から自死を選んだのか、ということです。もしも一時的な感情で動いているのなら、あなたは死後後悔します。もしもそうでないなら、しっかりと考えた上での自死だ。僕はそれを止めたりはしない、ただ単に勢い任せで行動をする人間が嫌なだけです」
確かに……俺は一時的な感情で動いていた。
物を盗み、無価値な自分に対しての罪悪感から逃れるために逃げるように動いていた。
マギステル君が言うように、勢いに任せて死ぬことで、罪悪感から逃げようとしていた。
結局、自分の事ばかり考えているだけだったんだな。
「ありがとう、君のお陰で踏み止まることが出来たよ。あと一つ質問があるんだけど、いいかい?」
「……? いいですけど、何ですか。難しい事なら僕は答えれませんよ。知識はありますけど頭は良くないですから」
「難しい質問ではない……と思う。ただ好奇心で」
「どうぞ」
そして俺は座った。
「君は何故、こんな小汚い小屋にいるんだい? 見た所身なりも整っているし知識もある。こんな夜更けに少年が1人で来ていいところじゃないだろ?」
少しの間髪も入れずに、少年は答えた。
「誰もいないと思ったからですよ。こんな汚い小屋なら、一人になれると思ったんですが……あなたがいました」
マギステルはそう言って、ドブ二の顔をじっと見つめた。
なんだか申し訳なくなった。彼は一人になりたくてここに来たのに俺のせいで迷惑をかけてしまった。
やっぱり俺はひとの邪魔しかしないな……
「だからといって、そんなに気にすることはありませんよ。こうやって話し相手もできて楽しいですし、むしろ幸運だとすら思えています」
「え……? 楽しいんですか? 俺と話するの」
「まあ、楽しいですよ。考えてみてくださいよ、これまで接することのなかったふたりがこうやって話している。この小屋がなければ、少し環境が違えば、僕達はこうやって出会うことはありませんでした、そう考えれば幸運だと思えませんか?」
彼が言うことに、俺は納得していた。確かにそうだ、話すことも、すれ違うことすらなかったであろう人間とこうして話している。
そう考えると、これも幸運だとおもった。
彼の言葉には、妙な説得力がある。
人を引き込み、納得させるような力。
こういう人が成長した時に、国を動かしたりするんだろうか。
「確かに、そう言われればそうかも。そうだ、折角こうして出会えたんだ、少し話を聞いてくれないかい?」
マギステルは少しの間もなく、こくりとうなずいた。
「いいでしょう。時間は沢山ありますし、いくらでも話してください」
「ありがとう……そうさせてもらうよーーー」
そうして俺は、マギステル君に話すことにした。
自分が何故こんな生活をしているのか、その過去を。
俺はある一般家庭に産まれた、ただの庶民だった。
父と母、兄が一人。
父は街の近くにある炭鉱で毎日石炭を掘りに行っていた。母は織物を売ったりして、生計を立てていた。
兄は頭が良い人で、大学に進学することが決まっていた。その時俺は5つだった。
決して裕福ではないものの、食うものに困る暮らしではない。当時の俺はそれで満足していた。
だけどある日、兄が死んだ。
死因は自殺だ。理由は良くわからない。
覚えている限りだと、兄の恩人である教師がどうの……という感じであったと思うが、当時の俺にはそんな話を聞いていられる余裕はなかった。
兄は俺に対してとても優しくて、よく一緒に遊んでくれていた。その分、とても辛かったのを未だに覚えている。
それから、俺の家族は崩れていった。
立て続けに、父が肺の病気になった。
炭鉱で炭を吸い込みすぎて、肺がおかしくなってしまったんだとか。その影響で、父は仕事を辞めなければいけなくなった。
