レザーになった男(7)完結
クリーム色の塊だ。
冷たい雨が降り注ぐ森でそう思った。緑は若々しく土は黒みを帯びて柔らかかった。青々とした茂みには、銀糸の雫が零れ落ちてくる。美しい森だった。
静けさの中でそれは蠢いていた。雨のそれに混じって、周囲にはかすかな血臭が漂っている。脅えきった一匹の犬が、それでも逃げずに場に留まっていた。辺りには白や茶のむしりとられたような柔らかい毛がかすかに散らばって、短い弓と矢筒もそこに転がっている。犬の首には丈夫な皮のベルトがはまっていた。
歯を剥き、威嚇の声をもらす犬に突然そのクリーム色は蠢き波のようにもりあがってバッと覆いかぶさった。ギャンっと響く犬の悲鳴と共に、見えない張り手を食らったようにクリーム色の塊が弾かれた。
間一髪逃れた犬が後ずさる。
腕を横に一閃させた魔導師が、冷ややかに前方を見つめ、何事がおこったのかわからないというように蠢くそれへと歩をつめた。
「――吐き出せ」
少しの蠕動の後、クリーム色の塊はずずっと引き下がり、その後に現れた地面に一人の男が残されていた。皮の帽子を被った中年の狩人だった。
犬が恐怖も忘れたように魔導師を追い越して飛び出し、その顔を必死になめる。魔導師も指先を開いた男の口に突っ込んだが、すぐに引き抜いた。青い顔を見れば確かめるまでもなくわかった。時間がたちすぎている。蘇生は無意味だった。
男を諦め、逃げるように引くそれへと歩を詰め迫った。間違いはなかった。感慨は不思議と浮かばず、ああ来たのだとただ事実として飲み込んだ。300年の邂逅は、それだけだった。
音のない森にキャンキャンと犬の声だけが響いている。その牙は血に濡れていて、辺りには白や茶のふわふわの毛が散らばる。犬のものではない。おそらく狩人と犬で追い詰めた小動物を取り込んだのだろう。
震える「それ」を見やった。
クリーム色の塊だ。
どうしてそう思ったのかはわからない。骨などないように思えた手足と同じく、それがむくむくと不気味に膨れ上がっていたせいか。どこかになりきれない弱さを感じたからか。そんななりにも関わらずこちらの言うことを理解する理性を見せたからか。
死滅の魔力をこめていた腕を下ろす。
これは滅さない。その意味を正確に理解していた。何もかもの前提がひっくり返ってしまう。全てが無になる。300年もの間、積み重なってきた全てが。
けれどもこれを滅さない。拾い育てるだろう。どうしてそうしようと思ったのかはわからない。ただ知っていた、そう思った以上はすべては一変するのだ。
やがて主人は二度と目をあけぬと悟った犬が顔をあげ、怒りに歯を剥き威嚇し始めた。もう塊に先ほどの勢いはない。犬に気おされて、じりじりと追い詰められている。
両者をつまらなそうに見やって、黒色の女はその木靴で犬の鼻面を蹴り飛ばした。吹き飛ばされて起き上がり尻尾を丸めて今度こそ逃げていく犬の鳴き声を背後に、あまりに大きな転換を女は淡々と受け止めるように、クリーム色の塊に身をかがめて。
「私と、来い」
カリスクの予測とは少し外れて、二人が山麓に再び姿を見せたからと言って暗黒の竜はすぐに飛んでくる、というわけではなかった。
薄い雲の下でカリスクはしばし周囲を見回した後、何もいわずに傾斜を登り始めた。上方に向かう限り、独立峰は迷うということはない。
初めは苦戦する道なき道もやがて山頂に近づくと、徐々に木々が消え、何百年も前の活火山のなごりを見せる特徴的な岩岩が転がり始めた。障害物は少なくなったが、それはそれで歩きにくいガレ場を通り、やがてメイスの鼻が澄んだ水のにおいをとらえた。
前行くカリスクに告げた直後、メイスは流れてくる臭いに混じるそれに顔を引きつらせた。
瞬時に吐き気がわきおこるような、膨大な血臭だった。それもとんでもない密度だ。空気中に限界まで漲ったそれに呼気が詰まる。
思わず立ち止まったメイスに、なにを嗅ぎ取っているのかわかっているように、カリスクが大丈夫かと聞いた。頷いたが、もう一度足を動かすには少なからぬ覚悟が必要だった。
最後の登りを越えたとき、何も妨げるものがなくなって、ぶわりと窪地の下方から寄せてきたものにメイスはさすがにその場にしゃがみこんで、こらえきれずに胃の中のものを吐き出した。
カリスクの手が背中をさすり、眼前には水が入った皮袋が差し出された。このひどい気分を乗り越えるには先ほどよりさらに時間を要した。
もらった水を含みながら見下ろしたくぼ地は、巨大な実験場のように見えた。深く落ち窪んだ場所にはひたひたと透明な水が寄せていて、小さな湖になっていた。その真ん中に大きな、ナイフのような細い岩が屹立している。
風はそこから新鮮な水の匂いを運んでいる。問題はその手前だった。転がった砂地に燐粉のような青い光をまだ放つ巨大な魔方陣が描かれている。その真ん中を赤黒く染め抜いているのは、先ほどからメイスの鼻を責め苛んでいるものに違いない。
「ここで竜を作ったんだな」
「……モンスターを、材料に?」
呟きながら師がしたことが信じられずに顔をゆがめる。
「まあ、元々、ドラゴンサークルの正体ってのは――」
言葉の途中でカリスクの身体が宙に吹っ飛んだ。一瞬ぽかんとしてから、メイスは風の音を聞き、そしてその影に包まれた。思考よりも速く跳びすさって、くぼ地の内側に飛び込んだ。
跳躍の後、着地した足元がずるずると崩れていくが、それでもそこから目が離せない。くぼ地に主は不在だったのではない。毛を逆立てて危機をびしばしと叫ぶ本能の声を聞きながら、歯を食いしばって見上げる。
――夜そのものが広がるようだ。
視界一杯に広がったのは、圧倒的なビジュアルだ。空に舞い、その身を余すことなく見せ付けた巨竜の存在感は凄まじい。後ろも見ずに大きく跳び退った先で、何十リーロルも吹っ飛ばされたことなどものともしない動作でカリスクが跳ね起きた。
メイスはいまだに思考が追いつかない中で、男はどこまでも男のままだった。降りかかる竜を悠長に検分するようにじっと見上げた後、
「ロケナイナティス!」
と呼びかけた。瞬間、空を真上から一刀両断し、突進してきた巨体を紙一重で跳び退って、その先で少し苛立ったような口調で
「コル、引いといて」
横合いからそのやり取りを眺めている、たった一人の観客はぞっとした。通常な神経ではないと百も承知だったはずだが、これはひどすぎる。竜も怒りを覚えたのか、踏みつぶさんと前足を振り上げた。しかし、すかさず男は前に駆け出して竜の身体の下にもぐりこみ、足と足の間に滑り込んで背後に軽やかに抜け出す。そしてカリスクは立ち止まり、鼓膜が震えるような声を放った。
「ロケナイナティス!! 俺の声が聞こえないかっ! 俺がわからないかっ!!」
避けられたことで怒りを覚えたのか――あるいはその声を消し止めたかったのか、竜がさらに前足を振り上げようとしたとき。
――
ぐんっと。竜の身体の中で、母の腹を蹴る赤子のように何かが大きく内部から揺れた。そのことがメイス・ラビットには何故か感じ取れた。まるで足を通して地面からその震動が自身を揺らしたように。
剣聖もまたそれを見逃さなかった。
「操られたままで満足か! 仮り初めの復活でお前は満たされるのか?」
黒色の竜が動きを止めた。いやどこかは確実に動きたがっている。けれど、またどこかが動くことを許さなかったというように。
