レザーになった男(2)
水音に振り向くと、数歩離れたところにいた少女はびくりと身体を揺らして、さらに数歩の距離を飛び退ってあけた。距離をつめれば躊躇いなく逃げ出せるとように構えている。
男は肩をすくめて息をついたが、少女のややあからさま過ぎる拒絶を、不快に思う感情は顔に出ていない。そのことに関してはとっくに諦めているようだ。
男の中身に気づいたときから、少女は一度も彼に気を許しはしなかった。それは肩をすくめる男だとてわかっていた。けれど元の人物の人望なのか師の知り合いのせいなのか、一定の距離を許してはいた。
だが、今はぐんと離れた茂みから、感情の浮かばない目を向けるばかりだ。遠くにのぞく、その顔の造詣だけはどうしようもなく在りし日の妻に酷似している。
知りたいと言うからそのことを教えたが、結局のところあれはまずかった。耳に入れた瞬間、少女の顔から感情が死滅した。失敗した、と悟っても後の祭りだ。
語らいたい気持ちはあるが、ついてきてくれるだけいいかと、元来こだわりと屈託がまったくない男は、頬をかいて前へと向いた。
するとその心の動きを見計らったように、背後で気配が動いた。振り向くより早く小さな影が視界をかすめる。こちらを迂回するようにたっぷりと間合いをとって、細いその身には体重などないというように、背後から前方へと降り立っている。男もパチリと目を瞬かせた。
そのまま白い髪の少女はひとつ顎をしゃくった。突然の主体的な行動に何か思わないでもなかったが、まあいいかと承諾に片手をあげる。少女は先導して進みだした。その足についていくには、本気を出さなければならなかった。
しばし水を跳ね上げて少女の細い足が誘う方向へとかけていく。辿る稜線は下りと登りを繰り返し、そのたびに周囲は装いを変えた。三百年たてば山すらも姿を変える。位置がいまひとつつかめずに、男が異変に気づいたのはしばらくしてからだ。空気の伝えるかすかな動きに、木々の枝葉が重なりあう影へと目をやった。
「あれ……」
訝しげに呟く男の視線が外れたことでメイス・ラビットは慎重に様子を伺いながらも身を引いた。数拍も待ちはしなかった。赤毛の青年の頭が、枝葉の間から突き出た。瞬間、逆を向いていたレザーの身をもつ男も振り向いた。まったく突然、赤銀の髪の男と青い髪の男は視線をかちあわせた。
「!」
激しい驚きを現した相手を、青い髪の男は冷静に確認するとすぐに背後をうかがうよう身体を傾けた。
「挟み撃ちか……」
苦笑しながら左右に目を向けると、背後からころんと黄色い髪の少女が飛び出してきた。
「レザーちゃんっ!」
「レザー!」
新たに現れた黄色い髪の少女の呼び声は、それまで唖然と固まっていた赤銀の髪の青年の声と重なる。それを聞きながら苦笑したままの青い瞳が、ちらりと白い髪の少女に向かう。
「これがコルが言ってた、見つかるとやばいって相手?」
何も言わず少女は顔をそらした。彼女が裏切った相手への気まずさを感じなかった、とは断言できないが、自分の立ち位置だけは明確に示した。新たに現れた一同の側へと大きく近寄ったのだ。それに応えるよう、白いローブをまとった女が迎え入れて背後にかばった。
なんだかよくわからないなあ、とまだのんきに笑う男を、メイスを背にかばったグレイシア・ロズワースが毅然とした目つきで見つめていた。その待遇にメイスは少し思うところがあるようだが、つっぱねはせずに身体をつけたまま後ろから様子を見てとる。
「レザー、お前! 今までどこに行ってた!?」
アシュレイの詰問にグレイシア・ロズワースがやや急いだ感で「アシュレイ、多分それは――」と紡ぎかけたが、その前に。呼びかけられたその名を持つ肉体の主は一瞬困ったように肩をすくめて、そして諦めたのかへらりと笑った。
