攫われ王女と絵画とうさぎ(3)
傍らにあったのは柔らかいクッションだけだった。
構わないとばかりにそれをわしづかみにして投げつける。
どんなに美しくとも微笑む麗人はただの絵に過ぎなかった。なぜなら彼女の目の前に広がっていたものは、そのように穏やかにそのように優しく、笑える光景では決してなかったからだ。
片手をあげてとんできたクッションを男は受け止めた。男に向けた赤い瞳に、宿ったのはまぎれもない殺意だ。いつもそばにいたレザーがその様子を見れば、心底驚いたかもしれない。
少女が人間に向けるもので、彼が知っていたものは冷笑と無関心とわずかな人間にだけ見せる無言の寛容さだけだった。しかしそれは結局のところ、本当の意味での少女の逆鱗に触れることを、これまでレザーが一度もしなかったということに過ぎなかった。
クッションを途中で掴み取った男は悲しげだったが、譲らない目で見据えている。それを正確に読み取れるのか、少女の癇癪は増すばかりだ。
「お前はうさぎではない。人間だ」
そう思いこまされているだけなのだ、あの魔女に。
薄氷の上を闊歩するような迂闊さで、男は立て続けに逆鱗に触れる。耐えがたいと指が敷いたシーツを引き裂いた。怒りが身体を突き動かしたのか、少女は上半身を起こした。燃え上がる赤い瞳が見据えている。怒りのあまり息も満足につけない有様で少女は
「……黙って聞いていれば、ばかばかしいことを!」
「本当の話だ」
「証拠は?」
冷たい言葉に男は立ち上がった。引いたのかとかすかに少女は思ったが、ほどなくしてぶ厚い紙の束を持ってきた。
「その道の権威にまとめさせたものだ。読めばお前ならわかる。精神や知識をそっくりそのまま別の入れ物に移し変えることは可能だ。しかし本来、まったく別の生き物である者をそっくり構造ごと置換するなど不可能だ。見なさい」
メイス・ラビットの顔がかすかに歪んだが、次の瞬間、硬い声が全てを拒絶した。
「結構」
「ならば聞きなさい。理論は構築されている。お前もそれで信じ込まされたのだろう。しかし、これには莫大なエネルギーが必要になる。原子分解、その後の再構築に必要とされるそれは、人が理論上持ちえる最大の魔力を持ってしても――」
「黙りなさい!」一層声が跳ねた。「私が誰かは私が一番理解しています、私はうさぎです!」
渾身の叫びが響き渡った後、部屋には沈黙が落ちた。どう繕いようもない、決別の沈黙だった。その空気の中でやるせなく佇んだ後、男は一拍後にため息を吐き出した。
「――なにか、とりなさい。食べたいものは?」
さらに逆なでされたように、メイス・ラビットは全力で殴りかかるように叫んだ。
「私が食べたいものはあなたには絶対用意できないものです!」
色づく季節を無視して、もこもこと膨れ上がる緑をつけた木々が続く山は、なだらかな勾配だ。山は高く傾斜は突然急にもなるが、ある一定まで緑を豊かにまとわせて続く。
中腹の境目から急に緑は姿を消す。森林限界に達しているわけではない。しかし、その土地は緑をほとんどまとわせない。
そんな中腹を越えていくと現れる山頂は火山であることを大きく示す、巨大なくぼ地になっていて、その中央にはこんこんと青い水が湧き出して椀形の縁に綺麗に溜まっている。
青すぎる水は空も景色も映さなかったが、その中身はまるごとさらして見る者に届けた。青い水の中にはナイフのような、空に向いて切り立った巨大な岩が鎮座していた。
元は尖った岩だったのだろうが、その先端は二つに割れて鋭い隙間を作っている。
盛り上がった水辺には、水面を揺らす風も、羽ばたき訪れる鳥もいずに、寂寥感だけが水と共に溜まっていた。しかし一拍後、奇術師が何もないところから物を取り出して見せるように、その風景に一点の黒が付け加えられた。
黒い人影だ。硬い毛布のようにしゃれっ気のないローブをまとい、傷んだ黒髪はそのまま肩に垂れている。その姿は服からのぞく肌色を抜けば黒色以外の色をもたなかった。
