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攫われ王女と絵画とうさぎ(2)

 大国ガルディア。それを治めるのは、元は大公の出であったアリー家。当主にして現国王はミノス・ル・ジュ・アリー。王城に名前はない。この国では王以外が城を持つことを禁止しているので、城と言えば必然的に唯一のそれを示すというわけだ。

 下っ端兵士に裏口から案内された城内は、ともかく天井が高い。そのせいで明かりが届かない天井付近は暗く、気がふさがれる。作りも堅固で城砦、というのがふさわしい城だ。ここに住む機能性とかはまったく無視されている。

 そんな城内におそらくずっといたんだろう。そのせいか我らがリーダー、アシュレイ・ストーンもどこかいつもと様子が違った。なにかに気をとられているようだ。落ちつかなげなアシュレイは、メイスを目にした瞬間、今度はかあと赤くなった。……?

「呼びつけて、すまない」

「いえ、他人事ではありませんし」

 メイスの答えに一層落ち着かなくなったように、アシュレイは肩を揺らしている。……なにやってんだ?

 ここまでくるのに聞いていた政略やら将軍やらのイメージとあまりに本人がかけ離れている。アシュレイはこほんと咳をした。それをやるといっそう落ち着かなくなるのは互いがガキの頃からの癖だ。

「――カール!」

 ようやく声を絞り出したかと思うと、カールの名前だった。急にふられてカールとナプザックの中の俺はきょとんとした。「ちょっと席をはずしてくれ」

 なんで?

 実際に俺がその場にいてもおかしくない立場だったら早々に口出ししていただろう。カールはちょっと間を置いて承諾に部屋続きの控えの間へと引き下がった。

 なんで? と思いながらドアが閉まると同時に飛び降りて、ドアにぺったり張り付く。とめるかと思ったが、カールも身をかがめて俺に倣った。

 微妙に矛盾しているカールの行動も気になったが、なぜかメイスとさしで話したがったアシュレイの方が気になって詮索を控えて耳をすませる。レタスのどこに耳がは――気分だ!

『……だから』

 ドア越しにややこもったアシュレイの声。まさかさっきのように赤面しているのだろうか。なんでアシュレイがメイス相手に赤面するんだ? しかし次の言葉に暢気に疑問符なぞ浮かべていられなくなった。

『あんたが持っているっていう、レザー、今、話ができる状態か?』

 俺は一瞬停止して、ゆっくりと回転してカールを見た。カールは目をそらした。

 オイ。

 まて。

 ちょっと。

 そういう短い単語が次々にレタスの顔にも現れたのか。カールが顔ごとそらす。

 俺が全てを忘れて怒声をあげようとしたその一瞬――手前。ドアの向こうからバンッと何かを叩きつけるような音がした。半瞬早く先をこされて俺が不発のそれをぐっと飲み込みざるをえなかった。

 何事がおこったのか。しかし声が聞こえないので、カールがそっとドアを開いてその隙間を指し示した。俺は百遍は言いたいことがあったが、ドアの向こうの状況も気になったので、渋々転がりよってのぞいてみる。

 聞き耳をたてているときはそんなに不自由はなかったが、床の上の視点は低い。すぐわかるメイスの足と、アシュレイのマントつき。そしてカチッとしまったシルエットの黒いブーツ……来訪者か?

 俺は普通にその先を見上げて姿を見た。背はすんなり高く、艶やかな黒の宮廷服をまとった、驚くほどではないが若く見える

 …………

 本当に驚くと人は一瞬意識が飛ぶんだろうか。俺はカールの武骨な手にぶんぶん振られてようやく意識がはっきりした。そして何故意識が遠のいたのか思い出して、俺のレタス生の中でもベスト3入りするほど鮮やかに青ざめた。

「あが……あれ……あれ」

 訴えるようにそう言うと、カールはあれが「御友人だ」と言った。ショックで頭の端が痺れている。正直、頭の隅に追いやっていたあのポジションに奴が…っ!?

