12. 隠花植物
志乃━━━初めて聞いた名だ。
戸が横にスルリと静かに開いた。
礼夏と順は戸の開く様を注視していた。
「ただいま戻りました」
女性の声だ。
黒髪を後ろでまとめ、薄い水色に桜川と称される桜の柄の訪問着を着ている。
「志乃、こちらに来なさい。紹介しましょう」
水無瀬玄州がにこやかに声をかけた。
志乃は「はい」と言うと、誰とも顔を合わせず、品のある所作でお辞儀をし、玄州の隣に座した。
志乃は伏し目がちに視線を落としたままだ。礼夏がいるので顔をあげられないのかもしれない。
「私の新しい側付きとなった、新山志乃です。志乃、水無瀬当主の礼夏と、私の末の息子の順、礼夏の教育係の秋葉です。挨拶をなさい」
「はい。━━━皆様、お初にお目にかかります。新山志乃と申します。この度、玄州様の御側付きを拝命いたしました。至らぬ点があるやもしれませんが、精一杯勤めさせていただきますので、どうぞよろしくお願いします」
よく通るきれいな声で挨拶を述べ、志乃は畳に手をつき頭を下げた。
「志乃、皆と顔を合わせても大丈夫ですよ。礼夏はむやみに己の能力をひけらかす阿呆どもとは違いますからね」
玄州が言うと、志乃は顔をあげた。
志乃が最初に目を合わせたのは順だった。順も志乃を見ていた。互いに目と目が合い、志乃がかすかに頬を染め、微笑みをこぼした。見ていた礼夏がムッとした。
「ダメよ!!」
叫んだのは礼夏だ。
「順は渡さないわ!!」
礼夏は順の顔面に抱きついた。
志乃は口元に手を当て、目を見開いて驚いた。
「ほほほほほ・・、顔を見ただけでヤキモチですか?礼夏」
玄州が笑った。
順は顔面を腕で塞がれ、
「礼夏・・、離れて。見えないから」と礼夏を諫めた。
「ひどいわ、順!わたしを蔑ろにするの!?」
「どうしてそうなるんだ。誤解だよ。彼女は挨拶をしただけだろう?」
「いいえ!目と目で通じ合うのを見たわ!そーゆーのをかすかに色っぽいって言うのよ!」
「また君はわけのわからないことを・・。とにかく離れて。君の腕が僕の鼻をつぶして痛いから」
「何よ何よ!順のばかあぁぁーー!うわーーーん!」
礼夏は部屋を飛び出ていった。長い廊下をバタバタと走っていく音が響き、やがて足音は消えた。
「ど、どうしましょう・・!私のせいで・・!」
志乃がオロオロとし、礼夏をおいかけるつもりか立ち上がろうとした。
「大丈夫ですよ、志乃。放っておきなさい」
「ですが玄州様、ご当主様は泣いてらしたのでは・・」
心配する志乃に、
「あれはうそ泣きですから大丈夫ですわ。すぐに戻ってきます」
秋葉が平然として言った。
「え?」
しんとした室内に、遠ざかったはずの足音が再び聞こえてきた。近づいてくる。
「玄関がないわ!玄関はどこなの!!」
礼夏が戻ってきた。
「どうして玄関がみつからないのよ!」
「ほほほほほ、それはお前が左へ左へと曲がったからですよ、礼夏」
「だって来たときは左に曲がったのよ!」
「ならば帰りは右に曲がらないといけません。わかりますか?礼夏」
「・・・・・ちょっと忘れてただけよっ」
礼夏は口を尖らせてむくれて、
「ねぇ、終わったんなら帰りましょうよぉっ」
と、座っている順の腕を引っ張った。
「玄州様、私達は帰らせていただいてよろしいでしょうか?」
「そうですね。志乃の紹介も終わりましたし、礼夏のかわいい仏頂面もみられましたからね」
「では私達はこれで失礼いたします」
秋葉香が正座のまま玄州に深々と頭を下げた。
