ルーツと故郷と師匠の巣(中)
魔術というものは前にも話したと思うが、素人には意味不明、全力投球してもやっとその端をかじることができる、っていうくらいの高度な知識、知恵だ。
そのあまりの難解さに歯噛みしたのか、聖徒ウィンリを魔導師にさせてしまった例もある。あんなものは全ての知を司るといわれたウィンリでもなければ扱えねえだろう、ってことらしい。
しかし余談だが魔導師姿のウィンリは異説に過ぎず、奇妙なことに古くから伝わる他宗教もあわせて神々の中に魔術を持っていた、と伝えられている者は一人もいない。もちろん神様だから奇蹟の一つや二つはおこしているが、教典の中には魔術の文字もそれをにおわせる記述もいっさい存在していない。(そのことが魔術師の大空白時代を作り出した、迫害の強力な後ろ盾になってしまった)
ともかく魔術は一握りの者しか理解ができないもので、そして人はいつの時代も、自分が理解できないものを恐怖する。
大空白時代の終わりも、その始まりも唐突ではなかった。ゆっくりと忍び寄り、侵食して、そして去り際もゆっくりと迫害の波は引いていった。当然の帰結だった、と歴史家連中は語る。
不遇の時代、不満の矛先をそらした為政者はもう民の不満をこれ以上、自分たちからそらしてはいられないと限界を悟り、民たちも崖っぷちで気づかざるをえなかった。全てを立て直させるには、魔術が必要だと。
一つの国が突如、己の国の間違いを認め魔術士を擁護し始めると、大陸の為政者たちは次々に返した掌を元に戻し始めた。ひらひらと軽薄にひっくり返されていくそれを、生きのびた魔術士たちはどんな思いで見つめたのか。
復讐と怒りに燃えながら、それでもひっくり返してそのまま差し出された掌を、受け取らざるをえなかったのか。いや、どうしても許せずにその掌に背を向けて、絶望した外界を切り離したまま、生きていくことを選んだもの――
しかし。
ありえない話ではないが、と俺は燦々と朝の光が満ちる岩棚で日光浴をしながら考えた。事は実に今から四百年前の話。まあ終わった年代を考慮にいれると三百年と少しの前だが、その年月を今に繋いでいくのにいったい何十世代必要なんだ?
ちょうど四百年前から識字率もあがって、大陸全土の資料もぐんっと増えた時代なので、その頃の偉人たちもどちらかと言えば身近なように思えるが、ウン百年時を隔てればもうその人は虚構の塊、ただの伽話の登場人物と捉えたほう現実的だ。どこまでが嘘でどこまでがホントで、むしろ本当に存在したのかしていないのか、その境界線すら曖昧なんだ。
人間の寿命は動物の中では長いが、だいたい五十まで生きればまあ文句は言うまい、六十なら長生きな方、七十じゃおいおいよく生きるな、という程度の寿命で三百年も四百年も同じくらい途方もない。
/;:まあ奴の常識破りの力や折々に見せる腑に落ちない点を、そんな途方もなさを採用して片付けたい気持ちはわかるが……だけどやっぱり大半はたわいなくてありふれていて、それでなあんだと納得する、それが事実だ。
硬くて黒い岩の中の巣はそりゃ変でおかしくて謎だらけで。それでも人が住んでいけるだけの機能と環境が備わっている。つまり世の中の仕組みも、だいたいみんなこれと同じだ。
メイスはあの話し合いの後、初めて師匠のバックボーンに興味が出てきたのか、しばらく考え込んでぶつぶつ言っていた。
それからやっぱり数日、何も起きなかった。これまでメイスと旅歩いてきて、一つの場所にこれくらい滞在したこともあるにはあったが、やっぱりどこかの宿とか野宿とかとは勝手が違うのか。妙に気ままな時間が流れた。
旅のほとんどの目的だった仇敵のアジト(?)だ。今は住んでいないが、虎穴だ。ぴりぴり警戒していてもいいはずなのに。
多分、メイスが気楽で自然だったせいだろう。外見に慣れてしまうとあんまりそうは思えなくなるが、メイスはどこにいてもどこで休んでもそれなりに一定の緊張感を保っていた。
