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イカ光る夜(中)

 振動と狂乱と気分の悪さと、転がりまくりの夜だった。

 いや転がっているというよりかは、飛び交っていると言った方が早いだろうか。メイスが捕まえといてくれなけりゃバウンドだ。ピンボールだ。壁床天井全部を使って。

 荒れた時の中の船の揺れというのは、乗ったことがないものにとっては想像をはるかにぶっちぎる。なんだろう、あれかな。

 こう、誰かがひょいと船を持ち上げて力の限り上へ下へ前へ後ろへ右へ左へ、一回転以外のありとあらゆる振り方をしたようなもんだ。これで息がつけたらすでに人間じゃねえ。

 俺もメイスも人間ではない(俺は今のところはだッ)が、それでもどうしようもなかった。

 一人で慌てて揺れる中を、船室へと戻ってきたメイスは(俺は一足先、月が隠れる前に部屋に戻ってた)最初の方は自分を浮かせる術を使っていたが、狭い船室がぐわぐわ揺れる中で身体を浮かせれば当然に、頭か身体かとりあえずどっかを壁か天井か床かに強打される。

 メイスは頭だったらしく、即行で衝突して抱えてちょっとうめいていた。珍しい姿だったが、その間俺は天井と壁を交互にぐわんぐわんバウンドしていたのでじっくり拝見するような余裕は到底なかった。

「最初にっ、船乗った時もあのイカの大群がっ、きやが、ってよ」

 レタスはあいにく舌がないので、こうまで飛び交いながら話しても舌を噛むことはない。すげえ些細な利点だが。

 メイスはもう何も言わずにベッドにしがみついている。少しだけ緩やかになった隙をついて、必死に手を伸ばして俺を捕まえてくれたおかげで、レタスピンボールはなんとか終わった。メイスの手の中でさっきまで味わう余裕もなかった痛みがじんわりと広がった。

「死に……そうです……」

 メイスは俺を抱きかかえながら息も絶え絶えに言う。メイスの口からこんな弱気な言葉が出てきたのは初めてだった。しかしそれも無理はない。

 ベッドの端にしがみついていても、身体は浮いたり叩きつけられたり容赦なく、体力も消耗すれば痛い思いもする。

 真っ青な顔をしたメイスに、すまない気持ちが強くなる。

 よく考えれば完全に俺の事情につき合わせて、メイスを乗らなくてもいい船に乗せてこんな目に遭わせているわけだ。つまり俺のせいだ。

 せめてさっきまで戻っていたように、月が出ていたままならば少しはかばってやれたのになと思いながらかばわれる身は虚しい。

 メイスは大きく肩で息をつきながら歯を食いしばるようにベッドにしがみついた。

「私はレザーさんを食べるまで死ねないのに……!」

 いや。

 よく考えたら別にかばわなくてもいいかもしれん。少し前は本気で食われかけたし俺。

 自分と他人の関係のように、ごちゃごちゃぐらぐらばんばんと、考えながら揺れながらバウンドしながら、そんな夜でも明けるもんだ。

 夜と共に嵐は去ったというほど劇的なタイミングではなかったが、夜半すぎから少しずつ少しずつ波が引くように荒れ狂う風の音が小さくなっていき、振動が遠慮がちなものへとなっていく。

 その頃になると精根尽き果てて、安堵のため息を漏らす余裕もなく、メイスは物も言わずにようやく放り出されなくなったベッドにぐったりと横になった。俺もいいかげんに疲れてベッドの下で息をつく。転がりすぎて頭がよく働かない。

 あの嵐であまり流されていなければ、今日中には港につけるって話だ。それまで休憩しておいてもいいだろう。眠る直前に疲れた頭に、船の手すりから見下ろした青いあの光がちらついた。

 嵐だけなら、まだいいんだが……




 しゃくしゃくぱりぱりと大層歯切れのよい、印象的な音が響く。

 もう店に行ってドレッシング抜きのサラダを頼む、というのもまどろっこしいのか野菜市場に突入し、お前それどうやって持って帰るんだというほどに目に付くものは手当たり次第に買いまくったメイスはご機嫌だった。

