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ルーツと故郷と師匠の巣(下)

 メイスは疲れているみたいだった。精神、体力共に消耗しているんだからムリもない。元々細くて華奢な身体がここまでくると明らかに目方が減ったのがわかる。

 メイスは普段から大食いだ。多分、大量に食うことでそのとんでもない運動量や持久力など色々と維持してきたものがあるのだろう。

 石のベッドに横たわった身体は明らかに疲労の蓄積が見えた。かさかさに渇いた唇に触れると切れそうな、一枚ちぎった魔道書のページの欠片を、口の中でゆっくりと食む。

 その力のなさは見ているこちらを深く不安にさせた。そんなこっちを見透かしたのだろうか、メイスは気だるげに

「レザーさん。なにかアイディアでも出してください。あなたはいくら喋っても消耗しないんですから」

 と投げかけてきた。俺はちょっと考えた後

「しゃべらなくていい、聞くだけで。穴の外に呼びかけして挑発してみるか?」

 するとメイスは返事はいいと言ったのに

「向こうから私たちにコンタクトをとる意思がなければ無理ですよ」

「じゃあ正体にあたりつけていやでも興味でそうなこと口走ってみるとか」

「あなただって考えたでしょう? 思いつかないということはムリです。――その、ムーアで私が狙われていたとかいうのも曖昧ですし」

「……」

 俺はちょっと黙ってから

「なあ、袋小路だ。一旦、意識から離した方がよくないか」

「無駄なことをしている猶予はありません」

「無駄なことじゃないってば」

 俺がどういえばいいかな、と考えていると突然思いのほか硬い声でメイスは

「私は、こんなところで朽ちるつもりありません。なんとしても本来の姿を取り戻してみせますから」

 俺はちょっとメイスを見た。声と同じで硬い目をしていた。

 魔が、差したんだと思う。気づくと俺は今まで決して踏み入れなかった領域に入っていた。

「……うさぎって、そんなにいいか?」

 口にした瞬間しまったと思った。状況から言っても最悪な投げかけだ。しかしメイスは特に強い反応を見せずにふっと笑って

「人間って、そんなにいいですか?」

「……」

「確かに種族としては繁栄していますが、それでも無様に死んでいく者は多いですし、モンスターに比べれば決して生物界の頂点に立つというわけでもない。自らで自らを滅ぼす者も多いですよね。なんですか、崇め奉られて名を残している者なんて、ほとんどろくでもない最後を迎えているじゃないですか」

「そ、そりゃ、盛者必衰というか……名を残す奴って、とにかく派手な生き方した奴のことだし…」

「レザーさんのあれ、なんですか? 聖カリスクも知りませんけどろくな死に方してなさそうじゃないですか」

「カリスクは違うぞ」思わず吐き出すと強い語調になっていた。「聖カリスクはフィナート山の竜を倒したあと、長らく苦楽を共にしてきた聖女ラファナーテっていう美人の仲間の姉ちゃんと結ばれてめでたしめでたしさ。――絵に描いたような人も羨む人生って奴だ」

「……」

 メイスの赤い瞳が彷徨った。「それで?」

「え?」

「フィナート山の竜を倒して結婚したのはわかりました。――で、その後、なにしたんですか?」

「竜を倒した功績を認められて地位と名声を手に入れたんだよ」

「ハイ。で、その後、なにしたんですか?」

「……」

 ここまで言葉に窮したのは久々な気がした。その後なにした?

「確か聖カリスクのフィナート山の竜退治って相当若い頃にやりましたよね。それまでよりそれからの人生の方が長いでしょう? だけどその後、なにをしたかって話をあまり聞いてない気がするんですよ」

「……や。でもな、聖カリスクってのはさ、魔導師の大空白時代から各国もなんとか立ち直ったけどいまひとつパッとしない時にさ、人の力で初めて竜を倒した、って偉業を成し遂げて世界全体のムードをパッと明るくしたんだよ。大空白時代で人間が人間に自信もてなくなっていたっていうかそういう沈滞した雰囲気のところにさ。その影響力の大きさって言うのは――」

「そんなものただの偶然の一致じゃないですか。実質的な功績じゃないでしょう」言い切った後、俺が言葉を続けられないのを見て「つまり結局、聖カリスクは何もしていないんですよね」

