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レザーになった男(6)


 くすぐったいようなまどろみの中だった。

 平和で単純な世界の中で、竜はその音を聞いた。丸めた体のまま、ゆるゆると首だけをもたげる。

 前方に何かが投げ込まれたようだった。こちらから動き出す前にころころと地面を勢いのままに、何か丸いものが転がってきた。

 言い表すということを、その時は知らなかったけれど。丸めた体を伸ばしたところでややぎくりとした。なんというかそれは奇妙なものだった。ちっぽけな、本当にちっぽけな塊でしかないのに、巨大な自分に奇妙さを感じさせた。

 奇妙さはそのちっぽけな球体の持つ色にあったのかもしれない。取り返しのつかないほど濁った白に、鮮やかな赤がふりかかる。そのもう少し向こうで横たわるなにかの身体。少し首を近づけて匂いをかいだ。食べられるものだと鼻は告げていた。

 その時、耳をかすかな音色がかすめた。音源を求めて見上げると、切り立った崖の上に幾つかの影が突き出していた。きつい日の光にかき消されそうな小さな影だ。その形はなんだか見覚えがある。ああ、そこに落ちているなにかの身体とそっくりだ。ただ、そこに落ちている身体はもう動かず、崖の上の影は動いているが。

 それらは不思議な鳴き声を発していた。警戒の声とも威嚇の声とも違う。口を開いて歯を剥いて、その音を奏でるときとよく似ていたけれど。

 それが笑う、ということだと知ったのは、そんなに後のことではない。

 崖の上の影を特に脅威と思わず、再び視線を戻した。目の前に食べ物があった。ならば躊躇うことではない。けれど何かしら引き止めるものを感じて、顔を向け鼻をかいだ。本能に従うならば食すはずだ。けれどもうひとつの本能が何かを叫んでいる。触れるな。きびすを返せ――それは――それは――

 しばらくして、竜はそれを口に入れた。食べ始めると止まらなくなった。音を立てて一息にむさぼり食らった。聞き入れられず消えていった本能の声が闇の中に落ちていく。たどり着いた静寂の底で一度だけ吐いた。

 それは、毒だ。




 相貌には、真っ赤な光が溢れんばかりに満たされている。たくましい黒色の筋肉で覆われた肩がゆっくりと両左右に広がっていた。その緩慢さは自身の巨大さを十二分に知り尽くしている、とでも言わんばかりだ。

 両翼は骨に皮を張り、その表面にもまたうっすらと筋肉の盛り上がりがある。外皮には鳥のような羽毛はなく、すべては墨で作り出したように黒い。艶もなかったが、その完全さが美しい。

 翼の形はちょうどコウモリのそれのようで、伸ばせば長く、身体の割には幅がない。しかし引き寄せればぴったりと身をすべて包み込み、名高き鱗で無防備な身体すべてを完全にかばうことができた。

 伸びきった翼が羽ばたき始めた。両左右まったく同じタイミングで上下する。そのたびに周囲の巨石がごろごろと転がり、泉は嵐がきたように大きな波を作り出した。大気を混ぜて風がはぜる。

 竜は、飛ぶ気だった。

 しばし頑固にその重い身体は地面から引き離されることを拒んでいたが、ふっとその爪が大地から離れた瞬間、それまでのひそやかさはかなぐり捨てて、巨体は一気に窪地から飛び出した。

 風を切り、青い空を滑る。他の飛行を許さぬ暴虐な王者以外には、この地で空を舞うモンスターはいない。

 悠々と王者は一人きりの空を楽しんでもいいはずだったが、その身体は大地すれすれに下降し、山の稜線にそって飛び始めた。丁寧になぞるようにそいながら、赤い瞳はめぐる。慎重さすら感じさせるその飛行は長くはなかった。チッと風の乱れを感じて首が動く。赤い瞳が真下へと注がれて、一瞬、それがとどまった。