「……誰だっけ? あんた」
赤銀の男が綺麗に凍りついた。メイスをかばうグレイシアがああ、という感じで息をついた。とりあえずあまり状況を把握していない青い髪の男も、相手に与えたダメージは読み取ったらしい。こちらも向かい合って直視したせいかびっくりした顔を広げ、それから「ごめんな」と一応謝った。
一発目が氷結なら二発目はそれを打ち砕く一撃だったらしい。静かな森の中に、ひゅっと空間を斬りさく剣風が響き渡った。真正面からの一撃ならば普通は大きく後ろに飛び退く。しかし挟み撃ちを決行され、三人の見知らぬ相手が控える後ろへと距離をとるつもりはなかったのか、男は一撃を右へと大きく飛び退って逃れた。
逃げた先にも剣の切っ先が間断与えず迫り、青い髪の男は目を見開いた。抜き身の剣を握り強い目で見据えるのは、赤銀の髪の剣士だ。完全に決裂した立ち位置に、これには彼の仲間の多くも目を見張ったらしい。
「アシュレイちゃんっ!」
「短気おこさないでくださいよ! ふられたからって」
余裕があれば一撃くれてやったであろう、目をこらして逆鱗を見つけ出しわざわざ触れるような仲間の制止も受け流し
「カラカラに喉が乾いたときに、井戸を見つけた。それがカラだった。どう思う? 喉が乾いてりゃ乾いてるほど俺はきれる」
「ああ」
今ひとつ意図が読めない、という顔で切っ先をつきつけられた男はとりあえず頷いた。剣を握っていなければ、拳のひとつもわなわな震わせただろうアシュレイ・ストーンは
「会いたい会いたい思っていた相手とやっと会えたと思ったら違っててそれが似てりゃ似てるほど――」赤銀の男は剣を一度すっと引いて、そして鋭く突き出した。「余計腹立つんだよっ!」
「アシュレイっ!」
思わず呼びかけたグレイシアの制止もむなしく剣風が空に舞う。こんな状況でも見惚れるような足裁きでアシュレイ・ストーンは相手に歩を詰め迫り、その動きに反応して流れるように相手も身を引く。
「レザーをどうした!?」
恫喝するような口調の詰問に、同時の一撃をひょいと首を傾けて避けた男は、こちらも相手に飲まれることのないペースで「説明しにくいんだけど」
「しろっ!」
「何話しても斬ってくるじゃないか」
襲ってくる刀身を紙一重のところで避ける男は普通に呟いた。その手は空身で腰におさめた剣の柄に触れようともしない。軽々しく抜くことを良しとはしていないようだ。
しかし本来はアシュレイ・ストーンもそうなのだ。普段は決して血気盛んな男ではないし、刃物を振り回すことの意味も知っている。手はそれ相応に速いが、剣を抜くのは慎重だ。しかも剣で応戦しようとはしない相手にはなおさらで、ここぞという時の抜刀は躊躇わないものの、普段は剣士にしては驚くほど剣に頼らない。
だが、冷静なリーダーも色々限界に来ているなあ、と仲間達も思っていた。そんなところで、とどめの一撃は怒り心頭にいた彼に綺麗に致命傷を食らわしたらしい。ポリシーもなんのその、剣風はますます勢いをつけて見境なく飛び交う。
「確かに俺はレザーじゃないけど、あんたが切りかかっている身体は本物だぞ」
「わかってるわっ!」
目を見張る仲間達を尻目に、アシュレイは苛立ちを多分にこめた突きを猛然と繰り出した。紙一重で男の頭がふっと沈んで空を薙ぐ。
「だから避けても許してやってるだろうが!」
滅茶苦茶な台詞を吐きながら追撃はとまらない。猛烈な応酬の合間にさすがに戸惑い顔でリットが
「レ、レザーちゃんじゃないのに、レザーちゃんの身体なの?」
「よくわかったわね、アシュレイ」
