レザーになった男(4)
視界に広がっていたのは、赤だった。
世界は赤く爛れていた。毒を含んだようなささくれだった空気。湯立つそれは呼吸をするたびに肺を焼くようだ。山が大きく騒いでいるのがわかる。煮えたぎるマグマを抱えて、それは空まで焼くように地上で憤怒を撒き散らす。
赤い空は終わりを予感させるには十分な不吉さで満ちて、その中をぐろりと竜が頭をもたげた。蛇のような長い首。光る双眸はこの世のどんなものよりも生々しくぎらつく。
――まるで絵巻物だ。
目の当たりにしても、どんな質感を伴っていても現実味がない。迫力はあったが、そこにいるという実感がない。匂いと風がないせいだとメイスは悟り、だから恐怖は感じなかった。
その竜に向けて銀の煌きが走った。メイスが瞠目する。一拍後に聞こえない声を張り上げて、竜が天に向かって啼いた。苦痛のうめきだった。
煌きの多くは鱗にはじかれたが、わずかに命中したものはどれも深々と竜の身体にもぐりこみ、ねっとりとした赤黒い血をその皮膚からあふれ出させていた。突き立っているのは、もっとも原始的なボウガンの矢のようだ。雑なつくりがかえって竜に苦しみを与えている。
けれどその苦痛を味わっている暇すら与えられず、よろめいた巨体は背後からの襲撃にさらに苦しみに啼いた。みると首の付け根と翼の鱗を縫うような場所に、太い尾羽が見えた。その先端はやはり深々と身体にもぐりこんでいる。多くははじき落とされているが、一撃でも食らえばたまったものではないだろう。
さらに陰惨なことに小型のボウガンの尾羽には、赤黒い空を背景に揺れる細く長いロープが結ばれていた。身体にもぐりこんだ鏃は決して抜けず、ロープもまた決して切れない。魔術で強度を補っているのだろう。まるで鎖に繋がれた犬のように、四方から竜は縫いとめられた。
それでいて狙撃者はいまだに姿を見せていない。いや。メイス・ラビットの目はそれを見つけ出した。初めに竜が駆け寄ってきた方角に、むき出しの岩の大地に、ぽつりとひとつの影が立っている。
黒いローブをまとい、さめた顔つき。昔もいまも変わらぬ長身。師に間違いない。
お師匠様、と思わず呼びかけたが、熱風を浴びながら平然と立つ女はぴくりとも反応しなかった。かすかに胸刺す失望はあったが、しかしそれも十分なスケールを要しながらもどうしても現実感に欠けた世界の中では、納得を飲み下せないものではない。
黙って師を見守ろうとしたメイス・ラビットの眼前にその時、思いがけないことが起こった。
あれ、と場違いな明るさを含む声がして、その声にメイスが驚くよりも身体が先に反応して向いた。そこで岩陰からこちらを見上げる、レザーの姿に視界がぶつかって今度こそぎょっと身を引くほど驚いた。
どうやら岩陰に身を潜めていたらしい相手は、いつでもなにかへの興味や好奇心がくるくる回る、明るく光る目でしっかりとこちらを見据える。レザーではない。目だけでもう見分けられるようになってしまったメイスはその後、完全に絶句した。
見上げてきた相手がこちらに軽々と駆け寄ってきたのだ。いや、メイスを絶句させたのはそのことではない。駆け寄る際にその人物がプラナリアのように、二つにすっと分かれて一つの姿をその場に残したまま、もう一方が駆け寄ってきたことにだ。もう一人は相変わらず岩陰に身を潜めて、前方を鋭く見つめている。
そばまできたときには、白い髪の少女はすっかり逃げ腰になっていたが、相手はこちらの心境など知らずに
「やあ、メイスさん」
この男はいつだって状況をわきまえず爽やかだと思うメイスの前で、きみも来ちゃったの、と笑う。その笑みに、メイス・ラビットはようやく我に返り、そして仰天した。