別に疲れるわけじゃないだろうが、完全に無防備に安心しきっている姿というのは、見たことがなかった。まあうさぎは動物学者の言によれば千の敵を持つという被捕食者だ。そんなことは当たり前だし、俺も慣れて全然気にならなくなっていた。ここに来てメイスの緊張感がぐんっと減ってからようやく普段のそれに気づいたくらいだ。
一日外でぴりぴり警戒しながら過ごして巣に戻ってきたうさぎだな、と俺はそんな様子になんとなく感心して思った、メイスはそんなとても細かいところに元の姿だった頃のなごり香がついている。ここに来た当初に抱いたメイスの存在についてのわずかな疑惑もそうすると薄れてきた。
このときはぼんやり思っていたメイスの性質を、この後、俺はすぐに思い知ることになる。
その日も、いい天気だった。空はちょっと寒そうだったが、薄い青は綺麗で、メイスが俺をナプザックに詰めてふた山向こうにある草原にピクニックに行った。
群生しているクローバーとタンポポとアマヨモギをぱくぱく食べて小川の水で喉を潤して、ひょろりと伸びた百日紅の木陰で、俺を膝にのせてうつらうつらと一眠りをしていた。
禿山には動物の気配はまるでないが、ここには葉陰からちまちま動物の気配はした。ただそんなに大きな動物のそれはない。モンスターは生息していないらしい。たまにかさかさと茂みを鳴らすのは小動物だろう。
メイスは無事惰眠をむさぼって(俺は見張り役だ)目覚めてからおやつ代わりにまたクローバーをちょっとつまんで、それからメイスにしては珍しくのんびり禿山に帰った。まるでなんにもしていない一日だったが、まあいっかと俺も気にならないほど最近こんな感じだった。
洞窟のある山に足を踏み入れたときには、日はだいぶ傾いていたがまだ夕日にはなっていない。そんな曖昧な頃だった。
ぴょんと足場が悪そうな浮石をメイスが踏んで、コルネリアスの巣のある中腹に西側から登ってきたときだ。
それまで機嫌よくひょいひょい登っていたメイスが突然とまった。ナプザックの中の俺に前を向くメイスの顔はわからなかったが、身体の力の入れ具合が伝わってきて何故とまったのかすぐわかった。メイスは瞬時に激しく警戒したのだ。
そして息が詰まる一瞬の後、ぐっと細い足に力が入りするどく無駄のない足捌きでメイスは瓦礫を崩し落として、それでも驚くほど音をたてずに山を駆け上って回り、巣のある中腹に駆けつけた。
巣の入り口である、小さな岩肌は朝出ていったときと同じようにぽつんと変わらずそこにあった。異常はない。しかしメイスは上からそっと忍び寄り、すぐ上辺りで立ち止まって耳をすませた。ここいら近辺に多く生息している動物たちにとっても、あまり価値のない禿山は、とても静かだ。
メイスは一度の跳躍で岩棚にすたっと着地して、今度はずかずかと中に入り、火をともした。蝋燭の力を借りずとも、まだこの中は明るかったけれど、隅々まで綺麗に照らされた。
なんの異変もない。
しかしその後メイスは、美少女に夢を見ているような奴にはちょっと言いにくいが、しゃがんで腹ばいになって犬のような体勢を――というよりその鼻を地面に近い位置で彷徨わせ、一通り辺りをかぎまわった後
「複数の人間の臭いがします……」
とようやく俺のナプザックをはずして険しい顔を付き合わせた。
「え?」
何か尋常じゃないことがおこっているとは予想していたが、その答えは意外すぎてやっぱり俺は空飛ぶ鳥がフンのかわりに金貨を落としていったようなすっとんきょうな声を出してしまった。
俺はもう一度見回した。部屋の内部は、朝出て行ったときと同じ配置に様子でメイスの言うような何者かが入り込んだ痕跡など見当たらなかった。
「旅人……でも入り込んだか?」
「私が住んでいた数年、ここに人間が来たことなんてありません」
メイスは吐き捨てるように言った。イライラしている。どうも相当、留守に勝手に入られたことが気に喰わないようだ。
