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完結後番外編「奇病とキャベツと緑の目!」下


 唐突だが、とある昔歌を知っているだろうか。

 ある日、女の子が森の中に出かけていく。森の道には花が咲いている。そこで、女の子は熊に会う。

 ここは森じゃなくて山だし、新緑の季節は花も咲かず緑が鮮やかなだけだが。

 でも俺はその歌を思い出したのだし、知っている人間がいればそれを思い出してほしいと思う。

 さて、奇病にかかった双子の要請を受けて、母親探しに山に入ってたつこと数刻。タガが外れたハエのように飛び回っていたメイスの鼻はそれを捕らえた。木々の向こう側を赤い瞳でじっと一瞥して、人間のにおいがします、とメイスは言った。

 あの双子たちがそれを知っていたわけないが、山でも森でも人探しをするならスペシャリスト中のスペシャリストに頼んだことになる。形のいい小さな鼻がくんと動けば間違いなく探し人を突き止める。

 においをたどりながら山頂を越えて、突然緑が切れて現れるせり出した岩壁から、メイスは大胆に身を乗り出した。また鼻をひくつかせて、真下を迷いなく見る。迷うことなく一直線にたどりついたそこに。

 ここで冒頭の歌の話に戻るが、森のくまさんとお嬢さんがいた。

 ちょうど真下から確認したもんだから、最初それは本当に熊だった。熊の頭があって熊の肩がある。それが盛り上がって仁王立ちになっている。これで熊でないならなんだ。

 しかし、俺と同じ見下ろしたメイスの赤い瞳にチッと険が走ったのは気のせいではない。それを確かめる隙もなく、メイスはひらっとひとっとびで身を乗り出した。普通なら自殺志願者の所業だが、せり出した岩のあちこちに少しずつ足場を確保しながら数刻後にはもう熊とお嬢さんと同じ地平、岩壁の途中にできた半平方リーロルほどの小さな岩棚に立っていた。

 尋常ではない高さから尋常ではない動きで降り立ったメイスを、熊はたじろいで、その場に腰をついていたお嬢さんは反応なく見つめた。

 俺たちも近場で二人を見て、やや認識を改めるしかなかった。

 熊は熊皮を頭からかぶったごつい大男だった。ちょうど頭の辺りにぱっかりと開いた熊の口がくるようになっていて(ちょっと見、頭からかぶりつかれているようにも見える)それが頭巾のように顔の上半分を覆いつくしている。熊の目であったところにあいた穴から、目が光っている。

 異様なその風体も、たくましい腕や隆々とした体躯には妙に似合う。メイスの目に険が走った理由がわかった。まだメイスの心情は野生動物に近いから、俺たち的に言えば人間の生皮(う、うーん)を被っている、と近い感覚なんだろう。まあ、どう見ても猟師だな。

 たいしてその傍らに座り込んでいたのは、お嬢さん――に見えたが、間近で見るとちょっとトウがたっている。若いことは若いが、もう少女と呼ばれる年ではないのだろう。細い銀髪に大きな青の瞳の、線が細いなかなかの美人なんだろうが、童顔が老けた、という印象もなきにしもあらず。まさにトウがたった美少女だな、こりゃ。

 彼女は白いローブをまとっていたが、どこかに引っかけたのかあちらこちら裂けて髪や手足も汚れている。極めつけはローブの下からのぞくローブと同じ色の細身のズボンにくるまれた足。土に汚れた足は膝の所が破けて赤い血を流している。手が足首をおさえているので、おそらくひねったのだろう。

 小さな棚におりたったメイスと熊のおっちゃんとトウのたった美少女、三者は顔をあわせ、そして沈黙が落ちる。しばらく待って、おい、なんかしゃべれ、と思うのだが熊男はしゃべらないし、トウのたった美少女も座りこんでメイスを見上げるだけで、メイスは単に熊男の存在が嫌なように顔をしかめるだけだ。

 第一声が俺って、まずいだろう?