根本的な治療法はなく、父は身体仕事ができなくなってしまった。
それからは2人で織物を売っていた、だがそれだけでは暮らして行けないに決まっている。
兄の死と立て続けに、俺達はまともにご飯も食べれなくなった。
母は兄の死によって精神が錯乱状態になり、織物が織れなくなった。
死の直後は実感が沸かないのか、織物売りは続けられていた。だが時間が経つにつれ実感がわいたんだろう、母は精神がおかしくなってしまった。
その後すぐに母も旅立った。
兄の元へ行ったんだろう、家は静かになった。
少し前まで、食卓は暖かった。
兄の笑顔、父は大きく口を開けて笑って、母はそれを見てくすくすと笑う。俺もそれ見て楽しい気分になって、いつも笑いながら食事をしていた。
だけど2人が死んでからは、父は家に居るために夜中まで仕事に行っていた。
だから俺は一人で、冷めたシチューとパンを食べていた。
パンは無味なはずなのに、とても塩っぽかった。
だけど俺はまだ希望を捨てていなかった、自分も兄のように賢くなる為に勉強をしようと心がけた。
だが根本的な問題として、勉強の仕方が分からなかった。
何をすればいいのか、何が勉強なのか。
そんな事で悩んでいる時、家に一人の男が来た。
父ではない、大人の男だ。
その男は言った。
「お父さんが病院に運ばれた」、と
病院に着いた頃にはもう遅かった。
父は息を引き取っていた、死因は過度な疲労によるものだったそうだ。
肺に病気があると言うのに、俺を養う為に夜中まで働いていたらしい。
引き取ってくれるような親戚もいない、俺は齢5歳にして一人になった。
金の使い方もわからず、知らない人達の家に呼ばれて俺はそこで暮らした。
顔も何もかも知らないおじさんとおばさんは、俺に温かい食事を与えてくれた。
居心地は案外良かった、家族がいないのは寂しいけどここなら安心して過ごせるだろうなと思った。
本当の悲劇はそこからだった、齢6歳のある日。
俺の街は壊滅状態に追い込まれた。
何かに襲われて、みんなの叫び声が聞こえた。
俺だけは、小さな食料保管用の倉庫に隠れてなんとか生き延びれたけど、外に出た頃にはそこに街はなかった。
おじさんもおばさんも、いなかった。
そこで俺は初めて感じたんだ、孤独を。
もう誰も俺を救ってくれない。
小さな足で、長い道を歩き続けた。
誰にも頼る事が出来ない、喋ることもままならない。
そんな俺をみんな哀れんではくれるが、何もしてくれない。
時たま食事や水、金銭をくれる人がいた。
その優しさのお陰で俺は生きのびることが出来たんだ。
年を食っていくと、だんだんと哀れんでくれる人は少なくなった。
どこかで働こうと思っても、俺の見た目や境遇を知ると門前払いされた。
野生の動物を狩ったり、川の水を汲んだりして生き長らえた。
だがそれも、運が悪いと話が違う。
動物が見つからない日もあれば、川の水が物凄く汚れている日もある。
そんなの不幸全てが重なったのが少し前だ。
食糧も尽き、水もない。
それに寝床もない。
そうして俺はーーー
「ーーー盗みを、しました」
雨が、屋根に当たる音が心地よい程に一定のリズムで奏でられていた。
「まあ、盗みは犯罪ですけど。それくらいで気に病む必要はないと思いますよ、誰だって罪を犯した事はあります」
「だけど……人の役にたてない人間が、迷惑かけて……自分で罪を犯しておいてこんな自責しても意味がないのは分かってる。だけど俺はもうどうすればいいか」
「ドブニさん、問題はあなただけにあるわけではない。よく考えてみてくださいよ、そんな救いのない状態のあなたを助けるための措置が無いのはおかしくないですか」
俺を……助ける?