 そこで俺は昨夜のカールの唐突な問いかけを思い出した。

 身内。

 そうか。あれ、身内っていうのか。そうだっ、身内か!

 ――勘弁してくれ!

 胸が勝手に悲鳴をあげて、心の中で頭を抱える。あれがアシュレイと共闘?

 頭をかきむしりたくなった。





 血のように赤いワインの色を覚えている。

 血統書つきのお坊ちゃま。そう笑ったときの顔も覚えている。踏みにじることこそ至上、と高いところから嗜虐的に光る薄い水色の目も。たいがいな馬鹿ガキだった頃の自分も覚えている。

 眼底がうずいて目元がじくじくした。反射的に身体が泣きそうになっていることに気づいてぞっとした。本当に泣かされてきたせいか、奴のことを考えるだけで目元がうずく。

 初めは本当に、なんでこうなるのかわからなかった。ともかく奴は友好的だった。少なくともそれまでの短い人生からは、どう考えたって友好的だと判断せざるをえないような態度しかとらなかった。

 だけど、いつも、俺は泣いていた。今ならわかる。泣かされていた。

 フォローをいれとくと、虐待とか、トラウマとか、正直、そこまで深刻なものでは決してない。ただ少々――少々、底意地が悪くて人を泣かせるのが面白いと思うような、どうしようもないひねたところが相手にはあった。

 そして俺は馬鹿だったから心の底からいい玩具だった。俺がひっくり返って転がって涙でむせ返るほどに泣いてたって、誰も奴の仕業だとは思わない。

 あの頃は周囲には得体の知れない癇の虫が出てきた、と思われていた。それも仕方ない。ひっくり返って泣いている馬鹿なガキですら、自分を泣かせるものがどこからきたのか、ちっともわかっていなかったんだ。

 思い出すとろくでもない。

 バルコニーに繋がるガラスで出来た戸の前を、犬のように数十回も往復して俺は何度目かの髪をかきむしりたい衝動に襲われた。同部屋のメイスとカールは何も言わないでそんな俺をじっと眺めている。カールには問い詰めたいことがあった。しかしさっき見た姿に頭はもうパンク状態だ。ああもう。

 かきむしるだけでは飽き足らず、ひきちぎりそうになってきたので、そこで俺は覚悟を決めて

「メイス」

「はい」

「ちょっと出てくる」

 こちらに向けた赤い瞳を瞬きさせる。「カール、頼むな」

「……」

 カールは無言で賛同はできない、という顔をした。が、今は俺はそれを黙殺した。奴が何を企んでここにいるのか。とてもじゃないが放っておけない。

「俺が戻ってくるまではこの部屋出るなよ。俺以外にはドアを開けるなよ」

 伽話に出てくるみたいな言い方だな、と言ってから思ったが、メイスは至極真面目に受け取ったのか赤い瞳でじっと見上げた後、こくんと頷いた。それだけ確かめて更けていく夜の中、バルコニーから外に出た。

 馬鹿だったことを悟ったのは同じ夜。

 何故泣いているのかわからないガキの頃とまったく同じで。このときだってそうだった。

 俺は泣かされていたんだ。

 奴に泣かされているのだ。





 寝る前に赤ワインを一杯あけるのを常にしている。余計寝つきが悪くなりますよ、そうしばし節介に言ってきたのは誰だったか。もうそこまで親身に世話を焼いてくれる者は周りに誰もいなくなった。

 年をとったせいか、周囲が寂しくなってしまったせいか、おぼろげに思いながら濃い葡萄色が揺れる瓶のコルクを器用にナイフで抜くと、グラスに注いだ。

 外の梢がかすかに鳴った気がした。気のせいかそうではないか、思案の隙もなく澄んだ音をたててガラスが三度鳴った。二つの拍をおいてトントトンと鳴る。

 誰ともなく微笑して、席を立ち走り書きした紙をドアの隙間から向こう側に滑り込ませた。カーテンをあけると、ガラス戸の向こうにはもう彼が立っていた。

 お入り、と言ったが、ガラス戸を開けてもその位置は動こうとはしなかった。彼は落ちつかなさそうに、首をわずかに回して部屋の様子を伺う。テーブルの上にその視線が止まった。「……寝る前だったのか?」

