攫われ王女と絵画とうさぎ(6)
大穴をあけた化け物の頭頂部から、禍々しい小さな太陽のように浮かびあがってきたのは――間違いはなかった。巨大な竜の双眸に酷似した、両手にちょうどおさまるほどの光の珠は、青い髪の青年と白い髪の少女に確信を与えた。四方に光を撒き散らして夜空へと舞ったのは、ドラゴンの森で網膜に刻まれた赤色だった。
それは見えぬ力に逆らえぬようにやってきて、魔導師の両手におさまった。青年も白い髪の少女も、ドラゴンの森で目の当たりにした両手で狭めぎりぎりと締め上げた激しい攻防の末に彼女が食らったことを想起したが、予想に反してそれは女の手に触れた瞬間、すうっと何の抵抗もなく掌に吸い込まれていき、後にも反応がない。
「……」
不気味なくらい何もなく収まった場の沈黙に一番戸惑ったのは、半分部外者で今見たものの意味がよく掴めないライナス・クラウドだった。
傍らに呆然と立ち尽くす、何故かこの夜は妙に無力になってしまった馴染みの青年の腕をとり
「レザー、早く」
と促す。あの化け物が完全に停止した以上、大至急優先すべきなのは仲間の安否の確認に他ならない。その理は青年も理解したらしい。
躊躇いながらも、不気味なほど静かに佇む魔導師を気にしながら、きびすをかえした。その脇にすっとライナスが滑り込む。
「気づいてます? いつの間にかミノス王もいない」
その言葉に青年も一気に真剣味を増した。首を回して視認し本腰をいれて走り始めた。白い髪の少女も躊躇いながら、青年から離れないようにきびすを返す。若い三人がそこを駆け足で立ち去ってしまっても、魔導師がそれに気づいていたかはわからなかった。
影のように佇んでいた女は一拍後、まったく唐突によろめき、膝が急に木偶になったかのように踏みとどまりもせずその場へと崩れ落ちた。口から喉を裂く様な激しい咳が飛びでて身体を乱暴に揺らす。
「――ッ」
地面に突っ張っていた手も崩れて、女の身体はその場に転がった。地面の先で次から次へと飛び出してくる激しい咳を、なんとか押さえ込もうと背中が丸くなる。
極限まで見開いた目は眦が裂けそうで、光はなくともひどい衝撃を表している。地面で苦しむ女の手はいつの間にか汗が吹き出た額にあてられていた。
頭痛でも覚えているように狂おしく前髪を掴み、指は額を彷徨う。咳の余韻がまだ身体を震わす。地面に打ち捨てられた人形のように、小刻みに震える魔導師の姿は無力に見えた。
しかしその肩が次に紡いだのは、低い笑声だった。
「――また、これか。これがお前の考えうる最大の絶望の絵図か?」
苦しみながら女は笑う。直後に咳の発作がひどくなり内部からの痛みは激烈になったようだが、女の嘲笑は止められなかった。半身をおこして顔をゆがめる。
「浅い暗闇だな!」
叫んだ直後に再び打たれたようにその身体は倒れた。汗が滲む顔で胸元に手をあてて苦しげにかきむしる。責め苛まれる苦しみの中、それでも女は薄目をあけてくく、ともらした。
「母だと……。私をそう呼ぶか。――いいだろう。再び産み出してやろう。そこで知れ。絶望も敗北も、お前のものだということを」
夜の中で悶え苦しみ、聞こえぬ誰かと会話する女もまた、一人の狂人の態をなしている。ただ一つ確かなことは、どんな幻影も痛みも女の笑いは阻めないということだ。
夜の中で凄惨に女は笑った。全てを嘲笑った。
まんまと二つ目のあれを吸収した奴も気にはなったが、ライナスの判断は正しい。この場で最優先すべきなのはアシュレイたちの安否を確かめることだ。
しかし、冗談のよう遥か上空にずおおんと佇む四本足の化け物の頭頂部に行く、というのはさすがに身の軽いライナスでも難題だったようだ。そびえる巨体を前にして立ち尽くした後、ライナスはぽんっと手をうってメイスを振り向いた。俺は意図を察して慌てて奴の視線に割り込んだ。
「駄目だ。これを持ち上げた直後だぞ」
「いえ、いけますよ」
後ろからメイスが答えてすっと呪を唱える。俺は振り返って白い顔を見る。確かに言うとおりメイスは平気そうだった。ドラゴンの森ではぜいぜい息を切らして汗を流していたのに、平静そのものの顔をしている。俺はさっき見たものを思い出しかけて慌てて首を横に振った。