カリスクはふんと斜に構えて笑った。
「気付いてないのかお前は? いいや、気付いていた。だが誤魔化されたんだ。融合の代価にごまかされたんだ。それまでのお前は確実に知っていただろう。自分は"不完全"だとて」
ゆっくりカリスクが歩み始める。見せ付けるように、竜の眼前を横切る。その姿が近くなった。どんどん近くなった。すぐ間近で彼は止まった。
「俺にはわかる。三百年前に相対した俺には」
硬直する竜がぎりぎりで抵抗するようにぐろりと喉を動かしかけたが、強く目を見開いた男の大音声がそれを叩いた。
「ロケナイナティス!!」
誰もが動きを止めるような威圧に満ちた猛々しい声だった。そして己が声音の威力を、彼は正確に知っているのだろう。衝撃を与えて絡めとるように、ゆうるりとした口調で続けた。
「お前の最後の片鱗はここにあるぞ」
突然、二の腕を鷲掴みにされた。何もわからないまま前に引き出された。ただ傍らの男を見上げた。まるで逃がさぬようにしっかりと、自分の腕を掴んで引き出す男を、赤い瞳を見開いて、メイス・ラビットは見上げた。
男はこちらを見ずに告げた。
「――目の前にな」
憤りは思いもよらない方向から同時に吹き出た。それは眼前の黒色の竜であり、突然持ち主の意志に逆らって少女を掴む右腕を弾き、自分自身の襟首を掴みあげたカリスクの左腕でもあった。
解放されてメイス・ラビットはよろめいた。赤の瞳に呆然が浮かび上がる。
メイスの目の前で、まだ猛然と食ってかかる左腕を御しつつ、男は口元に笑みを刻んでいる。「お前も気づいていたのか?」
暗黒の竜が憤怒の形相を見せたが、その身体もまた、己の意志にそぐわぬようにもがきはじめる。内部で争う男と同じように。
「ロケナイナティス! 俺達はお互い戦っているみたいだ!」
面白がるように叫んだカリスクの視線の先を、メイスも向いた。彼の左腕はまだ制御をなくして暴れ狂い、竜もまた隠しようのない怒りを宿している。
心が動かないまま、頭の中の符号がカチリとあっていく。滑稽だ。1+1の答えも人の思惑も読めるのに、自分の存在だけは視界からぽっかり抜け落ちていった。
「……私が……?」
「そうだよ。気づいてなかった?」
場違いすぎる、それがこの男の声だ。ぎりぎりと反抗する左腕をぐっと右手で抑え込みながら軽い調子で続ける。
「存在を書き換えるのは不可能じゃない。よっぽど強烈なエネルギーさえあれば。それが竜の片鱗なんだ。よっぽど深く融合してるんだね。あいつが嫌いな俺もしばらく気づかなかった。こいつも気付いていたんだよ。君と話すのを逃げていたのはそれもあるみたいだ」
まあ、そんなの。言い訳にもなりゃしないけど。
そこだけは冷ややかに響いた声の直後、がきり、と場違いな音が響いてメイスが目を見開いた。男の左腕が力なく垂れていた。関節を自らはずしたらしい。
まるでレザーの意思が儚く摘まれてしまったようだ、とメイスはただ目を見開く。一度も瞬かない赤の瞳が捉えたのは、覆いかぶさるように迫る男の笑みだった。
無事な右手がメイスの横髪をすいた。ずかずかと遠慮がなく、相手がどう思おうと気にしない手つき。この男は恐れない。そうだ。レザーはいつだって恐れていた。怖がっていた。相手が傷つくことを。相手を傷つけることを。この男は恐れない。誰かを傷つけることを。
すぐわかったよ、男の声がぼやける。
「君が一番コルに愛されてるって」
竜が怒りに足を地に打ちつけた。遠くのそんな竜と、優しく微笑む近くのレザーの顔。出された名前に師の言葉が蘇ってくる。死人だ、気が狂っている。ああでも。メイスはそれだけを回らせていた自身の迂闊さを悟った。そんなことより、師が最後の最後まで発したかったのは。
温かいが遠慮のない手が首筋へと流れた。男が口を開いた。優しく。
「ごめん」
――決して気を許すな
蘇った言葉に真っ赤な瞳が見開く。見開いたまま呆然と少女は言った。
「レザーさん」
ぽつんと一人ぼっちの言葉。それだけを残して少女の身体が沈んだ。痛みを感じる暇もない、細い首筋に素早く手刀を叩き込み、同じ右手が崩れ行く身体を受け止めようとした瞬間。
黒色の軌跡が空を舞った。
次に広がったのは実に奇妙な光景だった。男の左手が腰の刃を抜き、真っ黒な刀身は男の無防備な額へと迫っている。自らの頭をかち割ろうとする手自身がそれを阻んでいた。拮抗する圧力で小刻みに震える刀身の中に同じ男が映っている。
いや、それは同じ男ではない。同じ姿をしながら全く顔つきが違う。刀身の中の男は全力で抵抗するように、歯を食いしばり引けない意思をひめて現実の男を射すくめている。一人の人間の中の二つの面が出現したようだ。それでも全く動じない現実の男は迫り来る刀身に相手を見出し不敵に笑った。
「お前は誰だ?」
笑みを浮かべたまま吐かれた問いかけに、黒い刀身の中で睨みつける男は答えない。「悔しくて仕方ないって面してるな」
からかうように言葉が笑いに揺れたが、黒剣の中の相手は動じなかった。ぎりぎりと殺意と呼んでも差し支えない力が拳へとこめられて、薄皮一枚のところまで剣は振り下ろされかけている。しかしそれを受ける男もまた変わらなかった。
「お前がレザー・カルシスか?」
ハッと嘲りの息が拳一つ分、剣を押し返した。
「違うな、レザー・カルシスは俺だ。俺がレザー・カルシスだ。お前が自分自身をやめたときから。悔しいだろ? そんな影の中で噛み付きそうな面して。だが、もう遅い。お前はもう何者でもない馬鹿で、俺がレザー・カルシスだ。お前はそこで奪われるんだ。自分自身も――築いてきたすべても――、一番大切なものもな!」
そこで剣聖の瞳に初めて怒色がよぎった。
「お前にとって俺はなんだったんだ。尊い先祖か? 偶像の肩書か? バカバカしい! どこの馬の骨ともわからない会ったこともない相手に無条件ですべてを引き渡して。そんな相手が自分よりマシだと思ったのか、お笑い草だ! そこですべてを見ていろ。お前の挙動がなにをもたらしたのかな!」
叩きつけられた怒りが一気に剣を押し返して妨害者の存在を吹き飛ばした。自由になった剣先を振り下ろし、剣聖カリスクがわずかに上がった息で振り仰ぐ。
一人で争う男の傍らで、地面に放り出された少女へと鼻先を近づけていた竜が、びくりと震えた。その様に興ざめしたような瞳で男はそっぽを向いた。
「喰えよ」
だらりとぶら下がっていた男の左腕が拳が突然跳ね上がった。まるで腕が果てしなく伸びたような錯覚を伴って、風を突き破り反応を許さない速さで自分自身の顎めがけて力の限り炸裂した。
「――ッ!」
背中を勢いよく打ちつけた体は、しかしすぐに跳ね起きる。顔をあげた男はそれまでとは様子が一変していた。青ざめた顔で開かれた口から悲鳴が漏れでる。
「メイスっ!!」
起き上がった男が目にしたものは、絶望そのものだった。空を仰ぐように竜がその顔を上向きにしている。その口から真っ赤な光が漏れていた。一瞬それは目をあけていられないほどの強さとなって周囲に散り舞う。膨大な量のその光が、少女の身体から溢れたのだと何故か知っていた。
「――っ!!」
人の心が打ち砕かれる瞬間があるなら、そのときを置いてほかにはなかった。男の顔から根こそぎに何かが削げ落ちた。まるで操る糸が切れてしまった人形のよう、膝が崩れて大地に打ちつけられた先、首すらも自重に耐えかねたというようにがくんと前のめりにたれる。
