イカ光る夜(上)
のったりのんびりエフラファ目指して優雅にでかける海の旅! 蓋を開ければ大惨事。嵐にイカになにがきても、ラスボスはいつもすぐ横に。大海原を酔いまくれ! 揺れる甲板バウンドレタス。最大の危機は壊血病。レタスとうさぎと船乗りが送る苛烈で愉快な航海奮闘記。
今日も晴天だ。いい船日和だ。太陽は熱く、頭上高く飛び交うかもめは青い空を白い翼でたたいている。
今日も晴天だ。いい船日和だ。船内を休む間もなく動き回る、船乗りたちの威勢のよい掛け声のアクセントが心地よい。
死ぬにはいい日だ。しかし生きるにはもっといい日だ。俺は死にたくない。
今日も晴天だ。いい船日和だ。
メイスは舳先で限界で、俺の命もぎりぎりだ。
え? なんでって? ははは。聞くなよ。
説明不足で悪いが、俺はもう現実なんて見たくもない。
俺の名前はレザー・カルシス。最近、とみに自分の名前を意識して生きているようになった。
昔のまだ青く、いや今の状態みたいな青さでなく、まあいろんな意味で俺が若かった頃は、若さ故に気取り不貞腐れて名前なんざどーでもいいと思っていたが、そんなことは断じてないと最近かみ締めている。
名前というのは証明なんだ。その人間の俺という人間は、名があってはじめて俺は俺という個として他に認識され、共有される。俺の、人間の俺は、レザー・カルシスという名を持ってはじめて俺は俺でありうる。人間の俺はレザー・カルシスなので俺はその名前を邪険に扱うことはやめた。
俺のいる場所は、船の上だ。前回、港町ウォーターシップダウンを旅立ち、エフラファへと向かうために近くのサンドルフォードに行く最中の。
この航路は、すっげーなりゆき上仕方なく決めたことだが、当初の予定通りにエフラファ直行便に乗っていたら俺の命はすでになかったかもしれん。
このサンドルフォード行きのよう海岸沿いに進路をとり一週間に一度くらいは荷物の積み下ろしなどの用でちょくちょく港に寄る船でなく、あんな長い長いほとんど港に寄らない航海では間違いなく、メイスの理性はぶっ飛んでいた。
俺の横で舳先にぐたりと身体を投げ出して、ぼそぼそと口の中で低くつぶやき続けているメイスは、船乗り達には船酔いだと思われていることだろう。
最初は実はそうだった。乗って二、三日、メイスは船酔いをしていた。
この船というものは、はたから考え見ている以上にすげえ揺れる。まあ例えば俺を、用意されたくそ狭い寝室の床にぽんと置けば、その揺れは一目瞭然。一秒も留まることなく右へ左へ転がりまくりだ。畜生。
人間の感覚に合わせて言えば、平地に立っていると突然行く手がすげえ傾度の下り坂になる。慌てて体重を移動させようとした瞬間、来た道が今度は盛り上がって坂になり、そうして人はなすすべもなくすっころがるって感じのようなことがおきる。人間っていいな、それでも転がっていかないんだから。丸くないっていいな。
つーわけで、船に乗ったのはこれが正真正銘、生まれて初めてというメイスは、当然のごとく陸で暮らしている限り、まず味わうことはないようなその揺れに遭遇して船酔いした。
ひどい奴なら半死人みたいな顔つきで転がりぴくりともしなかったり、胃の中のものをげえげえと吐き出したりするが、メイスはやはり作りが人間とは少々違うのか、はたまた反則で(いや別に使ってもいいんだが)なにかの魔法でも使ったのか、船酔い自体はそんなにひどくなく、白い顔が少し青ざめてだいたい大人しく座っていたが、たまに甲板に風にあたりにきたりするくらいの元気はあった。けれどなんだその間、これはすげえ重要なことだが、メイスにはあんまり食欲がなかったんだ。
今思えばその数日間はなんと平和で穏やかだった日々か。俺も転がったが。
