朝と霧
28作目となります。朝に強い人間になりたいものです。
集団自殺があった翌朝。
少女はひとり、裸足で歩いている。
辺り一帯には真っ白で不透明な霧が立ち籠めている。昨夜は雨が降っていたが、微熱が感じられる夜だった。しかし、今は肌寒い。それは、ここの標高が高いからなのかもしれない。
霧の向こうが見えた。
それは鮮やかな水色だった。サイダーを零したような水色。今はまだ夏。記憶に固張りついて消えることのない断片。
あまりに綺麗で、ずっと眺めていたかったけれど、あまりに鮮やかだから眼が焦げてしまいそうだった。青が青である内に留めておこうと思った。そんな生まれ変わりのような青だ。
戦風が吹いて少女の髪が揺れ、麦藁帽子が揺れた。少女は裸足であることに気付いたが、今更なことだった。靴があっても意味などない。そんなことを思いながら、最低限の整備がされた道を歩いている。
カーブミラーがあって、少女は映る自分を眺めた。その姿は霧に紛れてしまって探し難い。何故なら、少女の麦藁帽子は白く染められ、服装も真っ白なワンピースだったからだ。肌も透き通るように白く、眼も色素が薄かった。黒いのは髪だけだ。まるでモノクロ写真のような少女は手を振って、漸く鏡の中の自分を認識した。少女は遠くが見えない。見たくないと思っていたら見えなくなっていたのだ。
少女はまた歩き出したが、眩暈がして転んでしまった。膝から血が出ていた。とても赤く、まるで自分のものではないように思えた。
少女は膝を舐めた。鉄のような味がして、気持ちが悪くなって吐き出した。どういうわけか頭痛がする。太陽は遮られている筈なのに。
少女は草の上に座り込んだ。朝露が冷たかった。少女は仰向けになりたかったが、そうしたら眠ってしまうような気がした。眠ったら太陽が出てきてしまう。それは苦しいことだ。
少女は思う。
自分に対する行為は一切合切許されるべきだ、と。自分をいくら傷つけても咎められるべきではない、と。
少女は立ち上がった。最早、どうでもいいことなのだ。
霧を吸い込んだ。胸の奥が凍てつく感覚がした。今は夏。それでも、氷晶が舞うように思えた。季節を受容するのは外面だけで、内面は恒常性を保っているに違いない、と少女は思った。
吸い込んだ霧と交代して二酸化炭素が吐き出された。また、霧を吸い込んで、二酸化炭素を吐き出す。これの繰り返し。人生の縮図にも見える。呼吸をすることしか生きる理由はないのかもしれない。
整備された道を歩いていくと橋が現れた。大きな橋で、渓谷に架かっている。遥か下を流れの速い川が轟々と音を立てているのだろうが、この橋までは聞こえない。少女の耳が悪いのを加味しても聞こえないだろう。聞きたくないことばかりだったので、耳も悪くなってしまった。
橋も霧に隠されているようで、一定の間隔で置かれた灯りがぼんやりと見えた。異界に迷い込んだようにも思えるが、そもそも、この世界が少女にとっては異界なのだ。少女と灯り、お互いが幻のように不確かなものであるということは、少女にとって多少の気休めとなった。
橋の上はさっきよりも空気が冷たい。息をするのが辛いほどに冷たい。吸い込んだら心肺がオブジェのようになってしまうかもしれない。一度、凍ったものが解けて、それがもう一度凍っても、決して美しくはならない。機能も劣るだろう。それに、体内は恒常性に管理されているので凍ったら解けないのかもしれない。
橋をゆらゆらと進んでいくと、ちょうど中間付近に一ヶ所だけ出っ張った場所があった。そこには簡素なベンチがあり、足が疲れた少女はそこで休むことにした。
霧でわからなかったが、近付いてみると先客がいた。
「横、空いてますか?」
先客は少女の方を向いた。
「座ってみれば空いているかどうかわりますよ」