しかし数年ないからといってありえないなんていうもんじゃない。まあすっげえ変わり者のめっずらしい旅人がきた。そんで誰もこんなとこいねーだろ、と思っていたところに洞窟があって岩棚のせり出し具合がちょっと自然のものにしてはなー、と興味を引かれてはいってみるとびっくり人間が住んでる痕跡があるよー。
ここまでですでに色々無理があるような気がするが、ありえない、と完全に言い切ることではない。
――しかし。
俺はだいぶ慣れてきた洞窟を見回した。ただの通りすがりの人間で、悪意のあるものならそこにあるものを荒らしていくだろう。善意のある人間でもやっぱりびっくりして置きっ放しの魔道書くらいには手を伸ばして――そしてそこにおいていくだろう。
確実に入りこんだというのに、普通は嗅ぎ取れない臭いしか痕跡がない点が気に喰わなかった。
「メイス、荷物まとめてにおい辿って追おう。誰かが入り込んだここにずっといるのは――」
俺の判断は悪くなかった。しかし、いかんせん遅すぎた。
喧嘩の必勝法は先手だと、入り込んできた奴らはよくわかっていた。
視界の端でチカッと激しく光が走った。夕日ではない。夕日はここから見えない。メイスが俊敏に俺入りのナプザックをつかみ上げ、奥の細い通路に駆け込んで俺をさらに奥へと投げ捨てると、すでに唱え終わっていた光をまとわせた両手を、反転して向かった入り口に掲げる。
メイスの手に殺到してきた光が交じり合って激しく炸裂し目を焼いた。どおんと洞窟全体が大きく揺れて俺は飛び上がった。が、感心なことに滑らかで硬い壁の表面は小石一つ落とさない。そして岩同士が激しくぶつかり合う音と共に、メイスの両手だけが唯一の光源となっていた。
しばらく静けさが続いて、それ以上の襲撃はないかと判断したのかやがてメイスが腕を下ろした。小さな腕を包んでいた光が身体の中に染み入るように消えて、そして静けさの中に完全な闇が落ちた。
ぽっと再び明かりが生まれた場所はメイスの腕の中だ。今度は魔術の発露というより、光源目的のそれだ。そんで手探りの感じで伸ばされたメイスの手が俺の入ったナプザックを探り当てて持ち上げてくれた。
奥に投げ捨てられたナプザックの住人としては言うのがちょっとあれだが一応
「怪我ないか?」
「はあ」
拍子抜けしたような声でメイスが言って、ナプザックの紐に腕を通す。それで狭い通路からとたとたと広間に移った。メイスが掲げた光源の下で見ると、まだ日は沈みきっていないはずなのに、ここがこんなに暗くなった、その原因がすぐわかった。潰された瓦礫がざらざらと足元まで押し寄せてきている。殺到した光と岩と岩がぶつかる音とそして瓦礫。
「魔術だな?」
「ええ」
しんと静けさと闇が迫り来る。
「メイス、山に入ったとき、なにを感じたんだ?」
「……何かの気配、ですね」
「……ってことはここに入るの見計らって仕掛けてきたか」
誰だよ、まったく。魔術士ってことは確かだろうが。
「複数って言ったな」
「ええ」
「ってことはコルネリアスじゃないな」あいつの行動はいつも単独だ。「実はトモダチいたとかいうオチはないな」
「いたら腹が裂けるまで笑いますよ私は」
だいたい自分の巣を攻撃する馬鹿がいますか、と散々馬鹿呼ばわり(本人のいないところで)している師匠だが、メイスは否定する。じゃあ、まあ、その線はないだろうけど……
メイスは壁となって立ちふさがった瓦礫の山に、ぴったりと耳をつけて外の様子を聞いていた。今のところ、追撃はない。瓦礫に崩れた様子を見て、仕留めた、と思われたか? なにしろ善人だろうが悪人だろうが通りすがりの人間が、ここまでするわけはない。うーん。俺たちは善良? なうさぎと人間レタスだ。心当たりが正直ない。
まあとっ捕まえて役所に突き出した盗賊とか泥棒一味とかドラゴンとかクラーケンとか宗教都市のあの姫さんとかには正直そこそこ恨まれているかもしれん。――が、大半は死んだり捕まったり国に戻っているわけで、どれもピンとこない。