今までおかしな夢を眺めるように、淡々としていたメイスの思考に一気に現実が流れ込んでくる。自分はどうしたのか、ここはどこなのか、目の前の男はなんなのか、それまでなんの疑問もなく受け入れていた全てがまとめてなだれ込んできた。しばらく口をパクパクさせて、ようやくメイスは声を出した。
「き、きたもなにも……」
「まあうれしいよ。飽き飽きしてたところだから」
「あなたの悪いところは説明をまったくしないで自分で納得してしまうところです。一体なにが起こっているんですか」
「くだらない精神攻撃さ」
そこだけはややそっけなく男は答えた。
「精神攻撃?」
「死んでからも夢を見るなんて思わなかったな。ここは俺の悪夢の中だ」
「お師匠様があそこにいますよ」
吐いた言葉に男はまた狂乱を示すかと思ったが、そちらを見ようともせず
「あれは違うよ。コルじゃない。悪夢の一部に過ぎない」
「あくむ……」
「あいつが見させてる」
すっと示した先には、哀れに縫いとめられた竜が、先ほどの威勢がなくなり、苦しげに動きもがいているところだった。その身体はもう地に伏すすれすれになっている。
「――どうしたんですか?」
「鏃に毒を塗っていた。それが効き始めてるんだ」
恐ろしい台詞を何でもないように吐いた男にメイスは一瞬引きこまれそうになったがハッとして
「竜に効く毒なんてありません」
「伝わってない? あったんだよ。コルが知ってた。それを作って、二週間、地面に穴掘って、ボウガン作って、罠を仕掛けて。後はやつをおびき出した」
「――どうやって?」
「コルが囮さ。あいつは昔からコルを食べたくて仕方なかったんだ」
尻尾を振ってくらいついてきたよ、男の冷たさに、わずかに身震いしてメイスは
「三百年前の、フィナート山の出来事なんですか、これは」
「そう。俺の悪夢だ」
メイスは言葉を失って前方を見つめた。華々しい竜退治のサーガを丸呑みしていたわけではない。敵の前に堂々と姿を現して名乗りをあげるような真似は心底バカのすることだと思う。伽話の中以外で剣聖カリスクは合理主義者と知られている。
しかしそれでも、後世に鳴り響いたフィナート山の竜退治の実際の姿は衝撃的だった。退治という響きもいかがかと思う。しかしこれはそれですらない。
集団を形成し、岩陰に隠れ、毒矢を放ち、または囮になって罠を仕掛ける。駆除だ。相手の生の意味や価値など何も眼中にない。人間達の淡々とした行動。これこそ人間のもつ最もおぞましく恐ろしい力だと小さなウサギはぞっとした。本当にこれは人の中でだけ通用する正義譚だと改めて思う。
「完全に弱ったところを口の中に火樽を突っ込んで同時に喉を掻っ切る予定だったんだけどね」
非情な台詞をそのこと自体にはなんら疑問も持っていないように告げた男の口元にふっと苦味が走った。
「一筋縄じゃ、いかなかったよ」
うずくまった竜に、レザーの姿を持ったままのカリスクを先頭に三人の人間が駆け寄る。残り二人は見たことがない男だ。一方はがっしりとした体躯を持った長剣の持ち主で、もう一方は焼けた赤毛をくくった小柄な男で小型のボウガンを構えている。彼らとは別の方向から女魔導師も歩を詰めている。
死骸にたかる羽虫の群れのように、彼らが竜の身体に到達したとき、突然それまでぴくりとも動かなかった巨体が素早く動いて何人かが吹っ飛んだ。狂った竜が頭と尾を振り回す。手負いの竜との接近戦が始まった。縫いとめられたドラゴンと冒険者の。
惨さに顔をしかめていたメイスも、その見事さには目を奪われた。竜に立ち向かう人間たちは遠目で見てもどれも手練れだ。しかし、その中でもレザーの姿をしたカリスクの腕は輝くように鋭い。見たこともない太刀筋はそれ自体が命を持っているように、華麗にして鮮烈に舞う。剣術の基礎がないメイスにも、ひどく斬新な筋であることは明白にわかった。