しかし適応能力が高いメイスは二、三日で復活した。復活して当然のごとく飢えた。
飢えた。
ここで突然だが、壊血病という病気がある。少し前に一世を風靡した、というと言い方が変だが、流行に流行って各国の海軍・船乗り達を大いに悩ませた海の奇病だ。
船に長いこと乗っていると、歯肉からの出血・全身倦怠・衰弱などを引き起こす。原因は不明。下手をすれば死にも至る、船にかかわる奴には笑ってすませられない難病だったが、近年、それの原因がわかってきた。
長い航海の間、船の中での食事はどうしても保存食になる。早い話が干し肉とかパンとかチーズとか、ヤギや牛を乗せていれば乳も飲めるがまあそんなところ。食い物はだいたい塩漬け。陸の食生活と決定的に違うところ、航海ではすぐしなびてしまう生野菜なんか置けなかったわけだ。
そしてそれの欠乏が、壊血病につながったとのこと。
野菜食わなくても雑食で、色々と食べていける人間だからの盲点だったと言えよう。そしてつまり航海途中の船の上という場所は、それだけ野菜が手に入りにくい、ふつーお目にかからないものだということだ。それが分かる前に、壊血病で死んだ奴らよ冥福を祈る。
そこでふっと気持ちよく吹き続けていた風が変わり、それにのって隣のメイスがぼそぼそと言い続けている、たいそう陰鬱で腹底から冷えてきそうな声が聞こえてきた。
「ニンジン、コマツナ、ハクサイ、ゴボウ、キャベツ、レタス……レタス……」
壊血病で死んだ奴らよ冥福を祈る。
だけど俺もすぐそっちに逝きそうだ。
野菜食わなくては生きていけないのが隣にいる。メイスだ。
そして俺、レザー・カルシスは人間の男の冒険者のレザー・カルシスはレザー・カルシスは。
俺は今、レタスだ。
「待て、待てッ待てちょっと待てメイスーっ!!!!!」
レタスだったが、船乗り達にも聞こえたかもしれんが、俺はもはやいっさいに頓着せずに放てる限りの大声をあげていた。
可愛らしい顔がありえない間近に迫り、その口がくわりと開けば白さが眩しい並んだ小さな歯が見える。白い髪が覆いかぶさるように毛先がちらちら俺をかすめ、降り注ぐ赤い目は少し虚ろだ。
「いやお前が俺を食いたいのは一番最初から知ってるがほら俺食ったら実験体とかコルネリアスとか追うの駄目になるだろっ、なっ、目先の利益より長期的な益だろっ、なっ、お前は元のうさぎに戻るんだろっ!!」
俺の悲鳴が混じった懇願にふとメイスは顔をあげて困ったように、しかし諦めのついたような顔で頬に手をあてて
「確かに私も残念ですー。レザーさんと出会ってからまあ楽しくもやれましたが別にレザーさんがいない頃もなんとかなっていましたから」
「勝手に自己完結させるなっ頼むからっ」
俺の存在意義をあっさり切り捨てた、正気で本気な分だけメイスは凄くやばくみえた。あああターゲットだ絶対ターゲットだ野原の雑草はなんでうさぎに食われるかもしれんと知っていてまだ悠長に動くことなく生えているのか。根があるからか。
がくがくと動揺して訳がわからんこと考えてる俺をがっしりと両手で掴み、メイスはさらりと白い髪を揺らして
「色々とお世話になりました、レザーさんとの旅は楽しかったです」
「過去形にするなっ!」
「大丈夫。レザーさんのことは私の舌と胃で決して忘れません」
せめて頭とか心とかで覚えて欲しい。うめきと絶叫と悲鳴を一緒くたにまぜてこねたような声を出しながら、絶望という文字を考える。あああああ着々と喰おうとする気満々だこいつっ。
メイスはすでに食べることを決めたための余裕か、さきほどの切羽詰った様子はなくほろりとした様子を見せて俺を撫でて
「ああ、こうしてごちそうを前にしていると、レザーさんと紡いだ数々の思い出が走馬灯のように」