そう言われて少女はベンチに腰掛けた。ベンチは金属か石で、どちらにせよ冷たかった。ベンチから遠くを見ると、やはり青い空がうっすらと見えた。
「お嬢さんは何処から来たんだい?」
先客は訊ねた。感情のある機械的な声だった。
「何処から?」
「そう、何処からだい?」
「何処からだろう」
「わからないのかい?」
少女は霧の方を指差した。
「あっち」
「遥々来たんだね」
「そうなんだ」
少女は先客の姿を観察した。先客の頭は大きく、四角い。モニターのようなものがあり、そこには心電図のようなグラフが表示されている。頭より下はごちゃごちゃとしていて少女にはそれらが何の役を果たすのか判然としなかった。腕のようなものが付属されていたが、それは少女の腕よりも細く貧弱だった。
先客の方から幽かに煙草の香りがした。見ると、モニターの一角に穴が空いており、そこに煙草が差し込まれていた。
「変わった形」
「ん? それは私のことかい?」
「うん」
「あぁ、それはそうだろうね。でも、それはお互い様だよ。お嬢さんだって変な形だ。真っ白だしね」
「髪は黒いよ」
「でも、モノクロ写真みたいだよ」
少女は髪を顔の前に持ってきて眺めている。その虚ろな眼は髪と同じ色に見えた。
「何で頭がモニターなの?」
少女は髪を眺めたまま訊ねた。
「何でって言われてもね……私にもわからないな。君は、何で顔があるのかって問われて答えられるかい?」
「わかるよ。顔がないとアンバランスだから」
「あーじゃあ、私もそうだよ。モニターがないとアンバランスだと思わないかい?」
「思う」
少女は先客の方を向いて言った。霧の所為でお互いの顔の詳細もわからない。距離感すらわからないのだ。
少女は先客のモニターに触れた。
「冷たい」
「私は温度がわからないよ」
「煙草は?」
「温度が欲しいわけじゃないんだよ」
先客は機械的な音を出した。きっと、笑い声なのだろう。
少女が先客の頭に顔を近付けた。もう少しで唇が接してしまいそうなほどの近さだ。
「ここに『Teo』って書いてあるけど、これは何?」
「それは私の名前だよ。テオドールってのを縮めてテオ。『神様からの贈り物』って意味なんだ」
「テオ」
「そう、テオだ。二文字だからね、あんまりメモリを使わなくて済むんだ。優しいだろう?」
「さぁ? わかんない」
少女は自分の膝を眺めながら言った。膝の血は凝固し掛けているようだったが、少女はすぐにそれを剥がした。すると、当然のことだが血は再び流れ出す。少女は自分の中の自分ではないと思われる部分の存在を認知し続けたかった。
「膝を怪我してるんだね?」
「うん。転んだ」
「痛いかい?」
少女は首を傾げた。
「痛い、のかな? 痛いって何だろう。苦しいと何か違うの?」
「さぁ……? 私は痛いや苦しいなんて思わないからね。そういうのは生き物の特権だから」
「そうなの? テオは生き物じゃないの?」
「見ればわかるだろう? モニターの時点で生き物じゃないさ」
テオは機械音を出した。
「難しいね」
「あぁ、難しいかもしれない」
少女は黙ってしまった。
テオも黙った。
ふたりして不透明な景色を眺めている。霧はいつ晴れるのだろう。そんなことを考えている。
「……膝は消毒した方がいい」
「消毒?」
「そう、消毒。黴菌が入ったら大変だ」
「どうして大変なの?」
「最悪、死んでしまうかもしれない」
「死んでしまうことが最悪なの?」
「そうだろう? 命あるものにとって、何よりも耐え難いことだ。君だって命があるんだろう?」
「だけど、最悪じゃない。死んじゃうのは誰でも一緒だから。悲しいことでもないし、寧ろ受け入れるべきことなんだと思う」
「でも、苦しいよ」
「そうならないように自分から行くんでしょう?」
少女はテオに身体を近付けて、テオのモニターを見た。モニターではグラフが規則正しく動いている。
「その線みたいなの見たことある」
「線? あぁ、モニターの?」
