のらねこ「ゆめ」の心の中
ねこが出てくるお話です。
「ゆめ」と呼ばれている、まっ白なねこがいました。
ゆめは、のらねこです。一体いつからのらで暮らしているのだか、すっかりこの町の名物ねことなっていました。
ゆめは、毎日のご飯にねずみや小鳥を捕まえたり、時には近所の人から魚をもらっていました。眠る時は、縁の下にもぐりこみました。また運が良い時には、気の良いおばあさんのおうちの中に入れてもらい、こたつでぬくぬくと温まるのでした。
ゆめが暮らしている町に、ソノダさんという女の人がいました。ソノダさんは、小学校で先生をしていて、一人暮らしでした。でも、一人が寂しいなんて思ったことはありません。
ソノダさんも、塀の上を走るゆめを見かけたことはありました。けれど、ねこがそれほど好きではなかったので、大して気にかけることもありませんでした。ゆめも、ソノダさんからえさをもらったことはなかったので、甘えにいきませんでした。
ところが、その満月の夜だけは、特別だったのです。
公園でねこ友だちと遊んでいたゆめは、月光が差す道を踊るように走っていました。その時、たまたまソノダさんが歩いているところに出くわしたのです。
きっと、ソノダさんは遅くまでお仕事をしていたのでしょう。コンビニの袋を提げて、せかせかと家に向かっていました。彼女の影は、月の下で大きく伸びていました。
ソノダさんは、立ち止まったゆめをちらりとも見ずに、足早に通り過ぎていきました。その後のことです。何を思ったのか、ゆめはたったっと軽やかにソノダさんの後を追いかけ始めたのです。
足音が全くしなかったので、ソノダさんはしばらく気がつきませんでした。けれど何かの拍子に振り向いた時、駆けてくるゆめを見つけて素っ頓狂な声を上げました。
「あら、いやだ。ついてこないでよ!」
ところがゆめは気にも留めません。ただひたすらついてくるのです。このままだと、ソノダさんの足からよじ登ってきそうです。ソノダさんは逃げるように走り出しました。ゆめも、走ります。
奇妙な追いかけっこが始まりました。ソノダさんがどれだけ逃げても、ゆめは追いかけてきます。まるで、2人しかいない鬼ごっこのようです。
追いかけっこを見守っているのは、満月だけでした。そして、ソノダさんの息が切れてきたころ、今晩最高に不思議なことが起こったのです。
ゆめから逃げていたソノダさんは、走っている間に、いつしか4つんばいになっていました。それに、前を走る女の人がいます。しっぽが揺れ、前よりずっと軽やかに走れます。ソノダさんは何だか楽しくなってきて、高く飛び上がりました。思いがけず体が跳ねたので、ちょっと怖くなりました。でも、着地もお手の物です。白く長い自分の胴体が見えました。
そうです、ソノダさんはゆめのようなねこになったのでした。そして、ソノダさんのような人間の女の人も、同じ場所にいるみたいでした。
ゆめになったソノダさんは、しばらく自分のしっぽや、道路の上を滑る落ち葉を追いかけて遊びました。いやはや、ねこでいるのは、本当に楽しいことでした!
目に映るもの、鼻に飛び込んでくる香り、聞こえてくる音、全てが新鮮でした。月や星の話し声が空から降りてくるのが分かるようでした。ソノダさんは、仕事のことや、これから食べないといけない夜ごはんのことも忘れて夢中で走り回りました。
しばらくして、ソノダさんは、人間だった時の自分の姿がないことに気がつきました。自分が今ねこになったのだとすれば、ゆめが人間になったと考えるのは自然なことです__鼻を動かし、人間になったゆめを探しました。
その時でした。ソノダさんは突然怖くなって、その場から飛び退きました。
そこにあったのはただのゴミ捨て場です。何の変哲もない金属の網かご。だけど、その中に閉じ込められてしまう気がしました。ビニール袋の中に放り込まれて、かごの中に投げ捨てられるに違いありませんでした。
ゆめになったソノダさんは、悲鳴を上げて逃げ出しました。その鳴き声を聞きつけて、何人かのご近所さんが窓を開けました。
得体の知れない恐怖に襲われて、ソノダさんはひたすら走りました。
ソノダさんは知らないことですが、ゆめが生まれた家の人は、まだ生まれたばっかりのゆめをゴミ袋に入れて捨てたのです。運良く鋭いゴミ収集の人が助けてくれたおかげで、ゆめは自由の身になることができたのでした。
それ以来、ゆめはゴミ捨て場が大嫌いでした。パトロール中もゴミ捨て場は必ず避けて通りましたし、朝早くゴミ袋を持って歩く近所の人に出くわすと、どんなに仲が良い人でも、逃げ出してしまうのでした。
逃げるソノダさんは、誰かに追いかけられていることに気がつきました。人間の、女の人です。ずいぶん見覚えがある人です。
ソノダさんになったゆめでした。ゆめは、ソノダさんが逃げ回っているのを見つけて、追いかけてきたのでした。
また、追いかけっこが始まりました。今度は、逃げているのはねこで、追いかけるのが人間でした。月の光が雲間から差し込み、1人と1匹を照らし出しました。
ソノダさんは、体が重くなって、いつの間にか2本足で走っていることに気がつきました。
「あら……」
口から出るのは、人間の言葉です。よかった、とほっとすると同時に、ねこでなくなったことを残念に思いました。
ソノダさんの足元に、ゆめがいつの間にか寄ってきていました。ひげをすりつけられ、ソノダさんはゆめの頭をそっとなでました。
ソノダさんが買ったコンビニのご飯はいつの間にか空っぽになっていました。ゆめが食べてしまったのです。けれど、ソノダさんは笑っただけでした。それから、ゆっくり歩いて家に帰りました。ゆめもついていきます。今度は、ソノダさんも逃げようとはしませんでした。
ゆめがソノダさんのうちのねこになったのは、その夜からです。