 しかし俺の心の声にも従わず徐々に沈黙我慢大会みたいになってきた場に最初にギブアップの声をあげたのはトウがたった美少女――銀髪の姉ちゃんだった。

「あなたは何者ですか?」

 メイスは即答はせずに、ちょっと気に入らなさそうに二人を見返したあと答えた。

「この山にある村の方に頼まれてここへ人探しに来た者です」

 じっと青い瞳の姉ちゃんはそれを真剣な顔で聞いていた。瞬きひとつせず。

「人探し? どなたを?」

 その様を見てて、この人じゃないのか、と俺はナップザックのふちで、メイスにだけ聞こえるようにぼそっと言ったつもりだった。

 が、突然俺の頭に太いたくましい手がばっと振りかぶり、気づいたときには、メイスのナップザックから俺はずぼっと持ち上げられていた。

「なっ……!」

 いきなりつかみあげられて俺は思わず声をあげ、それ以上にメイスがカッと敵愾心に満ちた目を剥いた。

「かえしてください!」

 しかし熊男はじっと熊の下に隠れた顔に俺を近づけてにらんでいるらしい。その態度には俺もむっとした。

「ずいぶん上等な挨拶だな、熊男。山暮らしで礼儀を知らないは、人を掴み上げる言い訳にはならないぜ。さっさと離せ」

 熊男はそんなに驚いた様子はなかったが(なにしろ熊皮の下だ)座ったままの姉ちゃん(母ちゃん?)は明らかに驚いたように目を見開いている。

 一瞬の緊迫感は、しかし熊男の手がぐっとメイスの方に伸びて、無事に俺を両手に戻してくれたことで終わった。それから熊男はわびのつもりか小さく頭を下げた。

 やれやれと息をつく暇もなく、下方から遠慮なくぶつけられる視線に気づいて目をやる。白い頬をばら色に染めて姉ちゃんは小首をかしげて言った。

「妖精さん?」

 あ、既視感。脳裏を緑の髪のアンリ姉ちゃんの姿が駆け抜ける。

 メイスも同じように思ったらしい。

「私の探し人はサラ・フィールドさんです。あなたですか?」

 その言葉に姉ちゃんは、一瞬、とても無反応だった。

「違うのですか?」

「申し訳ないのですが、断言できないんです」

 変な返事に俺とメイスは顔を見合わせ、メイスは言った。

「あなたの名前はなんなのですか」

 その言葉に美人は少しためらいを見せたあと、首を横に振って言った。

「それがわかれば……困っていません」




 気づくと、この崖の上にいました――……

 そんな文句を皮切りに、謎の姉ちゃん(母ちゃん?)の話は始まった。

「痛かったのでそちらを見たら、膝が怪我をして、足首をひねっていました。動けないな、と確認してから気づきました」

 何もわからない。ということを。

 ――……。

 途方に暮れる、というのはこういうことだろうか。

 山に入って双子の母ちゃん探し。すまんぶっちゃけ楽勝だと思ってた。実際楽勝だったさ……

 母ちゃん、記憶なくしてる。

 この一事を家で健気に待ちわびている子ども二人にどうやったら衝撃なくして伝えることができるか。できねえよ。持ち帰っていいものか。いや確実によくない。考えるだけで救いようがない事態に直面して、しばらく考えた後、俺は急に矛先を変えた。世間的には狭義の意味で逃避とか放り投げとか言うかもしれない。一時的な、だ。

「なあ、で、あんたはなんなんだ、あんた」

 視線の先には熊男がいる。

「あんたはなんでここにいる。この人と知り合いなのか。何があったのか見ていたのか?」

 俺の問いかけに熊男はぬぼーっと立ったまま、何も言わなかった。無口結構だが、人間、しゃべらにゃいかんときはしゃべってもらわないと困る。

「オイ――」

「待ってください」

 小さな声が俺の苛立ちが混じった声に差し込んだ。

「覚えてないのですが、最初に目覚めたとき、崖の上から呼び声が聞こえて、それから降りてきてくれたんです。足も診てくれましたし。何もしゃべりませんでしたけど、熊さんは私を助けてくれたのだと思います」

 思わぬ援護にも熊男は何かを思い出しているのか沈黙のままだ。

「わかんねえぞ。あんたのその状態じゃ。もしかして上から突き落としたのはこいつかもしれないし」

 すると意外なことに熊男の肩が震え、何かを考え込むように少しうつむいた。

「それは違います」

 まるでかばうように姉ちゃんがはっきりと言う。なんで、と聞くと、不意にはにかむ子どものように笑った。

「森の熊さんは親切な熊さんだって決まってます」

 ここは山。

 どうでもいいツッコミだったので口に出さずに、ふと俺の脳裏に行き際にアンリ姉ちゃんが言った言葉が蘇る。

 ――あの、私たちが言うのもなんですが、母は結構若くてその、もてないこともないんで……

 なるほど。猟師っぽいから、これがそうなんだろうか。んなこと考えていると、メイスがじーっと熊と姉さんを見て、それから何かに呆れながら了解したようにかすかにうなずくのが見えた。なんだ? なにがわかったんだ?

 俺が問いかけようとしたとき、急に熊男がそれまで組んでいた腕をといて、注目を集めるように両手を振り、とりあえず視線が集まると上を指した。

 登ろう、とでも言いたいのだろうか。確かにいつまでも居ていい場所ではないだろう。見上げると、まあメイスじゃなくても、人間でもへばりついてなんとか登れるかもしれない。が、俺はまだ座ったままの母ちゃんを見る。明らかに足をくじいている。メイスの技で浮かべるしかねえか、と思ったとき、すっと熊男はサラ母ちゃんの前に背を向けてしゃがんだ。何も言わないが、状況とその体勢から背におぶされと言っているのはよくわかった。姉ちゃんもそれを理解して慌てたように片手を振った。

「そんな、自分だけで登るのも大変なのに、できません」

 しかし熊男はゆっくりと数度首を横に振る。メイスも何も言い出さない。言ったものの、サラ母ちゃん的には申し訳ないがそうしてもらうしかない、と感じ取ったのだろう。おそるおそる肩に手をかけた。そうすると熊男と母ちゃんの身体は一回りも大きさが違う。

「重くありませんか?」

 母ちゃんがおずおず聞くと、熊男はまた数度ゆっくり首を横に振り、立ち上がってがしっと岩にはりついて、登っていく。

 おお、やるな熊。

 俺とメイスが見上げる前で、熊男はひと一人背負ったままゆっくりと着実に登りきった。メイスはふん、とつまらなさそうに鼻を鳴らして、膝をまげて跳躍し、かすかな足がかりでさらに飛んであっという間に、登りきった熊とその背からおりたサラ母ちゃんの横に着地する。

 熊の背から降りたサラ母ちゃんは戸惑ったように。

「あ、ありがとう。もう大丈夫ですから……」

 と口ごもって自分が立とうとするが、ひねった足を使ってしまったのか、いた、とうめく。それに熊は同じようにしゃがんで目線をあわせ、無理だという風に手を横に振る。そして再び広くたくましい背を向ける。情けない顔をしてサラ母ちゃんはその背につかまると、恥ずかしそうにたずねた。

「私、重くありませんか?」

 すると熊は肩越しにこちらを見やって、熊皮の下に現れた口だけでふっと笑った。

 か、かっこいいじゃねえか。

 男の俺ですらどきっときたのだから、サラ母ちゃんも顔を真っ赤にして。

 して。

 あれちょっと待って頭を冷やせ。母ちゃん記憶なくしてる、という事態からさらになんかまずい方向に移行していないかこれ。頭を冷やせ、という俺の要請に応えるように、不意にサーと涼しげな雲が空を渡るような音がして、冷たいものが俺の葉に落ちる。

 雨だ。

 雲などなかったと思ったのに、山の天気って奴は。

 すると担いだ熊男が立ちあがり、俺たちに向かって指で後方を示して見せた。何か心当たりがあるのだろうか。仕方ないのでメイスもついていこうとする。俺はナップザックのふちからふと先ほど熊がよじ登った崖を見た。

 すでに水滴に濡れている岩肌を見ていると、先刻の熊を思い出す。濡れた岩肌を登るのは危険だし、骨が折れる。まさか熊は近々雨が降ることを悟って登ろうと提案したんだろうか。え、いやあるのかそういうこと。山男だから?

