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レザーになった男(5)


 手のつけようがない夜の中を、次に動いたのは全くの第三者、山々の闇の中だった。

 暗い復讐を宿していた男がハッと顔をあげて立ち上がり、素早く周囲を見回した。メイスが訝しげに問う間もなく、片腕が少しきついくらいに握られて、男は焚き火から太い枝を一本拾い上げると、後も見ずに歩き出した。

「ど、どうしたんですか?」

「話は後だ」

 しばらく歩いて立ち止まるなり男は近場の最も太い木に松明をくわえて登りだした。一番低い枝にとび乗ると、まだ地上に置いてけぼりにされた少女を見下ろし、

「君は、跳んでのぼってこれるね」

「一体――」

 言葉の途中でメイス・ラビットは口を閉じ、膝を曲げて跳躍すると軽々と聖カリスクが跨る枝へと移った。

「もっと上へ」

 照らされる松明の明かりに真剣に彩られた横顔で頷き、今いる枝からさらに上段の枝へと跳び移った。

 地上から三リーロルは高さをとったところでカリスクが幹に松明の先端を押し付ける。明かりは一気に失われたが、かわりに「それ」が近づく音が聞こえてきた。異質な無数の気配が轟き夜の中に流れる。

 「それ」は巡礼者のようなある種の規則正しさを持って進んできた。夜目がきくメイスが息を呑む。

 モンスターの進軍だった。それももっとも質が悪いと恐れられたS級モンスターが、夜と濃い闇を孕む木々の幹から下生えの茂みから、あるいは地中を進みながら現れては一様に同じ傾斜を目指して進んで行く。あっという間に百鬼夜行もかくやの魑魅魍魎が跋扈する場所となった地上を見下ろしてぞっとする。

「ドラゴンサークル……!」

「いよいよ大詰めって感じだな」

 何気なく見下ろしてカリスクが呟く。メイスは相槌も打てずに幹にしがみついていた。ドラゴンサークルは飛行モンスターを含まないので、ある程度の高さにいれば危険はないが、そうとは知ってもすぐ足元を自分など到底適わないモンスターが、群れなして進んでいる状態には生きた心地がしない。

 やがていっせいに先の暗闇から葉ずれの音が寄せてきた。モンスターがその身で木々を押しのけて鳴らすそれではない。木々「自体」が前進する、背筋を這い登りぞわぞわと耳から脳へと侵食するようなそれ。特徴的な忘れらない音色に、メイス・ラビットは胃がきゅっと締め付けられ息が切れ始めた。

「――食人草だ」

 松明消したの惜しかったね、あいつら火ィつけたらよく燃えるのに。

 とすぐ足元までその偽の葉が寄せる「森」の大移動を見ながら悠長にカリスクが顔を向けたが、すぐにメイスの異変に気づいたらしい。

「息をとめると、手が滑りやすいよ」

 頭から手を離して肩を数度叩くとメイスはまだ固い様子で息を吐き、「襲われたことがあるんです……」と幹につかまりまだ動かせない視線で言った。

 男は何気なく相槌を打ったが、急に顔をしかめて小さく声を漏らした。ようやくメイスがそちらを向くと、背中に手をあてて不可解そうに

「……急にずきんときたんだけど……」

 ちょうど思い出していたため、痛みの理由にすぐ思い当たった。

「レザーさんも、食人草に食べられたことがあって」

「背中を食われた?」

 そりゃ、痛かったろうに。

「私をかばって――」

 急に胸が詰まって、メイス・ラビットの口から自分自身すら聞いたことがない懇願の響きがこぼれた。

「レザーさんと、少しでも変われませんか」

 切なる声を、男は少なくとも真摯に受け止めたらしい。軽く目を閉じて深い声で一言言った。

「出てこいよ」

 しばしの静寂の後、再び開いたその青い目には少女の失望した表情だけが浮かんだ。

「――眠ってる」

「うそです」

 醒めた男の声音に唇をかみ締めて固い声で言った。「レザーさんは起きてらっしゃるし、あなたの中で少なくともある程度のことは見聞きしてる――違いません。絶対にそうです」