「いやまわさなくていいからこう過去だけで懐かしむんじゃなくてこれからも新しい思い出を作っていこうぜ、なっ、なっ、なんかこう一緒に生きていきたいとかそういう生命ある方向でいやまじで頼むからっ」
俺がまだこういう意味じゃなく青かった頃は、生命なんていつ捨ててもいいとか燃えてた時期あったよなあ馬鹿だったなあ、いやあの頃でもこういう意味で生命捨てろって言われたら抵抗したかなあ。生命かけた犠牲精神なんかくそくらえだ。
必死の奥底でなんとなく黄昏れる俺の前でメイスは安心させるように笑い
「ご心配なく。レザーさんは私の中でいつまでも生きていますよ。」そこで確信犯的につと口調を変え声が低くマジになった。「栄養として」
「いやっ消化されるからっ!!」
「消化の時間もありますし別れは長引くと辛くなるものだと古来から言われているようですからそろそろ」
もはや俺の言うことはなんも聞かずに赤い口がくわりと開く。小さな可愛らしいその口が、ぞっと俺を恐怖に叩き落す。
「いや俺はもっと別れを惜しみたいぶっちゃけ物凄い勢いで別れたくないっうわ喰うなっ、お願いだから喰うなっ喰うなーっ!!!」
必死にメイスの手から逃れようとするが、白い手ががっしりと掴んで離さない。いやだ本気でいやだ泣きたいが泣けねえしいやだっ
俺の心の底から懇願をさらりと流して、メイスがキスでもせがむように嬉しげに顔を近づけてきた。赤い口だ。綺麗に並んだ貝殻みたいな白い歯が少し見える。女の口がこんなに恐ろしく見えたことはない。この口が喰う。どうやって喰われるんだ。一瞬、幻聴でばりっと剥がれる音がしてぱりぱりとしなる音をして喰われていく自分の姿が――って自分の想像でもレタスかよっ!!
「いただきまーす」
「メイスーっ!!!!!!!」
弾む声に迫る赤い口にあげた俺の絶叫に不意に横合いのドアが開いた。心臓があったら破裂してしまいそうなほど動揺していた俺はメイスの顔が離れてあがったことで、ようやく少し意識が戻ってそっちをちらっと見た。
知った顔がそこにあった。ウォーターシップダウンでちょっと因縁があり、まあ殴りそびれた間柄という奴だろうか。スリアラーという船乗りが、小さな瓶を片手にこちらを用心深そうに探っていた。
「何用でしょうか」
メインディッシュ(泣けてくる……)を、今まさに喰おうとしたところで邪魔されたメイスは、むっとしたようにスリアラーを見つめたが、スリアラーの方はメイスの不機嫌さなどに気付いた様子はなく、目渡す広さもないような壁にベッドがついただけのくそ狭い部屋を注意深く見回した。
何を探しているかはだいたい予想はついたがしかし俺はレタス。視線は素通りする。やがて探し出すことを断念したスリアラーが
「なあお客さんよ、さっきここから男の声ががんがん聞こえていたような気がするんだが」
ああ、めっちゃくちゃ喚いていたよ、俺が。
「この部屋のどこにそんな男がいるように見えますか」
メイスは平然としたもんだ。確かにこのくそ狭い部屋ではメイスのちまっとした身体でもやたら窮屈そうに見える。もう一人の人間が入れるような、ましてや隠れられるようなスペースは到底ない。
しかしあれは俺の命がかかった悲鳴だ。さすがに波の音、聞き間違い、とあっさり判断できないのか、スリアラーは少し迷った末に、耳と目の両者の判断では後者に軍配があがったのか
「そうだな。まだ男連れ込むには嬢ちゃんは早いな」
とどこかすっきりしない様子でわりいと謝った後、
「これ、酔い止めの薬だ。風がなくて進みはおせえが、あと一晩くれえで次の港に着くからがんばりな」
瓶を渡してきびすを返した。瓶の中にはどろどろの沼色の液体が揺れている。
普通は食用ではない幾種類かの海草と陸の薬草を混ぜ合わせたもので、船乗りに伝わる船酔い秘伝の薬だ。俺も飲んだことがある。すげえ効くがすげえ苦い。