 わからないままに、ナップザックのふち、メイスの肩先に見える母ちゃんを背負った熊の背中は頼もしいものに映るようになっていた。




 山の熊が俺たちを連れていったのは、山腹の茂みにその入り口を隠されていた狭い横穴だった。熊の巣穴だ、と思ったがそれも誇張ではなく、明らかにこの洞窟は熊のものだったのだろう。熊は、洞窟の奥から乾いた薪や火打ちを取ってきて小さな焚き火を作ってくれた。入り口こそメイスも腰をかがめなければ入れないが、中は熊さんでもぎりぎり立って普通に歩けるほどの高さが広がっていた。

 冷たい雨の後の火の色は何よりもほっとする。洞窟の中の焚き火だが、煙の逃がし方も絶妙で熊の玄人ぶりが光る。これまでも何も言わないが、不言実行を体言したかのようによく働く男だ。最初はいきなりつかみあげられてなんだこいつは、と思ったがサラ母ちゃんが言ったとおり、森の熊は親切だ。

 熊は火をつけおわると、腰にくくりつけていた皮袋から、乾した何かの赤い実を取り出していくつか差し出してくれた。俺はレタスでメイスはふんと首を横に避けたので食べなかったが、サラ母ちゃんはせっかくだからと手を差し出した。食べ慣れてないのかカリカリとリスのように少しずつ実をかじるその白い頬が赤く染まっているのは、焚き火に照らされているからと思いたいが。

 雨やどりのため期せずしてこう見知らぬ者同士狭い洞窟で膝をつきあわせているのだから、つもる話が――と思うが最初にあった時と同じようにこの三人では見事に話が弾まないので、仕方なく不肖俺がメイスのナップザックから出てきた。

 この際、母ちゃんの染まった頬は忘れよう。ともかくここはどこー私はだれーな状態になっているサラ母ちゃんを健気に待っている双子のところになんとか今よりはもう少しましにして連れていかねばならん。

 記憶喪失なんてサーガや大衆劇じゃ都合よくなるもんだが、現実でおこったときは頭が痛くなるようなタイミングで出てくるもんだ。

 サラ母ちゃんがカイが恐れていたように町にいなかったのは喜ばしい。子どもを捨てて男と逃げた、なんてよくある話かもしれないが、当事者の子どもにはつらすぎる。しかし、記憶をなくしてしまったことだって相当きついだろう。幼い顔したこの母ちゃんは現在、自分の子どもの名前も知らないのだ。

「アンリとカイ。あんたの息子と娘の名前だ。レストの村であんたを心配して待っていた」

「アンリと、カイ」

「俺たちはその二人に頼まれてあんたを探しにきたんだ」

 思わず熱が入った俺の前にさっと太い腕が横切る。熊だ。いや。もうクマさんにしようかこれ。というクマさんは俺を見て首を横に振った。見ると母ちゃんは頭を抱えてうなっていた。はあ、とため息が聞こえたのでそちらを向くと、メイスが諦めたように目を細めていた。

「少し、時間を置くしかないでしょう。一時的に記憶が混濁しているだけかもしれませんし」

 メイスが口を開いた。……そうだな。母ちゃんは顔をあげて、失礼しました、といった。

「私の、その子どもかもしれない二人に頼まれて、この森に入られたと」

 山だろう、とは思うがまあどうでもいいのでうなずいた。

「その、どうして私は、私の子どもかもしれない二人を置いて、こんなところに?」

 俺はちょっと考えたがもう素直に話すことにした。緑葉病のこと。それを助けるためにこの山の中に一人入っていったこと――。

 改めて口にすると、この細っこい母ちゃんが単身子どものために山に入り込んでいったんだ。そりゃ慣れてたんだろうけど、どういうことか崖まで落ちちまって。母の愛は深いな。

 話を聞いて母ちゃんはさらに困惑したように少し身体を震わし始めた。夢見がちで繊細そうな母ちゃんだ。アンリの時たま妙に手荒なところとカイの負けん気は父親ゆずりなんだろうか。

「私の……か、神さまに、その貢物を――?」

「それは気休めの問題であると思いますよ。呪いではありません」

 震える声に揺るがぬ台詞がかぶさった。声の方を見るとメイスがつまらなさそうに腕を組んでいた。

「たたり、というのはあるかもしれません。多分、私たちが言うところの「呪い」でしょう。しかし、今回のあれはそんなものじゃありません。呪いというのは複数に及ぶにいたっては必ず同時なんです。一人ひとり順番に広がっていくなんて、ないです。あれは病です。れっきとした。感染源は山にある、という見解も正しいでしょう。野性の獣には人間の中にはない未知の病原を持ったものもいるので、それと接触して病を得たと思ったのですが、話を聞いたところそういうことはないと仰っていました。けれど、カイさんはイチゴ摘みの途中で指を怪我しています。村の状況から考えると空気感染の線が濃いですが、もし動物からなら血液を媒体にしてうつる可能性もあります」

 さすがに一晩限りとは言え、研究者。メイスは一気に言い放った。しかし、研究者然としているためか門外漢にはわかりかねる。

 母ちゃんもついていけないのか目をぱちくりとさせている。反応があったのはクマさんからだった。

 クマさんはとんとんとメイスの肩を無骨な指でつついて、うん、と何かをうなずいてちらりと母ちゃんの方を見た後、メイスの耳元で「……知っている」というやたら低い声でつぶやいた。しゃべれたのか、クマさん。しかしこいつがしゃべったらこういう声だろうな、と腹に響くぴったりの声だった。

「何をですか」

「……場所」

 低い低い声でクマさんはもう一言いった。しかし、低いのは地声なんだろうが、なんだか無理に声をひそめてなるだけ出さないようにしているしゃべり方みたいだ。シャイとかもともと無口というより、気をつけてしゃべっているような……。うーん?