恐ろしい沈黙のあと、竜がゆっくりと肩を振るわせた。邪悪な誰かが闇の中で笑うように、その顔がにたりと嫌らしい顔つきに歪む。
「――礼を言おうか」
低い声が響き渡った。地を這うようでいて、ずんと胸に響く。今までの獣の顔とはまるで違う分別臭い顔つきで、くつくつと竜は笑った。その言葉にスイッチが入ったように、地面にすっと手をついて男は立ち上がった。立ち上がった男は相対的に不機嫌顔で
「お前になんか会いたくなかったが仕方ない」
「前世紀の喰い滓もお前に砕かれた魂も元に戻った。――何を企んでいても、もう、お前に手はない」
ハッと腰に手をあてて男が発した短い笑声がそれへの返答だった。
「ロケナイナティス、お前は凄い馬鹿だから、この世の不文律ってのを教えてやろう」
勝利の笑みを浮かべて男は言い切る。「コルはお前には負けない。絶対に」
君臨する竜にたいしてその態度は不遜であり、それ以上にはったりではない気迫が身にまとわれていた。しかしその泰然とした立ち姿も、ぐんっとまるで腹から進むような不恰好な進行に崩れた。
「うわっ! ちょっと待てよ」
思わず声をあげた男は次の瞬間、顔をしかめた。「わめくなよ、頭が――」
仇敵の異変を読み取ったのか、竜は愉快そうに目を細めて
「どうした? 出来損ないの子一人御しきれぬか」
「だまれとかげ」
響いた絶対零度の声を合図に、しばし漆黒の獣は首をめぐらした。たった今まで視認していた対象を見失ったからだ。その瞬間。喉から真っ黒な血がほとばしった。
竜も何事が我が身に起こったのか理解できぬまま、身体だけが傷みから逃れるように身を引く。その赤い双眸に寸分違わず向けられた黒剣の切っ先を、竜は危ういところで首をひねって、不遜な襲撃者をふりはらった。影のように翻った人間が着地する。呆然とした色と驚愕をこめて竜がそちらに首を引いた。
「――何をする気だ」
「胃袋」
奇妙に聞える返事が合図となった。その姿が素早く竜の眼下にもぐりこみ、黒い剣の刀身が果てしなく伸びたように錯覚する。
風のような速さに乗った一撃を紙一重で避けた竜は、そこでがらりと様子を変えて翼を広げ、大気を操るようにして地上のすべてを風圧でなぎ払い浮き上がった。さすがにそれには抗えず、舌打ちして引いた相手を上空から見下ろしゆっくりと降り立った。
「片鱗はすべて吸収した。胃袋になど、あの子うさぎはいない」
「黙れ吐け!」
露になった怒りが声にはじける。「メイスは死なないっ! メイスはどこにもいかないっ! 絶対っ! いなくならない! あいつは――メイスは――」
詰まった息を絶叫がおしだした。
「俺を食うまでは死なないっ!」
竜の瞳がすうっと糸のように細まった。血をほとばしらせていた喉の傷が瞳を閉じたように消える。そうして翼を開いた瞬間、地面が激しく揺れ、ひび割れが走った。
男が横に飛ぶと同時に、視界を真紅の炎がなめつくした。当たらずとも吐かれただけで、辺りの空気は湯だってのた打ち回る、掠めることも許されない高熱のそれだ。
着地した瞬間、第二波がきた。直撃をくらう軌跡に思わず息をのんだが、炎にさあっと白い膜が飛びついてその表面を覆ったかと思うと、そのまま空でどろどろに溶け落ちた。
「!?」
双方が息を呑む間に、突然竜が身をくねらせて苛立たしげに首を振った。激しくのたうつ尻尾から黒い二つの影がさっと離れ行く。その影の端に見慣れた面影を見出した男は目を見開き、怒り狂った竜が首を高くもたげて振り回した直後、風を切り裂く清々しい音がその赤い左眼めがけた。
窪地の縁から放たれた一本の矢は何の迷いもなく風を切って迫る。間一髪で竜が首をひねって避けた瞬間
「リットっ! 飛び込むまで待ってろ!」
助けられたはずだが、男が乱暴に叫んだ。その激しい声には矢を放った当人もどぎまぎしたように、大急ぎで駆け上ってきた窪地の縁で
「こ、これはレザーちゃんかな」
瞬間、竜が驚愕の音色を奏でてたじろぐ。一拍遅れて振り回された尾に取り付いていた何者かが素早く跳び退って避ける。そして歓喜で固められたような声音で誰かが叫んだ。「本物だっ!」
「遅いっ!」
男当人に無碍なく怒鳴られたアシュレイはぞくぞくしたように「かなりきてるがな!」と叫ぶなり、横合いに流れるように跳んで巨体の隙を滑った。それが動いたか動いていないかの刹那。
男もまた動いていた。視線一つ交わさずに、二つの影は見事な対極となって竜の身体を旋回した。
信頼に値する仲間の到来に冷静さを取り戻すかわりに、心置きなく理性をぶっ飛ばせる、と男は判断したらしい。青の瞳に危険な光が明滅した。
「三枚おろしにしてやる――!」
黒色の剣が振り上げられた。竜が翼を風できって牙を剥き出し威圧するがものともしない。男が剣を振り上げたと思ったら、その切っ先は赤い瞳めがけた突きへと早がわりしている。それに気付いて掲げた竜の頭に今度は正確無比な狙いの矢が飛び、また頭を下げる。
ここにて遅まきながら竜は、自分自身が小さな冒険者たちにすっかり取り囲まれていることを悟った。
古を思い出したのかその瞳に怒りがともる。口元が不穏に動き、次の瞬間、全てを焼け焦げにしようと開かれた炎はしかし、再びさあっと白い膜がぶつかるように寄せてきて不発に終わった。離れた場所に身を置いた強力な術者と射手がその行動を著しく阻めているのだ。
周囲を包囲している人間達の正確な人数もわからないまま、四方からの襲撃を感じ取った。どの気配も油断ならないと告げている。肩に密かに力を入れた。射手に矢を放つ隙を与えず、一気に上空に飛び上がろうとする算段だった。
所詮、ちっぽけな人間たちとは身の大きさが絶対的な差としてある。おまけに飛行を駆使すればそれほど脅威を覚えるものではない。竜の肩が盛り上がり、じりじりと狭めてきた冒険者の動きを先んじて飛び出そうとした瞬間。
突然竜の動きが縫いとめられたように止まった。その隙を逃さず、最も肉薄していたアシュレイの剣が腹を大きく薙いだ。竜の真っ赤な瞳が見開いた後、翼と尾で風を巻き起こして振り払い、それでも苦悶をこめて身が震える。
竜の様子に訝しげな顔をした男が、急に顔をしかめ――
「コルっ!!」
その顔は必死な呼びかけに埋め尽くされた。男は叫ぶと同時に地を蹴って駆け寄り、黒剣を振りかぶって容赦なく腹を一突きした。そのまま剣の主は腹に肉薄し、壁向こうの相手に呼びかけるように拳で叩いて叫ぶ。
「コルっ!! ここだっ!!」
竜が声にならない呻きをあげた。瞬間、剣で傷ついた腹が奇妙に収斂し、まるで内部に何かを孕んでいるように大きく盛り上がった。ぶちぶちと筋が内部から引きちぎられる生々しい音が響く。誰かの自棄のような咆哮が響き渡った瞬間、竜の腹からそれは引きちぎり自らをもぎとり――そして分離した。
べしょりと地面に落ちたのは蠢く不気味な肉塊だった。熱い湯気をたてながら、ずるずると表面を流して輪郭を整える。その前方に回りこんだ男は、その塊を背後にかばい、やにわに竜に剣を振り回す。しかし、威嚇の必要もなかった。
自身の身に起こったことに錯乱状態であったのか、巨体はよろめいてさがった。三人の冒険者がすかさず群がった。