つりあげずとも厳しい目元、開かない口元にも同じ厳格さを感じる。水辺に佇む女は一つ瞬きをして、泉の底へと視線を落とした。何事も変化はない泉の底に、ふんと一つ唸った。
「奴がいぬのに戻ってくるとは……どういう心境だ?」
独白ともとれる言葉を吐いた直後に女は片手をあげて口元で小さく何かを唱えた。何もないのに水面に一つ、波紋が生まれた。今度は別の場所から。
それを皮切りに次々思い思いの場所から波紋が生まれぶつかってはまた波紋になり、水面に無数にわいた水の傷に泉自体が戸惑っているようだった。
やがてゴボ、ゴボ、と波紋ではなく巨大な泡が水底から浮かび上がってくる。何かが生じたのだ。一瞬女の片目がかすかに開き、片方の手がさっと上がると同時に、水が突然膨れ上がって四方に散った。
散った瞬間、それは水ではない何者か――いや確かに水には違いなかったが、凶器へと変わらされた水となった。
くぼ地の壁面にまで飛び、岩壁に黒い無数の穴を穿った。その穴からたらたらと元の姿を取り戻した水滴が流れ落ちていく。静かに溜まっていた水滴が、鋭い針と化すほどの過度の重圧を加えられた故だった。
そうして再び静けさが戻ったとき、目方が減った泉の真ん中には、悠然と一本の剣が切っ先を水面に向け、何の力も借りずに垂直に立っていた。
造りとしてはなんの変哲もない。しかしその刀身には誰もがぎょっとする。黒衣の女の前に佇むのに、ふさわしい姿をとったとでもいうように、ややひらべったい刀身は切っ先から柄の根元まで黒い。
硬質な見た目は水晶に似ているように思えるが、まったく光沢がない。光を向けても吸い込んでしまう、夜の中には柄だけを残して溶け込んでしまうだろう。
女は剣を見つめた。黒い双眸は同じ言葉に表されようとも、確実に刀身のそれとは違った。
穢れたままか――。
風に飛ばされるような声が流れ、そして一拍後、女の姿は縁から消えていた。
メイス・ラビットの優れた耳を持ってしても、静寂以外の音を聞くことは不可能だった。耳をすませばすませるほど、静寂は大きくなるようでメイスは投げとばしたが、結局戻されてしまったクッションに顔をうずめた。
それから手持ちの武器を取りして並べるように、自分の持っている魔術を考えて憂鬱になる。元々、そうたいした技が使えるわけではない。
魔術をよく知らないレザーはしきりと感心していたようだが、師も出来損ないだと顔をしかめることが多かったほど、物体浮遊をのぞけばメイス・ラビットの持ち技はほとほと数少なく貧困だった。修行を積んだ年月も少ない。魔術士として優秀な方では決してないのだ。
そこまで考えてちらりと自分の膝元を見下ろした。
だから少女のもっともの財産は足にあった。常人を遥かにしのぶ能力は足から生まれた。忌々しさがその目にかすめて、顔をそらした。
結局考えはうまく実を結ばず、ふてくされて部屋の内部を見やった。
天井がかなり高い。円形の部屋は青色になめらかに塗りこめられているが、下地は煉瓦らしい。天井付近では素の色の煉瓦が剥き出しになっている。
窓はドアと反対側に設置されているが、外の様子は今の体勢からはよく見て取れない。
部屋の中には、天蓋つきの豪華な寝台と洗面台と上等な革張りの椅子と丸テーブルが一そろい。床にはふかふかした赤い絨毯が敷き詰められている。一巡りした視界は、寝台近くの小さな丸テーブルの上に置かれた紙の束にたどり着いた。
動揺は少なかった。何が書いてあるのか、内容などめくらずとも目に浮かびそうだ。メイス・ラビットにはとりあえず多様な魔術の才はない。しかし頭脳はとびっきりだった。人の言葉も人の社会も全て一から体得したのだ。
自身の身体を元に戻す術ならあたりつくしている。いくら他の協力を仰いでも一介の素人に集められたものに今まで自分が触れてこなかったとは考えられない。湧き上がる思いに胸がふさがれそうになった瞬間。