「カイさんがイチゴ摘みをした場所ですか」

 クマさんはこくりとうなずいた。メイスが言い当ててくれたので、それ以上しゃべらなくてすんだ、と心なしか安堵しているようにも見えた。メイスはちょっと考えた。

「行ってみませんか」

 その横からおずおずと声をあげたのは母ちゃんだ。

「手がかりが何かあるかもしれませんし」

 記憶にはなくても、さすがに自分の子どもと言われている相手の病は気になったらしい。メイスはそれ以上は特に考えなかった。

「そうですね」

「雨がやんだら行くか」

 俺もつぶやくと、母ちゃんは不思議そうな顔をした。

「妖精さんは雨を止ませられないんですか?」

 無理だから。




 梢から落ちてくる冷たい雫に時たまぎゃっと悲鳴をあげそうになるが、まずまず上出来な雨上がりだった。足下はぬかるんで靴や裾を容赦なく汚していくが、それは仕方ない。もしサラ母ちゃんが自分で歩けたらぬかるみに足をとられてやっかいだったかもしれねえが。

 森のクマさんの背におさまって、クマさん自身の足取りはさすがにメイスのようなスピードは出せないもののしっかりしている。

 それにしても屈強なやつだ。別にサラ母ちゃんが重いとは言わんが(女に対する3禁句ぐらい俺だとて承知している)ひと一人背負っての山越えだ。俺だってやれと言われれば仕方ないからやるが、クマさんくらいの安定した足取りと速さを出せるかというと否だろう。まあ山歩きの経験値も加味されるだろうが。

 メイスも靴や裾の汚れからは逃れられないが、依然として変わりなく俺たちはそう困難なこともなくあっさり山道に突き当たり、木々が開けた穏やかな丘のようになっている傾斜に出た。梢の雫が光に反射してまぶしい。白くすがすがしいそれに、俺はまだ朝の分野に入るんだよなあと改めて思った。薄暗い洞窟で一息ついたせいで時間感覚があやふやだ。

 なだらかな丘に自生した、野いちごの大半は終わっていたが、おそい実がまだ少し顔をのぞかせている。

 母ちゃんをそんなにぬかるんでいない木の影の下、はぎとった己の上着の上に座らせて(紳士だ)身軽になったクマさんがじっとメイスを見る。

「とりあえず、実と葉と枝は私が採取します。あなたは動物の糞でも探してください」

 雨でなければ手間どらなかったんですが、とメイスは少し不満そうに言った。山を洗った通り雨は野いちごを食べに来た獣の臭いも洗ってしまったらしい。

 クマさんはメイスの指示にうなずいて、しばらく黙々と俺たちは付近を探索していたのだが。

 しばらくたった時、突然キャッと短い悲鳴があがった。なんだ、と見てみるとびっくりした母ちゃんとその手首をつかんだクマさんの姿が見えた。

 母ちゃんの膝には瑞々しいいちごがこぼれている。ぐっと掴んだクマさんは厳しい感じで慎重に母ちゃんの膝のいちごをはらった。それからクマさんはそっと母ちゃんの手を離す。母ちゃんはどきまぎと俺たちとクマさんの両方を見ながら

「そ、その、可愛かったので、ちょっとつまもうとして……」

 オイ、かーちゃん。

 危機感ねえのか、感染源かもしれねえんだろ、ここが。

「まあ、野いちごを食べて感染という可能性は薄いかもしれませんが、不用意に手を出さないでください」

 メイスの言葉に母ちゃんは恥ずかしそうにうなだれた。するとさっきまで厳しく接していたクマさんが、ぽんぽんと母ちゃんの肩を軽く叩いて探索に戻る。母ちゃんの目からはしょげた色が払拭される。

 ん、んー。

 さて、太陽がちょうど中空に来たあたりで俺達の探索もひと段落した。ここによく来てるらしい獣もある程度特定できた。

 やれやれと一息ついてさあ、そうしてひとつ終わった以上は次の段階に進まなきゃならないわけだ。いろいろ気がかりなことはあれど、まさかいつまでも山の中にいるわけにはいかない。

 双子の元に記憶喪失の母ちゃんを連れていく、というのは気が重いが帰りを長引かせて不安を募らせさせるのもよくないだろう。人間、最後は生きてりゃいいや、と思うもんだし。母ちゃんだって怪我してるのだから、いつまでも山の中にいるわけにはいくまい。

 メイスは全然反対せずに母ちゃんもちょっと不安そうだったが別に異論を唱えるほどではない。クマさんは例の通りなんも言わなかったのでかまわず出発した。

 けれど俺達はその日、村にはたどりつけなかった。どうしたことかクマさんが道に迷って、まるで方向感覚が狂った末に、山の峰に近い所に建ったほったて小屋にたどりついて、結局それ以上進めずに一晩すごすことになったからだ。




 春から夏へゆっくりと向かい始めた季節とは言え、山の夜はひどく冷える。温かい空気がすべて空に帰ってしまうからだ、と言ったのは誰だったか。冷たい大気はよく澄んでいる。

 尾根の岩陰に隠れるようにして建ったほったて小屋は石造りのなかなか頑丈な造りをしていたのだが、いかんせん狭い。人間が二人入ればいっぱいになってしまうだろう。隅に積み上げられていた干し草をベッド代わりに、サラ母ちゃんは今は中で眠っている。怪我の手当をされたあと、疲れが出たんだろう。

 俺は小屋のそばでちょっと空を見上げていた。降るような星空、とはこういうものか。阻むことのない空は間近に迫って、無数のきらめきをちりばめている。一縷の望みをかけて月の入りを待っていたのだが。

 ……ちくしょう。

 葉を揺らして俺は悪態をつくしかなかった。今回、もしかして俺はオールレタスか? 棚のほこりをはたきではらっていたのを最後に? オイ。性悪魔導師。馬鹿先祖の顔が気に入らなくたって、子孫にあたるのはやめてくれ。

 星の輝きとは異なって人生は無常だなーと俺が哲学していると、不意にその巨体のわりにはとても静かに傍らにクマさんが来ていた。クマさんは俺が星を見ているのに気づいたのか、ちょっと同じように空を見上げて、一点を指し示した。クマさんの無骨な指の先にはひときわ強い青白い光を放つ星がある。俺が見やるとクマさんがすっと指をその星の下におろした。山裾には深い闇がたまっている。

「……あそこに村があるのか?」

 クマさんはゆっくりうなずいた。――そうか。フィスの星か。季節や時間の変化でも移動することがなく、常に東を指すと言われている。物知りなクマさんだ。明日から冒険者でもやっていける。俺はなんとなく先ほど小屋で母ちゃんの足に応急処置をしていたクマさんの様子を思い出す。あの時も見事な手際だった。

「よく寝てたか?」

 俺の問いに主語はなかったが、クマさんは闇が溜まるふもとを眺めながらこくりとうなずいた。

「なあ、あんたさ。余計な世話だろうし、あんたは何も悪くねえんだけど、あんまり母ちゃんに近づかないでくんねえか」

 クマさんがゆっくり俺を見下ろしたのがわかる。

「俺もさ、人の恋愛に口出すつもりはねえよ。ただ、もうちょい、待ってやってほしい。今の母ちゃんは記憶がなくてさ、不安だし、訳がわかんねえで心細い。あんた頼りがいがあって、いい男だと思うよ。つけこんでるなんて邪推もしてねえよ。母ちゃん未亡人だしさ、一生涯死んだ相手に操たてなきゃいけない、なんて言うつもりねえけどさ。ただ――ちょっと待ってほしい。頼む。せめて記憶が戻るまで」