船酔いをしている(と思われている)メイスに気を使ってこれをもってきたのか。意外に細かな気配りができる奴だな、と少し思うと部屋から出ていきがけに頭をかきながらそいつは
「兄貴の声がしたと思ったんだが、兄貴を慕うあまりの幻聴って奴か……」
てめえ俺の声覚えてたのかいやそういう結論にいかれるのも悪いが虫唾が走る。
レタスなので鳥肌はたたないものの俺が少し葉をふるわせた。そして俺を抱えているメイスがその動作を目にしているのをすっかり忘れていた。
パタンとドアが閉まり、そして足音が去っていくまでの一瞬の沈黙。
「――邪魔が入ってしまいましたが」
メイスの、声。そして間近に迫る息遣い。ぞっと精神が虫にたかられたように冷える。
しかし、思わぬ介入で少しだけ態勢を変えることができた。俺は自分になるだけ平静を保つよう言い聞かせた。これからは口一つだ。動けない以上、レタスな以上、さっきの出来事で風向きを変えて命を死守するしかない。
「いや。俺が声出せばまたあいつがくる。今度は黙らんぞ俺は。あいつの目の前でもばんばんしゃべってやる」
「そんなことしたら見世物小屋行きですよ」
「海の上での船乗りは信心深いからな、喰ったり捨てたりしたら呪ってやるってわめけばどうにかなるかもしれん」
「そんな不確定で希望的観測に頼った道を選んでどうするのですか、一歩間違えれば見世物小屋行きですよ」
「お前に食われる道選ぶくらいなら見世物小屋行った方が万倍マシだっ!!」
思わず本音が出た。しかしあんまり真っ向から対立するのもいい手ではないと思い、俺はなるべく宥める方向で
「な、さっきの奴の言葉を思い出せよ、もうすぐ港に着くんだろ。もうすぐ港に着くってことはあれだろ、野菜食べ放題、お前もうなんでも好きなだけいっくらでも喰っていいんだぞそらもう見たらいやになるくらい浴びるほど。俺はなにも不可能なほどの無理をお前に強いちゃいないぞ」
「……」
メイスの瞳が少し考え込むように揺れた。
「食べ放題、ですか」
「そうだっ!」
あ、やべ。思わず勢い込んで食いついてしまった。駆け引きがなっちゃいねえな。
メイスはしばらく考え込んでいたが、やがてにっこりと笑って
「そうですね。分かりました、レザーさんは食べないでおきます」
俺にとっては注がれるその笑みが天使のように見えた。けれど赤い目はいまだにちょっと俺を物欲しげな色を宿して眺めながら
「だってレザーさんはいつでも新鮮にもつのですから、非常食としてもう少しとっておいた方が合理的ですよね。かわりに今だけしか新鮮でない野菜を食べる方がいい。先見の明という奴ですね」
うまくいって嬉しいが、ちょっと涙が出そうになったのはなぜだろう……
風が少なく、穏やかな海だった。帆は物足りなさそうに垂れて速度は欠伸がでるほど微々たるものだが、波が優しく揺れる音が子守唄のようでついついと眠りに引き込まれる。暗い海は静かに脈動を繰り返して、月明かりが青白い艶を黒い表面に浮かばせた。
「ってわけなんだよ、ラブスカトル」
話し終えた後のスリアラーは、どこまでもすっきりとしない顔をしていた。からりと竹を割ったように単純明確な性質を持つ男故に、はっきり白黒がつかない物事にどうにも居心地が悪いのだろう。
「お前だけじゃない。あの客へは他の連中も大なり小なりの疑惑を持っている。――が、そうまではっきりと別人の声を聞いたというのはお前がはじめてだな」
「けど、あんな狭い部屋に人間かくまうなんて無理だろ。密航者ってのも考えたがよ」
「今回はまだ長い航海ではないが、不確定要素を持ち込むのはまずい」
だが、と言い切り
「害はない、と思う」
静かに言ったラブスカトルにスリアラーは少し意表を突かれたように
「なんか根拠でもあるのか?」
