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攫われ王女と絵画とうさぎ(5)


 月が照らす夜の中に浮かび上がったシュールな全容に冗談みたいなディテールを持つ、城で出来た巨大な獣――のようなものを背景に、ひどく非現実的な視界の中でくるりと女が振り向いた。

「馬鹿弟子、この不細工なものを浮かせろ」

 顎でしゃくって言った魔導師の言葉に、一瞬ぼけっとした後、ぞっとしたように

「無理です!」

「こいつは真っ先にお前を食らうぞ」

 メイスは言葉のどこかでコルネリアスの言うことの真偽が嗅ぎ取ることができるようだ。青くなるのと同時に術を唱え始めた。もとよりメイスがコルネリアスに逆らっているのは見たことがない。自棄のように紡ぐ、不可思議だけれど耳慣れた呪と共に白い手が青白い光を放つ。しかし――。

 俺は振り仰いだ。馬鹿でかい口をぱっくりとあけた化け物を。エフラファの竜も相当なもんだと思った。クラーケンはなんか、もう。

 術が作動した。メイスがくっと唸った。搾り出すように身を縮めて、放出する力を強めたのか青白い光が増す。しかし巨大な輪郭は揺るがない。

 ハッと苦しそうな息切れした声が飛びでて、けれどそれはしゃにむにな悔しさに変わったらしい。身を削るように青い光が増す。

「オイ――」

 俺は見てられなくて咄嗟にコルネリアスを振り向いた。奴はじっと俺を通り越してメイスを見ている。まあそれは今に始まったことじゃない。幾度かの接触の中で、一度だって奴は弟子のメイスに構うことはあっても、俺の存在を真っ向から取り扱ったことはなかった。

 思考の途中でうわあ――とやや間の抜けたライナスの声が響いた。その声の響きに俺もつられて首を回して。

 うわあ。

 メイスの術は今まですぐに完成されて実行されていた。だから呪が聞きなれても見慣れても、どういう原理なのか今まで知らなかった。しかし。どうやらそれはいくつかの段階を経ているようだった。しゃっしゃっと、何かがスライドするような音と共に化け物は一段一段とその馬鹿みたいな自重をなくしていった。そしてある一点にきてそれは浮力と化したようだ。

 夜の中に輪郭がぐらりと揺れて、空に少しだけ近づいた。都の夜にくっきりと信じられない化け物が舞い上がる。馬鹿みたいな光景だった。誰もがそれを前にしてただ呆気にとられている。完全に浮かび上がったとき、俺は急いでメイスを見た。

「―――」

 ――――。

 ―――……。

 ……誰かが俺を呼んだ。

「どうしたんですか、レザー」

 気づくと俺の影に入るぐらいの真横でライナスが言っていた。一瞬だけそっちに意識が逸れて、そしてすぐメイスを見た。術が発動するときにほとばしる青い燐光が腕だけでなく全身にまわって、かたくかたく目を瞑って――。

 だから、今は見えない。

「――ライナス」

「はい?」

「ちょっと殴ってくれ」

「はい」

 言葉と同時に拳がきた。一応手加減はしてくれたらしい。痛い。しかし、目が覚めた!

 俺はすぐにコルネリアスを探した。近くにいたはずだが、黒髪の女魔導師はすそをはらって進み出ていた。

 珍しく奴は呪を唱え、印を結んだ。胸元からすっと片手を掲げる。コルネリアスの視線の先、地面から遥かに離れた化け物の頭に細い細い閃光が一筋縦に伸びた――と思った瞬間、ほんのわずかなそれと共に妙なものが現れた。

 ちょうど頭頂部から現れた、初めそれは真っ黒な逆三角形だった。月夜でなければわからなかっただろう。白い光が満ちる夜だから、それはくっきり浮かび上がったのだ。

 月光の中で、月光を返さずそれは黒かった。まるで血のない女魔導師の目や髪みたいだと思った。そのままでは意味のない逆三角形だったそれは、するりと全貌を現した。まさに滑り込むように現れたのは、宙に浮かぶ剣だ。

 最初は鞘に収まっているのかと思ったが違う。それは抜き身の剣だった。幅が広くシルエットが少々ごつい。が、これといって目立つ特徴はない。――しかし。

 なんだあの剣は。

 抜き身の刀身が黒かった。黒曜石か黒水晶で出来た刀身? いや違う。あれはそんなものではない。光をいっさい返さず、光の中でさえ当然と黒く染み渡って屹立する。

 メイスに浮かされているので、化け物は自分の意思では動けないようだ。なのでなすすべもなく、それは俺とライナスが見守る中、ずぶずぶと化け物の頭部に沈みこんでいった。刺さっているというよりは、同化が正しい。城をとりこんで身体を形成させたようにあの得体の知れない剣もまた――。

