初めて気づく
夕食が済むと、マンションの中二階にあるトレーニングルームに移動した。
登録制の簡易ジムで、24時間自由に使えるトレーニング機材がいろいろとそろっている場所だ。
一応はマンション住人か、その関係者の会員制なのだが、司と麻里もその会員登録をしているため、加奈子が一緒の時はジムが使える。
夜。この時間は人がいなくて、貸し切りのような状態だった。
窓の外が見渡せる場所にあるランニングマシンで、加奈子と司が早さを競い合っている。
麻里はそれを見るとはなしに眺めながら、その横でぼんやりとサイクリングマシンを漕いでいた。
最初は一緒に走っていたのだが、考え事をしていたらうっかり転びそうになってしまい、怪我をするくらいならとサイクリングマシンに乗せられた。
加奈子と司が猛スピードを上げて走りまくっているのを眺めながら、自転車をこぐ。
やがて汗だくだくになった二人が、手に持った清涼飲料水のボトルを飲みながら、麻里の方へとやってきた。そうして麻里の漕いでいたサイクリングマシンの横のベンチに座り、麻里を見上げる。
「あ~、つかれた!でもきもちいい~!」
加奈子がトレーニング用の白いTシャツをパタパタさせながら、清々しそうにそう言った。その隣に座った司も、加奈子に借りた大きな赤いシャツの襟元あたりをパタパタさせて、気持ちよさそうに笑っている。
「良い汗かいたな!やっぱりいいな、こういうところ」
「いいでしょ!?おすすめ!司も引っ越してきなよ」
「部屋が空いたらな!満室だろ、このマンション」
「そうだったかも!」
楽しそうに加奈子が笑う。
麻里も、なんとなくレベル2をクリアした辺りでペダルをとめて、マシンを降りて司の隣のベンチに座った。
加奈子がぴょこんと司の横から顔をのぞかせて
「さっきの、麻里が気にしてた誠二の話、あれ、たぶんだけどデマだと思うよ」
「え?」
「そうそう。絶対にデマだから。指輪だって、あれだろ。たまたまデザインが似てたとか、そんじゃんじゃね?誠二は絶対、浮気はしねえよ。むしろ自分がいない間のお前のこと、めちゃめちゃ心配してたくらいだし」
「してた、してた!」
「心配って、どういうこと?もう子どもではないんだけど」
「そういうんじゃなくてな。なんていうのかなぁ」
と司。加奈子が笑って麻里を見て
「たとえば麻里が、誠二がいない間に、誰かとデートしちゃうとか、他の誰かを好きになっちゃうとか、そういう心配だと思うよ。“桜岡が、よくわからない相手にふらりとついていきそうになってたら止めて”って、私、何度も誠二に言われてたし」
「あははは!俺も言われた!てか、そこまで言っておいて、お前らがつきあってなかったっていうの、めちゃくちゃ驚きなんだけど!」
「ね~!」
加奈子と司が顔を見合わせて笑う。それを見て、麻里はなんだか、不思議な気持ちになってきた。
どうやら二人の口ぶり的に、彼らは誠二の好きな相手が麻里であると、そう勘違いしているらしい。
だが実際にはそのような事実は一切なくて、それが今は、なんだかひどく悲しかった。
たしかに、自分と誠二は一緒にいる時間が長い。
それは幼馴染という関係も、大いに影響しているのかもしれないが、とにかく二人の間はそれだけだ。
誠二からそれに近いことを言われたこともなかったし、自分だって、今まで誠二を、そういう相手としては全く見ては来なかった。
ただただ、一緒にいるのが自然だったのだ。
お互いに、一緒にいて気が楽だった。
相手の顔を見ると、ほっとした。
何か話したいことがあると、真っ先に誠二に話しに行った。
疲れた時は、いつでも抱き着きたくなった。
一緒に、昼寝をするのが幸せだった。
くだらないことを誠二と話して、笑いあうのが好きだった。
―――好きだったのだと、初めて気づいた。
麻里はその時、初めて自分が、誠二を好きになっていたことに気が付いた。
一緒にいるのが、ずっと当たり前だった。
あの、自分にだけむけられる、少しだけ子どもっぽい、気取ったところのない素の笑顔が、なにより一番好きだった。
あの笑顔を向けられるのが自分だけの特権なのだと、知った時は、嬉しかった。
誠二の目が、自分以外に向けられて、その“誰か”の手を取るなんて、まったく考えていなかった。
どうしてもっと、誠二の手を強く握っておかなかったのだろう。
誠二があれだけ傍に居た時に、もっとたくさん、誠二と話をしなかったのだろう。
誠二から「会いたい」と言われた時に、「その日は用事がある」とか「仕事がある」とか「もうねむい」とか、そんな理由をつけて、「また今度ね」と断った。
あの時は本当に、それが正当な理由だったのだが、ここまで距離が離れてみると多少無理をしてでも、あの時誠二と会っておけばよかったと、つくづく時間を戻したくなる。
もっとたくさん、誠二と会っておけばよかった。
もっとたくさん話をして、たくさんたくさん思い出を作って、もっとたくさん二人でお茶をしたかった。
一緒にプリンを食べたかった。
くだらないことで、たくさんたくさん、口喧嘩をしたかった。
昼間に入った喫茶店の、あの綺麗なウェッジウッドのティーカップを思い出す。
昔、誠二が、一度だけ使っていたカップだった。
誠二のカップの持ち方がとてもきれいだったので、瞼の裏にしっかりと、その光景が焼き付いている。
それだけ、本当にそれだけの縁なのに、あのカップを目にした瞬間、誠二の姿が見えた気がして、胸の奥が痛くなった。
ズキンと深く突きささった、思い出の矢じりがずっと抜けない。
誠二とすごした、幸せな時間がたしかにあの時、あったのだ。
あの時はまったく、それを幸せだと気づくことができなかったが、今こうして時間が経って、振り返ってみると、はっきりわかる。
外で恋人を作った誠二が、麻里と二人で喫茶店に行く未来は、おそらくもう二度とないだろう。
あれが、……誠二と二人で紅茶を飲んで、おいしいプリンやアイスを食べた、あの瞬間が、………きっと麻里にとっては、最後の誠二との思い出なのだ。
靴を脱いでベンチの上に踵をのせて、足を抱えてうずくまる。
膝に顔を伏せたら、思わず泣きたくなってしまって困った。
自分は誠二が、本当に本当に好きだった。
大好きだった。
けれどもそれに、気づかなかった。
気づかなかったことに、今、気が付いた。
………。