 港町、ナットハンガー。

 嵐の夜を抜けて息も絶え絶えに、船に積んでる荷替えとなにより船乗り達の休息もかねて立ち寄ったこの港町は、さすがに先のウォーターシップダウンほどには栄えてもいないし大規模でもない。

 それでも小さい港は小さい港なりにきちんと存在意義があり、それを持つ者も分かっているのか隅々まで気持ちよく整備されていて、嵐を抜けきって疲れ果てた船乗り達に手間をとらせないだけの設備と配慮は兼ね備えていた。

 嵐を乗り切った船乗り達の苦労に比べれば、俺とメイスの苦労なんて苦労だって言った瞬間に殴り飛ばされるかもしれん。

 なにしろあの風と波の中で、互いの身体を太いロープできつくしばって仕事に奔走していた強者だ。船乗りや海賊がもっとも強いってのも、あんな嵐を体験すると納得がいく。そんなあいつら相手に俺も結構無謀な真似したもんだな。

 が、そんなこたあ、一眠りすれば嵐の後遺症も見られずに回復したメイスにとっては知ったことではないのか、揺れない地面に足をつくやいなやお目当ての市場めがけてその俊足を見せた。

 女の買い物には付き合うな、と昔誰かに言われたが、メイスにとっては人間世界に入って何一つも分からない状態で、買い物、商売というやり取りが最も理解するのに難解だったようだ。

 俺と出会う前には表面上はそれができるようになって(なにしろ俺はメイスに買われた)一応代価を払って品物を受け取っているが、こいつが本当に売り買い、流通の義を理解しているのかはあやしい。

 そもそも、そういう概念を人間全て(とまではいいきれんがいろんな文化があるし)に共通のものとして染み渡らせることが、メイスにとっては驚嘆に値する出来事だったらしい。そう考えると人間社会って組織立ってるよな。

 なにはともあれ、無意味に金はあった。

 それを惜しげもなく(本当になんにも惜しくないんだろうな)ばらまいて、メイスは買い占めた野菜の山から、まず丸いキャベツを手にとった。

 かぷりと食いつくと、そのまま犬食いと言っていいのか丸食いと言っていいのか、ほらあれだ人間なら切ったスイカやとうもろこしにかぶりつくように、しゃくしゃくぱりぱりぱりとキャベツはみるみる体積が消えていき、満月のような丸は昨夜少しだけ出ていた月ほどの半円形になり、それが三日月になり、そして最後に新月になった。

 メイスは立派なキャベツを丸々一個ぺろりとたいらげて、買いあさった野菜を嬉しげに次と物色し始めた。可愛らしい顔は晴れやかで、無我夢中で貪っている。

 欠食児童。

 メイスのそんな有様にそんな単語が浮かんで、俺はころころと用心して詰まれた野菜の山と一緒にされないように距離をとった。次に人参にかかっていたメイスはふとこちらを向いてふわあと春風のような晴れやかな笑顔を向ける。

「生きてるってすばらしいですね、レザーさん」

 なんでこう自覚のない悪意のないその分だけ限りなく質の悪い奴ほど、笑顔はさらに爽やかできらきらしてるもんなんだろう。

 確かにその通り、生きていることはすばらしいので、俺はもう半リーロル、メイスから離れるために転がった。




 死んで打ち上げられた魚にたかる海鳥の声だけが聞こえて、人っ子一人見えない嵐の後の浜辺はなんともいえない寂寥感が漂っていた。淑女には嫌われがちな浜風は、メイスの白い髪をぱさぱさとさらっていく。

 細かい砂が無数に敷き詰められて、踏みしめる足を沈ませる砂浜は昨夜の嵐の後遺症に、どこかの沈没船の破片、割れた瓶、貝殻、後は判別できん訳がわからんゴミがあちこちにばらまかれ波から取り残されて、白い砂の上で乾いていた。