静寂しか流れ込んでこなかった耳が突然、別の音をとらえた。ドアの外ではっきりとした音がした。そして次の瞬間、せわしなくノブが回り転がるようにして黒い塊が入ってきた。
外部に強く警戒していたため、相手は踊りこんでドアを閉めるまで完全に内部にたいして無防備であった。
ドアを閉めた瞬間、今度は部屋の中にひどく警戒をしたようだが、こちらの姿を認めてすぐに駆け寄ってくる。年の掴みづらい顔が嬉しそうに笑った。メイスはドアが鳴った瞬間、厳しく顔をしかめたものの、現れた人影には不思議そうに赤い瞳が瞬いた。
「ライナスさん」
「よかった、ここにいて」
ここが外れたらもうムリだと思っていました、正直。という灰色の髪の青年にメイスは片肘をついてよいしょと上半身を起こした。おや、と傍らまで寄ってきた青年が不思議そうになった。
「見たところ、拘束されてるわけでもないし、何故逃げようとしなかったんですか?」
「膝から下が動きません」
忌々しげに言う少女に、ライナスは神妙な顔になって足元に移動した。
「失礼」
短く言って足の腱を触る。固めた拳の小指の角を使い、とん、と一つ痛みは感じさせないが、芯まで響く強さで打った。しかし少女の足は沈黙したままだ。
「……薬ではないみたいですね」
神経かな、とライナスが言って
「僕が触れている感触はわかりますか?」
「……いいえ」
しばらく膝の裏や足の裏を触診したあと、なぜかライナスはじっとメイスを見た。
「動かせるようにできるとは思います」
「本当ですか?」
「ただし。僕がやると相当荒業です。一番てっとり早く回復も早い方法でやります。声を出したり舌を噛まれたらたまりませんので、これをやるときは猿轡をはめさせてやりました。それか一旦失神させるか。……正直、さすがに気がすすみません。おぶってつれていくか失神させてやるかどちらにしましょう?」
「手っ取り早くやってください。私を背負って逃げるのは危険でしょうし、失神も不要です。自分の意識がないところで好き勝手されるのはもうごめんです」
「大の男でも悶絶しましたよ」
「結構」
冷たいとさえ言われる横顔で少女は言ってのけた。ライナスは一瞬確かに戸惑った後、その横顔に気おされたように
「何か弾力のあるものを噛んでおいてください。舌を噛む危険性と声を出さないために」
わかりました、少女が言ったので覚悟を決めてしゃがみこみ、両手で足を挟んだ。何をせずとも折れそうな白い細い足だ。
いきます、とライナスが言うと反論がこなかった。何かを咥えたときのくぐもった息の音が漏れたので、白い顔を見ると施す側の覚悟が萎えそうで、ライナスは見ないようにして力をこめた。
「―――っ!!」
悲鳴は声が出なくとも、確かに痛烈に部屋に響いた。恐れるように男が手を放し顔をあげると、少女はうつむいて顔を伏せていた。細い肩は小刻みに震えている。けれどライナスがかける言葉を逡巡する間もなく、ゆっくりと膝が曲がって引き寄せられた。
動きます、顔をあげて赤い瞳に涙を湛えながら、それでも闘争心を失っていない。膝にぽたぽたと何かが垂れた。涙かと思った飴色の瞳がさすがにぎょっと見開く。赤い水滴が白い膝の上に散っている。かおる血の匂いに、少女の左手の甲が血に濡れているのに気づいた。手の甲を口にあてていて、衝撃に噛み切ったのか。
「もう少し、動かないように」
そう言った後、ライナスはまじまじと奇異な生き物を見るように少女を見やった。
「君はずいぶん、珍しい人ですね」
「……」
「どんな人間だって痛みには弱くできているものなのに」
「……生きながら背中を引き裂かれて食べられていた人を見たことがありますよ」
それは痛いだろうなあ、と冗談ととったのか図太い神経で何も気にしていないのか、ライナスが笑う。
「僕は痛いのは嫌いですね、人一倍」
殴るのは好きだけれど。
返さずに黙った少女に、ライナスは多少すまなさそうに
「ごめんなさい。不快にさせてしまったかな。僕は殴りあう関係の人以外とは一対一でうまく会話できないんですよ」
