182 拷問
「おい、起きろよ」
どれ程時間が経過しただろうか。怒声と共に雪解け水のようなものをバケツから食らい、亮平は覚醒した。
冬は抜け出したものの、まだ日光なしではとても暖かいとは言えず、コートをタンスの奥から引っ張り出して羽織りたくなる季節だ。吸水性の良い綿製の服はたちまち表面の水滴を取り込み、離さなくなる。冷たい事この上ない。
靄のかかった霧が晴れていくと、見知らぬ上下黒のヤツがいた。人相は悪く、ヤクザ漫画で正に出てきそうである。
亮平は、一メートル四方しかない小部屋に閉じ込められていた。生気の無い灰色に染めあげられたコンクリートの壁は、刑務所の独房を連想させられる。
ここは、曲がりなりにも義務教育が行われていた機関なのだ。教材置き場にしては狭く、掃除道具入れには有り余る。このような部屋が存在する理由が分からないのである。体罰が行われていたのか、とまで想像力が働いてしまう。
この部屋には、亮平と不気味な男の二人だけ。他人が居た痕跡は見当たらない。
「未帆を、何処へやったんだよ!」
未帆が、今も危機に瀕している。手を出されているかもしれない。想い人は、確かに亮平の助けを待ち望んでいる。
目の前で亮平を嘲笑しているならず者に、早速取っつきかかろうとした。ハッキリ言ってしまって、こんな小物に付き合っている時間は無い。未帆はこの時にも、崖っぷちへと追い込まれて行っているに違いないのだ。
亮平の心の中の未帆が、しきりに『お願い……』と力なく、消えそうな声で救出を求めている。
(未帆、こんなになって……)
本来ならすくすく成長する未帆が、上から抑えつけられて茎が曲がってしまっている。さらに押しつぶされれば、最早復活は藁を掴むより難しくなる。キリキリと、心臓が引き千切れそうだ。
襲われそうになっても、全く動じず直立不動を保っている、同い年に見える向こう側の人間。流石の亮平も、その据わり方に引っ掛かるものがあった。
「おいおい、視野が狭いなぁ。世界は、もっと広く見るべきなんじゃないのか?」
煽りの意味は、すぐに体の痛みをもって知らされることとなった。
『ガチャン』
重い金属音がして、亮平は背後のコンクリート壁へと引き戻された。ゴムの弾力のような生易しい物でなく、チェーンでバンジージャンプをしているようなものである。伸びきると同時に、逆方向への運動エネルギーが、亮平の手首を変形させようとした。
遊具に指を挟まれた、鈍い衝撃が速達便で脳まで伝わった。足首を捻った時でさえ、力を入れるたびにうめき声が出てしまうのだ。ましてや、助走を付けて関節を引っ張ってしまったのだ。この痛みは、等倍どころではない。
亮平は、鎖で後ろの壁に両手首を繋がれていた。ペットの犬はリードを首の辺りに付けられるが、人間の自由を束縛するのは囚人と変わらない。
「よく見ろよ。身動き取れないんだから」
未来への扉を開くために踏み出そうとした足も、結束バンドでほどけないようにされていた。両脚飛び蹴りを繰り出すことは出来そうだが、相手が丁度届かないような位置取りを徹底しているため、空振りにしかならない。
つまり亮平は、自慢の武器を封じられたのだ。
「お前のことは、細川さんがよーく分かってるぞ? 頭脳派もどきの脳筋で、窮地に立たされた時は暴力に訴える事しか出来ないってな!」
極悪人が、道理にそぐわないことばかりを吐き散らすとは限らない。ど真ん中ストレートの正論で杭を打たれ、反抗出来なかった。
亮平が必殺技としていて、しかし余裕のない場面でしか使わない、いわば隠す気の無い秘密兵器が、己の腕力だ。
周りとの交友を改善しようと思っても、話が通じなければ香料を行うことは難しい。今ここで対峙している八条学園などは、これに該当する。『話せばわかる』とペンで剣に突撃しても、首を落とされるのが関の山なのだ。
言葉で語り合えないのならば、純粋な力で太刀打ちするしかない。その思考を軸として成り立っているのが、亮平の対人戦能力なのである。
しかしながら、頼りの綱はプッツリ切断されてしまった。亮平を怒らせ、シンプルで乱雑な行動を誘発し、未帆を釣り針に付けて食いつかせる。小学生でもわかる作戦に、分かっていながら亮平はシナリオ通りに事を運んでしまったのだ。
「ああ、あと、無駄な抵抗なんて試みないように、と伝言だ。足がフリーだからってシミュレーションもせずに蹴りをお見舞いしようとしたら、二度と起き上がれなくなるぜ。俺は、優しいからな」
(無関係の未帆を巻き添えにする奴らに、厳しいも優しいもあるかよ)
暴力の関係で構築されている集団は、何が楽しくて積極的に参加しているのだろうか。一生、理解できることは無いのだろう。