理由はわからない。ならとっ捕まえて直接聞く。幸い、今夜も月夜だし昼間の晴れっぷりなら雲の心配もない。メイスも口には出さなかったが、だいたい同じ意見なのか、瓦礫から耳を離すとお得意の周囲の物を浮かせる術を使い始めた。なんか前もこういうことあったよなあ、最近、穴倉に閉じ込められる縁でもあんのかと、俺が(後から考えれば)暢気に考えていたんだけど。
俺が考えた外に出て攻撃者をとっ捕まえて事情を聞きだす、という案をかなり根本的に封じる予想外のことがおこった。
物体浮遊はメイスが一番得意とする技だ。これまでで一番多く見たことがあるし、多分あまり攻撃系のないメイスの持ち技の中で一番強力な術なんだろう。その実績は持続時間こそ短いが、竜の半身を持ち上げたほどだ。恐れ入る。
しかしそれに。ざあざあとこちらに寄せて埋め立てた瓦礫はびくともしやしなかったんだ。
「魔術のバリアを張られていますね、これ」
瓦礫で出来た壁を叩いてメイスが言った。なんなんだよ、と俺は思ったがメイスも同感だったようだ。
「初めから、ここに閉じ込めるつもりだったんでしょうね」
誰が、なんのために。
その答えは俺もメイスも持っていない。仕方無しに閉じ込められてしまったここで、考える羽目になった。幸い空気穴は周囲にあるらしく、ちょっと火をたいたところで酸欠というほど息苦しさは感じない。衝撃でも内部はしっかりしていた点も合わせて、やっぱり結構優れた住居だったんだなあ、と再評価してどうでもよくて。
メイスと向き合ってまず順番に「誰が」の部分を考えてみた。わかっている点は三つ。
1、複数
2、俺たちとわかった上で狙い閉じ込めようとしている
3、中に少なくとも一人は魔術士がいる
うーん。二人で考えて一番これじゃないかと思ったのが「コルネリアスの被害者」要は俺たちと同じ立場の相手ってことだ。
メイスの凄まじく長い悪口も伊達ではない。あの魔導師は根がぶっとんで他人に迷惑をかけることぶん殴りたいごとしだ。なにしろなんの意味も理由もなくそこいら歩いていた人間いきなしレタスにかえんだぜ!? 他に被害者がいて列をなしていても全然おかしくない。動機はもちろん復讐だ。その気持ちは俺とメイスもよーく身に染みているので、激しく共感を覚えつつ思い当たりやすいものだ。もう憎くて憎くて仕方ねえぜこんちくしょー! という奴らが執念でコルネリアスの住居を見つけ出し、問答無用で攻撃を加えた。
わかる。すごおく、よくわかる。
なんで本人じゃなく俺たちだ、という気はするが、復讐者というのはとにかく近視眼的だ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの一念であ、奴の巣に入っていくぜかんけーしゃだなこのやろうー! とかで攻撃されたとしても全然ありだと思う。
コルネリアスとは無関係な人間も一応候補にいれるが、さっきも言ったとおり、そこまで誰かの恨みを買ったことも俺たちを害して凄いメリットを得る存在も今のところ思いつかない。まあ。メイスは俺のせいで多少名が売れているので、多少危険な目に遭うこともあるが――ちょっとムーアの港町での出来事と、吐いたら知らせると言ったあの喰えない爺さんの顔がよぎったが――やはり変だ。
そこいらは結局結論は出なかったし、出るとは思っていなかった。次に「なんのために」に移る。これを考えるのも重大かつ不可欠だ。相手の意図や出方は可能な限りめぼしをつけておかなきゃいけない。とは言って相手もわからなければ動機もわからないので、俺たちはその点を攻撃理由に絞った。一撃必殺で殺そうとしていない、奇妙な加害だ。何故、閉じ込められているのか。
1、出られて外で何かされると困ることがある
2、相手の意図が生け捕りである
3、じわじわと弱らせて陰険に殺すためである