俺とライナス、そして自分のナブザックの上に乗ったメイスが空を舞う。
月光の中の化け物の上に立つのは、実に不思議な感覚だった。ガレ場の山頂にいるのが一番近いか。地面の上とは違い阻むもののない月光は、非常識なくらい明るくて、一瞬、意味のわからない面子でピクニックでも行っているようなわけのわからない錯覚にとらわれた。
しかしせっかくメイスの浮力でたどり着いた頭頂部で、ライナスが下を見て「あ、いる」と呟いたんで一体なんだったんだと大穴の付近に行くまでもなく、ごつごつした表面を急いで降りる羽目になった。
おたまじゃくしのような形だがそれなりに突起が出ているので、降りる分には苦労しない。丘を駆け下りるように、月の近い場所から四本足の部分までだだだっと駆け下りて見下ろした先、確かに化け物の足元近くに仲間と叔父貴の姿が見えた。俺たちが思いもよらない場所にいるせいか、向こうはこちらに気付いていないようだ。
俺はまあ無事だったのは他のメンバーと変わらず嬉しかったんだが、叔父貴…、と反射的に唸ってしまったのをメイスが聞きつけた。きょとんとした顔で
「おじき?」
「レザーの縁者とは聞いていましたが、叔父上なんですか、アベル伯は」
俺が反射的に足の付け根の突起に隠れてしまうと、メイスとライナスも反射的に影に身を潜める。二人して向こう側にしゃがんで、じっとこちらに視線を向けて聞いてくる。やな配置だ。
「……」
あのときそこまで聞いていたか。さすがにここまでくると俺も観念した。
「……縁者っても、血は繋がってねえんだよ。俺の親父の爺さんの弟のその孫の嫁さんの腹違いの年の離れた弟だ」
一応後見人だけど。
ぼそっと付け足す。一気に言い放った繋がりがいまひとつ理解できなかったのか(無理もない)ええっと……と考え込んでいるライナスの横でメイスは
「あの方、自分で伯爵と名乗っていましたが、レザーさんも?」
「――親父が田舎領主ってだけだよ。元を正せばうちは成り上がりだし」
領主……と口の中で呟くメイスに、意味わからん繋がりを理解したのか放棄したのか、ライナスはちょっと考えた後
「レザー、君のお父上はずいぶん前に亡くなっていらっしゃるんですよね」
「ああ。顔も覚えてない」
「じゃあ、今、君がそうふらふらしてるなら、領地は誰が統治しているんですか?」
「……」
「妥当に考えれば――後見人ですか」
「…………」
「領主の跡継ぎの座を叔父に押し付けて逃げた、って図式ですかこれは」
それじゃあ頭は上がりませんよね、とライナスがなんかすげえ嬉しそうにいった。他人の卑怯なところを見つけると嬉しそうにする奴だ。殴ってやろうかな、とちらりと頭を掠めたが、隣のメイスが小さく息を呑んだのに気をとられた。
メイスは誰が伯爵だろうが領主の跡継ぎだろうが割合どうでもいいことだったのか(だろうメイスだ)俺の答えを聞いた辺りから下の様子を伺っていて何かを見つけたらしい。俺とライナスも同時に見やった。
「ミノス、ずいぶん探したぞ」
叔父貴の年は確か――三十半ばだが、昔とあまり変わっていなくて、いいところ三十前後、二十代だといわれても誰も疑わない。童顔というわけではないが、ともかくあまり老けない。そんな叔父貴がどう見ても一回り上のミノス王に気安い口を利くのは違和感があった。あまり好きな観点ではないが、身分だって相当違うのに。
呼びかけられた主はゆっくりと顔をあげて叔父貴のほうを見た。
「……アベルか」
「ひどい格好だ」
「そうか?」
「そうだとも」
叔父貴のからかうような口調に、ミノス王はわずかに笑みを見せた。
「お前はいつもきっちりした格好をしているからな」
コルネリアスにみぞおちに一撃くらってから、この狂った王がいつ回復したのか正直わからない。いつの間に目覚めて俺たちの前から姿を消していたのかも。
穏やかに話をしている。けれど片手に血まみれの剣、自分の上等な服にも返り血が散っている。今の奴の精神は一体どんな状態なんだ?