そのおかげでさらに距離が開き、当座の急場をしのげたと判断した男が、急いで振り向くといつの間に駆け寄ってきたのか、暖色の髪の女が肉塊の前で膝をついている。その顔は険しかった。
「コルは! コルは!?」
取り乱したことなどないような男が今は全ての余裕をかなぐり捨てている。必死の問いかけに、暖色の髪の女はシッと口元に手を当てて制し、そしてすぐ前方の流れいく塊へと目を戻した。
「……ご自分の肉を与えて、メイスさんの形を作ってる」
その凄絶な光景にはやや彼女も顔色をなくしているようだ。ずるずると外側はなんとか形を作り始めていた。粘土をこねたようにようやく人型になってきたそれは、二つの塊だった。大きい一つは小さい一つを覆っている。それは子を抱える母のように、必死に一方がもう一方を抱きしめている仕草だった。
暖色の髪の女が口元で何事かを囁くと、その掌に髪と同じ光がともる。指をすっと突きつけて苦しみもがく身にその光を注いだ。感応しあうように女も瞳を閉じ、加勢に勢いづいたように塊の一部が粘土から蝋細工状へと変化し停滞することなくみるみる鮮明な人型になっていく。
瞬間、不可思議な変化を遂げる塊に、ハッとしたように男は叫んだ。
「コルっ! 自分も助けなきゃまた俺は同じ事をする!」
その言葉は意思も不明だった塊をいたく怒らせたらしい。それしか怒りを示す方法はないというように、わなわなと震えて、三人の冒険者が竜を遠ざけている間に、やがてそれは完全な人型をなした。
まだしっかりと形づいていない一方から突き放されたように、気絶した白い髪の少女が、飲まれたときと服装も同じ姿で地面に転がった。得体の知れない液体に全身ぐっしょり濡れていたが、その肢体にも顔つきにも異常はない。しかし、その脇でうずくまる人影はそうはいかなかった。
ようやくなんとか姿を取り戻したようだが、ゴミのように地に腹ばいに伏せてろくに身もおこせない状態のようだ。激痛を覚えているように苦痛の呻きが漏れる。
その中でも彼女はもがき戦っていたようだ。やがて女は激痛の中で体を起こし、その前で呆然としている男に憎しみでたぎる瞳を向けた。
目にした瞬間、激しい怒りは爆発した。わき目もふらずにその手は青い髪の男を殴り飛ばした。
「二度と……私の前に姿を現すなっ!!」
ろくに力も入っていない拳だったが、男には絶大な威力だったらしい。身体がびくりっと震えた後、絶望がともる瞳がみるみる濡れて、相手はべそをかく少年そのもので顔を幼く歪ませた。
「だって……どうすりゃいいんだ。コルは残酷だ。指くわえて竜に吸収されるの見てろって言うのか。それで倒せっていうのか。ひどい。コルはひどい。そんなことにしか俺を使わない」
向けられたものが辛すぎるように男は腕に顔をこすりながら泣き声をあげた。うわん、うわあああん、と幼児のような声だった。その前で魔導師はまだ肩を動かしはあはあと苦しげに息を繰り返す。
どちらも長身なのに座り込んで向き合って低いところで目を合せたその姿は、互いに意地を張りあいぶつかった後、自分たちでは解決する術がなく途方に暮れる、幼い子ども同士のようにも見えた。
「あなた方は、とても似ていて、ただ向きを変えただけの同じことをしている――そういう風にしか見えません」
冷静な声が二人の決裂を遮った。暖色の髪の女は、涙に濡れた顔をあげたレザーの身体を持つ男に向かい
「私が責任を持って二人の面倒を見ます。だから私の仲間を加勢に行きなさい」
厳しい瞳とその声音に、男はまた無体な言葉を聞いた、というような子どもの目をしたが、臆病に黒髪の女の顔を一度うかがった後、剣を掴んで立ち上がった。一応駆け出したのだが、すでに古の英雄は半泣きだった。
「やだ、もうやだ、やっぱり嫌われた」
まだ分離の衝撃から抜けきっていない動きが精彩さに欠ける竜と、それを囲む仲間の元に突入すると同時にちらりと振り返り、うしろに残した女たちが自分を厳しく見つめていると確認して渋々と剣を構えるが、そこで突然力尽きたように場にしゃがみこんでしまった。一番近くにいたライナスが
「駆けつけた瞬間脱落ですかっ!」
レザー、なにしにきたんですか! と叱りつける。
「俺、それじゃないから。……もう、生きる気力がない」
「なに言ってんですか真っ最中に! 倒してから死ね!」
ライナスが不真面目を怒る、という珍しい例を実感している暇もない。竜が動き始め、げっとライナスが顔を引きつらせた瞬間、大きな影が視界を横切った。
前髪をさらった風の後、そこにあったものにライナス・クラウドはやや顔を青くさせた。それは十の子供ほどもある巨斧だった。ものの見事に刃を地面に向けて斜めに突き刺さっている。その格好は冗談で作られたオブジェのようだった。
「カ、カール……」
いつの間にか近くに回り込んできていたのは、隻腕の斧使いだ。たった一つ残った腕でその斧を投げつけたらしい。その視線はじっと、間一髪で跳び退いてうつむいていた男に向けられていた。
「――娘を守れない男は、父親ではない」
なんだかよくわからないがぶちきれていることだけはわかって、ライナスは身を縮めた。この灰色の髪の拳闘士にはレザーやアシュレイより手を上げないと誓った三人の方が遥かに怖いのだ。一歩間違えれば即死の活に、跳び退いた相手はそれでも憂鬱そうな色を消さなかったが、一応は叱咤が効いたのか深々とため息を吐いて立ち上がった。
「俺、もう、すぐ帰る。子孫でも倒せるところで帰る。謝れないもん。どうせコルはいつだって――俺より俺の子供が好きなんだ」
なんだかすねたような口ぶりで言うと、男は地面を蹴った。態度は変わっていないが、身の捌きは一流のライナスが見失いかけるほどの鮮やかさだった。アシュレイの追撃をかわしていた竜が気付いた瞬間、その身体はぐんっと迫って懐に入り込んでいる。
恐怖を覚えたように竜が翼を開いたが、そのことで腹が無防備になると悟ったように慌てて翼を引き寄せる。そのわずかな瞬間で十分だった。チッと風が鳴る音と共に、鋭いナイフが翼の付け根の内側へ、真下から真上へと飛んだ。痛みより驚きで開いた翼のうちを捉えて刃はつき上げられた。深々と刺さった刀身が抜かれると同時に大量の血が噴き出した。
「!!」
それまで善戦と呼んでも差し支えない動きをしていた冒険者達も、この行動には驚きを全面に浮かべた。たったの一手で戦局を大きく塗り替えてしまった。身体能力が決め手ではない。迷いのないその行動こそが全てだ。誰にでもわかる。その男は紛れもなく竜殺しのプロフェッショナルなのだ。
一瞬にして飛行能力を奪った男は竜の苦しみに乗じて、剣を掴んだまま痛みにのたうちまわる翼の端に足をかけると同時に放り投げられる形でその身を竜の上空へと移動させていた。即断の行動力。誰もそれにはついていけない。
風を受けて舞い上がった男の顔は、竜にだけは見えていたかもしれない。いや、全員に見えていた。さらされた秀麗な顔立ちは受ける風にも苛められたというようにじわりと歪んだ。おもむろに
「やっぱりっ。もういやだっ! 帰るっ!!」
幼児の癇癪のような声が空に響き渡り、すっとその身体から確かに「何か」が抜け落ちた。それと同時に立ち上った幾重にも織り成すようにこぼれ溢れる青い光に身体が包まれる。見上げた竜の赤い瞳に、仇敵の姿が青い光にかき消される様が映り――そして。
