世間一般の常識では
七海七菜香は優秀な高三女子だ。勉学は全国クラス……とまではいかないものの、一年生の頃から常に同学年で上位を維持し続け、学校活動に対してもクラス委員や生徒会といった協力的な立場に自ら身を置く、模範的な生徒だった。
お堅い立場にありながら明るく活発で、クラスでの人望は厚い。特に男子生徒からは、よく絡まれているところを目撃することが多かった。腰まである長く艶のある黒髪や、切れ長でありながらぱっちりとした二重の整った顔が、異性を惹きつけるのだろう。
もっとも、彼女が特定の男子と仲良くしているというところは見たことがない。それどころか生徒会に所属する一方で部活動には従事せず、生徒会活動のない日は実家から運転手つき高級送迎車に乗って早々に帰宅する。習い事が多いそうだ。その内容までは知らない。
そんな充実したリアルを過ごす彼女だが、今日に限っては少々挙動が不審気味だった。
友人に肩を叩かれたら悲鳴をあげ、声をかけてきた男子全員に訝しげな視線を向け、授業では上の空、休み時間には人目を避けるように教室を出てトイレに逃げ込む。誰かに名前を呼ばれて返事をするまでに数十秒を要する。時たま頭を抱えているといった有様だ。
彼女のそんな様子に心配でもしたのだろう。声をかけた際に悲鳴をあげられ、近寄らないで、と言われた男子生徒など、まるでこの世の終焉を迎えたかのような表情をしていた。
いまさらながらだが、七海七菜香はこのクラスの女王蜂であることを実感した。
そんな彼女の様変わりに、クラスメイトの大半が戸惑う始末だ。俺が極めて適当に心血とかそういうよくわからんものを注いだつもりになって作り上げてきたこの三年三組の平穏が、七海七菜香を中心にして妙な雰囲気に変わり果ててしまった。
昨夜はよかれと思って忠告したのだが、悪い方に転じてしまったようだ。
放課後、明日の授業で使用する予定の教科書や資料を職員室でまとめていると、七海七菜香が訪ねてきた。
彼女は俺の姿を認めると、がさつなナナとは似ても似つかんすまし声で「失礼します」とそう言い、他の教師連中に頭を下げながらこちらにやってきた。
ああ、バレちまったか。
そう思った。
アバターには現実の俺より二十年ほど若返らせた過去の自分を使用していたが、口調は何も変えていなかったからな。
ちなみにアバター名は〝M〟だ。性癖じゃない。海外の某推理小説に出てくる悪の教授から頭文字を取っただけだ。別に悪の教授なら〝L〟でもよかったのだが、サイズで悩んでいるみたいな気になったからもう適当に決めた。
ため息をついて資料を閉じる。
まあ、バレたらバレたで別に構わない。四十路前の男に怖いものなど……結構あるな。給料日前とか、口うるさい校長とか、教育委員会とか、モンペとか。
七海七菜香が遠慮がちに口を開いた。
「あの、九鬼先生」
「なんだ?」
七海は少し迷ったように視線を揺らし、自らの手で口元を覆うようにして小さな声で言った。
「少し相談があるのですが……」
どうやら違う用事だったようだ。いや、まだわからない。
「進路か? 東大を狙ってるとかなら俺の手には負えないから、相談してもろくなアドバイスをしてやれんぞ。それにおまえなら大抵の大学は油断しなければ合格できるだろ」
そう、油断しなければな。例えば真夜中までゲーム世界で遊び呆けているとか。そのゲーム世界でレベルをカンストしてしまうまで時間を費やすとかな。
そういう皮肉を言いかけてやめておいた。まだバレたと決まったわけではない。
七海がそうであるように、教師にだって体裁というものがある。
毎夜毎夜ゲーム世界に入り浸っているだなどと噂されてみろ。ゲームに出てくるモンスターなどより、よっっっぽどタチの悪いモンスターなペアレンツにライフゲージがゼロになるまでぶっ叩かれ、SNSで拡散されて二度と教職につけないよう死体撃ちまで丁寧にされる世の中だ。
そのために自分の分身であるアバターを作る際には二十年ほど若返らせたのだ。決して若返り願望があるわけではない……と言い切るつもりはないけれど。
正直、若返りてえよ。
俺の若かった頃には、フルダイブ式のMMORPGなどなかったのだから。すんごい楽しい。
「あの、ここではなんなので、生徒会室に来ていただけませんか? もう定例会は終わって、みんな帰っていますので……」
縋るような切実な表情をしている。
やはり昨夜のこととは関係のない相談のようだ。優秀な生徒である彼女の進学は、俺自身の教師としての査定にも大きく関わってくる。
死ぬほど面倒だが、仕方がない。そんなことを考えながら顔には一切出さず、俺は立ち上がる。
「わかった」
「ありがとうございます!」
彼女が安堵したような表情で先に歩き出した。俺はのそりとその後に続く。早く帰って『神竜戦役』の世界に浸りたい、そんなろくでもないことを考えながらだ。
教師などと言われても、大抵はそんなものだ。誰だって自分が一番かわいい。
七海が先に職員室から出た直後、入り口脇にデスクを持つ女性教頭からぼそりと忠告を受ける。
「……わかっているとは思いますが、いくら若い子が魅力的でも、たとえ好かれていたとしても、卒業までは手を出してはだめよ? 九鬼先生?」
角張った形の眼鏡をクイと人差し指で押し上げながらだ。
卒業までは、とわざわざつけるくらいには、この女性教頭は寛容だ。ハゲ頭の校長と違って。
「大丈夫。わかってますよ」
言われるまでもない。それにそんな心配は的外れだ。
おっさんというのは切なさを抱えた哀しい生き物なんだ。大体にしておっさんは可愛いもののことが好きなのに、可愛いものはおっさんのことを嫌う。それが世間一般の常識というものだ。
○○おぢ、とか言われてネットの玩具にされたくはない。それ以上に仕事を失うわけにはいかないしな。
「そもそも、こんな倍以上も年齢のいったおっさんに好意を持つ生徒はいませんよ」
「ならいいわ。あなた、見た目はそこそこ渋いから。……ここだけの話、実は結構人気あるわよ。年上好きの女生徒からね」
声を落としてのありがたい同情の言葉に、俺は苦笑いを浮かべた。
「話半分に聞いときますよ」
「ほほほ。そうしてくださると、こちらとしても安心できるわ。頑張って相談に乗ってあげて、九鬼先生」
「うす」
そう言い残し、七海に続いて職員室を出た。
俺は家庭の事情が色々あって結婚など考える暇もなくこんな年齢まで生きてきてしまったが、別にそれほど後悔はしていない。ゲームがあれば退屈な人生もそれなりに楽しめる。最初の投資こそ高くつくが、以降は安いものだ。いつまでそれが楽しめるかまではわからないけれど。
七海は廊下の途中で振り返って待っていた。
「先生?」
「すまんすまん。ちょっと教頭と立ち話をしていてな」
「お時間を取らせてしまってすみません。わたし、待てますから」
「ただの世間話だよ。もう終わった」
少し首を傾げたあと、七海は仄かに微笑んで背中を向けて歩き出す。制服の背中で揺れる長い黒髪を眺めながら、俺はため息をつく。
あ~あ。早く帰ってゲームがしてえなあ。
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