そこでミノス王は細い息を吐いた。
「迷惑をかけたな、アベル」
「まったくだ。世話が焼ける」
「世話焼きついでにこの国はお前が継いでくれないか」
「のしつけて返してやる」
なんだか叔父貴が意地をはる少年のように見えて、俺は意外で仕方なくて見ていた。
「近隣並ぶものがない大国、お前には合う器だと思うが――お前はいつも、あるようでいて野心がないな」
「庶子腹の田舎貴族がそんなものを持っていても不幸になるだけだ」
「お前はこの国を背負えるだけの器があった。私には、なかった」
「……」
叔父貴が黙った。ゆっくりとミノス王は首をふって、正面からライトグリーンの目を向けた。賢者を思わせるような、思慮深い双眸だった。
「豊かな国だ、アベル。近隣並ぶものなき大国。この枷は強すぎて私は背負うことに疲れきっていた。できれば、責めないで欲しい。アリアドネの無垢さも純粋さも、全て私のせいなのだから」
「……」
「あのお嬢さんに、きついことを言われた。そうだな、あんなに生気溢れた娘がアリアドネではありえない。それを私は知っている。あの子を人形にしたのは私だからだ。あの子は私の毒だった。私が私のために作り出した毒だった」
「自分のせい自分のせいと喚くのはやめてくれ。そういった感傷にはうんざりだ」
「――アベル」
不意に呼ばれて叔父貴が目を開いた。
「いつから気づいていた?」
叔父貴は答えずに肩をすくめた後、歩をつめて無造作にミノス王の腕に手に持っていたものを押し付けた。
「お前の、アリアドネだ。届けてやった」
ミノス王の腕に渡ったのは、乾いて割れた小さな――人の頭蓋骨だった。手のものを一瞬不思議そうに眺めて、それから微笑んだ。
「お前が届けてくれると、思っていたよ」
笑みに呼応するようにようやく叔父貴が笑った。「嘘をつけ、ペテン師が」
その人間の中に流れる時の砂が、急に止まるというならまさにそれだった。たった一本闇の中に揺れていた蝋燭の火に、誰かがふっと息を吹きかけたように。
ミノス王がかくりと頭を下げた後、その身体はくたくたと地面に崩れて、布だけがふわりと膨れて揺れる。それは青の布地に金糸の縫いとり、臙脂が混じった服だったが、それもさあっと風に溶けて消えた。
叔父貴がどんな顔をしているのか――突然俺の視界は落ちて柱の部分にふさがれて見えなくなった。あ゛
月入りの時間が遅くなっていたので、油断したが周囲はもうすっかり明るくて、ミュアー連峰の先端から眩しい朝日がのぞいていた。
「アシュレイ!」
のぞきこんでいたライナスが呼ぶ。待て。
「無事か!」
メイスの姿も認めたのかアシュレイの驚いたような声。
「無事ですよ。レザーも一緒に――」
ライナスがそこで振り向いてあれ、と呟いたのが聞こえる。俺にはそんなライナスが見えなかった。メイスがすかさず持ち上げてさっと背に隠してくれたからだ。か、間一髪……。
アシュレイがなんかさわいでいるのが下から聞こえる。……俺のことは死んだと思って欲しい。どうしようもない居たたまれなさにレタスの身できゅうきゅうしていると
「レザー」
不意に一声、響きのいい叔父貴の呼びかけが朝に届いた。俺は思わず身を乗り出しそうになった。「もう少し、留守を守ってあげよう。かわりに一度、帰っておいで」
……。
んなこと言ったって。
と思う。
俺は今はこんな状態だし。
と続ける。
忘れちゃいないからな、あんだけ苛められたことは。そりゃ、腹いせに押し付けて行ったのは悪かったけどさ。