ぽんっ
響いたのはそんな音だった。気の抜けたような、どこかコミカルな。
くるくると球体が空を何故か回転している。踊るように優雅に。落ちているのに、舞っているように。ステップを踏む淑女のように、その動きはゆったりと気品に満ちていた。
全ての舞台である空の中で、奇跡のように、希望のように、青く瑞々しい葉が振られる。そこから朝露が辺りにふりまかれる。きらきらと、美しかった。どうしようもなく。
窪地の中の全ての生命が全く同じ表情を載せていた。等しく誰もが空を見上げていた。仲間達の前で、美しくレタスは空を舞い、そして当然のように呆気にとられて開いていた竜の口の中に着地すると、ころころとそのまま奥まで転がり姿を消した。その一拍後に、つい反射的というように竜の半開きの口元はぱくりと閉じられて。
急に日差しはほのぼのと温かみを覚えさせ、風は静まり返り、泉さえも平穏を取り戻す。
年代も性別も種族も越えて誰もが共有する沈黙が、その窪地に平らになって広がった。
レタスになった男<完>
誰にも壊せない沈黙を破ったのは笑い声だった。ふらふらと夢遊病者のように大地を歩く影がある。竜の眼前まで狂人のように歩み寄ってきて、全員の視界を一身に集めて女がやぶれかぶれに笑い声をあげて、次の瞬間、耐え切れなくなったのか足で激しく地面を蹴り飛ばした。
「―――こ、のアホっ!!!!」
全身全霊をかけた絶叫に、しかし全くの正論だったため、反応はない。女はもう自棄を通り越してやぶれかぶれだ。眦は裂けそうで、服はほころび、ぼさぼさの髪を風に翻して、肘を上げ両手を組み合わせて印を結んだ。
「いつもいつもいつもいつもっ! 馬鹿の尻拭いはたくさんだっ! もうたくさんだっ!」
魔導師の腕から青い光が漏れ出す。呪を必要とせぬかわりに、その苛立ちの息が必要だったというように、魔導師の絶叫は呆然とした空間に響き渡った。
「お前なんか大っ嫌いだっ!!!」
それでも沈黙する世界にぴしりと入った亀裂のように、竜の顔が突然歪んだ。鱗に覆われないにび色の腹にすうっと黒い線が走る。それはあまりに綺麗過ぎて初めは何か理解できなかった。
今度は横の黒い線が十字を刻むように走ったとき。竜の喉奥でぐろりと何かが鳴った。竜自身も戸惑いを見せたとき、ぶしゅうと何かが破裂する音と共に血飛沫は噴出した。
それまでの静けさに八つ当たりするようにどすりどすりと容赦なく裂け目が広がり、真っ黒な血は噴出し止ってはまた噴出す。
巨体がくねってうめきの声は悲鳴に変わった。柔らかな腹が突き破られて、真っ白なゼリーのような粘液に包まれた塊が蠢いた。瞬間、黒色の刃が一閃し、激怒の表情の男が腹を踏んづけて現れた。男はぎりぎりの死線をかいくぐってきたらしく、酸欠とあまりの体験に顔は赤黒く、目はつりあがっている。破れかぶれさでは先ほどの黒魔導師にも負けない。
「ふざけるなよっ!」
男の第一声はそれだったが、彼の無残さを考えればそれも無理もなかった。怒声が世界に響き渡る。地に降り立った男は地団駄を踏み、腹を突き破られてうずくまっている竜の頭をいきなり蹴り飛ばした。
「何、人様食ってやがんだこのトカゲ野郎! いつもいつもいつもなんで俺ばっかりこんな目に遭うんだ何が英雄だ馬鹿先祖てめえの名前でいい目にあったことは一度もねえぞこのアホっ!」その瞬間さっと雲がはれるように、怒りの瞳がさらに強くなった。「お前じゃない。レザーは俺だ! 俺がレザーだっ! 死んだ奴は死んどけ!」
後はトカゲトカゲと喚きながらやたら滅多らに周囲の腹をぶった切る。凶行としか言いようのない姿に、仲間達も声一つかけられず見守って、ずるずると地に崩れた魔導師だけが馬鹿が、と小さく呟いた。
必死に竜が腹をかばって後退して尻尾を鋭く唸らせた。激昂しながら、男は理性を失ってはいなかったらしい。気配を察知して風に唸った尾の飛来場所から跳び退っている。
「――き、きさまは何故――」
「知るかボケ。トカゲが人語しゃべってんじゃねえよタコ」
据わった無感動な声音が狼狽しながら紡いだ竜を絶句させる。すさんだ男は物憂げな顔にゆらりと物騒な笑みをかすませた。
「てめえ、よくも人様の娘、喰らってくれたな」
悪食もたいがいにしやがれよ。
「私の一部を――」
「気色わりいんだよてめえの腹の中っ!」
本当にすべてを耳にしていない男が地を蹴った。慌てて翼を広げようとした一歩手前。翼にすっと足を乗せた男が、その勢いにのり高々と跳ね上がって眼前に迫った瞬間、容赦なく唯一残った右眼に剣をつきたてた。紛れもなく人の声音で竜の絶叫が響き渡る。
「腹の中に何人、人間いれた?」
喰らった衝撃にはじけた体を蹴って、綺麗に受け身をとってくるりと身を起こした男が斜に構えて見据える。
「うるさいくらいに聞こえたぜ」
地に伏して短く絶叫した竜はやがてそれを途絶えさせた。気を失ったのかと思うような長い静止の後、黒い肩が一つ動いた。
「――喰らってはいけぬのか?」
低い声が地を這うようにやってくる。
「与えたのは、お前達ではないか」
まだ伏せたままの、竜の声音は低い。
「新たな生贄を求めたのは、腹の中の者たちだ。――そうだろう? 黒衣の魔女」
呼びかけられた女は表情一つ動かさず「そうだ」とだけ答えた。
「与えた者も与えられた者も同じだ。何もかわらない。お前達は全て、全てが、同胞の贄を求める種族だ。喰らってはいけぬなら与えるな。生きていてならぬなら生みだすな。最も下等な生物とて子に養分を与え、生かす。私を作ったのはお前達だ。私の行動を望んでいたものもお前達だ」
ぐっとあげた竜の傷ついた双眸から、よりいっそう赤い光がだらだらと溢れた。それに答えるように、黒い魔導師は立ち上がって、醒めた瞳で哀れな有様の竜を眺めた。
「だからわたしの手で葬ってやろう」
その登場に目を向けた竜は薄く笑い
「三百年間、共に生きたではないか」
「だから、共に死んでやる」
そのやり取りを傍らで聞いていた男は、声に出して反論はしなかった。けれど参戦の意を示すように剣をすっとあげた。それに対して、黒衣の魔導師は冷たく
「放っておけ。あの馬鹿に義理立てするのか」
「しねえよ。俺はお前も許せねえよ。けど」
そこで男は視線を横に流した。その先にはグレイシアの膝に頭をのせて、横たわる少女の姿がある。その光景がたまらないように、男は少しうつむいた。「メイスが、お前を必要としてる」
虚をつかれた表情が広がった後、女は嘲笑うとしたようだ。けれど失敗して、馬鹿が、と小さく呟くと数歩、身を引いた。その前に男が進み出た。黒色の剣を握り、もうその顔は荒んだ表情をのせていなかった。ただ淡々と覚悟を決めた目をしていた。
「お前に、言い分はあるだろう。だけど、ききたくない。多分、きいたら同情しちまうから。だからきかない。お前に言い分はあっても。俺はメイスを――失いたくない」
覇者の種にふさわしく身勝手な言い分だった。それでも少しだけ男は痛むような苦しむような顔をしていた。そこだけが三百年前の相手とは違った。男の構えた剣を、竜はもはや避けようとはしない。ただ陰気に笑っただけだった。