「ああ」

「余計寝れなくなるぞ」

 その言葉に、男はきょとんとしてから破顔した。なにかしらまずいことを言ってしまったのかと、青年は黙る。

「もう王城に入り込んでいるとは、意外だったな。いつ来たんだ?」

「……」

「まあ、会いに来てくれて嬉しい。私の部屋はどうやってわかったんだ?」

「……」

「あの白髪のお嬢さんと、一緒に来たのか?」

 その言葉に青年の態度が硬直した。けれど警戒するように強張らせながらも、だんまりを決め込む青年につと男は目を細めた。

「何かお言い?」

「――ご無沙汰しております。なぜここに?」

 硬く事務的な言葉に男は肩をすくめた。

「他人行儀だな」

 ふとそっぽを向いて青年が小さな呟きを漏らした。

「……他人じゃないか」

「レザー」

 腕を組んで男は悠然と笑った。

「私にそんな口をきいていいのか?」

 柔らかだが確実に高圧的な物言いは、しかし根拠のない虚勢では決してない。相手の自覚の上にきちんと成り立っているのだとわかるように、青年がぎくりと硬直して逃げるように一歩引いた。

 一瞬、力量があからさまになった気まずい場の空気は、しかし男が思いのほか明るく笑い声をあげたことで壊れた。笑いながら無遠慮に手を伸ばし、青年の頭をとらえて引き寄せると、そのままかき混ぜた。

「髪を切ったのか。似合っているが、そんな短い髪型を見るのを何年ぶりかな」

「……」

 始めに手が伸びたときだけ、小さく声をあげたが、相手はかき混ぜられるのも諾々と受けいれて、頭を垂れて動かない。

「入って座りなさい」言葉もなく立ちすくむ青年に背を向けて、部屋へと戻り振り向いて男は余裕に満ちた物言いで告げた。「お前がまだ、自分の立場を自覚しているならばな」





 まだ黄色の髪のかつらを少女は被ったままだった。夜のしじまが深まるにつれ、思い出したように窓の外を見やる。

 レザーが行くと言ったとき、彼女は何も言わずに見送ったが、どちらかと言えば彼女は離れがたいように見えた。

 存外長く共に旅を続けていたが、少女がこちらに心を許しているかどうかは怪しい。人とのつながりを世界に例えるなら、彼女の世界はひどく狭い。

 ただ、一つの部屋に少女と残されたカールが、居心地がよくないことは火を見るよりも明らかだが、少女の方はそうでもなかった。もとより少女は居心地の悪さを感じるほどの意識をこちらに抱いていないのだ。

 少女は平然としている。それでもつど窓の外を見た。普段はこうでもないのかもしれない。敵のすぐそばということで神経を尖らせているせいかもしれない。ともかく彼女は待っていた。

 そんな期待に応えるように、ベランダに通じるガラス戸が鳴った。三回鳴って二拍おいてトントトンと鳴るノックだ。音が聞こえてきた瞬間、少女は確かに少しだけ喜色を見せた。

 けれど、戸に素早く駆け寄った少女が飛びのいたのと、ガラスが大きく揺れて破片がこちらに飛んできたのは、あわせても一瞬の出来事だった。

「―――!」

 割れたガラスの隙間から幾重にも巻かれた布の球がいくつも転がって、しゅうしゅうと白い煙を猛烈にあげはじめた。独特の癖のあるにおいが瞬く間に部屋に充満する。口と鼻を抑えて少女がきびすを返したので、すかさずカールが廊下に続く扉を開け放った。

 ドアの向こうに待ち構えていた追撃者の存在は予想がついていた。廊下いっぱいに広がって何人いるか定かではない。先に飛び出した少女の姿が突然ふっと消えた。どこに行ったのか確かめる時間も惜しくて、カールは無造作に一本の腕で目の前の空間ごと横なぎにした。それに巻き込まれた形で一人の兵がくっと腰を妙な形に曲げて廊下の端に吹っ飛ぶ。