「そう」
「いつ見たんだい?」
「憶えてない」
「場所は?」
「憶えてない」
「じゃあ、それを見てどう思った?」
少女は黙った。考えているのだろう。
「……私は、えっと、ひとりになったんだなって」
「……」
「うん、それだけ」
「そうか。まぁ、今は膝を消毒しよう。君の命が消えてしまったら私が悲しくなるからね」
「どうして?」
「一期一会って四字熟語があるから」
「テオは変わってるね」
「お互い様だよ」
テオは自身の頭部にある細かなボタンを操作した。すると、腕の一部が形状を変化し、ノズルのようになった。
「沁みたらごめんね」
「大丈夫だよ」
ノズルは傷口に近付くと霧状の消毒液を放出した。少女は一瞬、身体を揺らしたが、すぐに動かなくなった。
「痛い?」
「痛い、のかな?」
「痛いで良いんだよ」
「じゃあ、痛いかな。痛いよ、テオ」
「大丈夫さ。痛みだって命の証拠なんだから」
少女は無理矢理に微笑んだ。
痛いことが命ならば、痛くないことは何なのだろう、と思ったが、口には出さなかった。口を開けば「痛い」と言ってしまうからだ。
「いいよ、終わり」
「痛い」
「すぐに引くよ」
少女が傷口に手を触れようとしたのでテオは止めた。
「触ると長引くよ」
少女は頷いた。
少女の鼻を啜る音が聞こえた。
「そんなに痛かった? えっと、ごめんね?」
「大丈夫」
そう言うと少女はテオの頭を叩いた。モニターの穴から煙草が落下してしまった。
「えっ? えっ? 何? 逆襲?」
「痛かった?」
「痛いわけじゃないけど、ぐわんぐわんってするよ」
「ぐわんぐわん」
「そう、ぐわんぐわんってさ」
少女は「ぐわんぐわん」と何度か呟いた。
「それにね、私の中は精巧にできててね、お高いんだよ、私」
「私とどっちが?」
「えー、それはね……」
テオは焦った。
少女は更に身体を近付けた。ほとんど密着している。
「どっこいどっこいさ!」
テオは言った。
「そうなんだ」と少女は言った。
「でも、基準が違うからさ。倫理的な価値で言うなら君だし、金銭的な価値で言うなら私だと思うんだ」
「でも、命だってお金になるよ」
「……それはそうなんだけどね」
少女はテオの頭のTの文字をなぞった。
「くすぐったいよ。というか、近過ぎない?」
「何が?」
「距離感だよ。こんなに近いと煙草も吸えないよ」
「吸ってなかった?」
「お嬢さんが叩いた時に落ちちゃったよ」
「ごめんね」
「だからね、私は新しい煙草が吸いたいから少し離れて欲しいな。煙臭くなっても知らないよ?」
そう言っても少女は離れず、テオが煙草を加えてみても離さなかった。煙草に火が灯ると「綺麗」と言って、触れようとしたので止めた。
「火傷するよ」
「でも、綺麗だから」
「火傷は残るよ」
テオは煙を吐き出した。少女に顔を背ける素振りはない。
「気にならないの?」
「何が?」
しかし、そう言った瞬間に彼女は咳き込んだ。
「ほらね、煙たいだろう? あんまり健康に良くないよ」
「でも、テオはそれを吸ってるんでしょう?」
「まぁ、そうだけど……。しかし、私に汚れる肺はないよ」
少女は眼を丸くしてテオのボディを観察した。
「いいかい、お嬢さん。私のパーツはお高いんだからね。あんまり無闇に触らないで欲しいんだけど……」
「うん、触らない」
少女は顔を離した。そして、身体も離した。
少女は立ち上がり、欄干に腕を乗せた。上下左右が霧で見えない。それでも、上の方から少しずつ晴れてきつつあるようだ。
遠くに空が見える。まだサイダーのように淡い。
少女は下を覗こうと身を乗り出した。欄干に掌を当て、身体を浮かせた。眼下の景色は残念だった。まだ一面が白いままだ。少女が戻ろうと、腕を支えとして身体を動かしたが、その腕は少女が思っていた以上に脆弱で、少女は霧の渓谷に半身が飛び出した。
飛べるかな?