「レザーのことならほくろの数だって知ってるぞ俺は!」
「……」
うわあ…と彼らの仲間とメイスは思わず同じ表情を浮かべ、ちょうど身をかがめていた青い髪の男はへえと呟いた後、妙に勝ち誇った顔でふふんと鼻で笑った。
「15だな」
「デマ抜かすな! 14――」
「アシュレイ!」
いろんな意味で暴走しかけるリーダーを仲間の悲鳴が止めたが、まあまあと仲裁らしき手をふるのは青い髪の男なのだからもう訳がわからない。男はどんな瞬間もいつも間延びした気楽さをなくさずに
「ちょっと待って、俺に一言言わせてくれ。この身体の主はこうなる前にこう言ったんだ」
そこで言葉を切ってためを作る。おもむろに指が左後方の梢を指し示す。
「あっ! あそこで教皇が野菜サンドを人呑みにグリル!」
視線は集めた。だが、どう受け取っていいのか。ただ戸惑いだけが満ちる周囲に男は意外そうに
「うけないな。俺の時代じゃ、これが最高のギャグだったんだけど」
「……」
「ラファナーテだってこれ聞いて笑い転げて止まらなくなってそしたらそのまま陣痛が始まってさ」
めでたく安産。
「んでその時生まれた息子にパルスってつけた。笑いって意味」
周囲の静寂に賛同するように男はうんうんと頭を縦に振ると
「じゃ、そういうことで」
この脈絡の中で恐ろしく普通そうに台詞を放つ。と、同時にそれまで常に受身であった男の体が突然アシュレイの眼前にぐんっと迫った。キッと鋭く引き絞ったアシュレイの眼前に、突然真っ黒な空が広がった。男が、迫ると同時にひょいと肩をひねってとめていた黒いマントを眼前にぶちまけのだ。
一時的に相対する者の動きを止めた男は、やられた方から見れば殺したくなるような鮮やかさで、包囲を一瞬にして抜けた。ずば抜けたスピードもあったが、注目すべきはその身のこなしのしなやかさと流れの自然さで、困難を当たり前のように実現させる。
男は、白い髪の少女とそれを隠すよう背にした暖色の髪の女に、一度だけちらりと目をやった。が、後はなんの迷いもなく梢の中に姿を消した。
「――畜生っ!」
かぶさった黒いマントを乱暴に剥ぎ取り、怨嗟にも近い声を赤銀の髪の青年があげる。その声と動きに唖然としていた三人の仲間も我に返ったようだ。急いで駆け寄る。「追うぞ!」リーダーが叫ぶ。けれどグレイシアだけはその場から動かずにメイスを見下ろし、耳のとびきりいい少女にしか聞き取れない声で囁いた。
「夜になったら、私たちを離れて匂いをたどって追っていきなさい」
一瞬顔をあげ赤裸々な表情をさらした少女は、しかしすぐうつむく。
「……追いません、私は」
「夜まで考えたらいいわ」
頭を撫でるような真似はしなかった。声音は間違いなくそうだったとしても。
「一緒にいると、不安になるの。去っても深く。だから離れてみたらわかるの」
うつむいたままの少女に、言葉は雪のように穏やかにゆっくりと舞い降りて、最後にその冷たさをじんと伝えた。
「これには終わりがないって」
赤々と闇を削る炎が燃えている。物騒な山の中も、炎の周囲に危険はない。
結局のところ獣でもモンスターでも、炎を目指すものはいないのだ。寄るのは人とあとは自ら飛び込んで燃え尽きる羽虫のみだ。
炎の周りを取り巻く、眠りは安らかだ。息は規則正しく、疲れた人のそれのように、ひとつひとつが深く静かだった。薪が時たまはぜる音だけが静かな夜に響く。
その中で一つの小さな影が身をおこした。背後の炎に黒くやけた影は周囲を見回し、皆が寝入っているのを確かめた。一瞬逡巡したが傍らに横になった女に身をかがめた。