瞬間、ドアの外に小刻みな足音が響いた。部屋の住人は即座に反応した。すかさず身をおこそうとした少女を、こちらも即座にその行動を読んで、まだ無理です動かないフリをしてごまかしてください、と口早に言い捨て、豪奢な寝台の下にライナスが身を滑らせた。最後の瞬間、ライナスは怪我をしたメイスの手をつかんで下へとゆるく引っ張った。
問いかける余裕もなく敷布をかぶってメイスも元の体勢に戻った。クッションを背にあてた体勢だ。嫌でもドアの方を見なければならない。
ドアが開いた。メイスは精一杯、嫌悪を顔に表してみせた。
「アリアドネ」
向こうは開いてすぐこちらの顔を見れることにほっとするようだ。慣れきった長口舌も疲れるほど、罵詈雑言をぶつけてきたが一向に懲りない相手だ。今度は一言もきくものかとメイスが決めた瞬間、左の掌底をこそばゆい感触が走った。指だ。ライナスの指が文字を綴っている。理解してメイスは気がめいったが、指示を飲むことにした。
そのとき、ふっとメイスの鼻先に土と生々しい草の匂いが混じる甘い香りが漂った。よく見ると入ってきた男は左手に花束を提げていた。傍らの花瓶に手ずから生けて花の様子が気に入ったのか小さく笑う。『話をふって』と指が書いた。
「……あなたは王でしょう。そんなことをするのは不自然では?」
「アリアドネは王女だったが、いつも私の執務室に手ずから摘んだ花束を生けてくれた。一度ぐらいは私がアリアドネに生けてもばちはあたるまい」
「やる相手を間違えていなければね」
「いないさ」
王は笑って配慮したのだとでも言わんばかりに離れたところに椅子を寄せて腰掛けた。指が再び動く。『魔術士を集めるわけをきけ』内心渋い顔をしたあとメイスは
「……あなたの目的が、私の魔力にあるということはわかっています」純粋な驚きが走った男の目を見据えてメイスは言い募った。
「ここに来る前に散々聞かされてきましたからね。あなたが魔術士を大量に集めていると」
後半の言葉を口にすると、急にのぞきこんでいた男の瞳が、湖の中にさっと立ちこめる霞のように白く曇るのがメイスにははっきり見てとれた。まるで幻のように一瞬で消えたがメイスの中に強く確信が生まれる。
「それとお前とはまったく関係ないことだ」とこちらの誤解だと笑う男は、すでに元に戻っている。
「どうだか。支配者が魔術士を集めるなんて戦乱を企む以外の理由は聞きませんね。もし私があなたの王女のなんたらだとしても、そんな国に戻りたいとは思いません」
すると男はうつむいてふっと笑った。
「――アリアドネも心優しかった。とても。戦どころか、私が狩りに出かけてうさぎ一匹仕留めただけで可哀想だと泣いて。誰に対しても、何に対しても。優しい娘だった」
「くだらない道楽ですね」
思い出にひたる男に浴びせる水のように、少女の声は冷たかった。顔をあげた男に醒めた赤い目を向ける。
「何故、あなたのアリアドネさんが、そんな道楽にひたっていられたかわかりますか? 自分で生きたことが一度もなかったからですよ」
「……」
「自分で日々の食事を敵を出し抜いて得ることも、安全に眠れる自分の寝床を見つけ出すことも。なんにもそのからっぽな頭にはなかったからですよ。遊びで獣の命を奪うあなたに涙しながら、あなたを慰めるために花の命を笑顔で摘んでいたんでしょう? それも想像できなかった。目先の可哀想さだけが全てだったんですよ、あなたのアリアドネは。大変、結構な道楽ですね。否定はしませんよ。ただ美化を押し付けられるのは迷惑です。同情も、ありがたがる人に存分にしてください、私には迷惑です。あなたがどう言おうとも、私の母は愚かなアリアドネじゃない。私も愚かなアリアドネじゃない。私の母は自分と子どものために日々の食事や寝床を勝ち抜いて得て、戦って生き抜いていた野生のうさぎです。私もそう。籠の中で飼いならされなくとも、自分で生きる野性のうさぎです。箱庭は私の場所じゃありません。私を出て行かせないなら、――」