 横っ面をひっぱたかれるように、強烈な炸裂音がした。一瞬、夜も月光も辺りから吹き飛ばされたように感じた。気づくと化け物の頭頂部が四散している。破片が吹っ飛んできたら大惨事だっただろうが、そのまま空にとどめられている。

 破片がふわふわとメイスの術で浮かぶ空の中、そのなまずのような頭の丸みに大穴があき、陥没している。その中空にはもぐりこんだはずの剣がまた垂直に屹立していた。

「……」

 呆然とする夜にくっくっくと低い声が響いた。

「どうした? うまそうに飲み込んでいただろう?」

 飲めよ、と嗜虐に満ちた目で魔導師が腕をおろすと、剣が再び降下を始め、瞬間電撃が走るように化け物の身体は大きく揺れて動かなくなった。





 何度目かの揺さぶりの後、女の瞳が見開いて数度瞬きした。安堵と喜色が混じる仲間の中で、グレイシア・ロズワースは目を覚ました。

「シアちゃん!」

「無事か?」

 リットの歓声の後、赤銀の青年の問いかけに身をおこして頷いたが、頭を動かした先でくらりと眩暈に襲われ落ちかける額を手で支えた。傾いた体を慌てて支えて、脅えた声をあげるリットに大丈夫と目で語りかけた。

「無事じゃないなら無事って言うな」

 頭の上からやってくるリーダーの口ぶりがすねた少年のそれのようで、おかしくてふっと息を漏らした後、グレイシアは一拍後にしっかりと定まった目をあげた。

「ぬかったわ。ガードする暇がなかった。身体的には無事よ。でも魔力をごっそりと抜かれた」

「それでシアちゃんだけ倒れたのか」

 ぼくら魔力ないもんね、と言うリットから目を離して、グレイシアは周囲を見回した。明かりは消えていない。部屋も歪んでいない。内心、訝しみながら問いかけた。

「どうなったの?」

「城が大きく揺れて、それからお前が倒れた」

 簡潔な言葉に唇をそっと噛んで考えた後、

「……なにか、酩酊感みたいな眩暈みたいな、くらりとしたものは感じなかった? 私が倒れる前に」

「――あったね」

 黒髪の伯爵が素っ気なく答える。叔父さま、ありがとうございます、と笑顔で言ってからそのままの顔で考えた。どういうことなのか。

 そして結論が出た。元々浮かべていた笑みに加え、さらにこぼれるような笑顔で

「みんな、大丈夫ね。じゃあ、さっき話していたことを急いで――」

 何故か冷たい視線で見られていることに気づきながらも言い切った。「実行するわ大急ぎで」

「そうだな。お前がそんな満面の笑みってことは相当――だな」

「たいしたことないのよ」

「うん。だいたいわかるから」

 馴染みの仲間は各人冷めた顔で言ったあと、アシュレイは立ち上がろうとしないグレイシアの前に背を向けてしゃがんだ。「乗れよ」

「置いていって」

「うるさい乗れ」

 確かに今の自分は動けそうにない。しかしかと言ってこの中でもっとも戦闘能力を誇るアシュレイの手を塞がせるわけにはいかない。アシュレイだとてそれくらい百も承知だろうが、赤銀の髪のリーダーは度重なる面白くない出来事にすっかりつむじを曲げているらしい。

 硬直した場に、無粋な男だ、と上方で誰かがため息混じりの呟きをもらした。

 え、と顔をあげるグレイシアの手をさらりととり、顔をあげる相手の目前で、若き伯爵は優雅に身をかがめて手の甲にキスを落とす。「私の背に」

「キザっ!!」

 言葉のわりにはわあと楽しそうにリットが叫ぶ。ありがとうございます、と今度は素直に受けたグレイシアを軽々と背負いながら

「アシュレイ君は軍人らしく、せいぜい剣で私の分も働きなさい」

「これが終わったらぜったい抜けるからな俺は」

 蒸気でも吐き出しそうな顔でアシュレイは一つ息を吐いて、廊下に繋がるドアを勢い良く開き、クリーム色の壁にかかっていた陰気な絵画の老婦人と顔を付き合わせて、二秒後に慎ましくそれを閉めた。閉じたドアを睨んで