「……」

「じゃあ聖カリスクって、竜を倒しただけなんですね、結局」

 ここまでくると俺もメイスの言い分の矛盾点には気づいていた。メイスが功績だの名声だの特に重要視するわけはないし、偉業を成し遂げた後、結婚もして裕福に長生きしたっていうのは、メイスが持っている生物としての最優先順位に合致するはずだ。

 そもそもろくでもない最後を迎えている奴が偉人には多いからメイスは人間を非難する、というところからスタートしたはずだこの話は。始めと終わりで明らかに逆転している。

 つまりこれは、メイスの八つ当たりだ。多分、言い負かしたかっただけだ。だけど――

 だけ。

 竜を倒した、だけ。

 人類史上初のドラゴンスレイヤーに。

 全部わかっていたはずだったのに、俺が次にしたのは自分自身でも予想がつかなかったことだった。

 爆笑したんだ。

 無性に笑えて俺は大声を出して笑った。広いとは言いがたい洞窟に俺のけたたましい笑い声が反響して混乱する。それもおかしくて数度床に転がるくらい笑った。

 冒険者の代名詞も、歴史の金字塔も、先駆者としての勇者も、人の姿をした小うさぎには関係ない。いや後世の人間にとっちゃ何百年も前の偉人なんて所詮みんなこんなものなのかもしれない。誰もみんなそんなに気にしていないのかもしれない。おれはひいひいと苦しい息を吐き出すくらいに笑った。

 突然けたたましく笑い出した俺にメイスはびっくりしたようだ。八つ当たりしてきた、結構むちゃくちゃなことを言ってきた、うさぎが驚いて俺を見ている。

 笑いがなにか頑固に阻んでいた気持ちをどうでもいいやとほぐしてくれたのか、初めてメイスを好きだな、と素直に思った。

 最初はとんでもねえと思った。

 知るうちにわかんなくなっていた。

 そのうちなんか保護者やらなきゃって気になって。

 だけど多分知ってからずっと。俺はメイスのそういうところを純粋に好ましいと思ってきたんだ。

 自覚してしまったからだろうか。もう一つ驚かせてみたくなったからだろうか。

「メイス、あのさ」

「――なんですか」

「後三日、たっても出れそうになかったらさ、このままだと死ぬから」

 喰われてやるよ。

 赤い赤い瞳が丸くなった。メイスは突然がばっと身を起こした。

「だから、それまでがんばろうか」

 信じられないような視線が俺に突き刺さる。それもおかしくて笑いが過ぎたら、絶対後悔するんだろうな、と思って。

 思ったらなんだか余計に笑えてきた。





 それから俺とメイスは役割分担をすることにした。メイスが石のベッドの上で考え込んでいる中、俺がころころと見回ったり外の様子を伺ってみる、メイスはその間、ひたすら考え込んでいる。しかし、人間体ならともかくレタスの俺に試せることなんて少ない。

 結界の付近は相変わらず無反応で、俺はふうと思ってそこからもう一度何度も眺めた洞窟内部を見回す。空気の心配はないようなので、火はかざされている。奥には魔道書をおさめる棚と、わずかな蓄えを置く廊下の奥にぼこっとほられた貯蔵用の小穴。

 内部はほとんど完璧な長方形のつくりをしていたが、はいって左端がほぼ正方形の箱をわざわざくっつけたみたいにぽっかりとこちらに突き出ていた。その突き出た壁にそって視線をやると細い奥行きがあるのがわかる。

 唯一家具と言えなくもないのが、端っこの壁にあるメイスの寝ている石のベッドと、真ん中にあるやたら重そうな木のテーブル。テーブルの上の棒切れのような燭台と、壁一面にずらりと取り付けられた棚、それ以外は何もない。

 あの魔道書になんか起死回生の術でも載っていないかなあ。しかしそんな可能性が少しでもあったら、真っ先にメイスが手を出しているだろう。だがメイスのすることはそのページを食料代わりに齧ることくらい。

 そんなことを考えていると、ふと俺は前からなんとなく覚えていた違和感がまたむらっと自分の頭の中に立ち上るのを感じた。それを追いやろうとはせずに捕まえてみた。なんだろう、これは。なにがおかしいと感じているんだ?