赤い瞳が凄烈に輝いた。
「あなたが出て行きなさい!」
ドアが閉まって一拍した後、寝台の下からライナスが這い出してきた。
「何も聞き出せませんでした」
「いや、うまく棹を向けていたと思いますよ。どうしても、あれじゃ聞き出すのは無理でしょう」
少女の傷ついた手に布を巻きながら、あっさりとライナスが言って窓の外に目を向けた。
「できることもなし。……。今日中には無理かな。明日でもいい。夜を選んで脱出しましょう」
「……夜に?」
「断崖絶壁みたいな場所ですからね。せめて夜を選ばないと」
少女の訝しげな顔を読み取ってライナスがまだ持っていた左手を、そのままエスコートするように丁寧に引いた。
「ゆっくり動いてくださいね」
本当にそれはエスコートが目的だったらしい。メイスが膝を横に動かして寝台から落とし、腰を浮かせて体重をかけると、白い足は一瞬ふらついたが自重に耐えて立ってみせた。ゆっくりとライナスが窓へと誘う。
窓と言ってもはめ殺しだ。ガラス越しに外の風景を見下ろして、メイスは一瞬息を呑んだ。
もとよりメイスには人間の部屋の造りの細かいところはわからない。だから攫われたときにいたのと同じく城の一室だと茫洋と考えていた。
しかし見渡す限り同等の高さにはあるのは夜の空と月とたなびく白雲ばかり。見下ろすと王城の全容と美しい正方形の庭園が鎮座している。その向こう側には人々が押し合いこみあいしているはずの、眠らない都に灯る火が見えた。
風景が全てを語っている。紛れもなく城から独立した塔の最上階にいるのだ。メイスは絶句した後、手をとっている男を見やった。
「……よくやってこれましたね」
「さすがに、内部を通っては帰れませんね」
ライナスはそこで自然に手をはなし、腕を組んで「僕の考えているのは夜中にロープを使って外郭を降りることですが――とんでもないことですか?」
「いえ、それで行きましょう」
もとよりライナスには知る由もないが、城壁を跳んで越えてきた少女にとってとんでもないもなにもない。そうと決まればと、メイスはきびすを返して花瓶を手にとり、まとめて数本抜き取って茎から食べ始めた。しゃくしゃくと俄然食べはじめたメイスは、自分に釘付けになっているライナスに気づいてくわえていた花弁をごくんと飲み込んで
「あなたもどうぞ。あのテーブルに食べ物が残っていたはずですよ」
毒はないです、と言い切る少女に
「あ……ハイ……」
と気がなく答えた後、先ほどの王を罵倒した台詞の印象が濃かったライナスは、どちらかと言えば哀れむべきだといっていたようにも思えた花をぐしゃぐしゃにして食べる少女をもうしばらく見つめた。
それからテーブルに行きこちらは無難なパンを掴んでドアから死角になる寝台の足元に腰掛け、メイスにもいきなり誰が来てもいいように以前の体勢で寝台に腰掛けるよう指示する。ライナスはそうして一旦落ち着いたものの、パンの塊を口元で行き来させて、結局食べないままリットが、と小さく呟いた。顔を向けるメイスに
「リットが、妙に君を気に入ってるのは、自分に無縁の世界に憧れているのかと思っていましたけど――。多分、自分と同じ匂いを持つところで、それでも気品があるところが好きなんですね」
「……」
「僕も、さっきの――優しさってのが苦手だというのは同感です。便利ですけどね、利用もしやすい。与えられる側にいるとそれは」
「そうですか?」
再び掴んだ花束を瞬く間に飲み込んでメイスが言った。
「あなたも気を使っていると思いますよ。あなたがさっき無理にしゃべろうとしたのは、私の注意を怪我からそらそうとしてでしょう」
「あれは、治療の延長にすぎません。結局失敗しましたし」灰色の髪の青年は早口で続け「でも、優しさが苦手ならよくレザーといれましたね。あれは優しさとおせっかいの塊みたいな男ですよ」
「そうですね。本当に口うるさいところありますからね」