「本当はこんなつもりじゃなかったんだ」
剣なんて所詮、人相手の武器だから役に立ちゃしないよ。
剣聖とまで称えられた男は冷淡に言った。男はそれでもその名を受けるにふさわしかった。恐ろしくバカでも、状況を読まずとも、もしかしたら人格が破綻していたとしても、この男が剣の天才であることに間違いはない。
だから初めから剣を捨てるような真似ができたのだ。そうメイスは気付いた。登りつめた天才に、凡人の見る夢の余地は残されていない。レザーもたいした腕だが、正直なところ格が違う。
圧倒されていたメイスの横、ふと戦わないもう一人のカリスクがあ、と声を漏らしてある一方を指差した。
岩陰から誰かが滑り出てきて、戦いの最中に吹っ飛ばされた二人に駆け寄った。一人はすぐに立ち上がったが、もう一人は立ち上がれないらしい。叱咤しながらリュックを猛然と漁ってなにかの瓶を取り出すのは――
「!?」
「あれがラファナーテだ」
のぞきこんだ泉の中とあの城の額縁の中でしか目にしたことがない女の姿にメイスが硬直する。視界に映る女は、絵画の動かぬイメージを裏切るかのように俊敏に動く。茶色の髪をばしばしと適当に後ろで縛り、こちらも二週間にもわたる作戦のせいで風体は仲間と同程度に汚れてむさくるしい。
それでも、いやそれ故に足元まである簡易な長衣を縛って動く女の顔は生気に満ちていた。顔立ちは整っているが、それよりも生き生きとした表情に目を奪われる。特に緑の瞳は生命そのものを湛えるように輝く。
あの絵から連想するよりもよっぽどたくましく、はつらつとして、指先まで脈動感に満ちている。他の女性は眼中になかった、というカリスクの言も十分頷けるほど、生の鮮烈な魅力に満ち満ちた姿は白い髪の少女に痛みを与えた。存在が負けている、と呻いたのはどこかはわからなかった。
後世聖女と称された女の行動は迅速だった。うめく仲間を叱咤し続けながら有無を言わせぬ応急処置をして、脇に手を入れて安全な場所へとずるずる引きずっていく。
そうこうするうちに戦局は進んでいた。もがきながら懸命に応戦していた竜だが、勝敗は見えていた。意外な気はしない。勝負とは本来そういうものだ。勝つか負けるかほとんど始める前から決定されていて、そうして強者は、勝つとわかる勝負しか手を出さない。レザーは強大な竜に命を賭けて立ち向かう姿を夢見ていたが、この男はその夢想を軽く振りちぎるほど強いのだ。
剣聖と師のコンビネーションも悔しいが見事なものだった。休む暇もない横殴りの風のような剣戟、唸るほど織り込まれた魔力の結晶、どれも紙一重のタイミングで互いがぶつかることなく代わる代わる竜をとらえて傷を負わせる。
剣聖と師、そして完璧な計画。
歴史上、剣聖カリスクが人の身でありながらドラゴンを倒したのは、奇跡と称えられた。その言葉には多分に運のよさ、負けてしかりの勝負を覆したという意味を含むだろう。
しかし違う。
初めからこちらが勝って当たり前の勝負。そういう風に設定したのだ。剣聖カリスクが竜を倒したのは、当然のことなのだ。他のすべての人間ができなくとも、この男にはできた。確かに名を残すのも、英雄と称えられるにもふさわしい男だ。本当ならば剣すら使わずに倒せたのだから。
凶暴な英雄を前に、どんなに権勢を誇った竜も見る影もなかった。この頃にはメイスも半ば落ち着いてきた。要はこの男は強者なのだ。そしてこの男と比べて竜は弱者だった。ここにはそんな単純な掟が冷然と存在しているだけだ。
ほぼ勝負が決まりかけたとき、岩陰からまたメイスと同じ顔をした女が小脇に小型の矢をいっぱいに抱えて現れて、地味にボウガンで援護射撃をしている赤毛の仲間に駆け寄った。