「やっぱり、結構な嵐だったらしいですねー」

「いや、そーでもないだろ。船も沈まなかったしな」

 ちらちらとそれらを眺めながら、メイスの手に抱かれて砂浜を歩く。

 ひとしきりメイスは生を謳歌し、俺も生を実感し、なんとか片がついたのでここ数日メイスの傍にいて味わいつづけてきた緊張感をようやく緩めることができた。

「船というものは人間が考え出した中でも最悪の移動手段ですね。百害あって一利なし、まるでお師匠様のような代物ですよ。あんなものを考え出すとはやはり人間の知識は浅はかです」

「現在ある方法じゃあ一番早くて普通はいけねえ場所にも船ならいけるんだよ。人間が考え出した移動手段ではいまんとこ一番大規模で偉大な奴だぞ。あんなくそぼけと一緒にされると立つ瀬がねえよ」

 よっぽどに飢餓と嵐がこたえたのか、メイスにしては珍しく論理的でない発言だった。その理は分かったのかむーとしてメイスが少し歩くのを早める。俺はそれを引き止める。

「なんですかー」

 不機嫌な声を少し宥めて波が寄せる浜へと近寄った。メイスはその指示に不思議そうに

「レザーさん、そのように海がお好きでしたか?」

「ちょっと、気になることがあんだよな」

「なにがです?」

「イカだよ」

 自分の食料ではないので、メイスはまたかというように嫌な顔をして

「それがどうしました? あの無節操に発光する軟体動物がいないからまた嵐が来るんですか?」

「いや、嵐ならいいんだがな……」

 昨夜、というか今日、一眠りの前に思ったことを再び繰り返す。

「あのセンコウイカがああいう風に大挙したら、嵐が来るのは船乗りなら誰でも承知してる。だが、あんな短時間で嵐がおさまることは珍しい。――ここからは、どうも冒険者の領域な気がするな」

「……」

 メイスは奇妙なことを聞いたような、なんともいえない顔をして、しばらく考え込むように上を向きそれからああ、と納得の声をあげた。

「そういえばレザーさん、元冒険者でしたね。すっかり忘れてましたよ」

 ちょっと傷ついたことをプライドで隠す。いやもうないけどさ、あんまりプライドも。でも元じゃないやいまだれっきとした冒険者だ俺は。

「昔、文献で読んだことがあるだけだから、あんまり確かなことは言えんがどうも気になるんだよな。光るイカ、すぐ終わる嵐、そして終わった後に」

「後に?」

「メイス、この浜辺見て何か気付かないか?」

「?」

 メイスは様々なものが散らばった浜辺を見て首をかしげた。答えはさっきからこればっかりだなと思いながら俺は口にした。

「イカだよ。あんだけ海を埋め尽くしてたイカが一匹もあがってないだろ」

「海流の変化じゃないですか?」

「ならここにはなんも打ちあがってないさ。引き返したんだ。」

 センコウイカの大量発生、すぐ終わる嵐、引き返すイカ、港町。

 呟いて胸にある予感に問い掛ける。ただの危惧か? 思い過ごしか? はたまたあまり辿り着いては欲しくないが本当か。

 歩くメイスと手に抱かれた俺に、海からぶわっと生暖かい風が吹き付けてきた。

 メイスの白い髪が膨らんで攫われる。その後ろに小さな港町がある。それをちょっと眺めた。あそこにも住んでいる奴がいて世界にしている奴がいる。当たり前のことだけど。

 備えあれば憂いなし、転ばぬ先の杖、面倒なことに嫌がる気持ちに鞭打つ言葉だこりゃ。

 かすかにため息をついて、俺は俺を不思議そうに見下ろすメイスを見上げて言った。

「メイス、ちょっと耳かせ」


 