 ……

 俺は転がって細い通路に入った。細い通路はそのまま棚に挟まれて続き、最後に貯蔵場所がある。それだけで終わる。

「なあ、メイス」

「なんですか?」

「この家ってどこまで自然の洞穴を利用しているんだ?」

「……? もとから少しは開いていたみたいですけど、くりぬいたり相当手は加えたんじゃないですか」

 この洞窟に関して俺がメイスを上回るアイディアをひねり出すことはまずないと思っていた。ともかく年季が違う。

 ――しかし。

 決定的な違いがあった。俺は人間だ。メイスはうさぎだ。

 そしてここは「巣」ではない。

 「家」だ。





「隠し部屋?」

 呟いてメイスは続けなかったがうんざりしたことが、表情と声色で十分に伝わった。だが俺は怯まずにうんと頷いて

「試みてみるくらいの可能性はあると思う」

 俺が大真面目なことを見てとってメイスは疲れたように

「あのですねえ。レザーさん、なんの根拠があるんですか」

「ここが家としては不自然なつくりをしてるからだよ」

「……?」

「お前がそこに気づけるのは難しいかもしれないけど、とりあえず今まで結構宿にもとまってきただろう? 野生動物の巣と人間の住む家は決定的に違うところがある」

「……」 

 メイスが初めて戸惑ったように周囲を見回した。

「スペースを無駄にしないことだ。――まぁ、建てられた家とは勝手が違うから今まで気づけなかったんだけど、家に慣れた人間ならそこの壁」

 俺が身体を少し振ると、メイスがそこに目をやった。通路に入るすぐ横。ほぼ正方形の箱を「わざわざくっつけたみたいな突き出し」本当は家なら違和感がない。ここが宿でも違和感はない。だけど。

「なんでそこ、そんなにせりあがって邪魔なんだ? この洞窟、ほとんど綺麗な長方形なのに」

「……」

 メイスはしばらくベッドの足の方に来ている出っ張りをまじまじと見てから俺を見た。

「……おかしいんですか?」

「ああ、無駄だからな」

「だって宿には結構ありましたよ。こういう感じの出っ張りは」

「あるさ。その隣に別の部屋がある場合に限ってな」

「……」

 メイスが凝視した。それから近寄ってみた。

「多分、あるとしたら本棚方面だ。なんか硬いもので壁叩いてみろ」

 壁の棚に並べられた魔道書をばさばさ落として、壁から直でのびた岩棚の奥が露になると、メイスは貯蔵庫に走って小さな鍋をひとつ持ってきた。珍しい鉄製の鍋だ。それで壁を叩き始める。反響を聞いているようだ。しばらくみっしりと岩が積もった証の、こもる響かない音が続くが――。

 メイスが最上段の壁を叩いたとき、俺の耳も見逃さなかったのだからメイスが気づかなかったはずはない。一度、慎重に冷たい壁に耳をつけてからまた聞く。

「……ずっとここに住んでいたのに」

「逆に気づきにくいもんだよ」

「……隠し部屋?」

 まだ信じがたいようにメイスが呟いた。が、途中で何かに気づいたように「……そう言えば、お師匠様、昔から魔道書だけはどこからか持ってくるんですよ。その割にはここには量が少ないですね」

「試してみる価値はあるだろう」

「人間って不可解です」

 言いながら急いでメイスが奥の貯蔵庫に向かい薪わりの斧を引きずってくる。壁は思っていた以上に薄かった。

 一分とたたないうちに突き破って向こう側に黒々と穴が開いた。メイスはまだ半信半疑な様子で、小さな穴に顔をつっこんでしばらく動かなかった。俺はその姿にむかし寝物語に出てきた、穴に顔を突っ込んで抜けなくなった小熊を思い出す。

「レザーさん」

 別に熊のようにつっかえたりせずに白い顔を引き抜くと、メイスは狭い壁棚で器用に身体の向きを変えわしっと俺を引っつかんで穴に突っ込む。ぐんっと闇が広がったうわ。

 急に闇に突っ込まれて俺はまったく見えなくなった。突っ込まれた先も、向こう側の部屋にあった棚と同じ高さで小さな棚があったようだが、それを通り過ぎて空に突き出された。うわうわうわ。メイスの手は曲がり俺を脇の棚に置いてくれた。