 どうしようもねえかもしんねえけどさ、夢見る姉ちゃんと泣きそうなニヒリスト志望の弟は今も待っているはずだから。

 今までと同じように、クマさんは何も言わなかった。けれど俺の方にしゃがみこんでぽんぽんと、俺を軽く叩いた。わかったよ、と言っているようにも、それ以外の意志表示のようにも思えた。

 親がいなくなるってどういう気持ちかなあ、と俺は思った。俺はそれを一度も知ることはない。いたことがなかったからだ。クマさんはゆっくりと立ち去ってしばらくしてメイスが来て星明かりの下で俺を見つけた。

「ここにいたんですか、レザーさん」

「んー」

 俺はなんとなく曖昧に答える。するとメイスが俺を持ちあげた。

「時間が惜しいので、調べられるだけ調べてしまいましょう。できなかったら明日の朝はここからお師匠様の悪口連呼で決定です」

「おい、昨日もほとんど徹夜だったろ。今日ぐらい寝ろよ」

 するとメイスは夜の中で目元をきつくさせた。

「レザーさん。病は時間との戦いですよ。今はあの双子が元気だから軽く考えているかもしれません。けれど私はあの双子が一時間後に高熱を出して死んでも意外には感じませんよ」

 突然突きつけられた重さに俺は息をのんだ。

「だって、そんな」

「髪と目の色ですよ。それが変化するなんて、どれだけの細胞が作りかえられているのか見当もつきません。あそこまで変化していたらある意味手遅れと言ったっていいのに。いえ、目の色までは説明がつきますが、髪が――……」

 そこでメイスはふと口を噤んだ。それから何を思ったのか自分の横髪を一つまみ摘まんで一本よりだした。闇にぴんとはられたメイスの白い髪。メイスはそれの根元を掴んで、ちょうど何かで髪を抜くときに引っ張っても痛くないようにした。そしてぷつりとメイスの髪は切れた。

 ちぎれたそれをメイスはじっと見つめて、何かを考えていた。そして赤い瞳に鋭い光が走った。

「徹夜します。ダメだったら明日、東に向って大絶叫です。覚悟しといてください。可能でしたら山はすぐおります」

「わ、わかった。クマにも言っとく」

 それを言うとメイスはちょっと奇妙な顔つきをした。

「山をおりるのは私たちだけです」

「? 待てよ。確かに母ちゃん背負ったらスピードに欠けるだろうけどさ」

「そういうことじゃありません」

 気付かなかったんですか、メイスがきつい口調で言った。

「あの人、今日わざと村に向かわず私たちをここに連れてきたんですよ」




 山頂には朝が来るのが早い。朝日は山端から光の線として最初現われて視界をさっと白に染める。ここまで明確に朝がやってくる姿を見られるのは、この場所だけかもしれない。

 山頂の岩山に、のせられた俺、クマさん、母ちゃんの順に横に並んで、メイスが母ちゃんとクマさんにちぎった羊皮紙を見せて、ここからここまでを、具体的に言いますと全人類の汚物たる靴裏にへばりついた反吐における――から無数に増殖する羽虫のごとき不快指数をもたらす、までお願いします、と頼んでいる。

 そして二人に指導しおわったメイスは俺に向きなおり、最後の羊皮紙の切れっぱしを見せた。

「レザーさんには一番重要な部分をお願いしますからね。私が今まで統計をとった中でもっともお師匠様を嫌がらせた文言です」

 ……

 頭が沸きそうな愛だとか誰も呼ばないはずの愛称だとか一人で叫んでいるはずのそれに対抗している叫びとかが連なっている羊皮紙がある。誰だこんな気の遠くなるような言葉をマジで吐いたやつは。

 ふつふつとわきあがってくるものをぐっと抑え込んで、そして。

「――ダメだったのかよ!!」

 俺の叫びにダメでしたよ!  と負けずにメイスが叫び返した。

「だいたい私は門外漢なんです! 一晩やそこいらで解明できるはずがないでしょうが! お師匠様が遣わしたんですから自分で責任とってもらいますよ! だいたいですね。したいならお師匠様がすればいいんです! どういう気まぐれなのか嫌がらせなのかしれませんがこんな――」

 逆ギレうさぎはさらに憤りの限りを吐き出しつくすかと思ったが(なにしろ二晩徹夜だ)不意にメイスは言葉を止めた。止めて、眉を寄せた。

 赤い瞳が今通り過ぎた考えを振り向いて確かめるようにまたたき、そしてメイスは神妙な顔をした。疲れも憤りも吹き飛んで手を口元にあてて数度ぶつぶつと言った。

「? メイス、どうした?」

 俺の呼びかけにメイスはちらっとこっちを見て、そうしてまだ幼さも残る顔に一気に理解がはじけた。

「レザーさんっ!」

 すごい勢いでもちあげられて、メイスの顔が間近に迫る。うさぎ娘は次の瞬間、すさまじい発見をしたかのごとく叫んだ。

「お師匠様は性格が壊滅的です!」

 知ってる。

「その行動所業の八割方の動機は嫌がらせです!」

 メイスの声が朝の山に響く。いまさらそんなことを言ってどうするのか、という言葉に俺は無言だ。まさか今日の今まで心の底では善人だと思っていた、なんてオチではねえよな。