 薄暗い酒場の影のおかげで傷や汚れが目立たないテーブルに、暗いこの中でも黄金色に揺れる特産のヤイ麦ビールのジョッキが叩きつけられた。

 一息で半分ほど飲み干したスリアラーは、隣で静かにこちらは細いグラスに入った酒を傾けるラブスカトルに問い掛ける。

「結局に、あの嬢ちゃんは違うってことか?」

「さあ、どうだろうな」

 素っ気無い呟きが不満のようにスリアラーは身を乗り出す。この男の仕草はいつもどこか少年臭さが残っていた。

「ともあれ、あの嵐を呼び寄せることがあの少女にとって利益があったこととは思えないな」

「面白がる、それだけで充分魔女の動機にはなるだろ」

「あれが面白がっているように見えたなら、お前が見張りの任につくことは金輪際ないぞ」

 スリアラーは行き詰まったように頭をがしがしとかいて酒に手を伸ばす。ぐいと一口のみ乾すと顎と口の間にわずかな白い泡が残った。ラブスカトルも一口、グラスから飲んだ。

「まだ、何も起こってはいやしない」

「起こってからじゃ遅いだろっ」

「そう、その論理だ。四百年前に、蔓延り大地に夥しい血を流したのは。」

 ふとくるりと、傍らに置かれた陶器のコップに適当に突っ込まれていたさじをとり、その先を隣の男の眼前に突きつけた。

 事を理解できずにその先を思わずじっと見つめてしまうスリアラーに、ターバンを巻いた男はかすかに口元を歪めて、

「魔術師の大空白時代。赤眼の宴、とも言うな。捕らえられた魔術師の目を生きたままくりぬいて鳥に食わせた。血に濡れた目玉の山が大地に出来た」

 言葉と同時に、眼前に突きつけられたさじが、すうっと滑らかに回された。その動作が暗示するものにスリアラーはさすがに血の気が引いたよう

「な、なにも処刑とかそういう血生臭え話じゃねえよ。ただちょっと」

「あの時代も初めはそれだったかもしれんぞ。血生臭いような話ではなく、可愛らしい嫉妬、風にそよぐようなわずかな不安。それでも火種だ。火薬を爆発させるには充分な。先の港でもそんなことがあったのを忘れたか。」

 虐げられていた、それでも明るく笑う子供達の姿を思い出したのか、うぐと詰まるスリアラーにラブスカトルは立ち上がった。

「航海にそんな疑惑は一欠けらも持ち込むものじゃないと、お前もよく知っているだろう。スリアラー。排斥の時代は終わった。疑わしいというだけで全てを殺した時代はな」

 背を向けるターバンを巻いた男に、スリアラーは一瞬テーブルの上の自分のジョッキとその背を見比べて慌ててジョッキを飲み干すと、空いたジョッキと共に金をカウンターに叩きつけてその後を追った。

「悪かった。ラブスカトル」

「別に謝られるようなことじゃない。それよりお前も、他の連中のよう、骨休みに行ったらどうだ?」

「酒喰らうのも花街行くのも気分じゃねえよ。」

 縛り首にされるパフォーマンスに、首を両手でしめて目をぎょろぎょろさせてみると、ラブスカトルが夜の中では到底見分けられないほど、ほんのかすかに笑った。

 すると不意に横の通りから軽い足音が聞こえてきて、艶やかなその肌もやすらかなその髪も、ひらりと日が暮れた夜の中でことさらに白い、ちょうど話題の主であるあの少女が現れた。彼女はこちらに気付いて小走りに駆け寄ってくる。

「こんばんは、お二方」

 にこやかに声をかけられて、態度の軟化と今までのことにスリアラーは鼻白んだ様子を見せたが、ラブスカトルの細いそれではいささかわかりにくい目配せにおずおずと踏み出して

「よお、嬢ちゃん。宿がとれなかったのか? 夜中に一人で歩いてるとあぶねえぜ」

「自分の身ぐらい守れなければ一人旅はしていられませんよ」

 それから赤い瞳が無遠慮に自分の前に立つ二人を眺めて、

「ちょうどあなた方は、特に定まった用もなく無駄に時間を浪費しているように見えるので、私についてきてもらえますか?」

「は?」

「御二方に用があるそうですよ、私の連れは」

 にこやかに続けて白い髪の少女は

「では私についてきてくださいね」

「ちょ、ちょっと待てよ。なんの説明もなくいきなり、んなこと……」

「説明はできますよ、けれどどうせここで私が懇切丁寧に説明したところで常識という人類共通の虚像に縛られて思い切りなく自らの範疇以外にあるものにはろくな理解力を示さない平均レベルの人間の知識しかない愚かなあなた方には分かるわけもなく無用な混乱を招くだけなのでこのように差し迫ったときには全くの時間の無駄でしかないそのような手続きは省かせていただきますがよろしいですね」