 どうやら壁の向こう側にあった部屋もまた、壁に小さな棚を突き出させた配置になっているようだ。薄い岩壁を両方背にして一枚隔てたこちらとそっくり同じ造りになっている。次にメイスが燃え盛る松明を突っ込んで、俺と穴を挟む反対側に置いたので穴の中の闇に一気に暖色の光が満ちる。

 俺は急いで周囲を確認した。やはり――小部屋だ。暖色の光が届く範囲にある岩棚がほんのりと浮かび上がっている。

 俺はふと松明を視界に入れた。ぽっと大きめの火種が、棚から少しせりだした炎の先からゆっくりと闇に落ちていく。

 それ以上、俺が確認する前にメイスが腹ばいで上体に穴を突っ込んできた。たいした幅もない棚の上でも、メイスは頓着せずに上体を勢い良く穴から引き抜いた。俺はその直後に闇に落ちていく火種の行方を確認した。そして一瞬――

「メイスちょっと待て!」

 止まれるタイミングではなかった。するり、と狭い穴、狭い棚の上、どこにも引っかかったりぶつかることはなく、メイスはうつ伏せのまま一回転して綺麗にこちらに身体を通してきた。

 思わず叫んだのも忘れ惚れ惚れするような身のこなしだった。そのまま行けば前向きにしなやかに着地できただろうが――

 しかし、同じ高さにある棚が錯覚を生んだ。棚から落ちた火種は遥か下へとふわふわ落ちていっていた。案の定、メイスの身体も闇に沈んでいく。けれど声一つあがらずにやがて松明の明かりが届かない底へと白い姿が消えた。

 まさか棚の向こうにこんな深い縦穴があるとは思わなかった。一瞬その深遠にぞっとした俺だが、すぐにメイスの

「レザーさぁん!」

 という声が闇から聞こえてきたのでほっとした。

「無事かーっ!」

「はい。驚きましたけど」

 そう言いながらタッと岩を蹴る音と共に、白い姿が突然浮かび上がった。飛び上がってきたメイスは棚にへばりついて俺の近くに顔を寄せた。俺を掴んで松明をとるやいなや、手を離したメイスは再び何の気なしに飛び降りた。

 松明と共に落ちたため、その落下は一瞬だけだが奥の得体の知れない部屋の全域を見渡せた。まさにそこは棚の部屋だった。ナディスで見た大図書館を思い出させる。深い縦穴にずらりと並んでいるのは棚棚棚……。

 その棚のほとんどが何かしら物が詰められて並べられている。多くは初め大図書館を連想させたように何かの書だ。そこいらの塔の長さなど容易く凌駕する縦穴には、ちらりと視界を掠めた長い長い梯子の姿も見られた。

 メイスは着地して素早く辺りを見回し、赤い目を見張った。幸い、落下の勢いにも松明は消えなかった。

 俺も辺りを見回した。床の面積から言えば決して広い部屋ではない。しかし深い。巨大な縦穴だ。その高さを存分に生かして無数の品物が納められている。まさかあの洞窟の向こうにこんな場所があるとは神すら知るまい。まったくなんて「家」だ。

 上下四方の壁に据えられた棚は、人間一人が寝転がれるほどの奥行きを持っている。古書が詰まっている棚は岩棚なのに重たげにすら見える。松明が届く範囲だけ見回しても、尋常ではない量の本の数だ。

 比較的魔道書をよく読んでいるメイスも突然あらわれた文字の山に、ひとかたならぬ興味を抱いているようだ。本が載っていない棚には、俺から見るとまったく見当がつかない品物が無造作に突っ込まれて山となっている。

 うーん。表の洞窟は物が少なさすぎると思ったが。まあ、苔も魔道書も目を離せば齧っちまうウサギの目の届くところに、大事なもんなんざおちおち置いていられなかったんだろう、あいつも。

「すげえな、これ」

 俺がただただ呆気にとられて呟くとメイスも「この中にもしかしたら……」と希望をこめた呟きをもらした。そういやメイスが魔道書をよく読むのは、元の姿に戻る術のヒントを常に探しているためだっけ。