やがて突き出される、巨竜の喉をめがけた黒剣の一突き。風を切り、肉に到達し、そして生命の光を奪う、その最後の音を、黒髪の魔導師をそっぽを向いて聞いていた。卑怯に目をそらして聴いていた。それすらも本当は聴きたくないように、口元はぼそりぼそりと、歌にしては陰気な繰言を紡ぎ続けている。風に散ってそれは誰の耳にも届かない。
――ああなんてあの生き物は。
ああなんてお前は。
「私自身を映し出すのだろう」
孤独に呟いた言葉は片方だけの頬にすっと一筋こぼれて消えた。
メイス・ラビットが目覚めたとき、周囲からざわりと声が湧いた。その音を聞き、覚醒が進む。目覚めて最初に目にしたものは、真っ黒な無感動な師の顔だった。優しく身を起こさせてくれる誰かの手を感じたが、赤い瞳の少女には師以外は目に入らなかった。
ただただ見上げてくる弟子に、師はいつものような不機嫌さも怒りも見せずに
「お前を見つけたときの話をしてやろう。奴の気配を最初に感じた二年前。お前の故郷の森で白濁の肉塊が蠢いていた。少し脅すと人間を吐き出した。――お前の母うさぎ、兄弟うさぎを殺した猟師だ。肉塊に包まれて、とうに窒息死していた。猟師を吐き出しても、普通の小うさぎよりも肉塊は大きかった。お前はすでに猟師に殺された母うさぎも兄弟うさぎの身体も取り込んでいた。さらに私の目の前でその肉塊は猟師の猟犬を食らおうとしていた。そのまま放っておけば第二の竜になったか、それ以上の化け物になったか。だから私の肉を与えて人に仕立てた。お前がそこまで知識を習得できたのはそのためだ」
見開きっぱなしだった赤い瞳がそこで弱々しく一つだけ瞬いた。
「お前の元になったのは記憶にあるとおり、確かに小うさぎだ。それにたまたま竜の片鱗が食い込んだ。だが、人からその姿に戻ることはできない。魔物が関の山だ。お前の脳はもう肥大してうさぎのものとは構造からして変化している。身体もだ。――とうの昔に、わかっていたはずだ、お前なら」
おい、と聞きなれた誰かの掠れた声が、非難するようにあがった。けれど淡々とした師の言葉はとまらなかった。身をかがめて間近で視線を合わせた。間違いなく伝えるように。
「お前は一生、人間のままだ」
とても長い、幼児が持つような緩慢な沈黙の後、ゆっくりとメイス・ラビットは顔をあげた。首筋で乱れた髪が無防備さを露にしている。まだ赤い瞳がじっと師を見上げた。
「――どうして私を、人にしたんですか」
「それしか暴走を食い止める方法がなかったからだ。人としての理性を持たせて、獣性をコントロールさせるしか」
言葉の途中で鋭い音が遮った。誰もが目を見張った。少女の白い手が師の顔を張り、そのまま宙に留まっていた。毅然とした怒りを示していた顔がぼろりと崩れる。
「なりたくなかった!!」
真っ赤な瞳から涙をこぼして少女がしゃくりをあげる。「なりたくなかった、なりたくなかった!」
人間達の間で戻れることのない少女が赤裸々に泣く。
「メイス――」
たまらずしゃがみこんだ男にも、癇癪を起こした少女は容赦しなかった。
「馬鹿っ!」
ぴしゃりと真っ向からぶつけられた言葉に固まる男の前で
「どうしてレザーさんだけ元に戻れるんですか! まだ一口も食べさせてもらってないのにっ! 食べたかったのに! 本当に食べたかったのに! 私は人間のままでレザーさんも人間で、人間の間で私がこれから一人でどうやって――!!」
さらに涙が盛り上がってくる顔は、男を上も下もないほど狼狽させたらしい。
「いっ、一緒にいる! 一緒にいるから、メイス、な!」悲鳴のように言った後、ふとこらえきれないものが押し寄せて胸が詰まったように、絶望して泣く少女を必死に抱き寄せた。胸に押し付けてしっかりとその頭を守るように抱え込んだ。「泣くな。だから泣くな。頼む」
言葉も知らず少女は泣くだけでしばらくして、その嗚咽の中で誰かがふっと笑った。その声に必死だった男が顔をあげて困惑したように眉を寄せた。仲間達から一歩進み出た暖色の巫女がそこに立って、目線をあわせるように中腰で顔を寄せていた。瞳が絡むと、巫女は優しく笑った。
「レザー、私たちの答えは、その子が大人になってからまた出しましょう?」
予想外の言葉だったらしく、男は目だけでだけど、と弱々しく反論したが
「私はいいの。あなたの他には誰も考えたことがないから。主だけでたくさんよ」
口が何かを紡ごうとしたが躊躇い止まり、抱きしめた少女を見下ろして「すまん」と一言細く言った。そこでふと気付いたように
「――あいつは?」
それだけで仲間達には伝わったらしい。そういえば、と見回したが、黒い髪の女魔導師はもうその場からは忽然と姿を消していた。どこへ消えたのだと思い、その一拍後に腕の中で響いていた嗚咽が消えているのに気付いた。
とりあえず魔導師のことは置いておいて見下ろすと、少女は泣きつかれたのか眠っている。その寝顔に安堵した瞬間、男の膝から力が抜けてがくりとその場に腰をついてしまった。
「疲れているのね」
巫女が少女を受け取った。あぁ、と手放して本当に力が入らない体を重く感じながら答える。ふう、と誰かがそのときため息をついた。
「とりあえず、レザー」
ため息をついた主は気の抜けた調子で、そう呼びかけた。レザーはそこでやや緊張したように顔をあげて、あ、あぁ、と答えた。赤銀の髪のリーダーは少し疲れたように、けれどごく普通そうにそこに立って見下ろしていた。
「お前とその子の今後を考えるのは、俺たちが混じってもいいよな」
蚊帳の外はもうごめんだ、と告げられたその言葉をしばらく戸惑ったように弟分は吟味していたが、どうしようもない疲れが襲ってきたらしく立てた膝に大儀そうに顔をもたれさせ
「わりい、リーダー」
起きたら、全部話す。
そう言って青い髪の男は気絶するように目を閉じた。その前でしゃがんだリーダーはおもむろに腕の裾をまくりあげ、ぶつぶつと何かを呟き始めた。「1,2,3…」というリーダーの口から漏れる謎の数字に意識を手放したはずの男は少し目を開けて
「……なにしてんだか聞いていいか?」
「動くなよ」
上の空でリーダーは作業を続ける。言うとおり動かないまま、少し仲間の方を見やると何かを含んだような温かく見守るようななんとも言いがたい視線が返ってきた。それは気になるにはなったものの、精根尽き果てた身体はそのまま目を閉じて、レザー・カルシスは今度こそ深い眠りへと落ちていった。
エピローグ
茶色の髪は少しカールがかかって、いつでもふわりと柔らかそうで。
緑の瞳はそれ以上に乾いた胸にしみこむような色合いを湛えて、笑みで細められるたびにその光が押し出されてにじみ出るようだった。
長い苦難の冒険にも耐えられる引き締まった体をしていたが、彼女の持つ柔らかさ、その優しさは損なわれようがない。掛け値なしに美しかった。特に広がるその微笑みは至上だ。この世のすべてを優しく作り替えるような花園だった。
「――なに? 話って」
声も柔らかかったが、透明なガラス細工のようにりんりんよく響く。にこりと笑うと少し目元がたれた。
そんな無垢に要請するには、わずかな躊躇いがあったのは事実だ。黒髪の女魔導師はうつむきがちにぼそぼそと聞き取りにくい調子で話し始めた。他人が聞けば苛々するようなそれだが、よくしゃべる彼女はすばらしい聞き上手でもあった。
絶妙な合いの手やその表情で柔らかく受け止めて、しっかり聞き届けた、というようにうなずき終わって、それから少しだけ思案の時間をとった後、緑の優しい目をあげて再び微笑んだ。