そんなもの、あるのだろうか。
俺は世のことは何も知らない。
知っているのは、雨の中生き残る方法と逃げる方法だけだ。着ているものも、腰に携えた短剣も、全て捨てられていた物を身に着けている。
全身が誰かの要らないものを集めたものでできているこの俺に、助けの手を差し伸べてくれる人なんているんだろうか。
「おかしいなんて、思ったこともありませんでした。誰からも助けてもらわない事が当たり前でしたし、幼い頃は救いの手を差し伸べてくれる人は一定数いましたけど。この年齢になってからはそんな事ないです」
「まあ、それがこの世界の方針なわけだ。本当に腐った世の中ですよ、何故弱者を救済する措置を強者は用意してあげないんですかね。意味がわからない」
マギステルは珍しく、苛つきを見せていた。
夜が明けるまではかなり時間がある。
「そういえば、その腰の短剣。かなり古い物ですよね」
俺の腰を指さして、そう言った。
「あぁ、これかい? これは拾ったものなんだ。だからなにがなんだか分からないんだよ。錆びていて、使い物にならないし、見た目が気に入ってるから持ってるだけだよ」
マギステルはじっと、その短剣を見つめていた。
興味があるのかと思い、短剣をベルトから外して彼の手に置く。
「ありがとうございます。……これは多分ですけど、今から200年以上前に作られた型ですよ。実用性よりは骨董品としての価値が高い作品です。それにこの鞘の部分をよく見ると、渦巻き模様のような柄があるのが分かると思います。これは輪龍線といって人の手で再現するのは難しい、失われた技術です。刀身が錆びていても鞘がこの綺麗さなら、価値はかなり……あ」
まさに、やってしまった、と言わんばかりの顔をして俺を見ていた。
こんな大人びた子にも、子供っぽい一面があるんだと分かると少し安心した。
「面白いから、もっと続けてよ。その話。もしよければそれもあげようか? 俺じゃ価値わからないし、持ってても手に余るだけだしね 」
マギステルは目をキラキラさせて、お辞儀した。
「ありがとうございます!! あー、ほんとに存在したんだ。嬉しいなぁ」
その後少しの間、マギステル君は短剣を見て飛び跳ねていた。
微笑ましくて、暗い空間に明かりが灯った感覚があった。
落ち着いてきた後、マギステルは部屋の隅に座りはじめた。
再び、口を開き始めた。
「ドブニさん、もし良ければ僕の語りを聞いてください。あまり、面白い話ではないですが暇であればどうぞ」
「凄く暇だし、聞くよ。それに俺も聞いてもらったからね」
「僕が何故こんな所にいるのか、それは―――」
◯ ◯ ◯
本名はマギステル・エレクトス。
地元では有名な、名だたる貴族の息子である。
幼い頃から所作や何もかもを教えられ、完璧な人間になるように育てられてきた。
学問も、運動も、何もかもの飲み込みが早かった。
マギステルは、歴代でも類を見ない天才として扱われてきたのだった。
「父上、本日の課題が終了しました」
マギステルは毎日、父から出される課題を終わらせることでようやっと食事を取ったり、本を読んだりすることができるようになるのである。
「ご苦労、食事の準備はできている。早く行かないと冷めてしまうぞ」
「はい、そうさせてもらいます」
毎日、朝からため息ばかりだ。
天才であるが故に、この生活が常識と逸脱したものであるというのは直に理解できた。
それが自分の要領の良さが原因であることもまた、理解していた。
また同時に、この異様とも言えるこのシステムに従わなければ自分が不利になることも分かっていたので、抵抗することはしなかった。
あくまでもすべては、自分の利のため動くのだ。
栄養バランスがとれた、味も良い食事。
だが温かみというものがない。
機械で作ったような無機質感が食事に表れている。
唯一の楽しみと言えば、趣味の短剣を眺めている時だけだ。
世界各地の様々な短剣を仕入れ、眺める。
それだけが、このパターン化された生活の中での生きがいだ。
そんな生活を、約14年。
厳密に言えば10年だ。
幼い頃はまだ甘やかされていた方だった。