罠を主役にして全員がサポートに回った時期もある不可解なパーティだが、中でも彼女はどこまでもサポートに徹するらしい。考えてみれば先ほどの仲間の治療にも道具を使っていた。
巫女と言われればグレイシアを代表するように朝の属性であり、治療や障壁の使い手だと考えがちで実際それが多いが、万一魔力を使い果たしていたにしても、あまりにアシストぶりが板についている。もしかしたら彼女は術らしき術がほとんど使えないのではないのだろうか。それなら子孫であるレザーがまったく魔力を帯びていないこととも繋がる。
そうメイスが考えたとき、もう一つのボウガンにきりきりと矢を番えていた女がハッと顔をあげた。その視線の先に風を鳴らす不気味な音色が殺到した。苦し紛れにふるわれた竜の尾が薙ぎ払った巨石だ。
矢よりも鋭く空間を横切る。直撃の軌跡だ、とメイスが息を飲んだ瞬間、青白い光が炸裂するとともに二人の冒険者の前で、巨石は飛散した。その後には庇うように立った黒髪の女魔導師。女が何か声をあげると、肩越しに振り向いて二人の無事を確認した魔導師が、見たことがないような安堵の微笑で返した。
胸がつきんと痛んだが、意味を突き止めている余裕はなかった。一度に二つの方向を見る視界が欲しいと思うような間合いで、ドラゴンが喉を大きくはらせていた。もし竜の声が人の耳に聞き分けられたとしても、もう声をあげることは叶わなかっただろう。
竜の喉元には深々と剣がその刀身をうずめ、どろりと溢れた黒い血が溜まっている。わずかにのぞく柄元の銀の刀身が、その血を吸い込むようにさあっと黒く染まったのを見た。
レザーの姿をした男は柄から手を離さずにそのまま力を込めて引くと、刀身が引き抜かれた暗い穴から鮮血と血の泡が禍々しい噴水のようにあふれ出す。
それにも頓着せず黒い返り血に全身まみれながら、剣聖と後世呼ばれるようになる男は、勢いをつけてもう一度刀身を喉に一気につきたてた。びくびくと震える柔らかい喉をかき回して無造作に引き抜く。それと同時に竜の身体が糸が切れたように傾いた。巨体が巻き起こす地響きが天まで駆け上がる。
その後に残ったのはたった一つの影。すす汚れた姿で、身体のところどころに負傷をしている。それでも平然と立つ冷静な目を光らせた一人の男。
語られてきた物語とは異なる。だが作られた壮絶さすら追い越して、その立ち姿は凄惨にして苛烈だった。サーガにあるように朝の光を浴びて倒したのではない。赤く焼けた夜の中。黒い剣を握った、真っ黒な英雄。人が竜を倒した初めての瞬間だった。
ああ、悪夢は終わった。興奮も血が沸き立ちもしなかったが、それでも魅せられてメイスは思った。そしてここから悪夢が始まったのだ。それは竜の悪夢であり、人の始まりだった。人という種はこの瞬間、最強を凌駕して少なくとも地上を制したのだ。覇者の地位は人へと移った。新たな種の栄華の始まりと共に、フィナート山の竜の悪夢は終わった。
そう哀れな竜の悪夢は終わったのだ、と呟いたメイスの心を男は読んでいた。
「違うよ。これは俺の悪夢だ」
じっと男は視線を注いでいた。メイスも先導されるようにその方向を見た。竜の長い首は倒れるとき、まだロープの束縛から逃れられず、ぶらりと宙吊りに垂れていた。閉じた瞳から生気は見られず、致命傷を食らった喉元は依然と警戒をといていないカリスクの眼前にさらしている。その瞼が突然カッと開いて真っ赤な双眸が溢れた。
「!」
視界に入っていた女魔導師がそのことに気づいて顔をこわばらせたが、遅かった。矢よりも素早く竜の目から光は走った。