「……」

 何かを考えるような、彷徨うような微笑が答えでメイス・ラビットは恐怖も忘れたように身を乗り出した。

「クラーケンのときも自分自身が食べられそうなときだって、逃げも隠れもしなかったのに……っ!!」

 わなわなと幹につかまった手が震える。

「――そんなに死人が怖いんですか! 馬鹿っ!」

 状況を見れば思わず身をすくめ大慌てで下のモンスター達の動向を伺う罵声だったが、樹上の二人は気にも止めなかった。

 今その表面を意識どっている相手にしてみれば失礼な言い分は、それでも当然のものと受け取られたらしい。聖カリスクは傷ついた少女を前に、静かな表情で内面にもぐるように目を閉じて

「――結構効いてるよ。もっと言ってやりなよ。泣けばダメージは倍増だ」

 善意かもしれなかったが、その言葉を紡ぐ顔が今は気に入らなくて、メイス・ラビットは胸中で罵声を連呼した。連呼した後、口に出した。

「あなたなら、お師匠さまのところに行けばいいじゃないですか」

 散々な事態を足元にして、メイスの言は無茶もいいところの話だったが、相手はそこを指摘して笑いはしなかった。少女の可愛い癇癪ぐらいは受け止められる、というように笑った。

「コルは追っても仕方ない」

 でも君にいなくなられると困る。

 もう少しむしゃくしゃした、このささくれだった気分が収まっていれば、それは無愛想なうさぎ少女の心をも揺らしたかもしれない。それほどに弱っていたのだと、言い訳は簡単に出来る。それでもメイスはそっぽを向いた。ただ別段ためらうこともなく髪を撫でてきた手は拒絶しなかった。

 そんな樹の下をモンスター達の進軍は続く。木々や茂みを避け、あるいは踏みにじり、傾斜を登り、峰を越える。やがて見通しだけはいい荒涼としたガレ場を抜けて、えぐりとられたような窪地の縁へと到達した。

 急激な下りの傾斜となった夜の中を、降りていく。その下では、眠るように静かな窪地を満たす水が青白く輝いていた。

 澄んだ水を湛えるカルデラ湖だ。水に光を灯すものは、すぐ隣に存在していた。モンスターたちの影も一様にそこへと向いている。窪地に次々進軍者は入り込み、醜く争うこともなく身を寄せて、数を増すばかりだ。

 山頂部分を完全に抉り取った、巨大な窪地の湖の横には、まるで異世界への扉のように青白い光を放つ巨大な円陣が広がっていた。複雑怪奇な文様は闇の中で浮かび上がり、モンスターたちは一様にそれを目指すのだ。

 進む夜の化け物たちの様子は、炎に飛び込む羽虫ほど滑稽ではない。しかしその在り方は無機質で、歩みには個々の意識というものが根こそぎ抜け落ちている。

 一際たくましいオーガが先陣を切った。人のそれと比べれば幼子と大人のように違う巨大な足が円陣へとついに踏み入った。瞬間、円陣と文様がパッと眩しい光を散らし、夜を裂くけたたましい羽音が鳴り響くと同時に、まるで透明な布でも被せられたように、オーガの姿はかき消えた。ふっと一瞬香った血の臭いだけが残された。

 後陣に集うモンスターは目の当たりにした光景に対して、なんら思うことはないようだ。次々に光を目指して足を踏み出す。

 火を目指す獣はいない。彼らから抜け落ちていたものは、本能だったのだろう。どんなに簡略化されても行為の真は隠しようもない。魔法陣はやってきた彼らをぴしゃりと両手で挟まれる蚊のように、途方もない力で叩き潰して圧縮していっているのだ。生々しい血臭が漂う。圧縮しきれずに跳ねる血は円陣の周囲へと飛び散る。