 木の葉に姿を覆い隠されそうになりながら、浮かび上がるのは、白い小さな少女と青い髪の男。油断ならない青い髪の男がハッと顔を上げ、真っ直ぐにその瞳とぶつかった。

 次の瞬間、漆黒の竜はその口から紅蓮の炎を地上めがけて吐き出した。




 灼熱が周囲をなぎ払った。木々は根元から唸りをあげてきしみ、小動物の逃げ惑う悲鳴が木の葉に揺らされる。ひどい震動は二度、三度と続き、たまらず身を伏せてメイス・ラビットが近くの木の幹にしがみつくと、温かい片腕が覆い被さる。

 なんとか見開いた瞳に、雪崩れのように押し寄せ迫る木々の緑が飛び込んできた。植物の反逆かと肝を冷やしたうさぎは抱えられて背後に引きずられる。自分の力で引くことも出来ず、赤い瞳は見開いてその光景を見下ろしていた。

 雪崩れをうつ木々の緑、山の表面が削られているのだ。一対の翼は夜を錯覚させるように果てしなく広がり、太い足はその自重で山を削り取りながら胴体を支えて、哀れな山の表面をずたずたにしている。凶暴にふられる身体のわりには小さな頭、そして――

 貫くような直接的な痛みを覚えてメイス・ラビットは音にならない声を吐き出し、胸元を抑えて悲鳴をこらえた。

 息ができずに喉ががくがくと震えもがく。痛い。胸ではない。頭だ。いや、頭ではなく。目元の熱い不快感にメイス・ラビットは痛みの場所を知った。

 ぼろぼろと節操無しに、血走った目が涙をこぼしているのが視界からわかる。あまりに痛みがひどく直接的だったので、流れているものは血かと思ったが、触れてみると透明なただの水だった。それにしても容赦ない痛みは尋常ではない。

 もう一度、限界の苦しみを抱えたまま視界が漆黒の迫り来る危機を映し出し、小さな頭の中の、これまで目にした竜のどの姿よりも激しい赤が入ったとき、痛みは残像だけを置いて波のように引いた。すっかり涙で汚れたメイスに、余裕はない。

 そこには竜がいた。

 カリスクの悪夢で見た姿よりも一回りは大きく感じられる。が、なによりも激しいのはその臭いだ。肉も食す竜の体臭は決して心地よいものではない。クラーケンのようなむせかえるようなえげつなさはないが、より獣臭くより獰猛さがこもる。香りも圧倒的な質感を秘めている。

 人のように竜を邪悪とは捉えないメイスもぞっとさせた。

 頭の横でカチンと硬質のもの同士が触れ合う音がした。見るとカリスクが腰のベルトから手を離しているところだ。きっと抜き身の剣をベルトに収め、そのときベルトの金具が触れ合って立てた音だ、とメイスは見当をつけそして自分自身の見当を疑った。

 竜の息遣いは極めて近い。カリスクが抜き身の剣を手にしていたことは不審ではない。しかしそれを今この瞬間、腰に収めるとはどういう了見だ?

 唖然としてメイスが顔をあげると、やはり空手の男の横顔が見えた。黒い火のようにどろどろとたぎっていた憎しみなど影もない。困ったように眉を寄せ、けれどその表情は力なく笑っていた。

「――二回目だ。長い人生で一回。長い人生が終わってようやく二回」

 やるせない視線がゆっくりと竜を撫でる。

「俺に会いにきてくれた回数だよ」

 正気と狂気の境界線をどこかに置いてけぼりにして、どうしようもなく混ざりあった男は首をかしげた。笑ってはいたが、悲しげな動作だった。男は竜を見上げた。黒色の竜は反応を見せなかった。男の視線に非難はない。ただ、悲しそうに。どうしようもなく悲しそうに、男はじっと見上げて言った。