 メイスは山のような魔道書に目を奪われていたが、当座の問題は俺たちはいまだに閉じ込められた状況にあることだ。この魔道書からなんとかヒントを見つけ出すのも……大変そうだなー。

 そこで俺はメイスの手の中で、さらりと冷たい風に撫でられてとまった。その方向を見やると素っ気ない木箱が置いてある。その隙間からうっすらと黒い影がのぞいている。

「メイス、メイス」

 うっとり見上げていたメイスがようやく俺を見た。メイスは風に気づいていない。

「メイス、あそこ!」

 俺は興奮して叫んだ。この岩棚も向こう側の部屋と同じく響かないが、それでも十分大きかった。メイスも気づいて俺の言わんとすることをすぐ察した。

 急いで駆け寄って重たそうな木箱を肩で押して横にやる。瞬間、ぶわっと冷たい風が下から吹き上がってきてメイスの白い髪をさらう。

 木箱の後ろに隠れていたのは、ぼろぼろに腐った木板が打ち付けられただけの、小さな穴だ。メイスの一蹴りで木板はもろく崩れた。

 その向こうには一片の光もない闇が当然のように丸く口をあけている。緩やかな下りの傾斜で、先は暗く見通せない。かなり奥まで続いているようだが、盛大に吹き上げてくる新鮮な風にぐんぐん希望が湧いてくる。

 俺とメイスはもう言葉をかわすこともいらずに、メイスが俺をナプザックにいれて穴に飛び込んだ。穴の広さは思った以上にあった。

 最初は狭いが半リーロルほど身をかがめて潜り抜けると、大の男でもまあ中腰でいけるほどの穴にある。メイスなら楽々立って歩けて足元も心配ないようだ。

 これは間違いないなあ、とナプザックに詰まったまま俺は思った。しばらくして周囲が段々明るくなってきて――。

 緑が満ちる山の中腹、ちょうどいつも行っている小川の上流近くの重なりあった大岩の隙間から、無事に顔を出せたとき

「逃がしたレタスはいっそう美味しそうに思えますよね」

 というメイスの言葉に軽口だなと軽く受け止められるくらい嬉しかった。





 ともあれここ数日の悩みどころがさっぱりと消えたので、メイスは比較的気楽そうに見えた。出口を発見したが、外はどこまでも明るい真っ昼間で襲撃者たちの存在もよくわからないこの状況。俺が元に戻れるのもあわせて夜まで待たないか? との提案をメイスはあっさり受け入れた。

 我がままというか、思いたったことは他者をいっさい気にしないで遂行するところがあるが、メイスは危険にはひどく敏感だ。

 たとえ手の届くところに美味そうな草があってなおかつ自身が餓死一歩手前状態であろうと、理に適っているなと思えば当たり前のように引き返すことができる。こういうのは人間の理性よりよっぽど強く徹底している。

 思えば今回の件ではメイスの理性の頑強さを思い知らされた。普段は食べたい食べたいと欲望丸出しだが、本当に差し迫った極限状態でメイスは自身の欲望なぞほとんど見せずに事態にたいして非常に冷静だった。普段は落ち着いて見せていても、いざ極限状態に陥ったときに変貌する人間なぞ腐るほどいる。人間の本当の価値は緊急時にわかる、とはよく言ったもんだ。

 そんなわけでメイスは速やかに縦穴の部屋へと戻り、そして俄然魔道書を読み始めた。がつがつと向こうの部屋でページを齧っていた以上の熱心さだ。こういうのをむさぼるように読む、という奴かな。門外漢の俺にはよくわからないが、グレイシアもここにいたら感激したのだろうか。

 したいことが山積みのメイスとは違い、俺は暇になったので寝溜めするかと一眠りして、うつらうつらと夢うつつの中、低い呻くような声が聞こえてそのまどろみを破った。

 俺はいささか寝ぼけ眼で、ここで俺以外に声を出す者――当然一人しかいないメイスを見やった。開いた本をのぞきこんだ体勢のまま、メイスは赤い目を見開いている。どうした? と声をかけても返答がないので、近づいてよいしょとあぐらをかいていた膝の上に飛び乗った。