 魔女はそこに立っていた。彼らが向かう死そのもののように。

 夜を従えてただひたすら淡々とした瞳で、女はそこに立っていた。次々と獣達は円陣の中に、音色だけを残して消えていく。それも終わりにさしかかったとき、ふと女が小さく呻いて顔を沈めて片手で両目を覆った。

 まるでその隙を狙ったかのごとく、圧縮から逃れたわずかな血がびしゃりと手痛い一撃を食らわすように、魔導師の頬に飛び散って滴らせる。

 けれどもそんなことは片手で両眼を覆ってうつむく魔導師の、砂一粒分の注意もそらせなかったらしい。頬に散らばる搾り出されたばかりの真っ赤な血は、夜の中でも赤く。けれど、顔半分をかたく覆った魔女の手の指の隙間から。

 ――漏れてきた光ほど、赤くもなかった。




 夜が明けてメイス・ラビットが初めに思ったことは、意外にも、赤銀の髪の男であり、無口な隻腕の男であり、暖色の髪の巫女であり、元気な黄色い髪の少女であり、灰色の髪の喰えない男でもある冒険者仲間が、この夜を無事に越えただろうか、という危惧だった。

 次の瞬間には名の知れた冒険者である彼らが、冒険者ではない自分も知っていたドラゴンサークルでの最も安全な場所を知らなかったわけがない、という結論に達してばかばかしくなった。

 夜通しかけてモンスターの跳梁は続いたが、朝の光と共に嘘のように山は静まりかえった。なだれ込んできたモンスター達もそれぞれのエリアへ落ち着いたようだ。

 元から存在する山の生態系をまるで無視した移住だな、と白々しい朝の中で思う。昨夜の逆上も、光の中では馬鹿馬鹿しくなっていまさら取り出して怒る気にもなれない。

 今更発見するでもなく、元々レザーはああいう煮え切らなさ、妙なところでしり込みする弱さがあった。長ったらしく伸ばした髪を願掛けだと言っていたのも、要はそういう杖がなければ立てない脆弱な精神がどこかにあったのだ。

 青い髪の男が聞いたら別の意味で傷つきそうなクールさで、メイス・ラビットは結論づけて、木の下で伸びをしている男を見下ろした。レザーはこの際あてにするまい。この憤りも戻った後に無理難題ふっかければ晴れるだろう。留まる瞳が冷静に細まる。

 結局のところ、"あれ"に自主的にご撤退いただくのが最も手っ取り早いのだ。

 ゆっくり見下ろした後、枝から身を乗り出して、朝の中に身を滑らした。突然目の前に降ってきた少女にかリスクは別段取り乱すこともなくおはよう、と言った。

「……出発しないんですか?」

 一拍置いて男は無邪気にそのものの顔で「うん」と頷いた。なぜ、と紡ぐ必要はなかった。彼は自分自身で語りだした。

「昨日の夢さ、君の意識を取り込んだことを見ても、奴のちゃちな精神攻撃に違いないんだ」

「……はあ」

「――ということはだ、ドラゴンサークルも含めてああいうせこい真似をしてくる以上、奴はかなり復活していると思う」

「……」

 なんとも言いがたくて、メイスはただやるせなく相手を見つめた。気軽な調子だが、一応何事か考えている。メイスはしばらく忍耐の沈黙をした後

「だったら余計はやく出発しなければならないんじゃないですか」

「出発の必要はないよ」

 カリスクは平然と言ってきた。それから一応はメイスの様子が目に入っていたのか「結局それが一番近道なんだよ」と付け足した。

 しばし焦れた心を殺すのに、メイスはこの男の欠点は説明を省こうとすることだ、と何度か唱えて、同じことを面と向かって告げたあの夜を越えた後では、やや遠い印象となった昨夜の夢を思い出した。