「レザーもグレイシアも、本当はアシュレイも、あれは同じ人間です。善意をぐいぐい押し付けて人を窒息させる」
「……なら何故あなたは、あの方々と一緒にいるんですか」
「一度窒息した方がいい人間ってのもいると思うので」灰色の髪を何気なくかいて「僕は、物心ついたときから煉瓦職人の見習い奉公やっていましてね。兄弟子達もみんな年上で。他がどうかは知らないけれど、まあ、荒っぽい世界です。いつも殴り飛ばされていました。挨拶の「よお」で殴る世界なんで。僕への接し方は全て拳で行われました。そういう境遇だったんで、人一倍見たと思いますよ、人を殴るときの人の顔ってものを。みんな、ひどく嬉しそうに人を殴るんですよ。笑ってなくても、楽しさが透けて見える。そのうち、自分もやってみたくて堪らなくなって、ある日、煉瓦で親方の顔をぶんなぐって一直線です。僕の持論は今でも変わりません。人が人を傷つけるのは、楽しいからです。人も、人以外のものも。グレイシアやカールは違うのかもしれないけど。アシュレイやレザーは間違いなくそうだと思います。リットはあれは臆病だからかな」
「……よくあの方達といれるのはあなたの方では?」
「でしょうね。僕が殺しは嫌だというのと殴ろうとしてくる相手しか殴らないことで、なんとか接点を見つけているんですよ。僕は別に自分のあり方に後悔も哀れみもしないけど、――多分どこかで、窒息させてしまいたいときがある、んでしょうね僕の中の何かを。因果でも一緒にいるくらいですから」
笑いながらライナスが部屋を見上げたとき、壁にかかっていた絵が目に入りその面差しはやや真剣さを浮かべた。
「アリアドネ・ル・ウェン・アリーですか」
「迷惑な話です」
「彼女が君を産むのは、確かに――なんだか、想像がつきませんね。行方不明の王女の忘れ形見……下手なサーガみたいな話ですから、もっと違う価値観を持っていたら運命的だと酔えるところでしょうが……」
「飼い殺しがですか?」
「人を飼いたがる人間は多くいますし、飼われたがっている人間も多くいる。まあ、国王に出て行けと言う人間はそんな夢は見ないでしょうが。――それでも、不思議だな。言ってしまいますが、あの絵は衝撃的だと思いますよ。いくらなんでも似すぎている。どうしてそれで揺らいだり疑ったりしないのですか」
「……。さっきのことで、よくわかりました。私はアリアドネじゃない。その娘でも。本当の素性も何も知りませんが、私は知っています、違うということを。そう思っている私は、私自身はアリアドネじゃない。私が誰かは私が一番知っている。他に強化してもらう必要なんかなかったんです」
言い切った少女に、その瞳にどこかに迷いの残滓が見えて、ああ悩まないわけではなかったのだな、と了解してライナス・クラウドは立ち上がり、窓の近くによって薄っぺらい金属の板を取り出した。
「なにを?」
「塔から降りるにしてもまず潜り抜けるだけの穴をあけておかないと。言ったでしょう? 煉瓦職人だったって」
首だけで振り向いてライナス・クラウドは笑った。
「昔とった杵柄です。ご覧あれ」
立ち話には長くなりますから、席につきましょうか。
そう薄手の外套から腕をはずしながら、言うグレイシアの仕草はもう優雅と言っていい。全員が突如現れたグレイシアに視線を注いでいる。一向に構わずにグレイシアは平然と叔父貴の方に目を向けた。
「どうぞ、叔父さま。お座りになって?」
叔父貴が苦い顔のまま、腰掛ける。グレイシアが今度はアシュレイに目でしめす。目で頷いてアシュレイも端の椅子に腰掛けた。
リットとカールは座る気はないらしく、カールはすすっとさりげなく壁に引く素振りで俺の隠れていたベランダ付近に来て、アシュレイと叔父貴の死角であり、リットの目が向いていないのを素早く判断してすっと身を沈める。
俺の方は一も二もなく転がって後ろ手に差し出されたカールの手に突入した。すぽっとナプザックの上に載せられた。にょきっとカールが立ったので、さっきとは雲泥の差で視界が高くなる。グレイシアもちらりとこちらを見て、それから腰掛けた。