少女がそう思った瞬間、彼女の身体は強い力で引き戻された。急に重力の方向が変わったように思った。
「危ない危ない。落ちたら死んでしまうよ」
テオがそう言った。引き戻したのはテオの脆弱そうな腕だった。それは少女が思っていた以上に強靭だったようだ。軋む音と一緒に少女は冷たく固い場所に足を着いた。
少女は悟った。
きっと、自分は飛べないのだと。
「危ないなぁ」とテオ。
テオは少し浮いているように見えた。少女は近寄り、テオの下に手を伸ばした。確かに橋とテオの間には隙間があった。
「飛べるの?」
「飛んでいるというより、まぁ、浮いてるだけだよ。お嬢さんが思ってるほど私はパワフルじゃない」
「いいな」
「え?」
「飛べるの、いいな」
少女はテオのモニターに両の手で触れて、軽く揺すった。
「止めて、止めてくれ、一応、精密機器なんだよ、私は」
テオが焦ったような音を出す。それは機械が故障した時の音に似ていて、懐かしさと同時に不安を想起させた。リズムが狂い出す不安のイメージで、少女の脳内に浮かぶ景色は空模様を変化させた。
「いいなぁ……」
「人間は自分じゃ飛べないよ。その代わりに飛行機とか宇宙船なんかを開発したんじゃないか。凄い功績だよ」
「でも、そんなの私には関係ないよ」
「大人になったら、飛行機とかに乗って異国の地を訪れるのも悪くないんじゃないかい? 私が人間なら、ひとつの国に拘りはしないよ」
「私はひとつがいいな。居場所がばらばらになるより、ひとつの場所で生きていたい」
「何も、色んな経験を積むことは居場所を散逸させることじゃないよ。可能性を広げることなんだよ」
「可能性?」
「そう、可能性。可能性があれば、新しい可能性が生じる。それの繰り返しで人間は夢を見る。明日があるとわかれば、眠るのだって怖くないだろう? 昨日があるとわかれば、自分のことを疑わなくて済むだろう?」
少女は口をアーチ型にした。
「わかんないよ」
「わからないか」
「明日があっても、昨日があっても、結局は同じことだもの。眠れるから明日があって、自分のことを疑うから昨日があるんだと思う」
少女は欄干に顎を乗せた。視線は虚ろで、呼吸のひとつが長い。起きながら夢を見ているような、そんな様子だ。
不意に光が落ちてきた。それは太陽が霧の間を縫って落としたものだ。太陽なりの執念と言えなくもない。
光を見た少女は怯えるような表情をした。
「どうしたんだい? お嬢さん」
「光は、光は怖い」
「光が?」
「うん。光は痛いし、苦しい」
「でも、まだ大丈夫だよ。霧は濃い。太陽の光が落ちてきたのは本当に偶然なんだろう」
少女の眼が揺らぐ。彼女は欄干に掴まって蹲っている。
「大丈夫。私がいるんだから」
テオはそう言って恥ずかしくなった。少女がガラスに似ているからかもしれない。或いは石英。
少女はテオの言葉のためかどうかわからないが、ゆっくりと立ち上がって空を睨んだ。
太陽は霧の向こう。ぼんやりと光が透過しているが、深い霧には影響を与えていないように思える。
「はぁ」
少女は息を吐いた。眼元を拭った。
テオは少女に近付き、優しく接した。
「……お高いんじゃないの?」
「今は廉価さ。需要が局所的だからね。中身だけ高くたって使ってはくれないんだよ。そうでしょう?」
「ううん。わかんない」
「わかんないか」
「うん」
テオのモニターを少女の手が遮った。
「暗いよ」
「太陽が見えないから」
「そうかもしれない」
少女は手を離した。そして、ベンチに腰を掛けた。彼女は膝を見て「止まってる」と言った。血は固まり掛けている。その凝固した血はルビーのようにも見えた。
テオもベンチの上。機器の一部が原因不明の高熱を発しているようだ。命がない所為か、自分では何処がおかしいのかわからない。機械というのは生かされて生きるしかないのだ。
「ねぇ、見て」と少女。
テオが少女の指差す方を見ると、少女と同じように白い服を纏った人々の列がやって来るのが見えた。先頭の人物は華奢な若者で、性別が判然としない。彼は装飾の施された杖を持っている。その歩みは遅いが、長いコートの所為で足の動きは見えなかった。
先頭の人物は少女の前までやって来て止まった。
「気分は?」
少女は首を振る。
「それは良くない。君の肩の上には僕らがいる。君が君でないと、僕らは僕らでなくなる。居場所がなくなるんだ。そうすると、居場所は散逸して、二度と逢えなくなる。だから、ね? 君は顔を上げて」
少女は顔を上げて、眼を開いた。鼻を啜る音が聞こえた。
「祝福を、君が君であり、その唯一無二の居場所を失わないように。もういないものはいないんだ。忘れるも忘れないも君の自由だ」
「……私が忘れたらどうなるんですか?」
「その時はその時さ。居場所は霧消する。でも、それはそれで間違いじゃない。寧ろ普通なんだよ」
先頭の人物は膝をついて、少女の顔に手をやり、前髪を払った。
「うん、綺麗だ。その水晶のような瞳は失くさないでね」
先頭の人物は立ち上がり、霧の方の人々へ合図をした。すると、人々は動き出し、その後方から巨大な山車がやって来るのが見えた。
先頭の人物はテオの前に立ち、「あと少しですが、最後までよろしくお願いしますね」と言って歩き出した。その後ろをワインボトルを持ったふたりの白い人物が、その後ろを灯の消えた蝋燭を両手で持つ白服の人々が歩いていった。
少女は群衆に手を振り、その途中で眼を擦っていた。
最後までよろしく?