「ですが2割――いや2割弱――1割程度はかろうじて! 目的があってなしているんです。その目的とはなんでしたか!」

「……フィナート山の竜を倒すためだったろ」

 そしてお前を助けるためだったんだ、とは口の中だけに留める。

「そうです! そもそもなぜ竜を倒さなければならなかったんですか!」

 なぜって――……。

 俺の脳裏に、洞穴の家で石像のごとく座り込んで動かなかったやつの姿がよぎる。

 あの性悪魔導師は年がよくわからない顔をしている。年を聞けば笑うしかない。

 300歳。

 300年と少し前の昔に吹き荒れた、魔術士の大迫害。その唯一の生き残り。

「一族の悲願だったからだろう」

「それです!」

 メイスはびしっとさした。

「お師匠様の行動動機は蓋をあけてみたところ結局それにいきつくんです。むしろそれ以外では動いていない。例外はありません」

「――……つまり」

「今回もそれなんです。レザーさんを昼夜問わずレタスにしたのもそれです。この病は魔術士が作ったんですよ」

 そしてメイスは突然自分の左ひとさし指の背を口に近づけて、ガブリと勢いよくいった。

「おいっ!」

「これと」

 白い歯から血があふれる。メイスはそれまで蚊帳の外に置いていた母ちゃんとクマさんに向き直りまったくいきなりクマさんの皮の下に乱暴に手を突っ込んだ。咄嗟にクマさんは身を引こうとしたが、首がぐっとひかれる形で傾く。皮が少しだけめくれてつっこんだメイスの手が再び現れた。

「――っ!」

 メイスの細い手にそれは握られて、朝の光の中で露になった。一つにまとめられた後ろ髪だった。手入れされていないが、深い深い山を思わせる――緑の髪の束。

 クマさん、と母ちゃんの悲鳴のような声が横からあがるが、クマさんは観念したように静かにメイスの手を離させて弁解することなくそこに黙然と立った。非常に空気が重たい。しかしメイスはそんな空気には一顧だにしなかった。

「これです」

 繰り返してメイスは血の流れていない方の片手をぐっと強く握った。



 何度も何度も言及しているが、山をすばやく移動することにかけてメイス・ラビットの右に出るものはいない。そのメイスに手加減してもらってはもちろんいるが、ひと一人を背負って続くクマさんは見上げたもんだ。しかも無理についてきている、という風ではない。

 病が治っても髪も深い茶色の色合いに戻ったというのに、依然として治療の際も熊皮を断固ととらなかったクマさんの顔は下半分しかやっぱり見えなかったが、なんというか、急いていた。

 もちろんメイスの方が早いし、先に行っているのだが、続くクマさんは歯を食いしばり、はやくはやくと心の速さに体の速さがついていかないばかりだった。茂みの葉を散らし、木々の枝をもぎとり、クマさんが突進する様は……なんというか。凄い迫力と勢いだ。モンスターですら道を譲ったかもしれん。もう先行くメイスがさしかかるところあたりで、小鳥がそのやばさを感じ取ってびびって逃げて行く。

 そうして昨日、結局戻れなかったのがなんだったのかと言わんばかりの速さで、開けた木々の先に村の姿が見え始めた。メイスがスピードを増した。ナップザックにつまった俺は別に驚かなかった。なぜなら後ろのクマさんが一段とスピードをあげたからだ。

 ぶっちゃけ手ぶらで万全の体調で挑んでも今のクマさんに勝てる気はしない。背負われている母ちゃんは大丈夫だろうか。気絶ぐらいしてるかもしれん。

 そうして軽やかなメイスの着地の後、ものすごく豪快にクマさんが滑り下りて、足元は急斜面から一気に平地に、視界に映るものは梢と幹から連なる軒になった。

 降り立って俺とメイスは止まり、そして突進する人災クマさんも止まった。村の様子がなんだか違っていたからだ。村の入り口近く、アンリとカイとサラ母ちゃんの家では人だかりができていた。人々は当然こっちを向いていた。

 なにしろクマさんの猛進は一里先からでも感知できたのでは、というようなあれだった。人だかりの中には小さな緑の双子がいた。こっちを見て緑の目を同じくらい大きく見開いていた。アンリ姉ちゃんが丸くあいた口元に手を開けて、あ、あ、と言う。動いたのはカイだった。

 ばーっとすごいスピードでカイたった一人だけが俺達のところに走ってきた。カイの緑の目はクマさんの背から降ろされたが、ふらふらになってその体にしがみついたままだったサラ母ちゃんにまっすぐ止められていた。

 あのクマさんに背負われていたわけだから、俺が危惧していたように母ちゃんはよりかかって立つのがやっとでまだ周囲が認識できる状態じゃなさそうだが、数歩間近で自分めがけて突進するカイの存在は気付いた。青の瞳が緑の瞳と出会う。

「母ちゃんっ!」

 そして次の瞬間、カイはその勢いのまま驚くほど高くジャンプして片足を突き出しサラ母ちゃんにとび蹴りをかました。

 小柄とは言え全体重をかけたなかなか見事なとび蹴りに、母ちゃんは吹っ飛んでがんっと後ろの地面にたたきつけられる。え、えええええええ。

 姉はぶっちゃけ結構あれだったが弟は無抵抗だから温和だと思ったら母ちゃんにはすんのか!?

 衝撃のとび蹴りの後、う、うわあああああああ! と野太い声が聞こえてきて、なにやらびろびろの服を着た強面のおっさんとアンリ姉ちゃんが並んで駆けてきて、強面のおっさんが仰向けに倒れたサラ母ちゃんに駆け寄る。

「わ、わかあああああああ! お気を確かに!」

 その前で、とび蹴り小僧のカイは膝をついてわめきながら上半身を支えるおっさんと倒れたまんまの母ちゃんにキッと向かって

「――に触るな色ぼけ貴族!」

 カイの叫びとともに、強面のおっさんに一足遅れて到着したアンリ姉ちゃんはその他もろもろには見向きもくれず、母ちゃん! と歓喜の声をあげて両手を広げてぴったりと。

 迷うことなく、クマさんに抱きついた。




 俺の思考は十秒くらい止まった、と思う。たぶん、何事もなければもっと止まっていたと思う。しかし、強面のおっさんに揺さぶられていた――えーと、カイにとび蹴り喰らわされた人間が突然ぱちっとばね仕掛けのように上半身を飛び起きさせた。その顔には今までにない表情がある。

「――サラっ!」

 第一声がそれ。その響きを耳にして、俺はじわじわといやーな理解が身に広がっていくのを感じた。確かに高い。高い声だ。しかし、その声の調子というか、その張りようは――。

「思い出した! 自分が何の花に惹かれて飛ぶ虫なのか!」

「わ、わかあっ!」

「サラ! それは心の花園に咲く一輪だけの花の名前。そしてわたしはその花に焦がれる哀れな愛のしもべ!」

 寝起きの癖にえっらい高いテンションで叫ぶ銀髪の――たぶん……――の脇でお、落ち着いてください、と強面のおっちゃんが悲鳴のように叫んでいる。

 そんなどうしようもない場なのに、その嘆息は不思議とよく聞こえた。腰の辺りに両左右から双子をくっつけたクマさん。俺とメイスが見ていることに気付いたのかちょっと顔をあげ、そして両手を頭の熊皮に添えた。