以上。人を閉じ込める理由としてはこんなもんだろう。1と2は相手が何者かもわからない現在、もうどうしようもない。出られると困る理由、生け捕り理由。どちらも推測の上に推測を立ててしまう。
3なら納得がいくが一番考えたくない可能性だ。ともかく相手がどの理由でも、俺たちをここから出したくはない、根本にあるのはそれだ。
付随する細かいところはあれど、だからとりあえずこの三つの仮説を念頭に置いて、脱出の方法を考えようぜと俺は平静を装って提案するとメイスもそーですね、と頷いた。正論だから不審に思わなかったんだろうが、微妙にこの提案、同じ状況にありながら俺とメイスは別の意図がある。
閉じ込められた洞窟の中。
まず第一は空気の心配だがそれはクリア。すると次に来るのはなんだと思う? そう、水と食い物だ。
欲求を考えるなら限界がくるのは水の方が早い。食料だけならメイスもしばらくは魔道書かじって我慢してくれるかもしれない。うさぎは水を飲まない、という迷信があるくらいうさぎは普段の草花から水分を摂取するもんだが。あいにく魔道書に水気なんてないだろう。自分でそういうのもなんなんだが。
俺はみずみずしい。
悲壮な覚悟で俺は絶対脱出の旨を刻み込んだ。
もしこの監禁が長引けば、レタスのとき俺は水分も食料も必要としないが。
――先に死ぬのは絶対俺だ。
俺は泣きたかった。理由は簡単。閉じ込められて三日たってしまったからだ。泣きてえ。
予想通り水はそろそろつきかけていた。魔道書くってたメイスもさすがに憔悴が見える。白く、ふっくらしているわけではないが、それなりに張っていた頬もこけている。可哀想だけど、おちおち同情もしてられない。ライオンの顎の中で弱ってる人間を哀れんで俺は泣けない。
あの後、俺とメイスは脱出手段を検討したが、とは言っても唯一の入り口が塞がれた硬い岩の洞窟に、そうそう別の手段など存在しない。一巡したなら無理そう、と結論が出てしまう。
メイスはすでに入り口でなにかを試している。唯一の吉報は奥に俺が夜中に飲むために汲んどいた水がめが、あの震動でも倒れずに立っていたことくらいだ。中の水はそう多くないが、人間体でないときの俺は飲まないし、節約すれば三日は持つと思われた。
メイスはそれを確認したとき、すでにプランを決めていたんだろう。
「あんな結界なんてずっと張り続けていられるものじゃありませんしね。緩んだところが勝負でしょう」
じっと辛抱して待って真っ向勝負を挑むそれだった。
「やっぱ抜け道とかないの?」
「連れてこられた当初、私がいくら脱出をはかったと思います?」
メイスの口調は冷ややかだった。なるほど。一応、一縷の希望にすがって一回りした俺とは違って、ほとんど洞窟にメイスが希望を抱かなかったのは年季の違いかと思った。ただ。なんとなく。俺はこの洞窟に引っかかるものがあって、ついぐるぐる回ってしまう。回る必要なんかもないような内部であることはわかってる。
ほとんど完璧な長方形の居間。その完璧さを削ぐ左端の正方形の箱をわざわざくっつけたみたいに突き出た壁。壁にそって行くと奥にある貯蔵庫として使われる細い奥行きと壁にすえられた無数の棚。んー。
「根くらべになるでしょうねえ」
そう呟いてメイスは岩のベッドに腰掛けるとそのままこてんと横になる。潔い態度だと思った。体力温存は持久戦の鍵だ、確かに。
しかしそのままずるずると三日目がきてしまったわけだ。ああもうひどい状況だ。ただでさえ閉じ込められるってのは、きつい環境だ。互いがいることで精神を保っていられるが、人間が一人でこういう暗闇の閉鎖空間に閉じ込められたらみんな三日ともたないで発狂してしまうと聞く。互いがいることで免れている状況も大きいが、互いがいることで起きてしまう悲劇もあるわけだ。
中立な立場で言うとメイスは紳士的だった。……なんか変な言い方か? 理性的だった。俺に手を出そうともしない。その他の行動から見ても見上げたもんだ。