 メイスが両手で開いているのは、古ぼけた本だ。ページは黄ばみを通り越して黒みを帯びた黄銅色だが相当厚くしっかりした羊皮紙なんだろう。まだぴんと張っていて記述も十分読めた。

 開かれたページに走るインクは何かの特徴を書き付けているようだ。年をとらず、火の通ったものを好まず……等の記述がちらっと目に入った。

 何気なく全体を撫でた俺は次の単語に頭を殴られたような気がした。

 ――その身、傷を負いても血は流れず。一見では生人とかわりなけれども、それ全て異形の証なり。

「……メイス、その本、なんだ?」

 メイスの肩が大きく震えた。こくっと一度だけ大きく唾を飲み込んで、メイスは

「死霊術の本――です」

 古い本のページの最後に、古い古い言葉は綴る。



 それ全て蘇り人の証なり――





 夜を迎えて念願の穴から抜け出し、闇を駆けて山を二つも越えた。その間、きな臭い追跡のそれなど影も形もなかった。俺たち二人は言葉もほとんど交わさないまま朝を迎え、俺がレタスに戻って川のほとりで一息ついた頃。どちらともなく話をするべきだろうな、という雰囲気が漂っていた。

 それでも俺は話しあぐねて、ちょっと間を作った後

「――多分、お前の――その、あれだ、推測は……いいところ、ついてたと思う。魔術士の一族、ってやつ」

「……」

「断定はできねえよ。だが――あの抜け穴は、どう考えても緊急脱出用だ。それもコルネリアスが作ったものじゃない。これは断定できる」

「――なぜですか」

 静かに見えるが動揺しているな、と俺はその言葉で確信した。

「あいつには抜け穴なんて必要ないだろ?」

 メイスが自分の迂闊さに気づいたような声をあげた。歪みを抜けて空間を渡ることが可能なんだ。自在に消えたり現れたりできる相手が、脱出用にわざわざ硬い岩穴を抉り取る必要がどこにあろう。

 つまりあの洞穴には別の誰かが住んでいた。それも間違いなく襲撃者に脅えて隠れ住んでいた誰かだ。それがコルネリアスにどう繋がっているかはわからない。しかし誰だって子どもの頃住んでいたのは、自分の家であるはずじゃないか?

 あの抜け穴の存在が前に現れたとき、俺は半ば確信した。そのおそらくコルネリアスに連なる誰かが、メイスの主張した大空白時代に分断された魔術士の一族かどうかはわからない。

 正直俺には飛躍しすぎた発想に思えた。しかしメイスの言動からおそらくコルネリアスは、今は伝わっていない大空白時代に失われた魔道技術、という幻のようなものを考慮にいれなければとても説明できまいと思えるほど、現在の魔術レベルで言えば規格外の存在なんだろう。

 現在の術士の世界に通じたグレイシアがさっぱりそのルーツをつかめなかったのも納得がいく。魔術士のルーツを探れないなんて本当は不可能だ。魔術は独学で修得できるものでは決してないのだから。

 俺はふと思った。血眼の宴、大空白時代にことごとく惨殺された同胞に連なる魔導師が蘇って果たすのは、自らの一族の無念に対する世界への復讐か? はははは。まったくぞっとしない妄想だ。

 メイスが小川に手をひたした。白い手は冷たそうに見えた。水面を見つめる顔が一瞬静かに細波だった。

「あの人は、死人じゃない――……っ!」

 外界は次を待たなかった。突然メイスがばっと手を引き抜いて大きくふりむいた。細かな水滴が朝の中に散る。

「人の臭い!」

 短い一声と同時に俺が掴まれてメイスはひとっとびに近くの茂みに飛び込んだ。確かにあの家から二つの山を越えたが、だからと言ってまだ偶然人が通りかかるような場所ではない。

 葉の隙間から目をのぞかせてメイスは近づいてきます、と俺にだけ聞こえる声で言った。しばらくして俺の耳にも届いてきたのは、確かに軽やかに地を蹴って進む何かの足音だ。――人の足、ではない。しかしこのリズムは馬、でもない。これは――……