「そんな答えしかないのか、コル」




 次に声なきうなりをあげて動き出したのは黒色の竜だ。翼の付け根が盛り上がり、もたげた首が爆発直前の危険を漂わせる。まるで山の一部が動き出すような圧迫感に、他人事のようにそれを見ていたメイスの腕が強く掴まれて引かれた。

「逃げるよっ!」

 鋭いカリスクの声が聞こえたかと思うと、引かれた先で足元の地面の感触が消えた。絶壁となった小岩の向こうに投げ出されてメイスの腕から手が離される。

 眼前に真下の木々の茂みが迫り、なすすべもなく足は茂みに突っ込んでぴしぴしと弱々しい枝の抵抗の後、メイス・ラビットは木々の下の茂みでとまり、落下途中で掴んだのか折れた枝を持ったまま聖カリスクが一拍遅れて飛び降りた。

 瞬間、カリスクが枝を捨てて走り出す。すぐ背後に木々の悲鳴が迫っていて、慌ててメイスも続いた。襲来する竜は、厚い葉に視界を隠されて、居場所を詳しく特定できていないようだが、ともかく滅茶苦茶に辺りをなぎ払っているらしい。立ち止まる暇も思考を広げる暇もない。

 道もない山の斜面を、人の身でありながら鮮やかに駆け下りていくカリスクに続く。どう考えてもメイスの方が速いはずなのに、木々の根が岩や穴に絡みところ狭しとくねって生い茂る最悪の足場の中を、走れるという段階で凄いことなのに男は引き離す勢いだ。

 レザーもわりと規格外な動きを見せることはあったが、これは凄まじい。破壊音は少しずつ遠くなり、枝葉に隠された小さな人間たちを特定することが困難になっているようだ。ふと鼻先を掠めた流れる水のにおいに

「先には川がありますよ」

 言葉を吐くまでもなかったらしい。どんどん斜面はきつくなり、すでに止まることも難しくなっている。メイスが危惧したとき、先の茂みが明るくなってきた。開けたところに出ると茂みを抜けたとき、真っ白な光に目が焼けた。腕がぐいっとつかまれて慣性がついた体が無理に留められた。しかし止まったのはつかの間。

「これならいける」

 と誰かが叫んでそのまま引かれて、足元から地面の感触が消えた。

 それも今度は長い間。

 最後に耳にとびこんできたのは、激しい衝撃とぼこぼこと水の中で泡が生まれる音だった。

 



 クリーム色の夢だった。自分の夢ではないことは、その色を目にした瞬間すぐわかった。自分の中におおよそあるとは思えない配色だったからだ。

 それは気味が悪いほど柔らかそうな人肌の色であり、うごめく肉の色だった。

 むくむくとはちきれそうな赤ん坊を受け取って、完全に引き腰で男がのぞきこんでいる。力加減のわからないおっかなびっくりの手つきで、とりあえず落とすまいとしゃにむに胸に押し付けると、お気に召さなかったらしい。その身の小ささから考えるとびっくりするほど大きく泣き出した。

 ――パルス?

 火のついたような泣き声の合間に、男が顔をあげる。

「なんで?」

 泣き声はますます激しくなる。なんとか自分から距離をとろうと、腹の方へとうんと手を伸ばして下げる、という奇妙な格好のまま「笑って生まれたから?」と聞き返す。

 男に向かって二本の腕が差し出された。ほっとした色を全面に出し嬉しそうに返す無礼な男から、クリーム色を受け取る。温かい腕に受け止められて、誰かが笑った。クリーム色の赤ん坊だった。あれほど泣いていたのにすぐ笑う。

 すぐ、わかるわ。

 涼しげで、それでいて、一瞬ハッとするほど凛々しく張った女の声。男が不思議そうな顔をした。それに向かって告げられる、自信に満ちた歯切れの良い声音で

「言ったでしょう? あたしが責任を持って、あなた達二人とも――」




 揺り起こされて目がさめた。すぐ近くに人の気配を感じて一瞬身がこわばったが、水っぽい空気の中で嗅ぎなれた匂いを感知しああこれなら大丈夫と、メイス・ラビットが再び意識を閉じかけると、また強く身体を揺さぶられた。