そして今日、普段通り課題をこなし、食事を取り、勉強をし、本を読み、短剣を眺め、運動をし。
そんなある日だった。
短剣が、全て壊された。
父が、趣味に現を抜かす僕を見て呆れたのか分からないけど、全て壊されていたのだ。
僕はもう、全てをやめたくなった。
父の息子であることも、この課題も、すべてにおいてどうでもよくなった。
何もかも、何もかも何もかも、利の為にやってた事全てがどうでも良くなったんだ。
雨が降る日、僕は家を飛び出した。
初めてのことだった。
誰かに反抗したのも、言いつけを破ったのも。
だけど心なしか、心の底が温かくなるのを感じた。
夜の街は、普段見ている景色と同じはずなのにどこか異なって見えて、街灯に照らされた頬は赤くなっていた。
どこへ向かうでもなく、ただひたすらに家から逃げた。
僕は思った、これからの事を。
言いつけを破り、父に反抗するような息子はこれからどうなるのだろうか。答えは明確だ、さらに制限をかけられて、期待もされず、一日中机と睨めっこ。
そんな事するよりかは、外で放浪している方が幾分かマシだろう。
体力が尽きて、足を止める。
それと同時に、ぽつりと水滴が空から落ちてきた。
次々に水滴の勢いは増してきて、聞こえるのは雨の雑音だけになっていた。
稀に見る大雨だ。
これだと多分、川は氾濫するだろう。
雨を防ぐものもないので、とりあえず歩いた。
街の外は見渡す限り何もなかった。
だけどただ歩いた。
それ以外に出来そうな事もなかったし、今は父がいるあの街に留まりたくはなかった。
それからどれほど経ったか、歩き続けて、雨で体温も下がり、そんな状態の時に古小屋を見つけた。
ここらへんは誰も住んでいない。
もう、このまま独りでいたところで僕になにが出来るのだろうか。世のため貢献する事? そんなの、ただの歯車だ。
僕はこの腐った世界の歯車として生きて、いつか錆びた時に捨てられる。
もう、疲れた。
たった14年間。されど14年間だ。
人生の体感時間は、20歳ほどで半分を終えていると言われている。
人生の最も大切な時期を、僕は何に使っていたんだろうか。
放浪していても、家に帰っても、辛いのには変わりない。こんなに辛いなら、いっその事終わらせてしまおうか。
何の期待も持つ事ができない人生に何の意義があるんだろう。思うのは自分が弱い人間だということだけ。
人目も少ない。
大丈夫だ。
僕は、古小屋の扉を開けた。
「は……?」
扉の先には、人がいた。
首を吊っている、自殺だ。
大人、20代後半ぐらいだろうか。
格好は随分ボロい、浮浪者だろうか。
彼も、僕と同じなのだろうか。
人生に期待ができなくなって、その辛さ、何もかもが嫌になってこの道を選んだんだろうか。
僕は、贅沢なんだろうか。
食事も充分に与えられているし、本も読ませてもらえる。
確かによく考えれば、それは……
脳裏に浮かぶのは、破壊された短剣の数々だ。
僕が全てを賭けて集めてきた短剣の無残な姿が、脳裏に浮かんだ。
僕は、自分勝手だ。
自分が死のうとしていたにも関わらず、目の前のこの人が死ぬのを止めたいだなんて思っている。
もし、僕に何かできることがあって、それで彼が助かるのだとしたら。
もしこの人が、勢いで死を選んだなら。
その場の辛さで、行動したのなら……
そんな事を思っている内に、縄が切れた。
体重の負荷に耐えられなかったのか、縄はだらんとぶら下がっている。
誰かが、彼を助けたんだろうか。
本当に死を選んでいない事を、分かっている誰かが。
そんなのがいるとしたらそれは、神だろう。
僕も、勢いで飛び出して死のうとした。
だけどそれは、軽すぎる。
命の価値を、重みを理解していればそんな事はしない。一度落ち着いて、考えるんだ。
僕は、深呼吸をして、浅く眠った。
◯ ◯ ◯
「ちょっと待って、なら縄はマギステル君が切ったわけじゃないってこと?」
「そうですよ。短剣は全て壊された、この頑丈な縄を切れるような刃物はそもそも持ち合わせていないですから」
「なんで……そんな嘘を?」
なんで、か。
僕はそんな問いを投げかけられ、少し考える。