「玄州様、じゃーね!」
礼夏は立ったまま手を振った。
「礼夏様!!座ってご挨拶なさい!」
「ちぇーっ」
「ちぇーっじゃありません!」
「ふぁーーい。・・玄州様、お体にはくれぐれもお気をつけになってお過ごしくださいね。━━ジジイなんだから」
「礼夏様!」
「礼夏先に行ってる!今度は右に曲がるから大丈夫よ!」
礼夏がパタパタと走っていく。秋葉香も戸口でもう一度玄州にお辞儀をし、続いて順が部屋を出ようとした。
「順、待ちなさい」
玄州が圧力のある声で順をとめた。
「お前は残りなさい」
明らかな命令口調だ。いままでの柔和な口調ではなかった。
秋葉香が順を振り向き、順は「先に帰っていてください」と告げた。秋葉は軽く頷いた。
順は秋葉に背を向け、玄州にむかって「何でしょうか」と訊いた。
実の父と息子だのに、二人の間に親子の情のかけらは一つもなく、冷たい空気だけが漂う。
「風見家との━━━」
「ダメよ!!」
「ぅわあっ!?」
順が立っているバランスを崩して後ろにひっくり返りそうになった。
礼夏が順の背中に飛び乗ったのだ。
「順は残して行かないわよ!!」
「れ、礼夏」
背中からガッチリとホールドされ、礼夏をおんぶ状態の順は困惑した。強制おんぶ。本当に礼夏は何をするかわからない。
「おやおや、地獄耳だこと。何もとって食おうというわけではないのですから。少し話があるだけで」
玄州が言い終わらないうちに、礼夏が
「ダメ!!順はわたしの世話係よ!わたしは順がいないとなんにもできないんだから!順がいないと紅茶だっていれられないし、ご飯だって食べられないし、ひとりでトイレにも行けないんだから!!」
「礼夏、耳元で叫ばないで」
「礼夏様!順さんから降りなさい!」
「いや!!順は誰にも渡さないんだから!!」
「ほほほほほ、順、お前もとんだ娘に取り憑かれてしまいましたねぇ。仕方がありません。今日は諦めましょうか」
「今日だけじゃなく一生あきらめてちょうだい!!」
「礼夏、だから耳元で・・」
「順!秋葉!帰るわよ!!さあ、進めー!前進よ順!」
順の背中におぶさったまま、礼夏は号令をかけ、歌いだした。
「あったまテッカテーカ!きょうもピッカピーカ!いっつもツルツール!坂田のハゲ頭ー!水無瀬の幹部のーハゲ型にんぎょうーー」
少し調子っぱずれの礼夏の歌声が邸内に響いた。
志乃があっけにとられ、開けっ放しの部屋の入り口を見ている。
玄州が笑い顔で「誰か、戸を閉めておくれ」と言った。
部屋の近くで待機していた護衛が玄州に一礼して戸を閉めた。
「志乃、笑いたければ笑っていいのですよ」
いつまでも戸口を見ている志乃に、玄州が言った。
「あ、い、いいえ・・・」
口元を片手でおさえ、志乃はこみ上げる笑いをおさえていた。
「坂田の頭は見事ですからねぇ」
玄州が笑顔で言った。
「玄州様までそのような・・・」
笑うに笑えない志乃だ。
「どうでしたか?久しぶりに会って」
玄州の言葉に、志乃はこみ上げた笑いが引いていった。
「最後まで礼夏も順も気づきませんでしたねぇ」
「無理もありませんわ。私は全然別の人間ですもの」
「では、側付きの役目を果たしてもらいましょうか。・・裸になりなさい」
「はい」
志乃は立ち上がり、帯をほどいておとした。そして着物をおとし、襦袢をおとし、色白の肌をさらけだした。
「幾つになっても男は男、女は女。肉体の疼きは止められません」
「玄州様・・」
「さあ、私の側に━━━知世」
『知世』
と、玄州は呼んだ。