 茂みを飛び越えまだ新しい若葉や小枝を散らして、答えは躍り出てきた。地面から約一リーロルの高みにあるひょろひょろした蛇のような首の上にのっかった、やたらにでかい冗談のようなぎょろ目。首と同じくひょろっと長くしかし馬鹿みたいに足の裏だけ広い前に二本後ろに一本の合計三本の足。またぱかっと開く大きな口には轡がはめられている。

 飛鳥だ。魔物の一種だが、人懐っこく飼い慣らすことが可能で、馬の瞬発力には劣るが、抜群のバランス感覚で高山など起伏の激しい場所での移動手段として重宝されている。

「川だ。一息いれよう」

 続いて飛び込んできたもう一頭の飛鳥の背から落ち着いた男の声が響いた。

 ……あれ?

「夜通し飛ばしてまだ続くのかよ」

 先に踊りこんできた飛鳥の背からややしゃがれた響きが混じる声。……あれ?

 声だけならあれ? という感じだが、茂みから見えるあの姿はおいおい――

 不意にかすかなメイスの声が聞こえた。瞬間、茂みの向こうの二人に異変がおきて、豪快にも飛鳥ごと空へと二人は舞った。

 俺もちょっと度肝を抜かれたが、浮かび上がった二人はその比ではあるまい。二匹の飛鳥だけが、ぼけっとしたぎょろ目のまま浮かんでいる。

「うわっ! なんだ!」

「待て、これは――」

 派手に驚く一人と、浮かび上がっても落ち着いている一人。相変わらずだな、オイオイ……という場にメイスが茂みから出ずに厳しい声で宣告した。

「正直に答えなさい。でないとそのまま叩きつけます。あなたたちが数日前から洞窟にいた私たちを閉じ込めていたものですか?」

「あっ! はっ! へっ!?」

 すっかり慌てている一方と、もう一方は落ち着き払った態度でさっと周囲を見回して

「――違う。俺たちは東フェリアのコーダ港から上陸して北上して今日ここまでたどり着いた。洞穴だの、閉じ込められただの、何の話かわからない」

 メイスがざっと立ち上がった。それと同時に、崩れるほど乱暴ではないが、優しくもない程度で飛鳥と二人がおろされた。

「あ! 嬢ちゃん! ほんとにいた!」

「オースティン老の情報だ。嘘ですら本当になる」

 騒がしいスキンヘッドと落ち着き払った細目。間違いない。肌はどっちも見事な褐色。それが映える、海はどーしたお前ら。

 対照的なその二人組はウォーターシップ・ダウンで出会い、エフラファまでの道中で船に乗っけてもらった船乗りの二人組。でっかくうるさい方がスライリ、落ち着いているターバンの細目がラブスカトル。

「何故、あなた方がここに?」

「お、おれたちはだなあ、あんた探してって頼まれて――」

「オースティン老という名に覚えがあるだろう」

 あのムーアでの豪快な爺の顔がすぐ浮かんだが、メイスの方はぴんとこなかったようだ。しかしやがて思い出してきたのかああ、と呟いた。

「言伝を頼まれた」

「知り合いだったのですか」

 言うとラブスカトルはちょっと笑ったようだ。「あの名を知らぬ船乗りはいない」

「たまたま近くの港にいてな、俺たちが知り合いだってんで白羽の矢が立ったんだ」

 船乗りのネットワークがどうなってんだかしらねえけど、爺さんの影響力は結構ぶっとんだものらしい。苦悩するのもわかるなーと元気なあの孫の姿を思い出した。

「なぜここが?」

「最後に姿が目撃された地点から的を絞ったようだ。驚くことはない。世の中で知らない、つかめないことの方が少ないといわれるような目だ」

 メイスが細めていた目を一度開いて、それからラブスカトルに負けないほど細めて見据えた。

「あなた方は飛鳥を飛ばして私のところにきた。たいした手間です。確かにあなた方に言伝を頼んだ方は知っていますが、深いかかわりがあったわけではありません。あなた方だとてそうです。……不自然に思うのは当然だとわかっていただけますか」