「つまり、あたしに毎朝自分のこだまと会話するのが日課でしかもそれに反論して怒鳴りあってて気分が盛り上がってきたらところかまわず絶叫して浸ってる天然酔っぱらい性質に加えてガキと飴の奪い合いするような幼児性とモンスター相手にはあんた人格崩壊してんじゃないのって感じの性格破綻を兼ね備えた腹が真っ黒いエトセトラ色々トリプルの相手と結婚してくれって言うのマジで?」
春の日だまりのような微笑みの前で、黒髪の女魔導師は綺麗に凍り付いた。
硬直した後、思わず泣きそうになった顔に、相手は罪がなさそうにきゃらきゃら笑って肩をばしばし叩いてきた。
「ジョーダンジョーダン。こんなことで泣いちゃだめよ」
自分より頭一つ分は高い相手の頬を手を伸ばして包みこみ、コルは可愛いなあ、とくすくす笑う。魔導師の顔がかあ、と赤くなった。むしろその相手を慈しむように女は間近に顔を寄せて
「いいよ。別に。あたしも好きだし」
「……」
「いやコル、自分で持ち出しといて「すげえ趣味わりいなあ」って顔するのやめてよ」
ぺち、と包み込んだ頬を軽く叩いて
「あいつはバカで変態だけど、いー男だと思うよ。それに今は英雄様だしね」
この後でその英雄様はぼろぼろ泣いちゃうんだろうけどさあ、と服に手を突っ込んで背中をかきながら吐かれた言に、黒髪の女魔導師がはっと目を瞬かせた。背中から手を引き出して女は何気なく
「コル、あたしは学はないけどバカじゃないよ。だからわかる」
いたたまれずにうつむく魔導師に、腰に手をあてて女は気づかれないように鼻でため息をはき出すと
「なんだか拍子抜けだよね。悪い竜を倒したら、これからみんなで幸せになれると思ってたんだけど……ビスタとマロードも故郷帰るって言い出すしさ」
二人の仲間の名をつぶやきながら
「お祭りが終わっちゃったみたい」
後世、聖女と呼ばれる女は腕を組み、寂しそうな顔をしたが、瞬き一つで己が顔からそれを拭いとってしまった。からからといつもの軽い調子で
「あたしもなんかあたしの絵描きたいってオッサンが出てきてね、なに考えてんだろうね、神殿破門にされたような女にさあ」
「ラファナーテはきれいだ!」
ばっと顔をあげ、言葉は途中で不器用に詰まったあと、つっかえながら続きが出た。「ど、どんな木より、どんな空より、きれいだ」
まだ人と向かい合ってしゃべるのが得手ではなく、ぼそぼそと口ごもる相手を女は愛しく見つめて、歩を詰め思い切り抱きしめて耳元で口早に囁く。
「大好きよ、コル」
囁きにびくりと震えるその仕草が余計愛しいと言うように、身体を離して右頬にチュッと口づけた。何がおこったかわからないという相手から、野うさぎのように機敏に跳び下がって彼女は堂々と言った。
「結婚してあげる。でもあたしがあなたに渡すのはそれだけじゃない。いつか思い出すわ」
とてもついていけていない相手にはまるでかまわず、女はたてた人差し指で顎を支えながら先へ先へと自分の中で話を進めているらしく
「そうね。プロポーズの言葉はこう言うわ。あたしが――うん。責任を持って」
そこで言葉をきって女は見つめてきた。何かをたくらむ子供のような悪戯げな瞳はやがて微笑みに変わった。たくましくて、生命力に満ちていて。どんな女神よりも、美しい微笑みだった。
「あなた達二人を、きっと幸せにしてあげる」
月はまだ出ていなかった。夜がまだ深くないのかもしれないし、新月なのかもしれなかった。風は少なく、夜の鳥たちも今日ばかりはおとなしい。そんな真夜中の木々の間、闇にとけ込むような魔導師は立っていた。それに青い髪の男は少し用心するように近づいていって
「メイスはカールとリットに熱烈に看病されてるぜ」
とりあえず呟いて、それからやや気まずげに
「おまえの方は、どうなんだ」
「融合の際に奴の力など全部くれてやった。これからは醜く老いて朽ちるだろうさ」
「本当っ!?」
パッと輝いた顔に木靴がめり込んだ。蹴り飛ばした後、女魔導師は冷淡に
「つまらん猿芝居を」
ばったり倒れた男は靴跡をつけた顔で上半身をおこし、だってさあ、と口にしてうつむいた。
「コル、俺のこと大嫌いって言うし」
「ああ嫌いだともこのバカが。言うに事かいてあんな腐れた真似をしくさって貴様の子孫がふがいなさすぎてバカの虚像につぶされてぐだぐだぐだぐだガキの頃からちっとも成長してなくて全く使えない有様だから渋々呼び出せばその元は輪にかけた愚か者だ」
弟子を彷彿とさせる早口で言い切った魔導師だが、目の前の男がにこにこと嬉しげに見上げてきているのに気づき舌打ちした。
「そのにやけ面はやめろ」
「コルがまた俺に口きいてくれるのが嬉しい。コルが俺の前にいてくれるのが嬉しい。生きててくれるのが嬉しい」
コル、男は優しく呼びかけて見上げてきた。
「俺、生きててよかった」
「……」
「本当に幸せだった。ありがとう。コルが俺を生き返らせてくれた。学院もなにもかもいやになって、死ににきた俺を。俺はずうっとあのときから、コルを魂の半分だと思って生きてきたよ」
その言葉が気に入らなかったように、女魔導師は黒い瞳を厳しくさせた。
「貴様は恩知らずだ。その感謝にもっとふさわしい人間を忘れてる」
「……」
「どんな魂より、美しい魂だった」
地に腰掛けたまま、男は少し黙った。優しく力強く笑う女の姿を互いが共有した。その名を、そのことを口にするときばかりは黒衣の魔導師の在り方も優しくなるようだった。
「でも今は。ラファナーテより、あの子が大切なんだろ」
「……」
「確かにコルの娘はとっても可愛いね。いつもそうだ。最初の時もコルは――」
突然、座り込んだ青い髪の青年が言葉を切った。黒魔導師に不審を抱かせるには十分な間停止した後、焦ったように髪をかきわける。
「俺は……パルスを連れて……ラファナーテが言ったから……わからなかったけど……生まれたばっかりのあいつをつれて――コルに会いに行った」
青い髪の青年の体が跳ねるように立ち上がった。やや顔をさげて近づけていた魔導師のそれとぶつかりそうになって引かれる。
「コル!」
腕が伸び抱きすくめられてその耳元で何かが素早く囁かれた。そしてついでだという風にその頬へと唇が掠めた。女の硬直がとけないまま、突然男の方がぎゃっと叫んで跳びずさる。闇夜に狼狽した相手はもう一歩さがり、
「変なことしねえってのが条件だったのに」
口元を腕で隠し夜目にもわかるほど顔を赤くさせて呟く青年を、黒髪の魔導師はゆっくりと眺め
「あのバカはどうした?」
「か、帰った、それが約束だったし」
「その前だ」
問いかけに男は身じろぎした後
「……思い出したんだよ……ずっと忘れてたこと」
「……なにをだ」
黒い瞳が訝しげにすがめられる。問いかけると初な少年のようにさらに顔を赤くさせて黙った後
「あんたの、顔だ」
「……」
「最初の子供が生まれたとき、ラファナーテに言われて、あんたに見せに行って……そんときあんたが見せた顔が……」言いにくそうに紡いでいた男は、一瞬の逡巡の後、思い切ったように「それを見て、あいつはなんの後悔もなくなったんだって」
言われた方が恥ずかしさを覚えるだろうに、なぜか自分が余計にいたたまれず青年は目をそらす。女は別段照れることもなく淡々とそれを飲み込んだようだ。
