距離
麻里が、幼馴染の水原誠二と付き合っていたことは、ない。
ただそれでも、ずっと麻里の一番近いところに居て、一緒に過ごすことも多かった。
麻里が看護師としての仕事について、誠二が外資系の企業に勤め、それぞれ実家を出て別のマンションに一人部屋を借りた後も、誠二は、時々時間を見つけては、よく麻里を職場から家まで送迎してくれた。
その車の中のわずかな時間に、麻里は誠二と、色々な話をしたものだった。
誠二に、高校からの知り合いが一方的に言い寄ってきた時も、誠二は真っ先に、麻里のところに来て、話をした。
あれは、そんなんじゃないんだよ、と、珍しく余裕のない、浮かない顔で、麻里に精一杯、精一杯話してきたのも、たしか、誠二の運転する車の中だった。
麻里はシートベルトを握り締めながら、驚いたように誠二を見た。
「あれが向こうの一方的な話だということくらい、私にもよくわかっている。どうした、水原。なにか、気になることでもあったのか?」
麻里が目を丸くさせながら、まじまじと誠二を見てそう言うと、誠二はいかにもほっとしたように息をはき、エンジンを切った、ハンドルの上にもたれかかった。
よかった、と、その口が小さく呟く音を聞いた。
あの時。
誠二がどうしてあそこまで必死に、麻里に言い訳をしようとしたのか。その理由を、麻里は本当に最近まで、気づくことができなかった。
そのほかにもいろいろとちりばめられていた、誠二からの想いや言動にも気づけなかった。
水原はマメなのだな、とか。
水原はやさしいのだな、とか。
水原は、とても人に気を使う性格なのだな、とか。
そんなふうには思ったけれども、そのやさしさや気遣いが、特に麻里に強く向けられていたことに、麻里は本当に、最近まで、気づいていなかったのだ。
だから誠二が、学生時代からの親友で、今は同じ会社の同僚でもある祐也と海外出張に行き、三か月日本に帰ってこなかった間に、向こうで恋人を作ったと聞いた時、麻里はとても驚いた。
仕事を介して出会ったとされる、現地のきれいな人だと聞いた。その誠二の恋人のほうが、現地ではとても有名な人だったらしく、向こうのネットニュースに恋人として誠二が紹介されていた。その記事を、日本に居た麻里の仕事仲間の一人が見つけたのだ。
「ねえ、桜岡さん。これって桜岡さんをよく迎えにくる、あのかっこいい人じゃない?」
ある仕事と仕事の間の休憩時間に、そんなふうに声をかけられて、その仲間の携帯を何気なくのぞいてみたら、向こうの言語でたくさんたくさん文章が書かれていた。
とっさに、読むことができずにめんくらう。
そうしたらその仲間が丁寧に内容を要約してくれ、ついで誠二と、その相手が二人で写っているところを隠し撮りしたらしい、写真のページも見せてくれた。
誠二はどこぞのおしゃれなカフェのカウンターで、楽しそうに、その相手とコーヒーか何かを飲んでいた。
仲睦まじそうな様子だった。
その様子を見て、思わず息を飲む。
誠二が麻里の前でしか、したことのない笑顔だった。やさしそうであたたかさがにじみでていて、それでとても楽しそうな表情だ。
麻里にとってはあまりにも見慣れた表情だったが、周囲のメンバーたちは、あまり見たことがないと言っていた。それで気にしてよくよく誠二を見てみたら、誠二は他の人たちがいるところでは、もう少しだけすましたような、よそ向きの表情で笑っていた。
それを見て、“ああ、あの顔は自分だけの特別なのだ”と、ちょっとだけ嬉しくなったのだ。
その表情で、誠二は笑っていた。
麻里は目を丸くして、まじまじとその写真に見入ってしまった。
「あとは、……これね」
そう言って仕事仲間は、別の写真も麻里に見せてくれた。
こちらは、ワイングラスのようなものを持って誰かとしゃべっている誠二の手元が大きく拡大された写真で、その右手の薬指に、見たこともない指輪が一つ、ついていた。
地味でシンプルな指輪だった。ほんの少し、細工のようなものは入っていたが、基本的には飾り気がなく、誠二の好む種類のアクセサリーではなかった。
「これが、ペアリングなんじゃないかって。………」
そんなことを言われ、困ってしまう。
麻里は、誠二の指にはまった、金色の細い指輪を見つめ、まばたきをした。
誠二と祐也が日本に帰ってくるまでには、まだあと一か月半はある。
会いたい。今こそ誠二と顔を合わせて、誠二の口から「あの人はそういうんじゃないんだよ」という、いつもの言葉を聞きたかったのに、それが、今は叶わない。
すとんと、麻里の肩から力が抜けた。
誠二と自分の間に、物理的にも心理的にも、埋めることのできない大きな大きな距離ができてしまっていたことに、麻里はその時、やっと初めて気がついた。