 ふわっと降る様にして少女の姿が戻ってきた。どうやら尋常ではない跳躍をしたらしい。カールは次の相手にかかったが、そこで視界がぶれて、思わず片膝をついた。それが鼻につく匂いのせいだとはわかっていた。

「――逃げろ!」

 叫び襲撃者の一人を掴み上げて、なんとか見やった先、少女は素早く廊下の角を曲がるところだった。カールは祈るように見送って、掴んだ兵士を壁に投げつけ、次の相手へと向かい合った。





 執拗に伸びてくる手を振り切って、周囲の様子が静かになると、メイス・ラビットはようやく足をとめた。

 油断なく周囲に目をめぐらせ耳をすませる。鼻はおかしくなっているが、なんとかわかる。追っ手はない。しかしあの隻腕の大男もついてこない。

 真っ先に頭に浮かんだレザーはどこにいるのかわからない。舌打ちと共に消して、次に浮かんだのは赤銀の髪の青年アシュレイだ。ともかく合流せねば。今自分がいる場所を確かめようとしたが、少し前にカールを襲ったのと同じ眩暈を感じた。くらり、と揺れる視界に、メイス・ラビットは思わずその場に膝をついた。

 嫌な酩酊感が脳を回る。口元を抑えながら、立ち上がれるかどうか、自分に問いかけるように神経を身体に集中させる。

 動ける。

 確認したと同時に床に叩きつけられた。足を掴んで後ろからひかれたのだ。衝撃の一瞬後にはずるずると背後に引きずられる。足を取られては勝ち目がない。なんとか取り戻そうとあえいだ瞬間、厚く畳まれた布を容赦なく口元に押し付けられる。

「――」

 何も見えない。赤い瞳を一瞬目いっぱい開いた後、メイス・ラビットの意識は途絶えた。





 破れんばかりにドアがなった。聞きたいことは聞き出した。なぜだか奴は執拗に引き止めてきたが、それを振り切って俺がベランダまで出た瞬間だった。

 俺がともかく慌ててベランダの影に隠れたその一拍後には、憤怒の表情をしたアシュレイがドアを蹴り飛ばして突入してきた。久々に見たマジギレの顔をしている。アシュレイは一直線に部屋の真ん中に佇む奴めがけて詰めより、問答無用でその襟元を掴みあげた。

「よくもふざけた真似をしてくれたなあっ!」

「なんのことかな」

 その返しにアシュレイが容赦なく掴みあげた両手を交差させた。!? 喉へのひどい圧迫にさすがに奴も顔をひどくゆがめる。

 思わず飛び出しそうになったが、その前に後ろに続いていたカールが飛びついてアシュレイを引き剥がした。今にもその喉に喰らいついて噛みやぶりそうだったアシュレイは、唸りをあげて離される。解放された奴は数度、空咳をしてから調子を取り戻したのか、いっそ感心したように

「狂犬のようだな、君は」

「下種な性根の豚よりマシだ!」

 鋭く吐き捨ててアシュレイは

「なに考えてやがる…っ!」

 その言葉に襟元を直しつつ、奴は少し考える素振りを見せたあと

「見解の相違、とでも言おうか。ここに来て君らとの亀裂がはっきりと出たということかな」

 すでに平然と何事もなかったかのように言う。そういう態度が一番人を苛立たせるということを――わかっていてやっているんだろう、多分。

「君らは救おうとしている。無駄だよ。あれはもう全く別物だ。何度も説いたが聞き入れようとしなかったのは君だ。――あれは殺すしかない」

 遠い昔に覚えのある、薄い冷たい、水色の目だ。それを光らせてこいつが口にするのはいつも嫌になるくらいの冷酷さだった。何の話かはわからない。ただ物騒な単語にぞっとした。一部の隙もなく奴は冷静で本気だった。

「どこへやった…っ!!」

「知らないな」

「てめえっ!!」

 またアシュレイが暴れだしたのでカールが強く抑える。「年長者の言うことは聞きたまえ、アシュレイ君。まだ報告が届いていない。だが、行き先だけなら教えてあげよう、後ろの彼が難儀しているようだ。――捕らえたなら、即刻献上しろと命じていた」

 アシュレイの顔色がざわりと変わった。……献上……?