「――あれとのことは、私がラファナーテに頼み込んだ。今思い出してもよくあんなバカに添ってくれたものだ。稀有な人間だった。ラファナーテがいただけで、あの時代のすべてに意味があった」
「……だからメイスを、その顔にしたのか?」
答えない女に男は畳みかけた。
「あんたは、急いでメイスを人間にしようとしていたんだな?」
竜の片鱗を抑えるために。沈黙は肯定と受け取って先を続けた。
「じゃあ、俺はなんだ。抱えきれなくなったから、俺に押しつけようとしていたのか?」
一方的に投げつけながらも、男はどうやら自分で推測した答えもまた持っていたらしい。わずかな沈黙の間も抱えきれなかったように視線を落とした。「恨んでいたからか? だからか。三百年間……」
呟いて、バカみたいな数字だ、と男は思った。そっと唾を飲み込むと、かすかに土を踏みしだく音がして顔をあげた。先ほどと変わらない距離に、女の横顔があった。女は上向きに梢がかかる夜そのものを見つめるように遠くを見ていた。
「あの呪いは、自分の命を絶った者が最も愛しむ相手へと向かうものだった」
人間的だろう、笑う女に一瞬意味がわからなかったような顔をした男が顔を強ばらせる。急いで言いかけた言葉を制して奴はそのことを知らん、と黒魔導師は言った。
「ラファナーテだと確信していた。だから守ろうとして、自分にくらった。間が抜けた話だ」
「……」
拳を握って青年は俯いた。関係ないと振り切ってしまえなくもない話であったはずだが、ひどく複雑な胸中はどうしようもなかったようだ。耐えるような彼の前で、女はそうではなかった。
心地よい水をさまよう魚のように、瞳はすうっと閉じられて、少し上向きな女の横顔は美しい闇の中にとけ込んでしまうように見えた。
「――幸福だった」
目を見開く青年の前で、黒い瞳は穏やかに夜を映してひらかれた。
「三百年間。いつでも幸福だった。身に続く呪いがずっと保証してくれた。ラファナーテの子どもたちは健やかに次の世代へと命をつないでくれた。ずっと二つの証があった。幸福だった。どんな人生でも。誰かに心から想われている。それだけで、何百年でも生きていくには十分だ」
長い長い沈黙も、夜はすべてを許容していた。やがて立ちすくむ男は圧倒された喉に唾をおくり、なんで、とかすれ声で呟いた。
「なんで俺にそんなこと言うんだ。あいつに話してやればいいじゃないか」
「必要ない」
にべもなく言い切った女に、なら自分に話す必要はあったのか、と反論しかけて、絶望した白い髪の少女が頭をよぎって思わず口元に手を当てた。落ち葉をかさりと踏みしだく音に顔をあげると、女はもうきびすを返しているところだった。慌ててレザーが
「また、様子を見に来いよ」
「……」
「メイスはお前を――」
「自分のしでかしたことの責任はとる」
その不器用な承諾の後、黒いローブが揺れた。次の瞬間には消えてしまう気だと、慌てて男はまだもう一つ残っていた質問を口から急いで飛び出させた。
「レザーちゃんっ!」
リシュエント・ルーが宿屋のドアが大きく開け放って叫んでも、四人の部屋の住人のうち、顔をあげて振り向いたのは二人だけだった。
その二人のうち、一人は赤くさせた顔を向け、もう一人は座ったままこちらを見てきた。振り向かなかった残りの二人のうと一人はなぜか床に座り込み、もう一人はテーブルに伏せたまま動かない。
飛び込んできた少女が口を開く前。床に座り込んだ赤銀の髪の青年が、突然悲鳴のような怒濤の音量で空を向いて笑い始めた。その笑い声に刺激されたようにテーブルに伏せていた灰色の髪の男もがんがん傍らを叩いて肩をふるわせている。立ったままの青い髪の男が顔を真っ赤にさせて
「笑うなっ!」
と叫んでいる。なんだかすごく面白そうなことがおこっている、とリシュエント・ルーは思ったが、ともかく顔を真っ赤にして二人に怒鳴っている青年に
「レザーちゃん! メイスちゃんが!」
「なんだ!?」
メイスの名に緊迫感が増すかと思ったが、さらに新たな笑いが巻き起こった。もうめろめろに笑ってる二人に、ものすごく楽しそうだから後で絶対教えてもらおう、と心に書き留めつつ
「いーからきて!」
と青年を引きずった。呼吸困難を起こしている二人を放っておけないのか、部屋で苦笑して佇むグレイシアをおいて二人で駆け出す。狭い階段を駆け上り、廊下の突き当たりにある宿屋のドアを破らんばかりに開いた瞬間
「レタスっ!」
ヒステリックな言葉が正面からぶつかってきてレザー・カルシスは止まった。ベッドの上で少女はいっぱいの青野菜を頬張りながら、なぜか怒鳴っている。
「レタスっ! レタスっ! レタスっ!」
腹いせのように怒鳴り続ける少女の異様さに、やや引きつった顔でレザーはベッドのそばに立っているカールに目をむけ、なにがどうした、と目で聞くと、静かに首を横に振られた。かわりと言うようにベッドの上の少女が腕を振り回す。
「レタスが食べたいんですっ! レタスがっ! ああレタスがっ」
八つ当たりだと気づいて一瞬とまったあと、取り直すように、なあ、と肩に手をおいたが、邪険に振り払われた。困った顔でリットとカールをもう一度見やりながら頭をかき、それからベッドでふてくされている少女に身を傾け
「なあ、メイス――」
白い月光が窓からさあっと差し込んできた。弱いのだがどこか逆らえきれない呼び声に渋々そちらを向いた少女は男の姿を見いだせなかった。
突然の消失にえ? とリットとカールは顔に疑問符を描いたが、赤い瞳の少女は大きく目を見開きそれまでの投げやりさをかなぐり捨て、急いでベッドの下を見やり次の瞬間、歓喜の声をあげた。
「レザーさん!!」
拾い上げられ熱い包容を受けた一拍後に、少女の腕の中にすっぽり収まった男の悲鳴がわきあがる。
「ああああああああああああああああっ!?」
「会いたかったですっ」
「あ、あいたくねえええええええ!!!」
瞬間、ドアがばんっと開いた。その向こうには二人の男が廊下に突っ伏して、もう声にならない勢いで床をどんどん打っている。二人とも、笑ってる場合じゃないわよ、と暖色の髪の巫女は言い、部屋に入ってきながらちらりと視線を落として
「今度は月光を浴びたときだけ――かしら?」
その声と二つの笑声が通り過ぎる。呆然とした球体はみずみずしい葉を揺らして
「わ、わらうなバカっ! なんでだっ! 夢かおい嘘だろ! おい魔導師! 魔導師! 性悪魔導師―!!!」
「レザーさん!」
悲鳴を帯びた絶叫を封じ込めるように、輝くような笑顔で自分を抱きしめる少女の腕。すっぽりおさめられて、混乱する緑の固まりの脳裏に、どういうことだ、と呼び続ける魔導師の言葉がよみがえった。
去り際に、恨んでもいないならどうしてよりにもよってレタスになんか変えたのだ、と問いかけると、別段笑うこともなく女は答えた。わりとまじめに。
――それがバカ弟子が最初に喋った言葉だからだ
人になりかけのうさぎの腕で、小さなレタスは目眩と共にその言葉を反芻させて。
「わ、笑うなっ! 見るなっ! レタスじゃない! レタス言うなっ! なっ、なっ、なんで、俺は、いつまでもこんな目に遭うんだっ!!!」
そう、レタスになった男は叫んだ。
レタスになった男<完>
ここまで読んで下さって、本当にありがとうございました。
葉山郁 拝
完結後の番外編を後で更新します。