「ない。今のところは」
よほどの凪でもなければ、船の上が静止していることはありえない。絶えず緩やかな揺れを繰り返す甲板を歩み、ラブスカトルは手すりへと背をかけた。
そのまま考え込むように、細い目をさらに細めて空を見上げる。空の海もまた凄まじい星空をばらまいていた。その星を見つめながらラブスカトルは
「ただ、聞いたことがある」
「なんだ?」
「旅の、白い魔導師の話だ。赤い瞳に白い髪を持つ少女と聞く。名は知らないが」
「そ、それなら俺も聞いたことがあるぞっ、盗賊倒したり人救いやってるって言う……」
言葉の割にはスリアラーの顔が歪んだ。
「魔導師かよ……」
その迷信深さも手伝って船乗りは魔を操る者全般を意味もなく嫌う性質がある。
最近になってようやく薄れてきたものの、長年こびりついたものの残り香はしぶといものなのか、船に女を乗せることへのかすかな抵抗も手伝って、たとえそれがもたらすものは善だとしても女魔導師という存在は、この男もすんなりと受け入れがたいようだった。
「まだ、決まったわけではない。無責任に広めるなよ」
「でもよ、もしそうだったらたまんねえよ。気付く奴だって出てくるだろ。次の港で降ろした方が」
ラブスカトルが、とりあえず意見を払いのけるよう手を振った。その物憂げな態度に、スリアラーは彼は彼なりに考え答えを出そうとしているのだと気付き、思考の邪魔をせぬ方が良いと判断してきびすを返しかけた。
が、ふと躊躇いが足を動かさせることを拒み、やがて鼻の下を落ちつかなげにこすり
「あのよ……ちょっと、これは他の奴には言えなかったんだがよ」
「なんだ?」
「その、俺の聞き間違いかもしれねえが、あの、聞こえた声、そのな、聞き覚えがあったような気がすんだ」
ラブスカトルが視線を夜空からスリアラーへと戻した。
「誰だ?」
スリアラーは再び躊躇い、自分が馬鹿なことを口にしていると彼も半ば悟っているためか、歯切れが悪く
「――兄貴の声、だって聞いた時、咄嗟に思ったんだよ」
一笑されるかと思ったスリアラーの予測に反して、ターバンを頭に巻きつけた細目の男は笑わなかった。かすかに右頬をゆがめると、細い目が妙な具合につりあがった。
「あいつか。」
「いや、いくらなんでもここいらは俺の取り違えだとは思う、ああ」
まともに受け入れられて、逆に申し訳なくなったようにスリアラーが否定へと傾く。他の船乗り達に負けぬ筋骨隆々としたその巨体が今は小さく見えた。
「わりいな、変なこと言っちまった。俺、見張りに戻るわ」
そそくさと背を向けたスリアラーへとそれ以上は追及せずに、再び星空を見上げて思考を広げる。月は下弦の月だったが、半分以上膨れてまだ情緒を感じさせるほどに細くなってはいなかった。
目を閉じれば波の音が聞こえる。ちゃぷちゃぷと液体が揺れる特徴的な音は意識を区別せずにどこまでも奥深くまで染み込んでくるようだった。
時が凝る世界の中でしばらく思索を試みながらも、結局に身のある収穫を得られず、ラブスカトルは身を預けていた手すりから離れて、船室に戻るかと揺れる甲板を踏み出した。
そしてふと自然に船室の影に隠れて今までは見えなかった、向こう側の手すりに誰かが腰掛けているのが見えた。
人影は全く無防備な体勢で、その手すりに片足をあげてもう片足を甲板につき、海を見下ろしていた。
ぐらりと一つ大きく揺れれば海にすぐに落ちてしまいそうなそれにも関わらず、その人影はごく自然に身体の力を抜き、不思議なことに愚かさを悟っているはずのラブスカトルの目にも不安定な体勢を保つ人影が危ういようには思えなかった。
星がばらまかれ、月もまた煌々と照らす。けれど船室の影にすっぽりと収まって、影の中に人型のさらに濃い影を残すだけで、依然として全容は見えなかった。それもあの港でゆっくりと歩み出てきた姿をすぐに思い起こさせた。