「叔父さまご無沙汰しております、とゆっくりご挨拶もできませんね。メイスさんを彼の御仁に人身御供に差し出されたなんて話を聞かされては」
……。
「別に危害を加えはしないだろう。最後の手向けだ」
「叔父さまは、彼の御仁を弑するつもりでいらっしゃる。それは何故ですか?」
「……あれがもう当に正気ではないからだ」
グレイシアが微笑んだ。
「矛盾していらっしゃいますわね」
「いいや、していない。狂人が全てにおいて理にあわない行動をとらなければならないわけではない。狂人は全てに逆らう者との思い込みで、間違った判断を下しているだけだ。あれが、最愛の娘相手に危害を加える恐れはない」
「断言できますの?」
「――ああ。かつては友人だった男だ」
「友人を弑すると?」
「あれはもう、――奴ではない」
叔父貴がたじろいでいる。初めて見た。今まで憤りでキレそうだったが、グレイシアにじわじわと追い詰められてどこか苦しむように眉を寄せている様に、熱が冷めていく。
叔父貴のことだ。自分自身で矛盾は十分わかっているだろう。だがそう言わなければならない立場に自身、苦しめられているようだ。
……。
さっきから出てくる「友人」という単語も非常に意外なんだが、それ以上に今の叔父貴の様子は俺にとっては意外すぎた。
「叔父さまは狂人は全てが狂っているわけではないと仰いましたが……。最愛の娘の忘れ形見を手に入れて、慈しむ。どこが狂人なのでしょう? 叔父さまの友人の行動そのままでは? まさか叔父さまの友人は最愛の娘の忘れ形見を慈しむことなどありえないような人物だとでも?」
「第一巫女殿」
叔父貴が静かに呼びかけた。
「あなたの言は――少々、あからさまだ。私に言わせんとしていることの確証を、すでに握っていると知らしめる。聖職者のとる手としては、はしたないのではないかな」
もちろんグレイシアはそう叔父貴にちらつかせるために、こんなあけすけなことを言っているのだろう。元々頭が良かったが最近のグレイシアの頭の切れっぷりは目を見張るものがある。
「はしたなくもなりますわ。もう、小娘と呼ばれる年でもなし」
「私が君とレザーの結婚に反対したことを、まだ根に持っているのかい」
「けっ……!?」
それまで貝のように黙っていたアシュレイとリットが同時に声をあげた。やらしい真似しやがってと俺が胸中で舌打ちした。が、グレイシアはこの揺さぶりに微塵の揺らぎも見せずに、微笑んだままだ。叔父貴はふんと唸った。
「彼は、狂っていない。しかしあれは「彼」ではない。私の知る彼ではない。私は決して「あんなもの」を彼だとは認めない。彼の皮をかぶって奴がああしているのを見ると、八つ裂きにしたくなる。あんなものは殺してしまえ」
腕を組んで叔父貴は言い切った。過激なところは変わっていない。
「その証拠は?」
「――私は、本当にレザーが可愛かった。城の中でぴいぴいないていた子どもの頃から今も昔も。あんな面白いものは他に知らない。正直、結婚したいと君をつれてきたとき、がんとショックを受けたもんだ。あれとは古いつきあいだ。レザーの話もした。あんまり娘の自慢が激しいものだから、こちらもレザーを持ち出して喧嘩になって数か月絶交したものだ」
レザーちゃんってなんでいつも変なのにもてるんだろう……とリットの独り言が聞こえた。……。一言だけ物申す。泣いてたって、泣かせてたのいつもお前じゃねえか。
「奴の何を信じると言われればこう答える。娘への思慕だ。それで狂ったとしても私なら理解してやれた。しかしあれが娘だ!? アリアドネだと!? とんでもない!」
バシッとテーブルに叔父貴の掌が叩きつけられた。
「奴があの肖像画に頬ずりでもせん様には虫唾が走る。アリアドネ・ル・ウェン・アリーは一欠けらだってあの絵には似ていない。――どこから持ち出してきたのか知らないが、ある日、突然、全くの別人を娘だと叫んで今の騒ぎだ。奴は狂ってなどいない。ただ奴ではない。あんなものは奴ではない!」