思っているとぽんとその映像が出てきた。
――血統書つきのお坊ちゃま。
なんでだろう叔父貴のことを考えると、いつもこの言葉とあの時の馬鹿にしくさった顔ばかりが浮かぶ。よっぽどあの時、腹が立ったのか。考えているとまた声がした。
「レザー、もし私が別の誰かをお前と言い張るようになったら、それは私ではないと殺していいから」
見えていないのに叔父貴の顔が浮かんだ。平気そうな声が、腹立たしい。どうしようもなくなって、観念した。
「い――、一度だけだぞ!」
あれ、とライナスが呟く。「レザー、どこに――」
引き上げ時だという意志をメイスは汲んでくれたらしい。俺を後ろ手で器用に背中のナプザックに押し込み、膝を曲げて一気に柱の上から頭頂部へと飛び移った。うわ。人ではありえない跳躍力をライナスに見られたな、と思ったがライナスは驚いた顔をした後、急に
「色々と終わったら僕らのパーティの正式なメンバーになりません? みんな、君のこと気に入っているみたいなんで」
そんなやたら意外なことを声を張り上げて言った。メイスも意外だったのかちょっと止まって振り向いた。
「窒息するのも、悪くはないですよ」
とよくわからないことを言って、ライナスがしゃっと手をあげる。メイスの顔は後ろなので見えない。それから一気に飛び上がって視界からライナスを消した。
化け物の頭部から見渡すとよくわかる。白々と夜は明けていた。メイスは黙々と飛び跳ねて巨大な化け物の残骸を横切る。
見下ろす城下にはざわめきが聞こえる。けれど一枚隔てる膜があるようにここは静かだ。アシュレイたちが無事だったように、城内にいた人間はみな無事なのだろうか。
朝の光は照らし出す。化け物の上をうさぎが一匹跳ねている。なんで野生のうさぎはいつも一匹でいるところしか見られないんだろう。ライナスのさっきの言葉が蘇った。奴が言った「みんな」には多分、奴自身も入っている。空の色は光に照らされて薄い。
「ライナスが、」
俺の呟きは不発だったが、不恰好に途切れた言葉をメイスは拾い上げた。
「あの人、私の正体を知ったんですよ」
「え」
「国王とやらが私にした作り話に反論したときに。あの人、人の話を聞いたら自分のことも同じだけ話さなければならないと思っているんですかね?」
メイスが変わったことを聞いてきた。国王とかなんとか状況がよくつかめないんだが、おそらくライナスは立ち聞きして、その中でメイスがうさぎだと言っているのを聞きつけた。聞いた直後のライナスがそれを信じたのか疑ったのかはわからない。ただ奴なりにそれは真偽はともかく、プライベートなことだな、との判断はしたんだ。
俺はちょっと考えて、灰色の、胡散臭い、それでも俺の仲間のことで結論を出した。
「そういうところ、あるかもな。あいつ、笑ってるけど人との関わり方へただからな」
「あの国王とやら、私が自分の孫娘だって言ってました。魔女に娘を利用されたって。魔女にうさぎだと思い込まされて実験体にされた自分の娘だって。最後は、ごっちゃになっていた気がしますがね、孫娘も娘も」
「……」
「私によく似た絵があったんです。それでおそらくあの手配書も描いたんでしょう」
「絵?」
「似ていました。私ではないけれど」
俺はあの手配書の似顔絵を思い出した。そっくりだった。別人を描いたなら、あれは似すぎていた。
「昔は私、そんなことわからなかった」
え?