無言で揺り起こすと、女は横になったままひとつ微笑んで何も言わずに見送った。何もかも見透かしたような態度に今までなら内心むっとしたかもしれないが、心は不思議に何も感じなかった。ひとつ頷いて小さな影は炎に背を向け、足音をたてずに闇の中に消えていった。
わずかに首を動かして後姿を見送った後、横たわった女が自分を見つめる恨みがましげな視線に気づいたのはすぐだ。軽く見返すと黄色い髪の少女リットはむくりと身を起こして
「行かせちゃったあ……」
怒ったように言うリットは泣きたいのを我慢している目をことさら怒らせる。
「仕方ないわ。好きなんですもの」
「……」
「レザーのことも、師のことも、とっても好きなのよ。わかってあげて」
「許容してあげるのが吉ですよ」
むくりともう一つ影が起き上がる。「一度は僕らを頼ってきたんですから、レザー付きなら十分脈ありだと思います。ここは寛容に」
「問題はレザーだ」
「……ああ」
示し合わせたように身を起こす夜の中、膝に毛布をかけた体勢で自然と冒険者仲間は円をかく。今日に限って火の番をたてない自分達を、別のことで頭がいっぱいだったのか白い髪の少女は疑いはしなかった。
「そのことだけれどね、アシュレイ」
珍しくやや物憂げに、グレイシアは頬に手を添えて呼びかけると、ことごとく、という目に遭ってきたリーダーはそれでも見上げた精神力で
「なんだ」
「全部話すわ。そして決めましょう。これからどうするかを」
小さな嘆息の間に、仲間の無言の了解を受け取ると
「わりととんでもない話よ」
もう一拍おいて
「さらに滅茶苦茶な話でもあるわね」
ふう、と一息をついて
「話すと正気も疑われそうね」
「もういいから!」
誰ともなくたまりかねてあげた声にそれでもグレイシアはペースを崩さず
「親の不始末は親でつけるべき。それがあの方のお考えだわ。レザーに関しては最初少し違ったみたいだけれど。大変真っ当で、面と向かっては反論しようがないの。結局、一番強いのは正論だから」
そうして話し始めた女の広げた話は簡潔を極めた。あまりに簡単すぎるので聴衆としてはやや不満さを覚えた。
「ね? この物語だと私たちはわりと口出し出来ない感じね」
「――いや」
聴く前と聴いた後と、大きな違いは見せずアシュレイが口を開いた。
「問題は――レザーだ」
一瞬も迷わなかった男に口元に笑みをちらつかせ、
「ええ。そうよ。でもね、よく考えて。安易に結論を出したらだめよ。解散するのに賛成したのは、私、危惧していたからよ。私たち、強くなりすぎたんじゃないかしら。知らず知らずでも万能感が勝っているんじゃないのかしら。……危惧どころじゃなかった。確信してた。みんなと一緒ならどこまでも行けるだろう、なんでもできるだろうって」
一つ目を閉じて幸福だった記憶を自ら解き放つようにグレイシア・ロズワースの口調はくっきりとしていた。
「――いいえ。そうじゃないわ。私たちは人間だもの。必ず失敗するわ。必ず間違っているわ。失ってから知るのは耐えられない。だからこの形で手放したの」
しばらく五人の間に共通の夜が流れた。どんなに気心が知れていても、もう正式なパーティではない。まず隻腕の男が抜け、同時に要の三人が微妙にすれ違った。だけど本当は離れられもしない。この曖昧な関係をずるずると引きずっている。
「……ぼくは、ずっとみんなといたかった」
膝を抱えて小さなリシュエント・ルーは言った。「なんで、ってずっと思ってた」
ごめんなさい、返されたリットはその言葉に少し目をうるませる。やや気まずくなった場にもひるまずアシュレイは
「レザーのことも、その考えか?」
軽く頷いたどこか少女めいた女の仕草に仲間たちは目を注ぐ。非難を口にはしなかった。
「――私、聖女に見える?」
「……?」