テオには意味がわからなかった。
最後というのは、霧が晴れるまでのことだろうか。
少女は眼を擦りながら群衆の方へ歩こうとする。
「行くんじゃない!」
テオは叫んだ。そちらへ行ったら良くないことが待っているような気がしたのだ。それは直感だったが、不思議と構築された論理に基づいているような気がした。
「どうして?」
少女が言った。
「帰って来れなくなるから」
「それはダメなことなの?」
「……わからない。でも、私は最後まで、と頼まれた。それがいつまでかわからないが、全うしないといけない」
テオは少女に近付いて、腕を変形させた。それを少女の頬に当てた。少女の頬は苺の乗ったショートケーキのように可憐だった。崩れてしまいそうな白と赤を雫が走る。
「……落ち着いて」
「うん」
「息を吸って」
「これは何をしてるの?」
「心のチェックだよ。私は医療用だからね」
「これで、心がわかるの?」
「さぁ? 私を作った人に訊いてごらんよ」
少女は微笑んだ。霧のため、少女の涙は煌めかない。
テオは頬から腕を離し、頭に当てた。そして、ゆっくりと撫でた。
「辛くなったら私がいるからね」
少女は黙って頷いた。
軈て少女は立ち上がると、橋の真ん中を歩き回った。それは行き先を見失ったウサギのように、帰る場所を見失った子猫のように。時々、真っ白な彼女は霧に紛れて見えなくなり、また現れる。テオは空を見上げたが、霧が晴れる様子はなかった。
しかし、光の散弾は霧の隙間を縫って落ちてきた。少女の小さな悲鳴がテオの耳に届いた。
少女は頭を抱えて蹲っていた。
「大丈夫? 頭が痛いのかい?」
「……うん」
少女は震えているのか痙攣しているのか、どちらにせよ心身へのダメージがあることがわかった。
「太陽の所為?」
「うん。太陽、太陽の光の所為」
「身体に当たった?」
「少し」
「見せて」
少女は左腕をテオに見せた。そこは火傷を負ったように爛れていた。
「何だいこれは……光に当たっただけなんだろう?」
少女は頷く。彼女が嘘を吐いているわけはないし、その理由もない。真実なのだろうが、テオのデータにそんな症例はなかった。
消毒? 包帯? テオには処置の仕方がわからなかった。出来損ないというレッテルが浮き出てくる。それは少しずつの破損の影響か、元来のものか、ただ、使えないことに変わりはない。
「傷、触れるよ。痛かったら……私を殴ってくれて構わない」
テオは少女の火傷のような爛れに触れた。すると、爛れは、テオが触れた場所から元の陶器のような白に戻っていく。
「わからない」
テオは呟いた。少なくとも精神的なものであることは間違いないだろう。しかし、テオは出来損ないだし、そもそも精神ケアが役割ではない。
「まだ痛い?」
少女は首を振った。傷口はすっかり消えている。
「……どうして、太陽が怖いんだい?」
少女はテオの方を見た。彼女の眼は少し赤かった。充血しているのではなく、瞳が赤いように見えた。色素が薄い所為だろう。
「太陽は怖い。痛くするから。苦しくするから。太陽は私を襲って、私の頭は痛くなって、吐きそうになって、喉が苦しくなって、心臓も肺も、身体の中が弾けてしまいそうになる。皮膚は焼かれたみたいになって、意識が遠くなっていく……太陽は怖いよ。どうして痛くするの? どうして苦しくするの? 私は何もしてないのに」
少女は呟くように言った。涙が絶えず滴り落ちている。
テオは少女に覆い被さるような姿勢を取った。
「……これで大丈夫?」
少女はテオを見上げて微笑んだ。
「傘になってくれるの?」
「最後まで、だからね。お嬢さんの傘になろう。私ができるのはその程度なんだから」
「ベンチに座ろう」
少女がそう言ったので、テオは身体を動かした。テオと少女の高さは変わらないので、少女が立つと傘の役目は果たせなくなる。