「……一つ聞いてもよろしいですか?」

 よろしくないです、とはついぞ言わせない低い声音を出すと、「はい」と素直で爽やかな返事が返ってくる。

「――確かに、仰られるとおり、私はあなたの夢を多分見ました……それはいいでしょう。しかし根本的に根源的にですね」

 前置きするのもじれったくて、吐き出した声音は溜まりかねた勢いがあった。

「どうしてあなたが殺したものがまだ生きていたり、復活したりするんですか」

「あいつはただのモンスターじゃない」

 少なくとも君が知っているような。背を伸ばしながらふむ、とカリスクは口元に手をあてて

「たとえば、だ。ただのモンスターが嫌がらせみたいに人間に悪夢を送りつけたりすると思うかい?」

「……」

「あいつは言語も操れれば策略も練れる。あの変な名前に負けちゃいない。胸糞わるくなるようないやらしい奴だ」

「――でも、あなたが勝ったじゃないですか」

「この状況は、勝ったって言える?」

 真っ直ぐな目は揺るがない。メイスは口を噤んだ。まるで勝敗は置いてけぼりに時間だけがなすすべもなく流れ落ちてしまった。そんな印象を覚えた。

「エフラファ……だったっけ? 死体を操ったのは多分やつだな」

「竜が――竜の死体を操った、って言うんですか?」

「だろうね。その場所はここからどれくらい離れてる?」

 メイスがしばし考えて出した答えを、ゆっくり食むように男は腕を組んで唸る。

「しぶとい奴だな」

「しぶといですみますか」

 呆れをとめられずにメイスは呟いたが、やや好奇心がもたげてきて

「あの赤い光の珠の正体があなたには見当がつくんですか?」

「……魂の片鱗か、それかそのまま純粋な高度のエネルギーか……」そこで聖カリスクはつっと目を細めて、目の前のものを見た。「……全部がそうでなくても、純粋なエネルギーでしかないものもあったんだろうな」

 薄めた瞳から漏れた光に、メイス・ラビットは気付かなかった。信じがたい言葉をぽんぽん吐き出す男に肩をすくめていた。

「……あなたの話を聞いていると、まるっきり竜とは異なって、おとぎ話にしか聞こえません。ただのモンスターじゃないと仰いましたが……」

「呪いなんだよ」

「え?」

「あいつはね、存在自体が呪いなんだ。何十年も続いた、俺たちの時代から遥か続いた、あいつは呪いそのものなんだ。呪いってのは厄介なもんだよ。どうしたって消えないんだ。例えその相手が死んでも」

 青い髪がさらりと揺れる。男はゆっくりと周囲を見回したらしい。何かを確かめるように少しだけ、その目が遠くなった。

「生命は滅んで、形は消えて、山もこんなに変わる。でも」

 近くに戻ってきて、自分自身を抱えるように、腕を組んで男は言った。

「呪いだけは残る。何百年も」




 それはセリの樹と呼ばれている。

 古い言葉で「家族」という意味を持つそれは、苗木から数年で見上げるような大木となり、無数の枝を突き出して互いをからまらせ、広大な空中要塞を作り上げる。

 メイス・ラビットが同じ朝に覚えた危惧に対するバカバカしさは的を射ていた。ドラゴンサークルの常連者、経験豊富な冒険者たちはぬくぬくと夜を越せる樹まで選んで、モンスターが跋扈する夜を無事に切り抜けていた。しんと静まり返った森の中は、樹上もまた静かだ。

 朝の光がさし込める一歩手前。絡まりあって網状になり、あたかもハンモックのような寝心地を用意してくれる樹の上、薄々夜明けを感じ取っていたリシュエント・ルーの浅い眠りにそれは特攻をかけてきた。

 警戒は怠っていない。それにきっちり交代で見張りをたて、ドラゴンサークルの樹上という安全地帯だ。その油断と視界の剥奪という二重苦に、突然顔に真っ向から激突してきたものにたいしてさしもの少女も狼狽した。

 ふぎゃあ!