「剣聖を支えつづけた聖女のイメージと重なる?」
意味を掴めず困惑を浮かべる仲間の中で、ただ一人アシュレイ・ストーンの顔色がざわっと変わった。咄嗟に伸ばした手は乱暴に女の手首を掴み取り
「馬鹿言うなッ! あいつがんなこと考えてりゃ俺がとっくに張り飛ばしてる!」
「え、ええっと……?」
「その、ちょっと、わかりやすいようでわからないんですが」
戸惑う残りの仲間に、グレイシアは腕を掴まれたまま軽く笑って
「要はちょっと英雄コンプレックスがあるレザーがその延長で私の方を向いてくれたんじゃないかってこと。聖母と結ばれた英雄に近づこうとして」
今まで曖昧な言葉を吐きつづけてきた女のそれとは思えない、簡潔で赤裸々なそれに一瞬その場は静まり返り
「最低だーっ!!」
「いやあ、面白いくらい」
聴いた二人は騒ぎ、もう一人は言はなく手を横に振った。一人、リーダーだけが「違うッ!」と怒って叫んだ。
「凄いな、もう。僕専用のナイフ的に一生なってもらうくらいだね」
「僕専用の殴り生き人形ぐらいですか」
その言葉を吐いた後、リットとライナス二人は目を合わせて一緒にしないでよ、同じようなもんじゃないですか、という無言のやりとりをした後
「でも、違うんでしょ?」
その反応にやや意外そうな声をあげたのはアシュレイだけで、カールは頷き、ライナスも特に異論はないようだ。グレイシアは謎めいた笑みで
「どうしてそう思うの?」
「だってレザーちゃんってほんとに好きだったじゃん、シアちゃん。結婚ってのはびっくりしたけど、それもあとから考えれば当然かと思うもん」
暖色の髪の女は肯定も否定もせずにしばし片目を閉じた後
「レザーが本格的に叔父さまのもとを飛び出したのは反対されてから。レザーはね、叔父さまを殴って飛び出したの。叔父さまが、お前は英雄幻想にあてはまる相手を選んだだけだ、って言ったから」
「あの野郎っ…!」
「叔父さまだってそんなことほんとは思ってなかったのよ。あの人もどうしようもなかったのね。そう見せないように動揺する人だから。レザーには叔父さまがそれを言うのは我慢ならなかったのよ」
「ぶしつけですけど、飛び出したんならどうしてその先で勢いまかせにガーといかなかったんですか。そっちの方が自然な流れの気がしますけど」
「それまでは勢いにのってたのがそのことで削がれちゃったってところかしら。ほら、ああいうのは言う通り勢いが必要から」
本当にぶしつけな問いにもひるまず答えられたそれは、あいにく場には既婚者もそれに次ぐ状況に陥った者もいないため、曖昧な受け止められ方をした。そんな仲間達に向けて穏やかな女性は穏やかなまま再度爆弾を投下した。
「私、美人じゃないでしょ」
「そりゃそうですけど」
ぎょっとした仲間達の中、一人だけ答えた普通にライナスに、両左右から素早く足払いがかかり、体勢を崩したところを見計らっていたアシュレイの拳が、ガツンと降って俊敏な男もひっくり返った。そこに容赦なくリットとアシュレイで蹴りを入れる。
隻腕の男は参加しなかったが、かといって止める気もないらしい。グレイシアもそれ寄りの立場なのか、よってたかって蹴りつけている二人の背とカールに向かって
「男性よりよけい見目が問われる性別だからね、私は呑気だからそうでもないけど。レザーは人に好かれる人だし、伝説の聖母は美人だった。私はそうじゃない。それで十分。出来損ないの子孫だからあんな聖女を選んだ、なんてそろって標的にされたこともあったわ」
「言われた直後に俺に言えっ!」
殺気だって振り向いたアシュレイにリットも殴るのをやめてそうだと拳を突き上げる。ますます高まる怒気にさすがに身の危険を感じたのかライナスがカールの背に逃げ込んでいた。