「……」

 思わずスリアラーは横にいるラブスカトルに声をひそめる力もなく

「……なんかもう、とりかえしのつかないほど嫌われているのは、俺のせいか?」

「……」

 ふと風向きがかわり、生暖かい風が鼻先をくすぐった。夜の中、その白い髪がぼんやりと灯篭のように浮かび上がる、少女は途端に嫌そうな顔をして寒さを感じるように肩を身震いさせ、

「あー、ひどい臭いですー。息が詰まりそう」

「臭い?」

 きょとんとして問いかけたスリアラーの横で、ラブスカトルは反射的に鼻に意識を集めるが、少女が言うような強い香はどこにもなかった。それを見て取ったのか少女は鼻をつまんで

「進化の過程であまりに自らの感覚を鈍感にさせすぎたあなた方にはまだ分からないでしょうが、レザーさんの言うことはあながち取り越し苦労に終わらないかもしれませんね、これは」

「兄貴っ!?」

 途端に餌を放り投げられた魚のよう、スリアラーが凄まじい勢いで歩を詰めた。

「レザーの兄貴かっ!?」

「私の知っている方はあなたに兄貴呼ばわりされるような方ではございませんが、まあレザーさんですよ今のところはつまらないことに人間の男の」

 妙な言い方をした少女に確信を得たのか、スリアラーは感激か感動のあまりぶるぶると腕を震わせ

「兄貴が俺を呼んでるのかっ、お、おおれも行くっ」

「だからついてきてくださいと言っているでしょう」

「まてスリアラー」

「あなたも」

 ほとんど冷静な判断がくだせないほどに、すっかり舞い上がったスリアラーを、思わず止めようとしたラブスカトルは、その途中で声をかけられた白い髪の少女に目を向けた。

「あなたにはあなたなりに価値を見出している常識、日常を保ちたいならついてくるべきですよ。判断せぬことが最悪の判断になることが往々としてありますからね。まあどうしても足を動かしたくないというなら私は引っ張っていくことはできませんがー」

「俺は行くぞっ!」

「はいはい」

 少女はきびすを返した。白い髪がさあっと夜に舞った。スリアラーが尻尾を振る犬のようにそれに続く。

 咄嗟に動けずに一瞬、夜の中で取り残される。まだ十日前ほどに、こんな夜道にふらりと現れ風のように動いた人影が、頭の隅にちらついた。そして名乗った記憶の中の名前を、少女が口にしたことで、その存在が過去から今へと変わることもすんなりと受け入れがたかった。

 理解することを不快に思う感情と共に歯がゆさは口元でかみ殺し、闇の中でラブスカトルは、糸のような目をうっすらと開き、仕方なく少女の後を追った。




 船着場にひょろりと伸びた簡易の見張り台にいたその人影の、こちらを見た第一声はうげ、としたうめきだった。

「メイス……よりにもよってこの人選かよ」

「適当な船乗りを呼んでこいと言われたレザーさんの言は果たしましたよ。ところで、レザーさんの言、どうも本当みたいですね。さっきからぷんぷん嫌な臭いがしますよ」

 その言葉に影が大きく動いてこちらに向き直る。

「するのか? どんな臭いだ」

「生臭い……腐臭というのですかね、なんとも言いがたい悪臭ですよ。こっちにくるともっときつくなりました」

「やな予感ほど当たるって本当かもな」

 嘆く節々に気取りのない気安さが見える。この少女の連れというのも、偽りではないと分かる程度には、わずかなやり取りで二人がかなり互いの存在に慣れていることを思わせた。

 夜の中で目を凝らしても、見張り台につるされたランプから逃れて、その上に屋根の影がかかり男の顔はよく見えない。

「あ、あ、あっ」突然に隣のスリアラーが喚いた。つるされたランプが照らす不十分な灯りの下でもその頬が少年のように真っ赤になっているのが分かる。「兄貴っ!」

 その声を受けて人影は実に嫌そうに組んだ腕をほどき、自分の立つ位置に軽く手招きをした。

「話したいことがある。」

「なっ、なんですかっ!」

「いや、そっちのターバンの兄ちゃんがきてくれねえか」

 うなだれるスリアラーの横で指名されたラブスカトルが近寄るが、近くによっても肩のところでぶらりと屋根からさげられた光が途切れて、その上の頭は見えない。ただ一つに束ねられた背に届くまでの青い髪が、左肩から伸びているのが分かった。