 という悲鳴に周囲で身体を横たえていた仲間が示し合わせたように飛び起きた。慌てて首をめぐらせた彼らが見たものは、なぜか顔が白い翼になった少女だった。一拍後に自ら見たものに修正をくわえて、少女の顔に遠慮なく飛びつく一匹の鳥の姿を確認した。

「○△×~!!」

 ほとんど声になっていない声をあげて、リットは自力で自分の顔をふさぐそれをひっぺがし、口の中に舞い込んできた数枚の羽毛を吐き出した。そうしながら見下ろした自分の両手でひっぺがしたものに一拍あけて「メイスちゃんっ!」と叫んだ。

「これメイスちゃんの鳥だよ! シナトの時と一緒! メイスちゃんの鳥だよ鳥だよーっ!!!」

 寝起きざまの混乱のせいか興奮のせいなのか、掴んだものを猛烈に振り回すリットの腕を、たまたま目があったライナスの

「リット。生ものなんですからその扱いは……」

 との言葉がハッととめた。慌てて見やった自らの指が掴んでいたものに、今度はきょとんとする。羽毛まで吐き出した確かに白い鳥であったものは、いまやくるりと巻かれた一枚の羊皮紙に変わっている。いつの間に感触が違っていたのか一瞬考えた後、リシュエント・ルーは近くの枝に移ってきた仲間の中から暖色の髪の巫女に目を留めて、一瞬の躊躇の後、それを差し出した。

 けれど相手は笑って手を横にふり

「リットにあててきたものだもの。リットが読めばいいわ」

 他の仲間達もつい顔をほころばす程、少女の顔がパッと輝いた。読み書きは決して得手ではないが、いそいそと広げて鼻が触れる間近まで近づけて目を通す。仲間達が見守る中、リットはしばらくそのまま動かずに、やがてあげた顔には大きな疑問符が描かれていた。

「お師匠様だ」

 グレイシアの目に鋭い光がよぎった。今度は少女も心得たもので、さっと相手に羊皮紙を渡した。リットの時とは比べ物にならない速度で手紙の全容を把握した彼女は、隣に来ていたリーダーに手紙を渡しつつ、ふむ、と口元に手をあてる。

 いちいち回すのが面倒だと思ったのか、声に出して内容を読み上げ始めたアシュレイの眉も寄る。

 それでも理性的な声が読み終えたあと、樹上の一同に共有されたのは沈黙だった。それぞれの思案顔が付き合われた後

「……どういうことだと思う?」

 問いかけがもたらした一拍の沈黙は、鋭く息を飲む音によって破られた。いっせいに視線が向いたその先で、暖色の髪の巫女は蒼白になっていた。

 震える指で無意識に髪をかきわけ、グレイシアは凄まじい勢いで何事かを考え直しているようだったが、すぐにもっともたどり着きたくない結論に導かれると気付いたらしい。

「――あぁ……」

 どうしよう。

 その声は仲間の耳朶を打つ。「どうしよう、そんな、まさか。でも」

 どうしよう。

「グレイシア」

 アシュレイが強くその肩を掴んで向かせる。「どうした」

 すると動揺を揺らす瞳が真っ向からアシュレイにぶつかってきた。グレイシアは呆然とアシュレイを見つめて言った。

「――あなたのようなものだと考えていたのよ」

 意図がつかめぬその言葉に眉を寄せた相手に構わず

「彼も敵も。敵だって。そう。ああ――わかりやすすぎたのだわ」

「グレイシア」

 再度の呼びかけに、グレイシアは何かに思い当たったように、アシュレイの手元に鋭く目を向けた。握られた羊皮紙が突然その指の隙間から飛び出て枝へとうつる。その頃にはもうぴょんと軽やかに飛び移った白い小鳥の姿に変わっている。

 小鳥は女の方を向いた。自分自身にかけられている期待がなんなのかを理解し、それでもその希望には添えない、というように一瞬悲しそうな目で白い鳥はその小首をかしげた。あ、とリットが小さな呟きをもらす。零れ落ちる砂のように小鳥の輪郭が崩れ去り、片鱗すら残さずにかき消えた。