叔父貴という人間は、昔から本当に酷薄な奴だった。俺と十歳とちょっとしか違わないのに、奴の冷酷さは別の世界の住人のように感じた。形式上、叔父と呼んではいるが、血は繋がっていない。父方の縁ではあるが、正直、言うのも馬鹿らしいくらいの遠縁だ。
初めて会ったのは俺が、六、七歳の頃。やつもまだ十代でぎりぎり少年と呼ばれるくらいの若さだった。現れた奴は庶子腹かと割り切れないものを感じていたらしい乳母を一瞬で陥落せしめた完っ璧な貴公子ぶりだった。今考えるとあれが叔父貴なりの処世術だったんだろう。
血統書つきのお坊ちゃま、そう俺を見てせせら笑った少年は、乳母の懇願に押し切られたような顔をして、頻繁にやってきては必ず一度は俺を泣かせて帰っていった。後から考えてもどうしようもないと思う。あの頃の十歳という年の差は絶望的だ。
叔父貴は成人するのを待って俺の後見人になった。まあ俺も納得するしかない流れではあった。実質上、保護者のような関係になったんだが、苦手意識は最後まで消えなくて学院に行ってからは逃げまくった。
冷静で情に薄くて計算高くて。俺にとって叔父貴というのは、そういう存在だった。
しかし。
俺が知っている叔父貴というわずかな幻想より、俺の知らない叔父貴の方が確実に存在していたんだと、俺は初めて知った。
冷静とか酷薄とかで人は語れないし、片付けられはしない。そういうところを十分理解できる年になっているはずなのに、それでもまだまだ近すぎるところには及ばない。
俺の知らないところで叔父貴は叔父貴なりの人生を作って、その中で激昂するに足る友人を見つけていた。正直、他人のために怒れる奴だとは思っていなかった。
その友人が友人じゃなくなったから、殺してしまえ、とそう叫ぶのはそれでもなんだか俺の知っている叔父貴らしい。だけどそれは利己的なものじゃない。苦しみから生まれるものだ。友人への思慕から生まれるものだ。そういう不器用さをずっと持っていたのかと、俺は初めて理解できた。今までならなんて冷酷な奴だ、で片付けただろうに。
「王女はどのように?」
「――……。攫われたとあれが言い出したとき。その狂いようはわかった。だから私は受け入れた」
「攫われたのか?」
「攫われたさ」
アシュレイがようやく口を出す。それに冷めた目の色で叔父貴は答えた。「死神にな」
沈黙が落ちた。今まで誰もが「彼」と呼び叔父貴だけが気安く「奴」だの「あれ」だの呼んだのは――何故誰も名を出さなかったのかは――そう呼び表すしかしていけない会話の類だからだこれは。
娘をなくして狂ったのは、ミノス・ル・ジュ・アリー。ガルディア国の現国王。叔父貴の友人。この不穏さの只中にいる奴だ。そしてそれを叔父貴が殺そうとしている。いくら他国とはいえ、ばれたら一族郎党縛首だろう。やだなあ……。
「「彼」は狂っている。それはよくわかりました。けれど叔父さま、私事が走りすぎですわ、それでは」
「もとより私は私事でここにいる」
「真意を読みきれていないのに、事を動かすのは性急です。あの少女を――決して渡してはいけません。叔父さま好みに言うならばあの少女はジョーカー。勝負の時間稼ぎに捨てられるカードではありません。取り戻します」
叔父貴の顔が訝しげになった。
「……第一巫女殿、何かを掴んでいるのかね?」
「ええ。叔父さまのご協力が欠かせませんが」
「嫌な女性だな、君は」
なげやりに呟いて叔父貴は座りなおした。片手を椅子の背に回し、半身を引いて斜めに向き合った。戦闘態勢だな、と密かに思った。
「私から何を引き出したい?」
「叔父さまならご存知――ではなくとも、薄々察していらっしゃると思います。それを教えていただきたいのです」
その瞬間だけグレイシアは常にともし続けていた微笑の明かりをすっと消した。
「アリアドネ王女の、墓はどこですか?」