「なんだ今の」

 そこでふとリットが横を向いてぎょっとしたように窓に寄った。

「窓の向こうに階段がある! 階段の上に―――台所!?」

 少女の叫びの一拍後、全員の視線をあつめる暖色の髪の巫女は

「ちょっと、城の中が迷路みたいになっているだけよ」

 と担がれる背の向こうに顔を隠していった。





 四枚目の陰気な肖像画に突き当たった瞬間、できるならアシュレイ・ストーンはそれを頭からばりばりと噛み砕いてしまいそうに見えた。

「お姫様の部屋かと思ったらトイレだったとかきついよねー」

「先ほどの、玉座と湯殿の取り合わせもそうとうなものだと思うがね」

 こつこつと階段をあがった先で肖像画のかけられた壁につきあたる、どうしようもない踊り場を眺める。真面目にカッカしているのはアシュレイだけで、ふざけた宮殿にたいしては他のメンバーは呆れ混じりの辟易さだけが強い。

「アシュレイ。思っていたよりも、難しいわ。――分散しましょう」

「……」

 赤銀の髪のリーダーは振り向かず「一人ずつは駄目だ。カール、グレイシアを頼む。リットは俺と来い」

「はーい」

「緊急時の落ち合い場所はここだ。そっちは無理をするな」と言い残して赤銀の青年が階段横についている窓に足をかけた。一気に姿を消したその後ろをリットが飛び出して後を追う。即決の行動に感心したように、グレイシアを背負ったままのアベルが

「確かに向こうが先に、見つけられそうだ」

「――いいえ。私は、叔父さまが先に見つけると思いますわ」

「どうかね? 私はあの娘が嫌いだったからな」

 呟いて窓のさし向かいに普通にあったドアのノブに手をかけて開いた。瞬間、ドアの向こうに広がっていたものに、アベル、グレイシア、その二人の頭越しにのぞいたカールが一瞬停止した。

 いち早くカールがきびすを返し、リットとアシュレイが消えた窓に向かって滅多に聞けない彼の大声が後ろから響いた。それをやや呆然と聴きながらアベルとグレイシアはドアの先を見つめ

「私は、あの娘が、やはり嫌いだったよ。あんなちっぽけな自己満足と陶酔で彼を破滅させた」

「……アリアドネ姫は自らお命を?」

「まだ見ぬ誰かのためにぶって泣きながら、一番かたわらにいた父親がどう思うかの想像もできない空っぽの娘だ。自分が他に愛されることを当たり前のように感じている者は、愛の性質に無頓着だ。それがどんなものなのか、真面目に考えようともしやしない。あの子と一緒になんてしたくなかったね、本当のところは」

 肩のところでグレイシアはしばらく真顔で黙ってから、ふっと笑った。

「あの人は確かに、一途です。あの人は体当たりで慕ってくるから、私たちは愛さずにはいられなかった。――でも、自分が愛されているとは決して思わない者と、愛に無頓着な者はそんなに大きな隔たりがあるでしょうか? アシュレイも、私も。私たちはみんな、あの人を独占していた時期がある。重ならずに。あの人にとって私が全てのときがあったと。確かに私が全てだったと。それが忘れられないで固執してしまう。あの人が忘れても」

「今でも君はがっちり掴んでいるじゃないか」

「叔父さまだって、わかっていらっしゃったでしょう? どうしてメイスさんを差し出しになさったの? あんなに焦って」

「……」

「私も、いつそれが来るのか、怖くて知りたくなくて逃げだしたのかもしれません。だって私たちは忘れられない」

 振り向かない伯爵の襟元に冷たい何かがぽつりと垂れた。「あの人が忘れても」




 すでにかなり遠くまでいっていたようだが、アシュレイとリットはなんとか舞い戻ってきた。

 彼らを迎えたのは白と桃色を基調とした穏やかな部屋だ。女性のものらしく細かな品物や配置が見える。テーブルの上には淡色のものを集めてつくられた花束の花瓶があり、中の生花はまだ生き生きとしていた。

 特徴は乏しかったが、鏡台の上にのる小さな王冠とずっしりと重量のあるテーブルの板に、ヒイラギの輪の中の王冠の印が刻まれている。アリー家の家紋に他ならない。

 そんな静かな鎮魂を広げる部屋の中で、今やることを考えれば故人の思い出などへったくれもない、と平然とした顔をした男のとった指示は、確かに容赦がなかった。中央のテーブルを倒して転がす。厚く敷き詰められた絨毯をはぎとる。壁紙を破りとる。壁の近くに立っているものなら全て引き倒す。