「波に星は映ると思うか?」
まるでごく自然にするりと声がした。その言葉から、ただ一つの確信を覚える。スリアラーの耳は確かだ。
影の首筋から一つにくくられた髪が揺れた。人影はまた手すりの先の海へと視線を落としたらしい。そして問いかけへの答えはこちらに期待せずに自らで放った。
「映らない。船乗りが空見てて、海の異変に気付かなけりゃ笑われるぜ」
視線を外さないままに、ラブスカトルは位置を移動させて脇へと寄った。そして警戒をとかぬままに暗き海へと目を落として、細い目に鋭いものがよぎる。
そこからのラブスカトルの行動は素早かった。梁についた見張り台への連絡管を引っつかんで口を近づける。
「見張りっ! 何をしているっ、貴様は目を閉じたまま見張りを続けられるとでも思っているのかっ!」
張りのある声で怒鳴りつけると、寝起き直前の慌てて飛び上がったような無様な声がした。やはり眠りこけていたらしい。
怒声の半ばは自分にも向けられていた。いくら今は交代ではなく見張る義務はラブスカトルにないとしても、一介の船乗りが海の異変を素人に教えられては堪ったものではない。
見張りがようやくぎょっとしたようにカンカンと鐘を鳴らした。夜の海に響くそれに、今まで静まり返っていた船室から慌ただしい足音が聞こえてきた。先ほど戻ると言っていたが、もう見張りの任は交代したのだろう、船室から真っ先に姿を見せたのはスリアラーだった。
「どうしたっ」
「下を見ろ」
それだけ言い放たれた船乗り達が、われ先にと手すりへとしがみつき下をのぞいて、一様にあっと声をあげた。暗く静まった海が、その様子を一変させていた。
とにかくに異様の一言に尽きる。夜の中に広がる、葉の上に溜まる闇のよう濡れる海にぼんやりと青く浮かび上がる幻想的な光が現れ、ふらふらと波の中を浮いていた。それも一つや二つの数ではない。
普段生活する分には到底そのような色合いは目にすることがない、はっきりとしてどこか毒々しい不自然な青い光は無限とも思える海の中を、見渡す限りびっしりと敷き詰められていて、しかも続々といまだにその数を増しているようだ。
それが生み出す光は束となり、一つ一つの光量は弱くともあまりの多さに覗き込んだ船乗り達の顔を青白く照らし出すほどに膨れ上がっていた。
ラブスカトルは、脇で小さく息を呑む音があがったのに気付いた。見ると、スリアラーが厳しい顔でじっとある一点を見つめている。その視線の先をたどり、すぐに対象を見つけた。どやどやとあがってきては覗き込む船乗り達の中に、騒ぎに気を引かれたのか白い髪の少女が顔を見せていた。
彼女は少し視線をあたりに彷徨わせ、こちらを見ているラブスカトルとスリアラーに目が合うと、妥当だと思ったのかラブスカトルに小走りに近づいてきた。
「なにごとですかー?」
「イカだ」
スリアラーが何かを言う前に、ラブスカトルは口早に答えた。簡潔な答えに、少女は面食らったように印象的な赤い瞳を少し細めて
「イカ……ですか?」
「ああ。センコウイカという種類のイカだ。身体に発光器を持っていて、光を放つ習性がある」
普通の少女とは一風変わった落ち着きを持っていて、船の上で起こる何事にもたいした興味を見せなかった少女も、さすがに少し心を引かれたように、揺れる甲板に歩きにくそうにしながら手すりに寄って下を覗き込んだ。青白い光がのぞく少女の顔を不気味に下から照らす。
けれど、屈強な船乗りでも知らぬ者がはじめてみれば狼狽する、圧倒的なセンコウイカの大群もそうまで少女の気を長く引いてはいられないのか、彼女はすぐに顔をあげ
「それで、なぜこんなつまらない軟体動物ごときで私が安眠を妨害されるような騒ぎに発展しなければいけないのですか?」