「強くなかったの、二人とも。強くあろうとはしてたけど。失うことが怖いからどちらも踏み出せなかった」
優しい藍色の瞳がゆっくりと仲間を見渡して最後にアシュレイ・ストーンに落ち着いた。彼はまだ怒りを孕んでいた。どこか少年じみた面影が残る頬に赤い怒気をのぼらせて、じっと見すえ
「諦めるのか?」
吐き捨てるように言った。
「どちらも結婚式が始まっているような段階よ。別の人との」
「諦めるのか」
余裕のない詰問にたいして、一拍の沈黙を、楽しむように。間をおいてだから、とその口唇は続けた。
そこで暖色の髪の女は仲間たちですら初めて見る、鋭く野生じみた笑みを口の端に霞ませて、アシュレイ、実に軽快な響きで歌うように呼んだ。
「花嫁を強奪しに行きましょうか?」
風の向きが味方してくれたせいだろう。臭いを辿るのは難しくなかった。そよそよと流れてくる冷たい夜風は、メイスの鼻に確かな情報を教えてくれた。
夜の森に生えた木々はまだどれも若々しく、活火山であった頃の証拠に、炎に溶かされ再び凝固した赤黒く生々しい肌を見せる岩の塊が辺りにごろごろ転がっている。
夜の中で月光を浴びてほんのりと、自身こそが月であるというように肌は淡く光を放つ。白い髪に白い肌、昼間では太陽の日にかきけされがちなそれがくっきりと現れて、夜の中こそ少女は美しかった。一対のアーモンド型の目だけが驚くほど艶やかに赤い。
その双眸がつと瞬いた。彼女は少し眉をよせ、風が教えてくれる情報の真偽をしばし確かめた。でも動物は己の嗅覚の情報を信じずにはいられない。眉を寄せたまま、細い足が地面を跳躍する。夜の中を最小限の音だけを残して少女が横切っていく。
しばらくいくと、先から二つの匂いが流れてくるのに気付いた。正確に嗅ぎ取る前に、目が先の梢の上にいる師の姿をとらえた。横に伸びた太い枝に腰掛け、幹にもたれて、師は眠っているようだ。あの師はいつも地上では眠らない。迷わず踏み出そうとした足が、止まった。
梢の下には一人の男が立っている。背筋が気持ちよく伸びた立ち姿。なにをしているのかはわからない。すっくと立って両腕を広げ、掌は何かをすくいあげるように、上向きに広げられている。
なめらかな頬に浮かぶのは、見るものの瞳に沁みこむような幸福に満たされた微笑だった。樹上の相手を見上げて、ただ一心に彼は幸福そうだった。それを向けられる相手は気付いているのかも怪しく、つれなく寝入っているように見えても。でも。確かに。樹上の師は、男がそこにいることを許していた。
なにをしているのかはわからない。だが、神聖だった。胸のうちにあるすべてを伝えるように立つ男と樹上の師の二人はただそこにいるだけで何かを完成させていた。不思議な空気が夜も山も闇も包み込んでいる。そこは完全に確立された世界だった。
しかし、男がふと何かに気付いたように首を動かす。不可解そうに自分の胸元をじっと見下ろして、それから顔をあげた。
「コル、ちょっと行ってくる」
すっと樹上の女が瞳を開いた。男はくいと指で自分の胸元を示した。「こいつが気にしているらしい」
気付くと冷たい夜の木陰の中に立っていた。気付いてから、すたすたとしばらく歩いた。けれどその足も再び止まった。明るい月夜の硬質な光に照らされた横顔は、ごそりと気力が抜け落ちている。木々をふわりと渡ってきた風は白い頬をそっと撫でた。それが合図だった。
張り詰めて保っていたものは一息で崩れた。少女の横顔がみるみる歪み、赤い瞳に大粒の涙が浮かびたまる暇もなく次から次へ頬をすべり落ちる。