普通の少女なら泣き喚くところを、メイスはいっさいじたばたしなかった。石のベッドから瓦礫の前に寝床を移し、日がな一日、目もあけないで横たわっている。体力を保つ合理的な方法だ。目は閉じて呼吸も浅い、数時間に一度くらい赤い目をあけて首元を動かさないでちょっとだけ周囲を見て俺を見てまた閉じた。このときのメイスの精神力は後々思い出しても俺は感心した。
それから動きがあったのは――後から思い返すとあれは四日目の朝をちょっとすぎたくらいの時間帯にあたるのだろうか。
そのときも物語の姫のように横たわって眠っていた、メイスの覚醒は突然だった。ガバッと気づいたときにはすでに足をつけ中腰の体勢でメイスは凄まじい早口で呪を唱え、両手を乱暴なまでの速さで前に突きつけた。空に突き出された細い指先から二の腕まで燐光がともる。
そして俺に敵は見えないまま、戦いは終わっていた。
メイスは動かなかった。彫像を連想をさせる無表情さで、どかっと気がなく後ろにしりもちをついた。諦めと無念を混ぜた、無感動な表情が広がる。
「ど、どうした?」
「上がけされました。そろそろ弱ってきたところに、また同じ結界を上からかけられたんです」
艶やかだが雫一つ落ちてこない洞窟の中
「別の方法を考えましょう、レザーさん」
とメイスのつまらなげな声が響いた。
仲間の術士が手を下ろし、大きくあげた。結界を張りなおした合図だ。詠唱中の仲間の身を守るため、それぞれ武器をかまえていた二人の男が肩の力を抜いた。
屈強な身体を持つ二人の剣士の真中に立ち、彼らより頭一つ分小さな男は、少し年がいっている。剣や防具を身につけていない様から、魔術士だとわかる。
二人の剣士と魔術士。風体は冒険者と変わらぬそれではあるが、口元にこびりついた皺が目元に走る物騒な険が、一見見分けのつかぬ両者を明確にわけた。
三人の男たちは傭兵だった。三日間、一瞬の油断も自身に許さずに、崩した洞窟を見張り、今、新たな結界を張りおえたところだ。これからまた変わらぬ三日間が始まると、三種三様に身体の向きを変えた、その時だ。
「――」
風が渡ったようには思えなかった。
降り立った鳥が梢を揺らしたわけではなかった。しかし、何かを揺るがして女はそこに立っていた。いや、三人の男たちは、突如あまりに不自然に空間に付け加えられた存在が、女であったと視認はできなかったろう。
ただ異常事態に肌があわ立ち、意識は昂ぶった。女は軽く顎をあげ、己が庭に侵入してきた野良犬でも見下ろすように、片目と片眉をかすかに歪めた。
戦士の二人がばっと背後に詠唱する術士を隠して獲物を抜き払った――瞬間、それが合図でもあったかのように、二人の戦士が見えぬ巨大な手に張られたがごとく吹き飛んだ。きりもみして斜面を転がっていく身体に息を呑みつつも、見上げた意思で完成させた術を術士はぶつけようとした。
女はそれに向かい口元にひとつ笑みを浮かべる。
「――」
風は渡り、何事も起こらなかった。術士の顔が凍りついた。まるでそれがこっけいな主への唯一の報酬と嘲笑うように、壁の釘に引っ掛けられたごとく、見えない手に襟首が持ち上げられて術士は宙吊りにされた。
襟首が圧迫する喉だけではなく、見えぬ大蛇が全身に巻きついているように、ぎしぎしと身体が締め上げられる感触に、術士は苦悶に詰まる息を無理に吐き出す。
ここで初めて、く、と女魔導師が笑声を出した。恐るべきことに、二人の戦士を吹き飛ばしたのも、術士の技を無効にしたのも、今術士の身体を空に貼り付けにしているのも、間違いなくこの女だというのに、彼女はここにいたるまで一声のそれも唱えてはいなかった。
「小物を使う、浅知恵でもついたのか? いまさら」
向けた言葉は苦しめる相手へのそれではない。苦しむさまをゆっくりと撫でる黒い瞳、そこに宿った光が見据えるのもまた、術士を通した誰かだった。
「吐け。吐かせるのは手間だ」