「仕方ないね」

 一つに束ねた茶色い髪に、太い首に似合ったがっしりした四角い顎。よく日に焼けた顔には、たぶんこういうのをたくさんもっているだろうな、と熊皮の上から思っていた人間的魅力にあふれている。その厚い掌が大事そうに二人の子供の緑の髪に降った。

「ま、一個土産を持ってこれたから、上出来だと思おうか」

 そうしてサラ母ちゃんはからからと笑った。




 死んだ父親というのも、あーの女顔の領主の三男坊(貴族だってよ!)によく似たタイプだったらしい。端正な顔立ちに線の細い(双子の顔のべースだな)夢見がちで妙にロマンチストな優男。

 なんでかそういうタイプにぞっこんいれこまれるんだよ、と苦々しくカイが言う。いかにして母ちゃんに「いれこむ」状態になるのかは、馬鹿様が俺たちの前で一から再現してくれたわけなのでまあわかる。

 なるほど。アンリ姉ちゃんは確かに「若い」とは言ったが、「美人だ」等のことはいっさい口にしていない。

 村人や双子は母ちゃんは発病していない、と思っていたらしいが母ちゃん自身は気付いていたらしい。だから熊皮ですっぽり顔をかくして山に入っていったのだが、そこで血迷って言い寄ってくる馬鹿様とばったり会っちまったのが運のつき。いくら言ってもついてくる馬鹿様をまこうとしたら、馬鹿様足をすべらして崖に落ちた。こりゃいかんと母ちゃんは救出に向かって崖に降りたところあたりで、俺とメイスがあらわれたという。

 馬鹿様の記憶喪失に一番びっくりしたのは母ちゃんだったが、馬鹿様の頭が本格的に空っぽになっている様にこりゃしつこい男とおさらばする絶好の機会じゃないかと思い始めたらしい。だから母ちゃん的にはあまり馬鹿様の記憶を刺激しないために、自分の顔を見せたり声を聞かせたりするのがいやだったようだ。

「そりゃ薄情だと思われるのも仕方ないよ。だけどあたしとしては、残りのことだけ思い出してもらってあたしのことはさっぱり忘れてくれないかねえ、って都合のいいこと考えてたんだよね」

 そこで母ちゃんが困ったのが俺たちの存在だ。俺達さえいなけりゃ馬鹿様をこっそりお屋敷に届けてとんずらこけばよかったのに、俺達は馬鹿様と母ちゃんをとり違いはじめ、おまけにアンリとカイの病気解明も請け負っているらしい。そこは親心。馬鹿様どうのより病気の解明に揺らいだ。んでもこのメンツで降りてしまうのは困った騒ぎになるのは目に見えていたからメイスが言ったようにわざと山頂に誘導して――。

 言ってくれればいいじゃねえか。馬鹿さまの前があれならかげででも、と思うがタイミング逃すと難しいもんだよ、と母ちゃんは笑う。まあ。確かに。完全に信じ込んでいたけどさ。そこでふと、隣のドアが開いて二人の子どもが駆け込んできた。

 母ちゃんと同じ茶色い髪と、優しい褐色の目をしたかわいい双子だ。二人は大きく――それこそ二人いっぺんに抱きとめられるほど腕を広げたサラ母ちゃんに仲良くダイブした。厚い掌が二人の髪をくしゃくしゃにする。きゃあきゃあと双子は楽しい悲鳴をあげる。サラ母ちゃんの顔から喜色があふれてこぼれんばかりだ。横顔は優しい全てで形作られていて。母親だなあ、とちょっとどきりとする。

 存分に喜びをわかちあってから、母ちゃんは俺の方に向き直った。

「本当にありがとう。この恩は一生忘れないよ」

「それは二晩徹夜した俺のつれに言ってくれ」

「もちろんだ。なんにもできないけど腕をふるうよ。あの子の好物はなんだい? なんでも――」

 そこで開きっぱなしのドアから銀の髪とひらひらの衣装を着た馬鹿様が飛び込んできた。

「サラ! なんて素敵な時間だったんだろう! 私は真っ新になって初めから君に恋した。あの至福がもう一度味わえるなんて! 私は世界一幸福な男だ! あのたくましい君の腕包みこむ無言のまなざし――ぷひゃっ」

 鼻血出た。

「これを語る言葉が運命以外にありえるだろうか。サラ――たまらない。ああサラ私と結婚してく」

「帰れ変態っ!!」

 カイの怒声は鼻血と涙を同時にだらだら流しながらめげずに言いつのる男の前ではあまりにも正論な感じがした。百年の恋も喜劇だな、こりゃ。その後ろから強面のおっさんが若落ち着いてください! とすがりついている。あのおっさん、帰ってこない若様心配して探しにきた従者らしい。大変な仕事だな。

 しかし仮にも伯爵家だ。たいするサラ母ちゃんは未亡人の子持ちなんだから、嫉妬されるのも無理はない玉の輿には違いない。

 母ちゃんは馬鹿様っぷりを目の前にしても、普通の女のような冷たい、忌避する、なんだこいつはと見る、ようなことはしなかった。困ったように見た。ともかく包容力がある女性であることには違いない。そういうところがしつこく言い寄られるポイントなんだろうけどさ。

 結婚はねえ、と母ちゃんがつぶやく。

「養子くらいにはしてもいいけどさ」

「やだよこんなの!」

 カイがすかさずかみつく。アンリ姉ちゃんは何も言わないのでどう思っているのかはわからない。

「サラ! これから先、君は生涯その手を誰にも与えないのかい! そんな世を暗闇にする決心はやめるんだ!」

 鼻血をとめて馬鹿様が言う。なんだろーねー、この変な恋愛劇は。と俺が思っていると不意に母ちゃんが俺をさした。ん?