「これでも私は友人だよ。哀れに朽ちていく彼に、最後の手向けと投げ与えてやるのがそんなにいけないことかな。それでしばらく満足するんだ。我々に必要な時間と隙も与えられる。彼女の使い方はそれしかない」

 ざわり、と俺にも何かがわいた。アシュレイの激昂――捕らえたなら――……彼女?

「てめえは豚以下だ。よくもそんな浅ましい真似ができるな。人を物みたいに差し出して、尻尾を振っているのが気品か!」

 白い髪が目の前にちらついた。じっと見上げてきた赤い瞳が記憶の中で瞬く。俺は見ないふりをしたけれど、多分、ほんとは行って欲しくはないと言っていたんだろう赤い瞳だ。何故執拗に奴は俺をここに引きとめた?

 ―――っ!!

 急に目の前の全てに悲鳴をあげたくなった。胸で叫んだその名に恐ろしい喪失感を覚えた。熱い汗と冷たい汗を同時にかく。どんな悪夢よりも、これは深い。

「その通り。私という人間をよく表している。だけどそれは、君のレザーも同じことだ」

 ふ、と喉が自分のものではないようになって、その言葉を胸から搾り出した。


「ふざけるなよ叔父貴っ!!!」


 部屋の中に、高らかに響いた声は、俺のものではなかった。澄んだ響きの、けれど厳しく凛としたそれは。いつの間にか後方のドアが開いている。変わった白い服を着ているリットの姿が見える。

「あなたの甥子がここにいたのなら」

 ふわりと優しい暖色の髪が揺れた。柔らかい声は柔らかい表情が紡がせる。

「きっとそう叫んでいたでしょうね。アベル伯」

「……お早いお着きだ。第一巫女殿」

 奴が――叔父貴が、初めてわずかに忌々しさを含んだようなそれで答えた。いいえ、遅すぎましたわ、と羽織っていた薄いケープを優雅に肩から剥がしながら静かに答えた後、来訪者はゆっくりと顔をあげた。ケープの下から真っ白な布地がのぞいている。

「お久しぶりですね、叔父さま」

 神々しさすら感じる正装を身にまとった、グレイシア・ロズワースは強く微笑んだ。




 ぐるぐると心元なく足場なく彷徨い回る視界の中で目を覚ました。ひどく気分が悪い。瞳を見開いても、なんとか見てとれるものと、その部分だけ真っ白になって見られないものが、ちぐはぐにつなぎあわさっている。まるで数ピース欠けたジグソーパズルだ。自分が漏らした呻きが耳に届き、さらに覚醒を促す。

 最後は意志の力で、メイス・ラビットはようやくひどく不快な状態で目を覚ました。身体は鉛のように重く、柔らかい何かに深く深く沈みこんでいる。

 身を起こすのは諦めて意識の霧を晴らすのに専念する。記憶は浮かび上がっては沈み、流れ出しても飛びがちで不規則だったが、気を失う直前の最後の意識を引き当てた――足を掴んで引きずられ背後から何者かの手が伸びて口と鼻を塞いだ――瞬間、綺麗な時系列に並んだ。赤い瞳が完全に知性を宿して、瞬く。気分の悪さは残っていたが、今はそれを押しのけた。

 そして周囲を見回そうと身体に力を入れた瞬間、眼前に大きな手が迫ってぎくりと動きをとめた。

「まだ、起きない方がいい」

 かざされた手と深みのある声に、こんな間近に人間がいたのかと、全身の毛が逆立つような激しい警戒心が押し寄せてくる。低く、呼吸すら苦しそうにあえいだメイスの様子に、相手も気づいたらしい。