 一介の宿屋の店主として、仲間ならともかく、自身が家具や部屋を荒らすという指示を決行するのは耐え難いのか、カールが木造の重い鏡台をそっとどかした壁の向こうに、桃色の壁紙にまぎれて妙なへこみがのぞいているのを発見した。手をかけて一引きすると、すっと黒い線が壁から浮き上がり、低いドアの輪郭を生み出して開いた。

「あった!」

 いつの間にか脇に来ていたリットが叫ぶ。

「ただの脱出用の抜け穴の可能性も高い」

 王族の部屋には必須のものだからな、とアベルが進み出ながら言って、のぞきこみ明かりを、と手を出す。

 壁の燭台をもぎ取ってカールが渡すと、するりと前ふりなくその身体がドアの向こうに消えて、数拍の沈黙の後「あたりだ」と 低い声が響いた。アシュレイが続き、アシュレイの介助を断って、なんとか自力でグレイシアが続く。「カールちゃん、通れる?」自身はほとんど身をかがめずに入れる通路の向こうで、振り向く黄色い髪の少女の心配をなんとか杞憂に終わらせて、横向きにしゃがんだ体勢でカールも無事に通り抜けた。

 ドアの先に繋がっていた通路は、高さはほとんど問題がない。ただ幅には依然として問題があった。細く急な階段になっていて、細身のアシュレイ、グレイシア、リットは関係ないものの、カールは真正面を向いては降りれずに斜め横の体勢でなんとか下りていく。

 突き当たりにアベルが素っ気なく立っている。一同がぞろぞろと近づいていくと、行き止まりに見えたそこは折り返しの階段だったらしく、アベルはさっさと先に進んだ。折り返してさらに降りていくと、ようやくカールも普通に頭も身体も伸ばせる程度の高さと広さを持つ小部屋にたどり着いた。黄緑色の光が中から漏れている。

 小部屋にドアはなく、奥に長い長方形をしている。先の方には、人工的に栽培されているらしい、床一面の光藻の光に浮かび上がる、黄色と鉛色をした小さな祭壇とそこに祭られた棺の姿が見えた。柔らかな苔にうずもれて静謐な沈黙が痛いほどに満ちる。

「……なんか、静かだけど」

「考えずにやることだ。所詮もう物にすぎない」

 アシュレイ、アベルが歩を進め、カールはリットの肩を掴んで引き止める。グレイシアも急な階段の傾斜に、思った以上に消耗した身を気づかれないように、とひそかに深く息を吸い込んで壁にもたれている。全く魔力がないこの空間では、回復は難しい。暖色の髪の女が肩をひそめ――そして顔色を変えて叫んだ。

「棺から離れて!!」

 なりふり構わぬ命は届き、今まさに手をかけようとしていた二人が弾かれたように後ろに飛びのいた。パシッ、と迫力のない乾いた音が光藻の中に響いた。瞬間、ガラス張りの棺の蓋が、真ん中から砂よりも細かくなって左右に流れてさあっと崩れ落ちた。

 棺の縁にすっと白い指がかかった。ひゃあと悲鳴を押し潰してリットがカールの脇に回る。白い指は折れ曲がって力をこめて、すんなりと中の人物は半身をおこした。

「――……」

 白い額、左右で分けて毛先のところを赤いリボンで束ねた、艶やかな黒色の髪が肩から胸にゆったりと垂れている。顔はどこか痛むところでもあるように眉を寄せ、こめかみを片手で抑えて、頭痛を覚えているようだ。

 額にあてていた手を放して、ようやく彼女は外界に気づいたように茶色の瞳をぱちぱちと瞬かせた。顔立ちは平凡だが、睫は長い。その仕草は様になった。

「……わたくし、どうしたのかしら?」

 問いかけの半ばは、階段付近に集まった冒険者達に投げられた。彼らがそこに佇むことを、女は不審に思わなかったらしい。当然といった様で首を回した。

「ここは―――?」

 考え込むように周囲をぼんやり眺め、そしてもう一度階段近くの人々を見やったとき、茶色の瞳が初めて華やいだ。

「まあ。アベルおじ様。アベルおじ様でしょう?」

「……誰かね、君は」

 言葉を受けてふふと女は笑い、棺からおりて、よろめくこともなくその場にすらりと立った。白と朱を混ぜた長いローブをまとい、耳の横には真紅の細い水晶のイヤリングがしゃらりと揺れる。