咄嗟に足を動かし背後の二人をかばいながら魔導師は呪を唱える。現在の技には及ばないが、素晴らしいスピードだ。防げるかと思った最後の瞬間、コルネリアスは何かに驚愕したように一瞬、ほんの一瞬、呆然とした。メイスも見たことがない忘我の表情だった。心の底から呆気にとられたような、ひどい衝撃を食らったような顔だった。全てを見失って立ちすくむ女は哀れにすら見えた。
そして赤い光はなすすべもなくこの上もなく無防備になった女を直撃した。
「お師匠様っ!」
メイスが叫んだ。赤い光は女を包んだかと思うとくるりと広がった羊皮紙を丸めるように、その身体に吸い込まれて消えていった。魔導師が自力で立っていたのは一瞬で、その長身はふらりとよろめいた。背後の二人が慌てて支える。特にメイスの顔をした女は気丈そうな顔を真っ青にして手を握り顔を覗き込む。異変に気づいた剣聖が冷酷さも計算深さもかなぐり捨てて駆け寄ってくる。
けれどたどり着く前に黒髪の師は仲間の腕の中でパッと目を開け、自分自身で上体を起こして、伸びてきたカリスクの手をつれなく叩き落してそっぽを向いた。
顔色も変わりなく動作も普通だ。安堵したのだろう。囲んでいた若者たちからかすかに笑いが生まれ、そうして仕事を終えた仲間達は、負傷した仲間がまだ残された岩陰へと向かう。竜はもう動きをとめている。
サーガならば終わりの楽師の歌がかかるだろう。収束されていく出来事にメイス・ラビットは何気なく傍らのもう一人のカリスクを見やり、そして息をとめた。
容赦も呵責もなく竜を惨殺した面をこの男が確かに持つならば、今、男の表面はそれで固められていた。零度の熱が、全てを嘗め尽くそうと輝く。これほど激しく狂おしい怒りは見たことがない。牙さえ磨がずに己が腕につきたてる。
「俺がコルを失った日だ」
苦悶が深すぎて滑らかになった、そんな声音だった。「コルはこの数日後に姿を消した」
「……なぜですか?」
「八つ裂きにしてやるべきだった」
物騒でそして繋がらない台詞を淡々と紡いで、カリスクは
「不思議だ。なんで俺は俺を許せたんだろう。そのことが思い出せない。あいつは八つ裂きにしてやる。でも、俺はどうして許せてきたんだっけ? 思い出せない。俺は何かを忘れている」
「……」
狂っている、と告げた師の言葉が蘇り、悪夢まで見る死者への恐怖が戻ってくる。
「コルは俺が中年になっても、爺さんになってもこのときの姿のままだった。コルは人間だったのに、俺が人でなくした」
凍りつく整った顔に無限の絶望と後悔が通り過ぎて、その水面下を荒れ狂う。
「竜の絶命間際の呪いだ。時から取り残された、死ねない死の身体」
気づくとしんと静まる夜の中、メイスは傍らで中腰をついていた相手と向かい合っていた。三百年前のフィナート山も消えうせて、火山は沈静し木々の姿が見え、夜はその影を優しく包む。泣くように身体を縮めて、男は笑っていた。
抱いた膝をつけた顔から全くおかしそうでない声が流れる。静謐の夜の中、メイス・ラビットは青ざめた。その瞬間、ただ思ったのはその身でその顔でそんな風に笑わないで欲しい、という懇願めいた弱弱しい祈りだった。
「コルはまだあのままだ。三百年間。お前が生きているからだ」
漆黒のように光ない喜びに満ちた言葉は紡がれる。
「今度こそ殺してやる。八つ裂きにしてやる。塵も残さないくらい。俺はお前の全てを憎んでる」
多くのことがわかった。しかし多くのことをなくした気がした。そうだ。哀れに死んだ、フィナート山の竜は蘇るだろう。そのために師はもう一度と欲した。そのためにこの男は呼ばれた。その必要性は、あの手際を見た後では頷かざるをえない。
だけど。
メイスは胸中で呼んだ。英雄よりもその男を欲した。欲して絶望した。男は今誰よりも近くて誰よりも遠い。師が呼んだ男は黒剣の刀身を肩まで跳ね上げる。笑う英雄の顔に、レザー・カルシスの影はなかった。