「大丈夫。もう、心配することはない」

 少女の白い顔をすっぽりと覆う影を落とし続けていた手がやっとどけられた。そのせいで直に浴びた部屋の明るさがまぶしくて、赤い瞳をメイスが少し細める。光の中に一人の男の姿が、ただの濃い茶色の影から徐々にはっきりとした姿を紡いだ。

 凛とした座り姿勢の男だった。若くはない。髪にははらはらと白いものが混じっている。しかし、顔はまだ老いよりも強さを、枯渇よりも瑞々しさを感じさせた。

穏やかに光るライトグリーンの双眸が、彫り深い顔におさまっている。深い知性を漂わせる形で切り結んだ口の上には、綺麗に整えられたひげが蓄えられている。気品と気高さに満ちた顔立ちだった。

 四十、五十の境目というところか。初老と呼んでも差し支えないが、枯れた印象はあまりない。肉体が若々しいせいだろう。服装もまた常人とは違ってた。

 柔らかな布地に、深い青をベースに金糸で縫い取られた刺繍は複雑にそして緻密に構成されている。アクセントのなのかところどころに臙脂色が入る。どれも尋常ではない鮮やかさと深みだ。光沢一つとってもめったにお目にかかれる品ではないとわかる。

 男は落ち着いた物腰で、けれどじっと労わりを満ちさせてメイスを見つめる。

「アリアドネ」

 突然聞き覚えのない名で話しかけられて、メイスの警戒心が一層顕著に膨れ上がって吹きでる。けれど身体の方は到底思い通りに動かせるものではなかった。歯噛みしながら再び男を見た。

「脅えなくていい。お前を危険にさらすものは、なにもない」

 知らぬ人間がそばにいて、身体が動かせない。その状況が痛いほど苦痛なメイスにとっては、心を喰われるような焦燥だけが濃い。

「辛いなら、侍医を呼ぼう。他に何か望みがあるならいいなさい」

 少女の口元から怒りに似た呻きが漏れた。

「……わたしを、レザーさん。どうしても駄目ならアシュレイさんという方のところに戻してください」

「ここにいなさい」

 その言葉に少女は今度こそ噛み付きそうな顔をした。彼女の正体を知るものならば、草食のそれではなく肉食のそれではないかと思いそうな程、凄惨な迫力に満ちている。それを受けても男は衝撃を見せず

「――そうか…。私が誰かを、君はまだ知らないのだな」

 男はようやく視線を剥がし部屋の端にある扉に向かって「絵をここに」と呟いた。命ずることに慣れた者独自のさりげない響きだった。

 扉の向こうでその命を受けた者は、そう待たせはしなかった。程なくして扉が開き、皆一様に同じ格好をした者が、男ばかり三人やってきた。三人で平べったい正方形のものを抱えている。

「みなさい。私の娘を描いたものだ」

 寝台に横たわったままの少女は、荒ぶった様子を消してじっと横向きに絵を眺めた。柔らかく微笑む女だ。注視は長くはなかった。メイスは今度はひどく冷静な声音で「私じゃありません」と言った。

「そうだろうな、あの絵は、アリアドネが二十歳をすぎた頃のものだ。今ではもう三十を過ぎる。どちらにしろ年をくいすぎだ」

「なら」

「赤の他人だと?」

 メイスは一拍置いた後、はっきりと言い放った。「ええ」

「君は、アリアドネの娘だ。――私は、私はミノス。私にとって、君は孫娘にあたる」

 嫌悪の果てにたどり着いたように、メイスは顔をゆがめたまま笑った。

「私は人じゃありません。あなたがうさぎなら、まあ、そのたわごとも少しは付き合ってさし上げましょう。そうでないなら、私を煩わせないでください。戻ります」

「君の事は聞いている」

 その言葉に少女が笑いを消す。男は憂いに満ちた視線をゆっくりと少女の顔に落とした。

「うさぎが人になる。――本当に君は、それを信じているのか」

 頬に温かい掌の感触が広がった。メイス・ラビットはその温かさにぞっとした。




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