少女のその横柄な口調と内容は、確かに一般人が無責任に想像する、大魔導師のそれと一致する。他にも身分の高い少女のものともとれるが、頓珍漢なその丁寧さはどこか上流階級の人間と相容れぬものがあるような気がした。
確かにただの少女ではないな、と思いながらラブスカトルは、何か言いたげに少女をじっと見つめるスリアラーを目で制して
「イカ自体に脅威はない。喰えばうまいくらいだ。ただこいつらが大挙して、光出すとき。それは、」
そこまで口にしてふとラブスカトルは先ほどのことを思い出して、言葉半ばで辺りを見回したが、走り回る同僚達の隙間、あの手すりの場所に人影はすでになかった。
それまで揺りかごのように穏やかだった、海上にびゅうと強い横風が吹いた。その横風がどこからか雲を吹き飛ばしてきたのか月が陰った。ライバルが消えたせいか、暗い海の中の青白い光がいっせいにその強度を増す。
「お前のせいか?」
はっとして視線を戻した。スリアラーがどこか脅えたように少女に尋ねていた。
「これは、お前のせいか?」
「なにがですか?」
少女はあまり打ち解けてはいないものの、本当に分からないように聞いてきた。その表情にこの少女は無実なのかもしれない、とラブスカトルは少し思ったが、スリアラーはなおも海を大きく指し示し
「このことだよ」
幸いに他の船乗り達は、走り回りやがて来る事態に備えて、これらのやりとりを聞いているものは一人としていない。少女は不愉快そうに眉根を寄せて
「つまらない軟体動物がこのように無意味に集まって習性として光っていることがどうして私の仕業と結びつくのかあなたの思考回路は全く理解不能です。行動を起こすにはそれに伴う動機が必要であり動機が湧くには自らへの利になることが存在しなければなりません。この軟体動物が集まり光ることがいったい私の何の益になるのか私には到底思いつかないのであなたにお聞きしたいくらいですよー私にはこうして騒がれて眠っていたところを起こされたという不利益が一つ生じたことしか思いつきませんね」
一部に妙な語尾の延ばしがあったが、全体として息もつかせぬ早口だった。
スリアラーは唖然としていたが、少女の言うことは正論で、そして前提としての事象が一度も姿を見せぬ限り、彼女はこれから先の出来事を全く感知していないようだった。
「仕事に戻れ、スリアラー」
背中を叩くと気が抜けたようにスリアラーがかけていった。悲鳴のように自分を呼ぶ声にラブスカトルは顔をあげ、少女をちらりと見ると「船室に戻っていろ。イカと一緒に泳ぐ意志がないならな。」ときびすを返しざまに告げた。
その指示に少女は迷惑そうに髪をかきあげて
「一体なんなのですか? いい大人がこのような光る軟体動物一つに大騒ぎを起こして」
「このセンコウイカが大挙する時、それは」
風が張り倒すような勢いで横から押し寄せ、咄嗟にラブスカトルは再びきびすを返し無防備に立つ少女のそばに駆け寄ると、その細い腰を片手で引っつかみ、あいた片方の手で手近な柱にくくりつけたロープを掴んで身体を固定する。
「なっ……」
荷物のように担ぎ上げられた、唐突なこちらの行動に、少女が何か声をあげるよりはやく、大きな波が一つ、船の横っ腹に真正面から激突し、どーんと音がして船体は大きく横に傾いた。無防備な体勢でいた船員達が甲板に転がる。
そして傾いた反動で再び船が反対の方向へと大きく傾き、転がる船乗り達は死に物狂いで伸ばされたロープを掴んだ。
わずか数秒で戦場と化した甲板で、こんな少女をかばっておける余裕は何一つもない。有無を言わせずに少女を引きずり、船室に押し込めて、ラブスカトルはそのドアを鼻先で閉じる寸前に言った。
「嵐の前触れだ」