 覚醒はわずかな苛立ちを伴っていた。無理に起こされたせいではない。そばにいる人間が誰かを思い出してしまったからだ。

 半身を起こしてからそっぽを向いた。するとそれを察したのか、そばにいた人間が立ち上がって離れていった。耳をすませると、薪がはぜる音がする。辺りは夜なのか薄暗い。

 意識を手放す前の記憶ははっきりしていた。海綿が水を吸い込むように、寝起きの心がみるみる惨めな気持ちで浸されていく。メイスは膝を抱いて小さくなった。

 もうたくさんだ。レザーは気にいっていたあの姿をやめてしまった。そしてひどいことに気に入っていたあの中身まで消えてしまった。師匠は師匠で以前にも増してまったく勝手だ。やっと人の姿に慣れてやったというのに、まったくたくさんだ。人間はどいつもこいつも勝手すぎる。

 レザーがおかしくなった。とっくにカビの生えた英雄だという。レザーはどこかに身を潜めている。勝手極まりない。一度出てきて文句を言わせろ。そしたら今度は師だ。黒色の竜だった? 冗談じゃない。

 気づくと自分はひとりぐすぐずと泣いていた。文句を口から再現なく垂れ流しながら。世界は寒くてまったく嫌になる。

 ふうわりと頭の上に温かいものが触れた。ゆっくりと動く。撫でているようだ。いつの間にまたそばに来たのかは気付かなかったが、手の主は一人しかいない。受け入れる気持ちには到底なれず首を振って払うと、一瞬躊躇ったように手は離れたが、やがてまたおずおずと撫でてきた。

 仕方なく顔をあげると、やはりすぐ横で男が片膝を立てて腰掛け、こちらを黙って見ていた。思いつめたような困ったような光が揺れる目でじっ、と見つめて

「泣くな」

 勝手なことをまた、とほとんど反射的に生まれた反感は突然訪れた予感に押し流された。

「レザーさん?」

 男は一瞬驚いたような目をした後、その目からすうっと光が消えて虚ろさが生まれた。直前の顔からわかってしまった。もう短くはない付き合いだ。それくらいはわかるのだ。

 ――逃げた。

 瞬間、メイス・ラビットはかっとして容赦なく横面を引っぱたき、逃げていく身体を襟首を掴んで引き戻し

「レザーさん、ちょっと! 聞いているんですか!」

 本来草食動物の性質で狩猟本能がまったくないためか、態度と言葉はそうでもないがメイスが他者に暴力を振るうことはない。しかし今は乱暴に襟首を掴んで揺さぶり、びしゃびしゃと雨のように無抵抗な頬に掌を降らせていく。

 だが、長くは続かなかった。さっと頬との間に差し入れられた手が苛立ちの掌を受け止めた。

「なんで俺は殴られているんだろう?」

 変なことはしてないよ、とさすがに戸惑った目で見てくる相手を認めた途端、メイス・ラビットの激情はすうっと失せた。「すみません」と冷めた声音で相手の襟首から手を離す。解放された相手はちょっとこちらの様子を、あの尺にさわる目つきで伺った後、笑った。

「でも、さっきのちょっと、ラファナーテみたいだった」

 凄い目で睨みつけていたらしく、無神経な男「共」はうっとひいたあと

「ともかく、火にあたって。着替えがないから。着てかわかした方がいいよ」

 そこでようやくメイスは自分たちがいまどのような場所にいるのかを認識した。傍らにかすかな水音をたてる貧相な流れがあった。深い谷底に流れる川の岸辺で、夜かと思ったがあまりに深いので光が差しこまないらしい。真上を見上げるとまだ十分明るい空が見える。