「お忘れですか? ミノス王の娘、アリアドネです」





「アリアドネは死んだ。とっくの昔に」

 その言葉に娘はきょとんとして、それからくすくす笑った。「おじ様まで騙せたなんて。おじ様、父は――悲しんでおりましたか? わたくしを失って」

「……その馬鹿さ加減だけは、似ているよアリアドネと」

「まあ」

 笑おうとしたがひどい言葉に受けた傷を隠せない目で、女は苦しく笑うと

「わたくし、あの頃はとても深い悲しみに囚われておりました。遠い町の孤児の子ども達や食卓にのぼる可哀想な動物達、辛いものや悲しいことがこの世には多すぎる、と。それを想い毎晩泣いているとふと、とても不安になってしまったのです。そう、わたくし、不安になってしまったのです」

 ふあん、とおぼつかない響きの

リットの言葉を受けたように、アリアドネを名乗る女は大きくうなずき

「わたくしは、王の娘としてなに不自由なく育ちました。お母様はなくしてしまいましたが、外から見れば満ち足りた境遇でしょう。でも、わたくしは本当に幸せなのかしら。世界の悲しみは、愛が足りないせいでおこるのです。でも、そう申すわたくし自身、愛されているのかしら。十分に。愛されているのかしら? 不安になってしまったのです」

 その言葉を真っ向から受けて、年若い伯爵の顔に何かが通り過ぎたように見えた。そして彼は理解に満ちた微笑を浮かべて歩を進めた。

「わかるよ、アリアドネ。君は不安だっただろう。そんなに優しい心の持ち主の君では」

「わたくし、思いつきましたの。そんなとき。――子どもっぽいと、お笑いにならないで。薬を飲みましたの。魔法のお薬ですのよ。一晩、二晩、死人のようになる薬。駆け落ち恋人たちのために作られた薬ですって。それで父の気持ちを知りたかったのです。おじ様、教えてください。父はどうしましたか? わたくしは、愛されていたのかしら?」

 恥らいつつも期待する女はけれど、傍らであがった伯爵の軽快な笑い声に唇を尖らす。

「お笑いにならないで、と申しましたのに」

「失敬。お詫びに教えて差し上げよう。お父上は破滅された。本望だろう、アリアドネ。破滅されるほど愛されたんだ。だから」

 常に自然な動きで自然な微笑で、男は裾をはらって握っていた短刀を、無邪気に唇を尖らす女の胸に一気に柄まで突き立てた。凍りつく背後の冒険者達の前で、若き伯爵は凶刃を握ったまま穏やかに

「もう、眠りなさい。君みたいな綺麗なものが生きるには、この世は汚すぎるのだろう?」

 アッと見開いた目はしかし、涙に濡れて批難するように見上げてきた。「おじ様……ひどいわ……」

 心臓の上を一突きされながら崩れることもなく、平然と批難の言葉を紡ぐ女にたいして、受けたアベルも自然だった。

「君の気持ちは、よくわかるよ、アリアドネ。私は庶子腹だ。父も母もあってないものだ。綺麗なもの、思慕を向けてくるものを、より手ひどく苛めて泣かせたよ。泣きながらそれでも私の裾を掴んでついてくる姿が死ぬほど愛おしく感じてね。踏みにじりながら、試したい気持ちはよくわかる。だから」

 思いやりさえある声音でぐっと力をこめてさらに短刀を深く進めたあと、一息でその胸から引き抜き男は少し距離をとった。

「だから一層、君が嫌いだった」

 優しく微笑みかける男に、アリアドネはしくしくと涙を溢れさせる。胸の穴から血は出ない。

「父が見たら、なんていうかしら? わたくしがあなたに殺されるなんて。あんなにあなたによくしてあげた父が見たら」

「巫女殿、これを黙らせる方法は?」

「魔女はいないわ!」

 急に走った大声に全員が注視する。泣いた跡など微塵も残さずに、勝ち誇って女は笑っている。「魔女はいない。ここには入ってこれないの。わたくしの中に、あなた達がいるのですもの。どうやって倒すというのかしら。魔女はいないのよ!」