「レザーさんと会った頃ぐらいは、私、人間の判別ができなかったんです。みんな同じ顔に見えました。体型や髪の色や目の色は判別できましたけど、男か女かもわからないことが多かったです」
「……」
「でも、今は――」
その呟きをメイス自身で振り切った。メイスの足取りに迷いはない。行くのだ、置いてきた魔女のところに。メイスが助走をつけて高い場所から一気に飛び降りると、ミノス王とやりあった塔の近くに降り立った。白々とあける場の中に、黒い姿が立っている。コルネリアスはその場にまだいた。
特に何をしているわけでもない立ち姿は、俺たちを待ちかまえているようにも見えた。朝の中でもこの女の、髪も瞳も輝かない。赤い瞳を食らったときだけ、凄絶に光る、血のない魔女だ。
「お師匠様」
「出せ」
一瞬メイスは言葉に詰まった。「背中のものだ」
呟いた直後に俺とメイスはほぼ同時にそれが何を指しているか気づいた。俺だ。俺の利き腕を逆に答えて斬られたことがあったせいだろう。メイスは警戒して拒むように首を横に振った。
「赤銀の髪の男が報酬に望んだ。――もっとも。どんな姿になっているかまでは知らなかったようだがな」
そこでコルネリアスは笑って信じられない台詞を吐いた。
「元の姿に戻してやろう」
メイスと俺が元の姿に戻るのは当初二つの方法があった。コルネリアスに戻してもらう。メイスが自力で術を考える。そして早々に希望を捨て去ったのが前者だった。どう考えても無理に決まっている、と。それからは夢にも見なかった事態が目の前で展開している。
その瞬間思ったのは、当たり前だが強烈な罠を仕掛けてきているのか、ということだった。
――赤銀の髪の男が報酬に望んだ。――もっとも。どんな姿になっているかまでは知らなかったようだがな
そんな思惑をよんだかのようなコルネリアスの言葉。赤銀の髪の男――アシュレイだ。アシュレイは俺がとりあえず変貌していることは知っていた。だからおかしい話ではない。しかし。
今までの経験を振り返れば余計に脳は警鐘をかき鳴らす。こいつの話にのって一度でもいい目を見たことがない。
するとコルネリアスは珍しく口元で何かを唱え、印を結んだ。あまり呪文を唱えないこいつがこうするときは、かなり変わった術を使うときだ。左手から何かが飛び出てのぞいた。
一瞬、身体から何かがずぶずぶと姿を見せたのかとぞっとして思ったが、それは一種の召還術に過ぎなかったようだ。そう言えば化け物に向かって唱えていたのも――と考えたところで掲げて開いた左手の掌底からするりと一気にそれは滑り出た。
息を呑むほど黒く、それでいて物騒な輪郭。剣だ。黒い刀身を持つ剣などそうない。あの化け物の頭頂部を吹き飛ばした剣だ、と思うとメイスが一歩後ずさった。コルネリアスの身体の前の空、一本の剣が斜めに横たわっている。
息を呑んで見守る俺たちに向かって――いや、突き刺すように正確に俺に視線を固定させてコルネリアスは見せびらかすように
「見覚えはないか?」
「――え?」
「貴様が知っているはずのものだ」
そう言って剣に目を落とす。なんだ? いつも、メイスにはかまっても俺には目もくれなかったくせに。
そう思いながら差し出された剣を見た。染めぬかれた色さえのぞけば、なんの変哲もない刀身。一目で量産品とわかる。平べったさが特徴といえば特徴。『長さは約ニピタ』
どくんと心臓が大きく跳ねた。何気なく特徴をあげていた時に、突如、重なった文言。なんでそんな考えが舞い込んだのかわからない、と頭の中で誰かがひどく無理して笑った。
笑いでごまかそうとする合間に、どくん、どくんと何かが追いかけるように脈うつ。心臓とはまた別のリズムで。それもまた韻を踏む。寝物語に滔々と、――刀身は平たく、それ以外に特徴はない。長さは約二ピタ。
「……知らん」
搾り出した声は誰か別の者のようで。不安を増長させるためのようにコルネリアスの声が返る。刀身は平たく、それ以外に特徴はない。長さは約二ピタ。