 あの時。ぐんぐんと進んだ山の先が開けていたのはやはり絶壁があったからで、メイスに予測も与えない間に、男は冷静にその下に流れる川の淵をはかり、判断して飛び込んだのだ。即断の思考回路と行動だ。ついていくだけで目が回る。その後の記憶はないが、今ここにこうしている以上、流れに乗じてうまく岸辺に乗り上げたのだと判断するしかない。

「……竜は?」

「逃げ切った」

 集めてきた枝を折りながらカリスクは言った。その様子はメイスが意識を手放す前と別段変わりないように見えた。

「――あなたは、また、おかしなことを言ってましたね」

 咎めるように言ったが、男は枝を折る手をとめなかった。

「あれはコルだよ」

 メイスは一拍ぐっと飲み込んでから

「お師匠様は性悪で極悪で人の迷惑を顧みない野蛮な人間ですが、少なくとも竜になったりはしません」

「赤い光の珠――を集めてたって言ったね。奴の片鱗だよ。しぶとい奴だ、あいつも」

「……」

「コルは竜の呪いを受けた身だ。奴の力が身体の中に交わってる。媒介になるには十分だ。――飛び散っていた片鱗を集め自分の身体をつなぎにして再構成したんだな」

 最後の呟きは独白のようだった。メイスは愕然として相手を見た。

「あなた、お師匠様がすることに気づいていたんですか」

「俺は四六時中コルのことを考えてる」

 それ以前にこの男はひどく抜け目がないのだと、竜退治の一幕をふっと思い出した。

「ここに来たときから、どうしてコルは俺を呼び出したのか考えてた。反魂なんてコルが一番嫌う真似だ」

「――わかるんですか」

「俺はあんまり芸のない男だからね。呼び出されても、使い道なんてたかが知れてる」

 ぱきりと枝を折る音がして、放り込まれた薪が火花を散らす。

「君はコルの考えが読めないという。でもね、昔からコルの目的っていつも一つだけだった」

「……」

「フィナート山の竜を打ち倒し、一族の悲願を達成すること」

「……一族」

「大迫害を逃れた魔導師の一族。そのたった一人の末裔が、コルだ。俺と会ったときはもう残りはみんな死んでた。コルの考えの読めなささってのもそれかもな、コルは自分のやってることなのに、いつもなんか他人事みたいなんだ」

 まあ大昔の一族の意志なんてもんでそこまで熱くはなれないだろうからね。

 炎に横合いから照らされた言葉に、白い髪の少女はしばらく黙った後、

「お師匠様の素性はわかります。だけど、どうしてフィナート山の竜を倒すことが一族の悲願になるんですか」

「あの竜はコルの一族が作ったからだよ」

 炎に照らされた横顔は何気なく凄味を見せつけた。

「元々、竜は邪悪とかそういうものじゃない。ただの獣に過ぎない。でも、あいつは違う。君はまだ中身と触れたことはない? 物凄く厭らしい奴だ。歪んだ落とし子だ」

「竜を――作ったって――」

「大迫害。魔導師はことごとく捕らえられて処刑された。その頃、流行した処刑法がある。魔導師の死体をね、あるいは生きたまま、食わせたんだよ。竜に」

 フラッシュバックしたのは、見上げたあの壁画でメイスの血が逆流した。

「魔力をたっぷり含んだ身体は竜にとっては劇薬みたいなもんだったらしい。それがただのモンスターだった竜を化け物にした。竜と他のモンスターの違いさ。やつらは食ったものをなんでも自分に取り入れるんだ。普通はテリトリーを侵したものだけを襲うものが、タガが聞かなくなった。魔導師の持つ魔力だけじゃない、魔力の中に溶け込んだ知恵まで吸収し始めた。特にフィナート山の竜はひどかった。高度な知性と嫌らしさをもって、人間を巧妙に操って自分のところに魔導師の死体が転がりこむような画策までし始めた」