のぞきこまれて間近に迫る瞳を術士が、苦痛で歪む目でなんとか見返した瞬間。締め上げられる苦痛すら、術士は一瞬忘れたようだ。
そして捕食者に魅入られた獲物のように、かたかたと目が揺れだした。力のない腕がゆっくりと動いたが、女魔導師はその意図を掌に収めている、とばかりに動じない。
術士の腕は一度自分の懐に突っ込まれ、そして一枚の小さく畳まれた薄い羊皮紙を取り出して女魔導師へと震え指で差し出す。女魔導師は馬鹿にしたように受け取って、片手で開き一瞥を落とした。
宙につりあげられた術士の身体が突然自らの重みを取り戻してがくんっと下がり、そのまま地面に叩きつけられて傾斜に数度もてあそばれるように転がった。うつぶせの体勢で呻きと息を押し殺し術士はすぐに地面から敵の姿を探した。
黒づくめの魔導師が立っていた。
その様を見れば自分が解放されたのが、相手の意思ではなくただ全ての注意がある一点に向かってしまったためだとわかる。呆然と、魔導師は立ち尽くしているようだった。黒い瞳が見開かれて驚愕の色濃く、茶色がかった羊皮紙を凝視する。わずかに青ざめたようにすら見える横顔が、次の瞬間、ひどくゆがめられた。
「馬鹿なっ…!」
その声が発せられた直後、むくりと向こう側から何かの気配が立ち上った。術士はその気配の正体を悟った瞬間、無意識に叫んだ。
「よせっ!」
風を切り、土を蹴る、押し寄せる殺気に女魔導師がハッと顔をあげる。
すれ違いの一瞬の後、傷ついた身体で無茶な襲撃だったのだろう、その勢いをもてあまして重たげに術士のすぐそばの斜面に倒れこんできた。先ほど吹っ飛ばされた仲間の戦士の一人だ。立ち上がりざま少しよろめいたが、足場の悪いここですぐに体勢を整えて肩越しの一瞥を投げた。
「無事か」
「なんてことを!」
「手ごたえはあった」
男は剣を掲げて前方に目を向けた。横合いから完全に奇襲をつかれて、魔導師はうずくまったような体勢で身を伏せていた。その姿に力づけられたように、戦士がすっとさらに踏み込むための息を吸う。
「やめろっ!」
仲間が何をしようとしているのか悟ったとき、完全に恐慌をきたして術士がその膝に後ろからかじりついた。戦士は苛立たしそうにそれを振り払い
「どうしたってんだよ! 早くとどめを――」
「あれに手を出すなっ!」
岩山の斜面に響いたその声の、大きさというよりもそこに含まれた切迫さに戦士がぎくりと動きを止める。「ここから逃れるぞ! 早く」
「待て」
地の底からわきあがってきたような低い声が割り込んだ。ゆらりと闇が蠢くように、黒ずくめの姿が立ち上がる。剣士の言葉通り、左腕がだらりと身体の横に垂れている。黒ずくめのローブも切り裂かれている。
しかし何よりも変わったのはその顔つきだ。高みからいたぶるように見下ろしていたそれが、今は真っ向から強い感情をこめてぶつかってきた。戦士が強く警戒して剣を構えた。やめろ、ともう一度呟くと戦士は本気でいらだったように
「馬鹿を言うな! さっきからなんだ! 手傷を負わせただろう」
「お前は――見えないのか?」
術士の視線は固定されている。それは魔導師の垂れた腕に向かっていた。何がおかしいことがある、手ごたえ通りだと戦士がいらだちをこめて目を向けた瞬間、彼もまたそのおかしさに気づいた。魔導師が負傷した腕をあげる。動かせる手ごたえではなかったのに、とかすれた頭で思う。そして自分の掲げた剣を見つめた。曇りのない刀身を。
斬られたローブの隙間からのぞく腕。深く走る傷口は――ある。なら。なのに。剣にも。腕にも。その袖にも。
血はどこだ?
「残らず置いていけ。貴様らが持つものも、貴様らが持ってかえろうとするものも」
魔導師の身体から、何かが湧き上がってくる。すうっと黒い身体から輪郭から。ひいっと術士が悲鳴をあげた。戦士は直視した。真っ向から睨みつける女の瞳が、まるで白い傷口から染み出ないそれのかわりというように。
底知れず光る、赤色を灯すのを。