実力行使をして分からせてやることが叶わないのなら、せめて態度だけでも表そう。頑強な精神に宿った新たな信念は、不退の決意を生み出した。
にらみ合いが続いた。亮平は下の立場だが、跪くことは決してない。
(時間が無い。未帆……)
別室で亮平と同じように孤独であろう、この世に一人だけの存在を深く噛みしめる。耐性の無い未帆は、廃人にまでされていてもあり得ないことでは無い。あの小さな四肢と胴体から作り出される動力の源が、不条理に屈さないことを切に祈るのみだ。
「……お前、ムカつくな」
半奴隷的身分でありながら不服従の意を示す亮平に、今季負けしたのだろう。力にモノを言わせて、ついに亮平は敵からのクリーンヒットを許した。
殴る、蹴る、貶す。この世の地獄が、ここにはあった。ボクシングのサンドバッグになった亮平は、体調を気に懸けられることなく殴られた。ただの一度も、だ。
(俺、よくこんな仕打ちに負けないよな)
我ながら、自身の物理耐久性の高さに苦笑いしてしまう。
従来、亮平が身を投げ打つことの出来る理由としては、『未帆が肉体的にも精神的にも健康になってほしい』という、他者を満たすことが挙げられていた。
亮平だけが残っても、未帆が居なければそれで未帆は終わり。亮平が果てても、未帆の幸福と交換なら、それでいい。未帆を第一に考え、行動していた。後者の結末にはどうあがいてもたどり着かないであろうことを、だましだましやっていながら。
未帆が思い切って、亮平が抱え込んでいた悩みを吸収してくれなければ、『頑張らなくていい』と声をかけてくれなければ。亮平は、この期に及んでも考え方を変えなかっただろう。本人はいい気になるが、一歩下がると残念なキャリアを進んでいたことだろう。
ストレス発散し終わったのか、それとも亮平に効果が無いと悟ったのか。どちらでもいいが、攻撃がピタリと止んだ。
「危ない、危ない。これ以上はやめておこう」
落ち着き払っているのが、気に食わない。死にかけでもどうでも良くなるほどヘイトを買ってくれた方が、亮平の気が楽になるのだが。
(未帆は、どうなってるんだ)
未帆の行方が分からないことに、体中が専用の機械で一滴残らず搾り取られているように、血を吐くほど辛い。
「……未帆は、今どこだ。どうしてるんだ」
まともな返事が返ってこないとしても、尋ねずにはいられなかった。つくづく、未帆に恋なるものをしたのだなぁ、としんみりする。
「……ああ、あの女子のことか。さあ?」
興味が無いという風に、バッサリ斬り落とされた。何の罪も無い大人しく激しい女の子を脅しておいて、関心を持たれていないという事実が、亮平を不快にさせる。
(未帆をここに連行してきたのは、他でもないお前ら自身だろ。トップの命令とかいう言い訳は要らない。自分たちが運んできた未帆がどうなるかくらい、責任もって見ろよ!)
己の手で行く道が捻じ曲げられた人の人生が、どうなるか。終着点が、どう変わったのか。知らんぷりで生きていくというのは、亮平の中では許容しがたかった。
ビリヤードの球は、他の球に当たって進路を変え、穴に落ちていく。外部の因子が、フィールド上に残るはずだった球を地下に落とし込んだのだ。
人の行く末も同様で、八条学園という巨大鉄球に横から激突されたビー玉サイズの未帆は、成されるがままに転がって行っているのだ。まっすぐ進めば『卒業式』『亮平の選択』というライフイベントが順当に起こるはずだったのが、危うくなっている。
足元に唾を吐きたくなった亮平の神経を逆なでするように、八条学園の男が続ける。
「そうだ、あいつがどうやってここまで連れてこられたか、知りたいだろ? 話してやるよ。俺は、優しいからな」
『俺は悪の中の善だ』と主張して罪悪感を緩和しようとしているのが、丸わかりだ。
こんな世の中を舐めきり腐った不良もどきから、一つたりとも情報を得たくないというのが本心だ。だが、街頭のティッシュ配りのように、貰えるものはありがたく貰っておこうとする気もはやる。
亮平は、『未帆』を逸話の逸話まで調べ尽くしたいと思っている。後ろめたいことも、光り輝くことも、全て知り尽くして心に納める。そうすることで、未帆との距離が縮まっていく気がするからだ。
(俺は、まだ氷山の一角しか見てないんだ。もっと、もっと……、紐解きたい)
ポッカリ空いた空洞に入り込んでやる。未帆が悲し涙を流していれば、ハンカチで拭い取ってやる。亮平にとっては、未だに不安定で危なっかしい。だからこそ、妹の面倒を見る兄になるのだ。
「お前ら、やけに朝早い時間帯に約束取り付けたな。おかげで、寝不足だぜ……」
細川の手下が、意気揚々と振り返り始めた。
※毎日連載です。内部進行完結済みです。
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