嘘なんてほとんどついたことが無かった。これまでの人生、全てを馬鹿正直に話すことが正しいと思っていた。
だけど、今回はどうだろうか。
この嘘は、正しい嘘だったんだろうか。
そんな事を考え、問いの答えを口に出す。
「あなたに、忘れてほしかったのかもしれません。怒りによって、死にたいという気持ちを薄めようとしたかったんだと思います」
自分でも分かる。
少しずつ自分が変わってきているのを。
正反対の、自分とは異なる境遇のドブニさんを見て、感情で動くようになった。
前まではそんな事無かった。
これが、変化か。
「この嘘がドブニさんにとって正しかったのか、正しくなかったのかは分かりません。だけど、僕にとってはついて後悔のない嘘だった。もしこれで死を忘れずに死んでいたら、僕は恐らく自責の念に苦しめられることになったでしょうから」
「確かに。君のあの嘘のおかげで死にたいという気持ちが薄れて、君に対しての怒りのほうが一時的に大きくなっていた。それなら、マギステル君に感謝すべきかな」
2人は目を合わせ、口を綻ばせた。
「じゃあ君のお父さんは、凄い人だけど厳しかったんだね。俺の父さんは小さな頃に死んでしまったけど、立派な人だったよ、朧げな記憶だけどそれだけは覚えてる。尊敬しているんだ、俺は」
「父は昔から厳しい人でした。僕を事業の後継者にしようと教育していたみたいです。生まれたときから、僕の将来は父に決められていたようなものですよ。本当、つまらない人生でした」
「だけど、これからはもうマギステル君の人生だ。父親から逃れる事ができたんだから、好きなように生きることができるはずだよ。君の頭の良さなら、きっとどこでも馴染むことができるはずさ」
「そうですかね。まあ、そうだったら良いんですけど。ドブニさんはこれからどうするつもりなんですか? まさか、また死のうとなんてしませんよね」
「まさか、そんな事しないよ。これからは、君のように人を救えるような人間になりたい。知識を付けて、沢山の人と触れ合って、いつの日か俺は俺のような人がいなくなる世界を目指したい……なんて思ったけど、まず俺がこの状況から抜け出さなくちゃ、変わらないか」
頭を掻きながら、そう言った。
「あなたは、もう変わっていますよ。以前と違って、人を救うことを考えている。自分の存在を無価値だなんて思わずに、存在価値を見出そうとしているんだ。人が変わるため、一番大変なのは心の変化です。人間の奥底にある心を意識的に変化させるのは困難だ。それができずに、変わることのないまま死にゆく人間がどれだけこの社会にいることか。けどあなたはそれをすることが出来た、最も困難な事を達成できたんです。だからきっと、夜が明ければ世界は変わって見える」
何か、胸の奥にある取っ掛かりが取れたような。
変な感覚だ。
だけど嫌な気分じゃない、むしろいい気分だ。
きっとこれが、成長なんだろう。
さっきまで死のうとしていた人間が、ここまで変わることがあるんだな。
自分で言うのも何だけど、人ってのは本当に不思議な生物だ。
他に類を見ない事が多い、特異な生物。
俺は、人間に生まれてきて後悔はない。
人間で良かった。
そういえば、マギステル君に聞きたいことがあったんだった。
俺はふと思いだして、マギステル君に聞いた。
「この世界について、聞きたいことがあるんだけどいいかな」
「急にどうしたんですか? まあ、大抵のことなら答えられますけど」
「昼間もいるけど、特に夜に沢山でてくるアイツラは一体何者なんだい? 俺たちを殺そうと襲ってくる奴ら。人間には見えないんだけど……」
マギステルは驚いた顔をして、数秒止まった。
「まさか、知らないんですか? 本当に何も?」
「ああ、本当に何も知らない。なんか物心ついたときからいたから……そういうものなんだと」
「分かりました。じゃあ説明しましょう―――
マギステル君は言った。
奴らの正体は魔物という生き物であると。
魔物は俺達が生まれるよりずっと昔からいるものであって、個体によっては知性があったりなかったり、様々なようだ。
俺達人間を襲う理由は、大昔にいた魔物の王様みたいな奴の影響らしい。