少女はベンチに座ると「ありがとう」と言った。
「でも、傘じゃなくていいよ」
「え?」
「上じゃなくて、横にいて」
テオはベンチに座った。少女を見ると、その幼さの残る顔は涙で荒らされていた。
「昔ね、昔のことなんだけどね、私は殴られてたの。今でも憶えてるけど、その時に窓から覗いていたのが太陽はなんだ。太陽は助けてくれないで、ずっと眺めたまま。きっと、太陽がやれって言ってたんだと思う」
「どうしてそう思うんだい?」
「太陽って人を狂わせるでしょう?」
少女は言った。
テオはその言葉に身を震わせた。今までにない冷酷なトーンだった。少女の根底にあるものの一角を見たような気がした。
「お嬢さん、失礼だけど両親は?」
「お父さんは昔に死んじゃって、お母さんはいつの間にかいなくなってた。みんな太陽が悪いんだ」
「……お父さんはどうして死んじゃったの?」
「太陽が悪いんだ」
「え?」
「え?」
「太陽が悪いの?」
「そうだよ。あの日、こんなに霧が深かったら誰も壊れなかったと思うの。お父さんもお母さんも私も」
少女の眼は虚空を見つめている。
少女の右手は左腕を強く押さえている。
遠くの空に青が滲み出しているのが見えた。
「ねぇ、お嬢さん」
「何?」
「お嬢さんは、さっきの人たちとどういう関係なの?」
「友達」
「友達?」
「うん。みんなで死のうねって約束した友達。みんな先にいっちゃったみたいで、私は置いてきぼりになっちゃった」
少女は眼を擦った。
「どうして、お嬢さんは生きているの?」
「生き残っちゃったから。ロシアンルーレットってわかる?」
「わかるよ」
「あれってハズレは死ってコンセプトなんでしょう?」
「まぁ、そうだね」
「それの逆をやったの」
「つまり、ハズレが生きるって選択だったのかな?」
「そう。それで私はハズレを引いた。十何個もあったワイングラスから毒のないものを引いちゃった。みんな、私の見ている前で倒れていくの。みんな、血を吐いて、噎せて、胸を押さえて死んでいくの」
少女は仄かに笑った。口元は三日月形になっているが、眼は赤熱した洞穴のようだった。テオは震えて、煙草が落ちそうになる。
「生きてたら儲けもん、なんて考えはお嬢さんにはないんだろう?」
「あるわけないよ。もしそうなら、死のうとなんかしない。でもね、テオ。みんな太陽が悪いんだよ。霧が晴れるから生きるのが辛くなるんだ」
少女は笑った。テオは表情までは見なかった。見るのが恐ろしいように思えたからだ。
視界の端に映った少女の生え揃っていない歯は赤かった。そして、左手に噛み痕が痛々しくあった。彼女はまた自身の左腕を噛んだ。それが自分のパーツでないように、殺すように噛んだ。
「……止めて、ねぇ、止めろよ」
テオは少女を押さえようとした。だが、少女はテオを振り払って橋の真ん中で転げ回った。軈て舗装された橋を両の手で掘る真似をした。人間の爪はアスファルトに勝てず、次々と剥がれていく。
少女は狂気を孕んだ笑みを浮かべていたが、同時に涙を流していた。それは透明ではない汚れた涙だったが、それが少女の痛みのサインであることはテオにはすぐわかった。
「止めろって、ねぇ!」
テオは叫ぶ。
「そんなにぐちゃぐちゃにして、戻らなくなるぞ!」
「戻る必要がないでしょう?」
少女はテオの方を見て言った。彼女の爪のほとんどは真っ赤に染まり、アスファルトの上に落ちているか、辛うじて指先に掴まっているような状態だった。
そして、無限に似た一瞬が過ぎ去った。
不意に霧が晴れて、太陽が顔を覗かせた。
テオは強烈な光からモニターを反らし、次に見た時には少女は消えていた。まるで、霧が晴れるように消えていたのだった。残っていたのは爪と血だけだった。
少女が消えたのは太陽の所為だ。
テオはそう思いながら橋の欄干に寄り掛かった。
空はサイダーを零したような初夏の青だった。