「……だから私たちを生かしたままにしているのね」

「いいえ。生き物の命を奪うなど、わたくしはできません」

 急に聖女とでも化したように、目を伏せて慎ましく女は答える。「わたくしは、アリアドネ。心優しく、慈悲深い王女。……国王の最愛の娘なのですもの。ああ、お父様が破滅なさったなんて。それほどわたくしを愛してくださっていたなんて。ああ。あぁ、あぁ――……あはははははははははははっ!!」

 けたたましい笑声が響き渡る。喉をはらせ人の神経を逆なでするのにもっとも適した声音で笑い声は響く。成り行きに感情が追いついていなかった冒険者達も、それには嫌悪と敵意を浮かべた。

「下種が!」

 アシュレイの舌打ちも響かずに、はっはっはっ、とその頃には一声一声くぎって腹から息を出しなおも笑い転げる女はその途中でふと

「――なんだ?」

 訝しげにあげたその顔が次の瞬間、激しく強張った。せわしなくあたりに頭を振り

「くそっ! 来るなッ! どこでそれを――忌々しいッ!! あの男っ! まだ私を――!!」

 それまで必死に女は何かを阻もうとしていたようだが、何もかもが追いつかなかった。その到来は落下だった。何の障害もなく、天井も壁もないがごとくにすり抜けて、すとん、と。

 そう。すとんとそれは女の真上に降ってきて、頭頂部から柄までその身体を手ごたえなく突き立てて、ちょうど切っ先が床についたところで止まった。

 女の顔は真っ二つに裂けていた。身体も剣が通り抜けた後に忠実に、さっくりと割れている。初めは驚きの顔のまま凍っていたが、裂けた顔がやるせないようにひどくゆがんだ。

「――忌々しいっ! あの女っ! 百の幻影を突きつけてやった! まだ飽きたらぬか! まだ私の道を阻むか! あの前世紀の喰い滓が!」

 瞬間、天井付近が一気に消し飛んで、開いた大穴から夜がのぞく。破片は全て外部に吹き飛んで内部の人々に怪我はなかったが、びゅうびゅうと吹き荒れる強い風に、上の部屋にいけられていた淡色の花びらが混じった。

「ならば千の悪夢へ堕としてやろう!」

 一声叫んで離れた二つの目が真紅に輝いた。冒険者が息を呑む。瞳から赤が抜けていく。ゆっくりと裂けた頭の隙間から、赤く輝く光の珠が現れて宙に浮かび上がっていく。それは身体を抜けて大穴から夜へと舞い、やがて光も届かなくなった。

 呆然としていた一同を正気づかせたのは、か細い呼びかけの声だった。あらためて見直すと「それ」は無残だった。真っ二つに裂けたまま立つ人間。人の形をまだ保っているから、余計に凄惨だ。

「……おじ様」

 どうやって声が漏れているのか。か細く泣きながら真っ二つの少女は震えた。左右の身体に一つずつの茶色の瞳も震えた。

「――ごめんなさい」

 アベルが少し眉を動かした。

「わたくし、知っていましたの。――そして、知りませんでした。知りませんでした。愛を知らなかった。愛される意味をしらなかった! 知らないまま……ごめんなさいおじ様……ごめんなさい」

 呼びかけられた男は少なくとも葛藤を外部に現すようなことはなかった。ただわずかな拍を欲したことが、彼なりに決着のつけ方を模索したことを示した。一歩近づいてゆっくりと見下ろす。一つ目を閉じた仕草は、諦めのそれのように見えた。

「泣くのはおよし。きっと、そうなるしかなかったのだ。そうなるしか」

 そこで別の誰かを想ったように、すっと開いた男の目が遠くなる。「哀れな男だ」

「お父様……っ!」茶色の瞳から後から後から涙が漏れる。「ごめんなさい、ごめんなさいお父様。愛しています、愛して――」

 ふっとたった一時、砂埃が舞ったように、何もかもなくして真っ二つにさけた女の姿が風に消えた。一拍おいてがらがらと骨が崩れる音が響いた。光を放つ苔の上に、乾いた一山の白い骨が残っている。

 アベルは屈みこみ何かを探すようによりわけた後、ほどなくして小さな欠片を選び取った。二つに割れた小さな頭蓋骨だ。それを目の高さまで無造作に掴みあげて、眼窩の黒い空洞を近眼の人がするようにじっと一瞬だけ目を凝らして見つめた後、無造作に身体の横にぶらさげて

「探しに行こう。娘の遺骨ぐらい、抱かずに奴は浮かばれまい」

 若き伯爵は素っ気なく言った。





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