「どこ見てんだ」

 言い草に思わずラブスカトルが視線をそらした先、腕がすっと伸びて闇が溜まる海の方を指差した。

「証拠はそろっても信じたくないもんだが、見えてきた。」

 何を言っているのか分からないが、何もないように見える海から何故か目が離せなかった。新月の夜の海は見事なまでに闇一色に塗りつぶされて、そこから波の音が生まれていく。様々な逸話を呼ぶそれとは異なり、月が照らし出すこの夜はまだ波の表面が見えてそうまで得体の知れない空間ではなかった。

 ふと、

 ラブスカトルは月の青白い光ではない、何かを目にしたような気がした。波が揺らした光かと思うそれは、けれど疑惑を増殖させるように途端に姿を現実の領域にまで強めた。

 それは光だった。青く、けれど自然が作り出すほのかで優美なそれとは違い、ちかちかと瞬く不気味なもののように映る。その色合いには見覚えがあった。口にはしなかったが、もう少し目を凝らす。

「古い文献がある。もう滅んじまったエリアール国の海軍の記録書だ。通称、ティールの書。昨日起こったあれの大量発生。一夜で静まる嵐。そして浜辺に姿を見せない「奴ら」。強烈な生臭い匂い。当時は最強を誇った海軍を一夜にして壊滅させた」

「な、なに言ってんだ? 兄貴」

 不審に思ったスリアラーが寄ってきて、波間の一点を睨みつけて動かないラブスカトルにならい顔を向ける。海の彼方に生まれる青い光を見つけて

「ありゃ……センコウイカ?」

「そうだが違う。」

 鋭い声を放った瞬間、ざわっと夜の海から風が吹き付けてきた。一瞬、息がつまるほどに生々しいえげつなさが溢れた臭いだった。

 メイスはこうまでくると耐えられないように顔を風からそむけ、不意をつかれたスリアラーがおおげさにのけぞり、ラブスカトルは手すりを強く掴んだ。じっとりと掴んだその手が汗で濡れていた。背中にも、汗がつたっていた。

「まさか……」

 呟きに応えるように視線の先で波が一つ跳ねた。衝撃はもはや悪臭には留まらなかった。たった一つの動作で深い渦が幾つも生まれていた。そこから悪夢のようにはっきりと、月が照らす海上にその姿を現した。

 ラブスカトルのように、恐ろしい悪夢を予期していない、スリアラーには一瞬やはりそれが何かはわからなかったようだ。おおよそに冗談のような、姿だった。

 柔らかで滑らかであったはずの海上に、不恰好なオブジェのごとく奇妙な突起が突き出ていた。月は鮮明にそれを、あたかも舞台の上の主役であるよう端整に映し出していた。

 木の根やヘビの尾のような形に、背後には闇が流れ裏返ってこちらに見せ付けられた側面には丸い吸盤が幾つもついていた。それが海の中に屹立し、やがてぐおんとくねらせて海を叩くように騒々しく沈み、白い波が生まれた。

 スリアラーもここに来てはっきりと、押し寄せる恐怖と共にその正体を悟ったようだ。ラブスカトルはからからに乾いていた喉に唾を飲み下した。今やびゅうびゅうと風に乗って吹きつける耐えがたいこの臭いのせいで、ひどい味がした。

「何度生涯を繰り返しても、滅多にお目にすることはできない……」

 手すりから離してぬるりと滑る拳を握った。名を呟くことは恐怖を具現化することだ。まだ幻想ですまされるそれを現実にすることだ。

 けれど幻想の中で殺されては堪ったものではないというように、二人の船乗りは、サーガや御伽噺には当然のように存在し誰もがその存在を知りながら幻想へと片付ける、その名をはっきりと呟いた。

「クラーケン……」



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