「……知らん」
――それが彼の剣なり。
「受けとれ。元に戻してやる」
我を忘れ喚く一歩手前の、ドアを叩く。どんどんどくんどくん。何故確信しているのかわからない。でも確信している。黒色の刀身。そんなもの聞かされたことはないのに。刀身は平たく、それ以外に特徴はない。長さは約二ピタ。それが彼の剣なり。
「受け取れ」
剣から視線を剥がして俺はコルネリアスを見た。その顔を見たとき、急に俺は悟った。俺はその剣の存在に確信しているわけじゃない。ただ奴の態度から嗅ぎ取ったのだ。心臓が嘘のように静まった。
嫌になるくらい、俺はそれに敏感だった。傷つくだけなのに俺はいつもそれを正確に感じ取った。いつもいつも無意識に好きになったのは、俺の後ろにそれを見ない相手ばかりだ。ガキの頃からそうだった。血統書つきのお坊ちゃま。いつも思い出すその言葉を、俺は悔しかったんじゃない。心底嬉しかったのだ。叔父貴はそれを蔑んでいたから、泣かされても俺は叔父貴をひたすら慕った。この人なら、この人なら、俺を、俺を、俺として。
カッ――と血が一瞬焼けてすぐ冷えた。
「お前も――か……」
何故知っているのか、そんな問いも頭の中にはあったが重みをなさなかった。こいつも俺をそう見ている。それだけが鉛のように重い。
「消えろっ!!」
喉奥で声がはじけた。「それを持ってとっとと消えろ!」
「受け取れ」
「誰がッ!」
「元の姿に――」
「それで戻ったってそれは俺じゃないっ!!」
レザーさん、とメイスが呼びかける。けれどそれ以上に目の前の黒魔導師が憎くて傷つけられて裏切られて。今までこいつに抱いてきたどの感情とも違うそれで滅茶苦茶だ。
「俺は違う! ――俺に期待するな、俺以外の者への期待を俺に向けるな!」
俺の叫びの残響が消えた後、朝が元のように静まり返る。絶対に冷ややかに嘲笑してくると思った奴は、しかし言葉を続けなかった。
朝の中で真っ向からコルネリアスの顔が見えた。俺が嫌悪しながら憎悪しながら予想した、失望とも軽蔑とも違う顔つきで、ただ決まったものを淡々と受け入れる様で頷いた。
「そうか」
そうしてふっと奴は片頬をゆがめた。
「奴が期待できぬから――」言葉の途中でいや、と女魔導師はかき消して全く別の言葉を新たに紡いだ。「お前の利き腕は左だろう? まあ、いいか。奴は右腕だった」
剣が迫る。その剣は両手に収まる。光のない黒い瞳で視界を塗りこめた。艶のない黒色がぶわりと広がる。メイスが悲鳴をあげて俺の腰に強く抱きつく感触だけを感じた。
女の声が次の瞬間、場にくわんと反響した。
「気はひどく進まん。だが」
「変われ」
メイス・ラビットには何が起こったのかわからなかった。
師の元へと行ってみると、突然レザー・カルシスが激昂した。しかし、激昂の理由がよくわからない。何かを聞き逃したわけではない。その場にいて一言一句、一挙一動目にして耳にしていた。それでもメイスにはその理由がわからなかった。
元々、温厚な男だ。カッカしていても本当に怒りを見せたことは、考えてみれば長い道中一度もない。だから初めて見る怒りの様は正直な話、メイス・ラビットにわずかな恐怖を覚えさせた。よく知った男が別人のように思えたからだ。怒りの理由がわからないのもそれに拍車をかけ――そしてその矛先が自分の師だ。
混乱して名を呼んでも、相手は答えてくれなかった。噛み付くように師にたてついて、そして師が黒色の剣を突きつけた。彼はそれを――受け取ったように思える。いやともかくぐいと押し付けられて咄嗟に触れざるを得なかったのだ。
ならその段階でレザーは人間に戻っていたことになるが、目の当たりにしていたメイス自身もいつ彼がかわったのか、思い出してもわからない。ただともかく最後の瞬間に腰に抱きついたのだけは覚えている。
そして――。