すべてが未知だ。
最近奴らのボスが俺達を潰そうとしているらしい。
そう言われれば、最近魔物?の数が多くなってきていた。野宿ができなくなったのもそのせいだ。
この世界には、その魔物を倒すための仕事があったりするらしい。
らしいらしいとうるさいと思うけど、これが精一杯だ。
「まあ、一般常識ですよ。これを知らずによく生きてこれましたね。僕は疲れたので、少し眠ります」
マギステルは壁に背をかけて、ぐっすりと眠り始めた。
俺は不思議な事に、空を見ていた。
今まで全く興味もなかったのに、何故か不思議と空を見たくなったのだ。
雨はいつの間にか止んでいて、夜明けは近づいてきていた。
まだ雨で濡れた地面を踏みながら外に出ると、外には明かりがともっていた。
こんな所に、光があったのか。
光に手のひらを合わせて、生きているのを実感する。
俺には、血が通っている。
空には月が浮かんでいて、星々が輝いていた。
息は白く、まだ冷たい手を手で温めて前へ進む。
「マギステル君、ありがとう」
◆ ◆ ◆
3年後
「―――その依頼を受ける事はできません。俺の中の規則に反してます」
「あぁ!? んだとてめぇ……」
「俺はなにがあっても人殺しはしない。俺がしたいのは人助けだ、いくら積まれようと殺しはしない」
「こんな店二度と来るかよ、クソ野郎!!」
扉が勢いよく閉められる。
もう古い建物だから、最近建て付けも悪くなってきているんだ。
やめてほしいものだ。
あれから3年、俺はあの後体格の良さを活かして、まずはボランティアを始めた。
困っている人を助けたり、迷子の子供を届けたり。
小さな事から始めた。
最初は身なりの悪さから敬遠されることが多かったけど、やっとの事手に入れたお金でまずは自分を清潔にした。
髪を切り、石鹸を買った。
それからというもの、俺は街でちょっとした有名人になって、みんなから慕われるようになった。
こんな事は初めてで、気分が良かった。
俺は古い民家を譲り受けて、そこを家にすると共に仕事を始めた。
依頼された事は何でもやる。ただし人を傷つける事以外。
客足は随分良い。まあ、さっきみたいな人もたまに来るけど、それもそれで充実している。
今頃、マギステル君は何をしているだろうか。
元気にしているといいんだけど。
再び、店の扉が開く。
「本日はどうされましたか―――」
◯ ◯ ◯
「―――ここに君を、神聖なる医師として認めることを確定する。マギステル・エレクトス殿」
「僕はエレクトスの名はもう捨てました。これからはマギステルだけで、よろしくお願いします」
「それは大変失礼。マギステル殿、若くして医師になるとは……大変な努力をされてきたのでしょう」
「まあ、勉強の仕方だけは誰より詳しい自信がありますからね」
あれから3年、朝目覚めるとドブニさんは既にいなかった。僕はあの後近くの村で事情を説明して匿ってもらい、馬を譲り受けて大きな街へ行った。
そこで猛勉強をし、ついに3年経った今日。
医師として認めれられたのだ。
今頃ドブニさんは何をしているんだろう。
人を救うような仕事をしていたら良いんだけどな。
また、どこかで会える日が来ると信じている。
その時は言おう。
「ありがとう」と。
◯ ◯ ◯
双方の運命は、一時的に交わり互いに大きな影響を与えた。
彼らの運命が交わったのは、偶然であって、必然ではなかった。
だがもし再び、彼らが出会うことがあるとするなら。
それは必然の事であり、きっと互いに良い結果をもたらす事になる。
この大きく、広い世界で生きていく2人にとって、これからも困難や苦労はあるであろう。
だがきっと、大きな問題を乗り越えることが出来た2人ならば必ず乗り越えることが出来る。
そう、思っておこう。
再び雨が降ることがないように。
―――
「―――医師検定に受かった祝福会を行うんですけど、良い会場の見つけ方が分からなくて……それを聞きにきたんです」
「それは、おめでとう……ございます」
見覚えのある声、顔。
それを見て、瞳が震える。
「ありがとうございます。ドブニさん―――」
彼らの運命は、再び交わるのであった。