立ちすくんだ細い肩が頼りなく揺れ、月に背を向けて泣き声は激しくなった。やるせなさが喉からその音をとって吐き出されるように、木々の中で悲しく消えていく繰り返されるしゃくりにむせながら、涙は後から後からこぼれて胸元を濡らした。
ああ、と誰かが呟いた。何もわからないまま、その場にしゃがみこみ泣き続けていたメイス・ラビットはぐっと腕を引かれてよろめいた後、涙で汚れた頬に暖かい何かがあたる。つっぱねようとした一瞬の反発は弱くて、頭上で囁かれた言葉に淡雪のように消えさった。
「ごめん」
涙だけが後から後からこぼれた。温かい抱擁を与える男は、慰めようと頭や首の後ろをさする。その気遣いのおかげか、ゆっくりと時間をかけて、ようやく号泣の衝動がおさまってくる。
まだしゃくりを繰り返す少女がそれでも落ち着いてきたのを見はからって、男は静かに身を離し、額に前髪ごしのかすめるような口づけを落とした。
呆気にとられて見上げた先、そっと触れて去った唇が持っていたものと同じもので作られた顔で男は笑っている。
「泣かなくていいよ。大丈夫。君は全部持っている。こいつも、コルも、みんな君のものだ」
君が大人になるまでは。
意味がちっともわからないまま呆ける少女を、子犬にするような抱擁が閉じ込めた。抵抗はしなかった。すると頭上でかすかな笑い声と共に男が呟いた。ああ、痛い。痛い。笑いながら言った。
「君が泣くと、こいつの胸はとっても痛むよ」
樹上の女は身を起こして、男の去った方角を見やった後、弟子でもないが、夜風が様子を教えてくれるとでも言うように、鼻を嗅がせていた。
「……」
やがて梢から飛び降り、男が向かったのとは逆の方向へ身を滑らせる。夜の中を、緩やかな歩みがしばらく続いた後、女は立ち止まった。
獣の息遣いは気付くと間近だった。炎のそばでもなければ、夜の山中は物騒なことこの上ない。脇の茂みが作り出す闇に幾つかの光る目がある。複数の目は間違いもなく、女の姿を獲物としてじっと捉えていた。
ふっ、と女の口元から小さな笑みが漏れた。その瞬間、茂みに潜む不埒な襲撃者たちは、断末魔すら、あげることはかなわなかった。血でいっぱいに満たされた皮袋を床にたたきつけたように獣の四肢が突然はじけた。
返り血は盛大に周囲の木々に走り、女にも届いた。無事だった仲間の獣は戸惑いよりも先にやってきた恐怖に身を翻す。足音が遠ざかっていくと、温かい血が飛んだ手をすっと女は掲げた。
月の光がその雫を照らし出す。白い光にさらされても黒い雫だった。
指からぽつりぽつりと雫は垂れる。あげられた手首から腕まで伝っていく。自らの血管からすするように、雫を口の高さにもっていって、それを飲んだ。空っぽの血管にもう流れない血を求めるように、喉が鳴った。
風が吹いているせいで、そこまでは広がらない。しかし、血臭の独特な香は隠し通せるものではない。
掌にはまだ生温かい塊がにぎられている。伝った血を飲み干した後、肉を細かく裂きゆっくりと嚥下していく。その食事風景は事務的で淡々としていた。
生の熱がまだ灯る肉を口に入れる感触はおぞましいものだ。風下で別の夜行性の獣が血臭に興奮したように喉を鳴らして動き出したが、数歩で四足の獣は歩むのをやめて、一度怪訝な素振りを見せた後、それ以上は近寄らずに身を翻した。動物が本能に逆らうことはない。そして多くの場合、それは正しいことなのだ。
今もそれは決して例外ではなかった。咀嚼は淡々としていながらも、貪っていることに変わりない。近寄るものはどんなものでも新たな獲物となりえた。闇の中には血が香る。剥がれた皮が血に洗われた白い骨が積み上げられる。
その食事風景はひどく淡々としていた。
そうでなければ、耐えられないように。