「こっちのとなら、いいよ」

「?」

 理解しなかったのは俺だけのようで、全員が固まった。

「キゃ、キャベツ!?」

「違う」

 カイの叫びに思わず反射的に答える。しかしニヒリスト小僧はせわしなく前髪をかきあげながら、う、うーんとあからさまに動揺したように考え出した。なぜ考えるんだ、とっとと否定しろよ馬鹿様と同じように、と俺は思ってようやくここでサラ母ちゃんの言ったことが浸透してきてぎょっとして叫んだ。

「ちょっと待「サラっ!! 妖精が好みなら私は君のために羽根も生やすし猫耳もつけるよっ!」

 馬鹿様の言葉にかきけされる。マテ。何故。なぜ。どういうことに。頭がついていけない俺に母ちゃんがふっと笑う。どきりとしたクマさんの時の口元で。

「幸せにするよ」

 ――う。え。あ。

「間に合っています!」

 バンッとドアが開いて三番目の乱入者は、つかつかとやってきて俺をつかみ上げた。我らがメイス・ラビットだった。

「最後の患者の治療が終わりましたので、これでお暇させていただきます!」

「メ、メイス」

 止める暇もなく踵を返したメイスの動きを、落ち着いた声が呼び止めた。

「ありがとうね。うちの子を治してくれて」

 ほら、お礼を言いな、と二人の子を立たせて頭を下げさす。その後ろから母ちゃんは母親だけが持てる綺麗な顔で笑った。

「あたしゃあんたに、このお礼に命だってあげていいよ」

 双子が驚いたように顔をあげて母親を振り仰ぐ。メイスは堅い顔をもう少し不機嫌にさせて、いりません、と言って不意に片手を掲げた。

「かわりにこれを頂いていきます」

 アンリ姉ちゃんがあ、と口を開く。それは山に入る前にメイスに渡したペンダント。そして――いや、それだけでいい。

 妖精さん、また来てね!

 閉じた扉の向こうから、双子の声がかすかに聞こえた。




 本当、レザーさんって雌雄の区別がつかない人ですよね、

 とメイスはそんな言葉を不機嫌に始めた。

 どうやらメイスは最初からクマさんと馬鹿様の正体にも二人の関係にも薄々気づいていたようだ。言わなかったのは簡単。たいして興味がなかったからだ。だからって俺が延々と勘違いつづけてるんだから、お前少しは訂正しろよ!

 コルネリアスの前科もあるため、メイスはすっかり俺の評価をそうしてしまったらしい。しかし、世の中にあんな特殊な例はめったにないはずだぞと弁解させてほしいまったく。

 ひとしきり不毛な会話の後、話は病のことになった。

「結局は山も森もなんの関係もなかった、ということですよ」

 そうメイスは最初に言った。

「いつか話しましたっけ。人体の細胞という組織に手を加えて繁殖させることで、病を人為的に作り出すことが可能だと。しかし、そんな高度な真似を一体だれが? なんのために? その疑問は常につきまとう命題だったでしょう」

 そこでお師匠様の存在です。

「あの人は結局、ずっと自分の一族とやらのしりぬぐいをし続けているわけです。だからお師匠様が関わった以上、最初の疑問、誰が? は解けるわけです。大空白時代の魔術士たちですよ。そしてなんのために? 大空白時代の魔術士たちが人工的な病を開発したのはなんのためか」

「……」

「剣や矢よりももっと。毒よりもタチが悪い。最強の武器。ですが手当たりしだいに効く毒を作っても仕方ない。自分たち――すなわち魔術士たちには逃げ道が必要で、シナトの森もそうでしたね」

「魔術士にだけ、かからない病か」

「正確に言うと魔術士の血が抗体になってかかってもかからないのと一緒なんですよ」

 だからそれがまったくないレザーさんは魔術でコーティングしたんですよ、とやっぱりシナトの森みたいなことに。

「だけど報復のわりには弱くないか? 髪を緑にしたり目を緑にしたくらいで」

「あと数日たっていたら肌も変色して腐り落ちていたかもしれませんよ」 

 その言葉に俺はぞっとした。

「ま、たぶん、結局完成しなかったんですね。いくら失われた技術を持っている集団だとしても、そこまで狙い定めた病原菌を作り出せたとは考え難いですから」

 ほんのいたずらレベルの、突然髪の色が変わって目の色が変わって慌てふためくのを笑う、ぐらいのそんな動機しか持っていなかったらいいのにな、と俺は思った。限りない迫害の中で魔術士がどんな反撃を練っても、それは当然の感情ではあったと思うけれど。

 無差別に子どもに降りかかるような化け物を作っていたとは思いたくない。母親が土産に買ってきた古い石細工のペンダントの中に、そんなものをひそませていたような、現実だったら辛い。

 まったくどうしてそういうことばっかり、とメイスが悪態をつく。誰についているのかはわかっている。

「親の不始末を片づけてんだろ」

 お前がこうしてコルネリアスを手伝うみたいにさ、とこれは口の中だけで。

「親子ってのはあれだなあ。はかりしれんもんがあるみたいだしな」

 今回のことも含めていろいろ思い出していると、メイスは静かになった。

「レザーさんのご両親って、どういう方だったんですか?」

「んー……。わりとまともだったとは聞いているが、物心ついたときは昔から家にいた婆ちゃんに育てられてたからなあ。それも十四の時に死んじまったし。ああ、肖像画なら残ってるぞ」

 言ってこいつには一度連れて行って見せておこう、とふと思った。俺が育った場所と俺の両親の顔を。

「行ってみるか。一度コルネリアスのところ戻ってから」

「……いいんですか? 苦手な方がいらっしゃるのでは」

「まあ、いるけど――。そうだ。コルネリアスもつれていったらどうだ。どっちもおとなしくなるかもしれん」

 軽口をたたくとメイスは呆れたように俺を見つめ、ま、お好きになさってください、と言った。

 メイスの不機嫌も少しはましになったようなので、あんまり寝てないメイスには悪いが俺もしばらく一眠りするかな、と思った瞬間まどろんで。

「行く気だったんじゃないですか」

 まどろみの向こうからメイスの声が聞こえる。

 俺は夢うつつに笑った。

「行かねえよ」

 またしばらく振動。そしてまどろみの向こうから何気なさを装って聞く声。

「レザーさん、そこ、居心地悪くないですか」

「悪くねえよ」

 だから安心しろようさぎ娘。どこにも行かねえからさ。

 いつものように残りは口の中で呟いて、それからつきあった二晩の睡眠不足を取り戻すべく、俺はゆっくりまどろみに入った。




<奇病とキャベツと緑の目!>完



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