「出発の準備を」

 鳥の末路に何を感じ取ったのか、ぞっと呟いた後、暖色の髪の巫女はそこで瞳に強さを取り戻した。

「アシュレイ! 急ぎましょう! このままじゃ私たち、レザーに会う前に会わす顔をなくすことになるわ!」




 "ああ、なんてあの生き物は――"

 轟きを寄せる波頭のように、一代一代と降り積もった声がひたひたと浸されていく。

 "ああ、なんとあの生き物は――"

 覚えている限り、その言葉が大仰に飾り立てられたことはない。ただただ素直に、彼らは嘆いていた。ただ嘆いていた。

 それ以外、多くの感情は見せなかった。世界を牽引してきた華々しい魔導師たちと違い、私たちは古書の守り手でしかなかったんだよ、苦笑してそう言った誰かの顔は、もう記憶の淵に沈んだ。でもそれは、卑下ではなく誇りだったのだろう。

 大迫害から逃げるときも古書を抱えて逃げた。それでいくらの同朋を失っても。焼かれる本を悲しみ、腕いっぱいに抱えて逃げた書痴。同朋が殺されるよりも、火に投じられる本の姿が身を裂かれるように苦しかった。

 阿呆の一族だ。逃げ延びられたのに賢さがあったとは思わない。運のよさとその地味さと密やかさが、大量の本を抱えて逃げ延びられた理由なのだろう。

 そんな愚直な自分自身をよく知っていたせいだろう、彼らからは恨み言は少なかった。"それ"を語るときもただ、ひどい時代だった、と言うだけだった。憎しみを表に現すこともできない。弱い一族だったのだ。それでも繰り返し繰り返し、囁いた言葉があった。

 竜は真っ白な生き物だ。あんなことをしてはならない。死者はもう妄念の塊でしかないのだから。自然に生まれた竜は真っ白な紙なのだから。なすすべもなくそれに染めあげられてしまう。

 "ああ、なんてあの生き物は。なんとこの生き物は。残酷なまでにくっきりと、この世を映し出すのだろう。"

 すうっと瞳をあけた。森林限界を超えた山頂近くに緑は姿を消した。くぼ地に貯えられた水は不自然なまでに青い。その水へと膝まで身を沈めて立ち、女魔導師は差し伸べるように手を伸ばした。

 その動きに呼応して、薄い布が舞うように泉から赤い煙がゆらめいてあがってくる。水面はざわりざわりと騒ぎ始める。たなびく煙は織り成して舞う。

 初めに聞えてきた声は竜のそれではない。遠い昔人であったものの声だ。呼びかけはひとつひとつは小さいが、夥しい羽虫のように数え切れないその量が黒い波と化す。気が狂うような合唱だった。気狂いの刹那に毒を注ぎつづける。

 その叫びを初め、女は聞えないかのように目を伏せていたが、やがて微笑みを浮かべた。

「三百年間、囁きつづけていたのか」

 開いた瞳が真っ赤に輝く。もう元の黒色には戻らない。泉から光の布が立ち上り、服を仕立てるように黒い魔導師の周囲をゆっくりと舞う。赤い光は膨大に渦巻いて、やがてその中心に立つ魔導師の輪郭を消した。空間を一刀両断する光の線が地から空へと駆け上る。魔導師の輪郭のかわりに、現れたのは巨大な影だ。

 まるで真っ当に産道を通ってきたというように。据えた湯気が亀裂から吐き出された、熱を帯びた体は粘膜につつまれて。

 振り払うように蒸気をあげる体が蠢き、首をもたげた。喉が張られる。口が開く。空間を貫くその声なき声。

 祈りは織り成す。言葉も織り成す。人の奥の深い深いところまで入り込んで。

 "ああ、なんてあの生き物は――なんとこの生き物は。残酷なまでにくっきりと。"

 "この世を映し出すのだろう。 "

 

 "私たちを映し出すのだろう。"




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