「不自然かどうかは事態の重さによる」

 メイスのきっつい言い方にもラブスカトルはちっとも動じずに返した。「心配にもなるわなあ」とスライリも頷いている。この二人は基本的に信用できるだろう、とオレは思っていたので疑惑の目は持っていなかったが、確かにこんな山深い場所にわざわざ追いかけてやってきた、というのは奇妙に思っていた。何か掴めば知らせようとあのじーさんは言ってはいたが。

「言伝は警鐘だ。一刻も早く伝えるべきだと判断された」

 物騒なラブスカトルの言葉にメイスもさすがに異を返さない。

「一週間前からだ。各地の港にこんなものが出回るようになった」

 ラブスカトルが飛鳥の背にくくりつけていた袋から何かを取り出してメイスに手渡す。かさかさと畳まれた一枚の紙のようだ。なんかの触れだろうか。ナプザックの口から肩越しに見下ろしたオレとメイスは同時に目を落として、そして絶句した。

 茶色がかった羊皮紙、紙の隅っこにはヒイラギの輪の中の王冠の印が描かれている。真ん中には似顔絵があった。細いペンで書かれただけの簡易なものだが、ふわりと笑う一人の少女だ。

 整った顔、憂いの影でも落としそうな長い睫、上品な口元、ただ特徴を事務的に描写したそれではない。明らかに対象を知っているもの、また目にしたことがある者の筆だ。自身の顔がどのように使われているのか、まるで知らないように少女は微笑んでいる。

 その下には特徴が字で書き出されて、引渡し場所、手荒なまねをせず等の注意事項が記されている。名など個人のデーターはない。しかし。莫大な懸賞金と共に尋ね人とでかでかと書かれたそこにいる少女は。

 間違いなく。

 オレが入ったナプザックを肩にかける、メイス・ラビットその人だった。





 こつこつ、と先がかすむほど長い廊下に足音はよく響いた。薄暗がりの左右の壁には飾るに困るほどの大小さまざまな形の額縁がかけられていて、その絵の題材は全てが人だ。

 額縁も多様ならば描かれた人間もまた多様だ。けれどどんなほがらかな顔もこのように暗い壁にかけられれば、陰気で不気味でぞっとしなかった。

 足音の主である赤銀の髪を襟元に流す青年は、爪の先ほどの興味もわかない左右に並んだ陰気な芸術品に、呆れと嫌悪に近い表情で眉を寄せて、冷たい廊下を進んでいく。

 先祖ならばまだわかる。しかし絵の中の人々に整合性はなく、一昔前の王の叔母だかなんだかが、聖人や偉人の肖像画を集めるのが趣味だったという。実にみのりのない話を聞かされたな、と苦々しく思い返して舌打ちした。

 終わりはないかと思えた長い廊下も先が見え、その突き当たりにさしかかって彼は立ち止まった。突き当りの壁は滑らかなクリーム色をして平らだった。

 壁の高い場所に古い一枚の絵がかかっている。特別の扱いなのか、薄いガラスで絵は大切に保護され、壁の燭台には火が灯されていて他の絵とは光の加減が明白に異なった。

 けれどその絵の印象が周囲の陰気さとがらりと違うのは、その効用だけではないだろう。何も知らずに見上げるなら、青年とて悪い印象は覚えられまい。

 描いた画家の腕が稚拙なのか巧みなのかはわからない。しかし淡い色使いに包まれて、描きだされた少女の微笑みは朗らかで優しげだ。はっきりと整った線の細い顔立ちは間違いなく美しいが、それ以上に人間味に溢れたその表情やうちに秘めた柔らかさは魅力的だった。

 笑顔すらまともに拝んだ覚えのない身にしてみれば、それは大きなギャップを覚えさせた。

 ふわりと広がる髪の色は薄い茶色、優しさに満ちた瞳は深い緑で、アシュレイ・ストーンは苦々しく壁にかかる絵を見上げた。笑い飛ばせない自身こそが苦い、というようにかみ締めた声は押しつぶされた唇の間から這い出した。

「行方不明の……王女サマ、か」

 耳にすればまた滑稽で顔を背けた青年に、ドラゴンの森で共に行動した白い髪の小さな魔術士と同じ顔をした少女は、壁から甘く柔らかな微笑を向け続けた。






  「ルーツと故郷と師匠の巣」完

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