ともかく三者が、自分とレザーと師匠が、思い切りぶつかったようだった。衝撃に吹き飛ばされて転がった先の地面でメイス・ラビットはそこまでぼんやり考えて、ハッと我に返って素早く一回転で身を立て直した。
身体を起こすとすぐに視界に入ってきた影がある。呆気ない朝の中に、一人の男が自分の真正面に立っていた。
見ず知らずの相手ではない。人間体のレザーさんだ、と思いそれからメイス・ラビットはひどく珍しいものを見たような気分になった。相手は朝日を真向かいに受けているので、メイスの位置から隅々までその姿が見渡せた。
すらりと高い長身、旅なれた丈夫な靴に、適度に汚れてくたびれた旅装、均整のとれた体つきに、惚れ惚れするほどしなやかな姿勢は彼が優れた剣士であることを示している。
やや癖があるが触れると柔らかい深い青の髪は、出会った頃の背に届くほどのそれと違い、今は首筋に毛先が届くほどだ。肌の色は適度に日焼けしているが、それでも白い。人柄から感じさせる愛嬌は、今は影を薄め表情は乏しかったが、その分だけごまかされることなく顔の造りがはっきりとわかった。
深く青い瞳は存外切れ長で、斜に構えたような影が実際の年よりやや大人びてみせる。一目見て驚くような派手な顔立ちではないが、毒気や癖のない顔立ちは自然にふわりと見るものの心に舞い込む。
秀麗な目鼻立ちは、柔らかな爽やかさに満ちていて、ともかく人に与える印象が格段にいい。今こそぼうっと上の空のようだが、これでしっかりと見つめて微笑めば、誰でもつられて微笑むか赤面してしまうような堂々とした風貌だった。
相手の変化は突然だった。ぽかんと開いたままの目に急に焦点があったかと思うと、うわっと突然叫んで目を押さえた。そのままひどく妙な格好でバランスを崩してその場に勢いよくしりもちをついた。
「あいてえっ!」
咄嗟に悲鳴をあげてそれからそのことに自分で驚いたように「い、痛い? あれ!? 痛い!?」
すっとんきょうな声が続いて、とりあえず男がひどく狼狽していることだけはわかる。メイスは一瞬戸惑った後に「どうしましたか?」
「あれ!? 音? 音が聞こえる――耳あんの!? え!? ちょっと待って――」
とりあえず反応して男はそろそろと顔をあげ、瞬間、ぎゃっと声をあげてまた目を抑えた。ちょうど朝日を背負う形になっているな、とメイスは気づいた。今の男には強い光は厳しいらしい。必死に腕を顔の前にあげてかばっている。
「いってええぇぇっ!! 目見えたような気がしたけど、今のでつぶれなかったかこれ!」
「ちょっ――レザーさん!?」
「え? 誰? それがこいつの名前?」
顔を覆いながら呟いた一言が、なんとか手助けしようとしていたメイスの動きを止めた。メイス・ラビットは一瞬真顔で腰をつけた相手を見下ろして、そのまま離れるように一歩引いた。親しんだと思っていた者が突然なにかまるで別の者に変貌した。それ以上に警戒するものはない。鋭く赤い瞳で見据える。
「――あなた、誰ですか?」
突然ひどく警戒した誰何の声に、言われた相手も慌てたようだ。目一つも満足にあけられない状態では無理はない。
「や、ちょっと待ってくれ。いまひとつ状況掴めてないんだけど、俺は怪しいもんじゃない!」
ちょっと待ってくれ! もう一度言って腕の背で顔ごとこすりながら、数度うなって腕を目の高さにあげ、まったく見えていない状態でもとりあえず相手は顔をあげた。自分の顔をさらすことが、疑いを晴らす一番の手段だとでもいうように。
そこでほとんど目は瞑ったまま、相手は笑いかけてきた。予想したとおりの効果を人にもたらす顔が朝の光の中に真っ向から浮かび上がる。
「俺は、カリスク・K・カルシスって言うんだ」
とりあえず怪しい奴じゃないから、と男は朝の中でぎりぎりの笑顔を一瞬保ち――やっぱっ、無理っ! と一声叫んですぐにがばっと顔を再び腕に伏せた。
<攫われ王女と絵画とうさぎ>完
最終話「レザーになった男」へ