 残酷な見世物として喜んでいた権力者も何人かその手にかかり果て、慌てて彼らは凶暴な竜達の出現理由を隠し、あるいは魔導師のせいだったと迫害を深め。

 そしてどこかの地点でそれが限界にきた。処刑の刃が喉元に突きつけられてからかもしれない。竜に恐れ慄いた誰かが魔導師に助けを求めてすがりついたのをきっかけに。

「……そんなもの、責任を感じる必要なんかないじゃないですか」

「俺もそう思ったよ。でも、コルの一族はそうは思わなかった」

 そこは結局メイスもカリスクも誰も触れる場所ではないのだろう。メイスは見つめた。目の前の男を。何故竜退治をしたのか、もうわかっていた。師を手伝った。この男はきっと、ただそれだけの理由しか持たない。

「コルはずっとあいつを倒したかった。だけど失敗した。まだあれは生きてた。最近、魔導師を集めてたって? ちっともかわってやしない。コルはやり直そうとしてる。三百年前を。だから自分を媒介にしてまで竜を作ったのさ。今度こそ殺すために。俺を呼んだのは」

 ぱきりと枝を相手は折った。

「もう一度竜を殺させるためだ」

 しばらく呆然としてメイス・ラビットは目の前の男を見つめていた。死者だと言った、気狂いと言った、師の言葉が正しかったのか、今のメイスにはそれまでぼんやりと見えていた男が今はまったく見通せない。

 そもそも察知していたなら何故とめなかったのかがわからない。人の情はさっぱりわからないと思うメイスだとて、好きな相手と嫌い抜いた存在が同一になるなど耐えられぬ事態の筆頭だろうと想像ぐらいはつくのに。

 男はこちらを向いた。さすがにあのひどい邂逅の後は、元気が陰っているし、悲しげな影もちらつく。それでも彼は総じて平気なのだ。あんなに愛を叫んでも平気なのだ。それがメイスには理解できずにただ長時間見つめたことの言い訳に

「……また、出発しないんですか?」

「いいや。すぐ発つよ」

 この谷も抜けなきゃいけないしね、にこりと微笑をすぐにこぼす、口元を見つめる。どんなときでも笑えるのだ。そういう心の持ち主なのだ。これがボロボロの泣き言を吐き出していた時分があるというのが信じがたい、と思った。

「向こうがいやに急ぐから時間をとった方がいいかな、と思ったけど、よく考えるとこっちにも時間はないんだ」

「……」

 黙りこくる自分に大丈夫だよ、と声がかかった。

「方法なら考えてる。俺が勝つよ」

 軽い調子でさらりと言いながらこの男の言葉は絶対だ。三百年前の戦いを見たせいだろうと思うが、それも自信はなかった。この男の中には、例え証拠をつきつけなくとも、人に気持ちを抱かせる何かがあるのだろう。

 ただ、抱くのは期待よりも不安の方が大きい。この男ならやってくれる、ではなく、この男ならやりかねない――という。

 メイスは上目遣いに様子を伺いながら慎重に言葉を紡いだ。

「……お師匠様に、ですか」

「――どうだろうね、でもきっと、コルは俺を嫌うだろうなあ」

 横を向いた、それがこの男の本当にわずかな誤魔化しだったのかもしれない。その一点の事象だけは胸を痛めるように、やや笑みが弱くなる。

「本当に……俺は何を忘れてるんだろう。どうして俺は幸せだったのかな。それだけがまるで思い出せない。思い出せたらもう少しなんとかなるような気がするのに」

 一瞬だけ男は失ったという記憶を悔やんでいたように見えたが、虹のようにつかめないものはすぐに見切りをつけるらしい。その時、メイスの頭をかすめたのは光景でも人影でもなく、不思議な色だった。どこで見たのかも定かではない。甘ったるい軟弱な色だった。クリームに似た色だった。

 けれどそれがなんなのか突き止めようという気すらおこす前に、聖カリスクが手を差し伸べた。

「行こう、メイスさん」

 出ればすぐに見つけてくれるよ。そう言ったときにはその顔は、もう、笑っていた。




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